しゃんけ荘の人々

乙原ゆう

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4 102号室 住人 光井慎

36.

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 朝、出勤前にケーキ皿を回収するためアパートの食堂へ立ち寄った。ひんやりとした部屋に入るとネコのノラが出迎えてくれた。ノラは他に人がいるときは寄ってこないが自分がひとりでいるときは何故か足下にすり寄ってくる不思議なネコだ。
 しゃがんで頭を撫で、喉を撫で、背中を何故、腹を撫で。一通り撫でまわしてやると満足したのかキャットタワーに登っていった。

 食堂だけは他の部屋とは間取りが異なり、風呂がなく、キッチンも簡易のものではなくしっかりしたものが設置されている。たまに皆で一緒に夕飯支度をするのは楽しいのだが、なかなか時間が合わない。普段は店の賄いで夕食は済ませるし、休みの日は友人や職場の人と一緒に勉強及び他店の偵察という名の名目で食べ歩きに出かけることが多いのだ。

 キッチンの洗い場に置いてある皿を引き上げ、冷蔵庫の張り紙を剥がす。張り紙の裏にはいつもの如く伊織くんのメッセージと、もうひとつメッセージが書いてあり、もしかして少し顔がにやけているのではないだろうかと思った。もちろん、思っただけでおそらく表情筋は動いていないのだろうけど。

『みっちゃん、天才!うまかった。チョコ最高 伊織

 はじめまして。ケーキ、ごちそうさまでした。軽くてしっとりしててビックリするくらい美味しかったです。  橘鈴音 』

 伊織くんは驚くほど気遣いのできる高校生だ。彼はじめから自分の差し入れに対してちょっとしたメッセージを書いてくれていた。感謝や見返りを求めて作っているわけではないのだが、予想外のことで嬉しかった。もちろん住人の人達はたまに顔を合わせると色々と声をかけてくれるが、筆をとる一手間を惜しまずにかけられる彼はすごいと思う。

 もう一つのメッセージは美沙恵さんが言っていた従姉妹の子だろうか?なんとも女の子らしい可愛らしい文字でやさしいメッセージが残されていた。
 美沙恵さんから従姉妹が遊びにくると、たまたま話を聞いていたからその子のために茶菓子として作ったのだが……メモが残されているということは伊織くんと一緒だったのだろうか?

 カタンと玄関のドアが開いた。いつきさんだった。

「おはようございます、光井さん」
「おはようございます」

 いつきさんは土鍋を手にニコニコしている。この人はいつもにこやかだ。
 
「今晩はナベですか?」
「鶏つみれのうどんすきにしようかと思ってます」

 ボードを見ると今日の夕飯希望者は伊織くんと礼子さんだ。賑やかな食卓になりそうだ。

「ガトーショコラ、美味しかったですよ。いつもありがとうございます」
「お粗末様です」
「いえいえ、本当に。しっかりチョコの味がするのにしつこくなくて。いくらでも食べてしまえる恐ろしいケーキでした」

 この人はイヤミのない笑顔を自然と作り出せる。20代後半だったと思うがいい年をした大人の男がにこーっと笑って許されるのは顔のつくりのせいなのだろうか。笑顔で礼を言われれば悪い気はしない。
 
「喜んで貰えたなら作りがいがあります。ありがとうございます」
「そういえば……美沙恵さんが出て行かれるんですよ。もう聞かれました?」
「ああ、そうらしいですね」

 美沙恵さんは一番長くこのアパートに住んでいる人だ。不思議な人で面倒見のいい人だと思う。この容貌の自分を「みっちゃん」と呼び、菓子の差し入れを提案してくれた人で……おかげですんなりここに馴染めたのだと思う。あの人がいなくなるのはなんだろう、実感がない。

「それで送別会をしようかと思うんですけど。あまり日がなくて……」

 いつきさんが自分の店の定休日の夜が候補だと教えてくれる。これは確実に自分に合わせてくれてるのだろう。
 指定された日はなかなか予約の取れないスペイン料理のディナーの日と重なっていた。一緒に行く予定の友人には申し訳ないけど美沙恵さんを優先させてもらおう。

「わかりました。じゃぁ自分がデザート担当しますね。料理は何をされる予定ですか?」
「美沙恵さんの希望でちらし寿司です。茶碗蒸も必ずつけてとのことでした」

 こちらからのサプライズの時は別だが、希望をいって貰えるのは正直助かる。「なんでもいい」と言われるのが一番気を遣うのだが、その辺りを美沙恵さんはいつも配慮しれくれる。こちらに意見を委ねるときは「お勧めで!」と言われるのだから……意味は同じでも言葉ひとつで受ける印象も変わるものだ。

「ちなみに、光井さんがデザート作ってくれるなら絶対シュークリームがいいと言われてましたよ」
「わかりました。ではそのように」

 その後簡単に打合せをして食堂を後にした。
 2年前、ここへ越してきて最初に美沙恵さんから依頼されたのもシュークリームで、以後何度も作ってきた。自分の作るシュークリームをそこまで好きになって貰えて嬉しく思うと同時に、少しのプレッシャーを感じる。
 美味しいと感じた記憶は美化されるし、世の中には美味しい物が次々と現れる。それに技術やカンも油断をすれば落ちてしまう。
 自分の作るシュークリームが美沙恵さんにとって変わらず美味しくあるために、自分にできることをしていこうと、そう思ったのは何度目のシュークリームを渡した時だったか。
 自信をもってお菓子を渡せるように、とりあえず日々努力あるのみだ。
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