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乙原ゆう

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 浩太の祖父が亡くなったのはその年の暮れだった。肺炎をこじらせあっけなくこの世を去った。

 浩太が腰掛岩の川に訪れたのは葬儀の後、気がついたら川辺にいた。
 腰掛岩には夏に会った時と同じ姿で彼女が座っていた。冬なのに彼女は相変わらずノースリーブの白いワンピース。
 浩太は畳岩の上で無表情なまま、視線を彼女の方向に向けて膝を抱えて座った。水量の減った川は少し静かだった。

 夏に自分の作ったトマトを嬉しそうに食べてくれていた祖父は、もういない。プランターをもう少し深くする方がいいとか、どこそこの肥料がいいとか。ついこの間まで上機嫌で話していたのに。

 そんなことを思い出していると、不意に目の前の彼女がゆっくりと立ち上がった。そしてそのまま背を向けて腰掛岩の向こうの山に姿を消そうとした。

「待って。ごめん。ちょっと待って。見えてるから!」

 慌てて浩太は彼女を引き留めた。

「ごめん、ごめんね。本当にごめんね」

 彼女はゆっくりと振り返った。そして立ったまま、いつもと同じ無表情でこちらを見ていた。無表情で先を促す彼女を見ながらこぼれた言葉が
「じーちゃんが死んじゃって」
だった。

 畳岩に四つん這いになっていた浩太は、そのままぺたりと座り込んだ。

「じーちゃんが、死んじゃって」

 そのまま再び浩太は動かなくなった。彼女は体の向きをかえ、浩太をじっと見つめていた。

「じーちゃん、いなくなっちゃった」

 しばらく立っていた彼女はゆっくりと腰掛岩から足を降ろした。いつも浩太がたどる石のうえを危なげなく歩いてやってきて、静かに浩太の隣に腰をおろした。
 突然の出来事に浩太は混乱した。祖父のことが一瞬だけ霞んでしまうほどには驚いた。本当に勝手な思い込みではあるが、彼女は川のこちら側にはやって来られないのだと思っていた。

「じーちゃんにトマトの作り方教えてもらおうと思ってたんだ」

 とりあえず、浩太は思いつくままぽつりぽつりと話しだした。
 どこそこの肥料がよくて、混ぜて使うのだと一生懸命教えてくれていたのにちゃんと聞いていなかった。来年また聞きなおせばいいと思っていたから。うんと上手にトマトを作って、「美味しい」って言ってもらいたかった。

 ぽつりぽつりと漏れる後悔や願いが浩太を覆う。彼女はずっと浩太の隣に座って少しずつ漏れ出る言葉を聞いていた。
 浩太の声はだんだんと小さくなり、言葉は途切れ途切れとなっていき、最後の言葉はほとんど音にはならなかった。

 夕方になりかなり冷え込む畳岩の上で、浩太は自分の指先をきつく押さえ込んだ。いつも夜になる前に川から帰される。夜に来ても絶対に会えないと言われ、絶対に川に近寄るなと言われている。口数の少ない彼女が珍しく饒舌に喋り突きつけられた禁止事項。だから自分は帰らないといけない。帰らないと次がない。幼い頃に言われたのだ。夜になって来ても会えないし、来たら二度と会わないと。

「ごめん、今のなし。……帰るよ」

 浩太はゆっくりと立ち上がる。
 彼女も静かに立ち上がり、腰掛岩のほへと足を進める。畳岩から降りる寸前に彼女は前を向いたままつぶやいた。
「大丈夫」と。
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