しゃんけ荘の人々

乙原ゆう

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1.203号室 住人 橘鈴音

12.

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 美沙恵ちゃんは1週間前にドイツに旅立った。メソメソしながら空港に見送りに行ったら、伯父さんがグスグスだったのでびっくりした。おかげで涙がひっこんだよ。伯母さんは「そのうち遊びに行くからね~」ってあっけらかんとしてた。その時は私も一緒について行きたい。

 今日は私の引っ越しだった。あれよあれよというまに話はまとまり、結局家財道具はすべて美沙恵ちゃんから譲り受けたのでたいした荷物はなかった。両親とともに衣類なんかを入れたスーツケースとボストンバックを持って例の坂道を……のぼるわけにはいかなかったので、そこはタクシーを利用した。

 両親は管理人さんが若かったのでとても驚いていた。

「やだー、管理人さんとってもステキじゃない。母さん好みだわぁ」

 と、お母さんの隠す気のまったくない溢れ出た心の声を聞いてしまったお父さんはショックを受けていたみたいだけど「仕方ない、仕方ないよなぁ」とひとり懸命に心を落ち着かせていた。

 両親を送ったあと、少し足を伸ばして以前から約束していた、礼子れいこさんの職場へと顔をだした。

 お泊まり会の翌日、帰る間際に管理人さんから1枚の名刺を渡された。それは管理人さんを大声で呼んでくれたお姉さん、礼子さんのもので、裏に手書きで携帯の番号。それから「必ず連絡してくること!」とキレイな字で書かれていた。見落としてましたなんて言えないくらい、しっかりとした大きな字で書かれていた。

 家に戻ってからおっかなびっくり連絡をとると、礼子さんはとってもさっぱりとしたキュートな人でたちまち大好きになった。今度一緒にお買い物に行く約束もした。楽しみだ。 

 しゃんけ荘へと続く坂道。以前よりは楽にのぼれるような気がする。もちろんしんどいけれど、ゴールを知ってるから頑張れるよ。それに今日は気分がいい。

 建物が見えてほっとする。少しその場で呼吸を整えた。あー、しんどいけど気持ちいい。妙な達成感で気分が高揚する。山登りが趣味の人ってこんな感じなのかなぁ。……坂道なんかと一緒にするなと怒られそうだけどね。

 門をくぐると管理人さんがエプロン姿で家庭菜園を物色中だった。
 ゆっくり近づくと、管理人さんは立ち上がり、こちらに気づいたようだ。
 ハサミとネギを持って驚いた表情でこっちを見ていたけど、すぐにいつもの笑顔が戻った。
 午前中は腰まであった髪が、夕方には肩までのボブになってたらそりゃ驚くよね。

「礼子さんですか?」

「はい。そうです」

 礼子さんは凄腕の売れっ子美容師さんらしい。初めて会ったとき、私の髪型があまりにも似合ってなくて許せなかったそうだ。

 ふんわりとしたナチュラルボブ。明るめの地毛が好きじゃなかったけど、今は気に入っている。
 礼子さんの手は魔法の手だった。髪がシャキシャキ切られていくにつれてなんだか心もスッキリして気分もよくなったんだよね。美容院に行ってあんなにウキウキしたのは初めてかもしれない。あの時、礼子さんに電話をかけて本当に良かったと思う。
 
「とてもお似合いですよ」
 
 あまりにもサラリと褒められたのでちょっと照れてしまう。

「ありがとうございます」

『この私が鈴ちゃんにピッタリな髪型にするのよ?似合わないわけないでしょ。誰かに褒められたらしのごの言わず、一言「ありがとう」って言うのよ!』と、女王様のように言い放った礼子さんを思い出しながらお礼を言った。

「本当にお似合いですよ」

 再度言われて、音をあげた。あんまり男の人から褒められたことないからねっ。
 視線を逸らした先は、管理人さんのもつネギ。青々として美味しそう。

「今日はネギたっぷりのお蕎麦ですよ。もちろん海老の天ぷらも用意してます」
 
 私の視線に気がついた管理人さんはそう言って夕食のメニューを教えてくれる。
 わー、引っ越し蕎麦だ!嬉しい!

「あ、お手伝いしてもいいですか?」

「はい、お願いします」

 今日の夕食は全員分。仕事なんかで夕食に参加できない人の分も作って配るのだそうだ。恒例の新入居者お知らせイベントらしい。

 ああそうだ、と管理人さんが目元を和ませた。 

「お帰りなさい、鈴音さん」

 不意打ちだ。
 しばらく聞けなくなると思っていたその言葉を、まさかひとり暮らし初日に聞けるとは思わなかったよ。あ、なんか泣きそう。

「ただいま、もどりました」

 答えた私の声はちゃんとしてるかな。変な顔になってないかな。
 今までお母さんからもらってた何気ない一言が、ものすごくあったかい言葉だったんだなって今気がついた。

 美沙恵ちゃん、ありがとう。ここでなら楽しく暮らしていける気がするよ。
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