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乙原ゆう

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 浩太は母親の実家から歩いていける距離にある、腰掛岩のある川へ遊びに行くのが好きだった。家から実家までは車で一時間程の距離であったので、しばしば母に連れられて訪れることができた。

 浩太は川が好きだった。不意に進行方向を変える魚の群れや、上流から流れてくる葉っぱの舟を眺めるのが好きだった。手ごろな石を川に投げ入れるのが好きだった。そして、腰掛岩の女の人とおしゃべりをするのが好きだった。
 
 彼女はいつも白くて袖のないワンピースを着ていた。その姿があるとき読んでもらった絵本にでてきた女神様のようだったので、浩太は密かに彼女を女神さまと呼んでいた。
 川に行くときは必ず大人と一緒に行かなければならなかったが、周囲に他の人がいると女神様が返事をしてくれない。以前、もっと話をしたくてこっそりひとりで訪れたことがあったがものすごく叱られ、二度としないようにと注意された。

 女神様は腰掛岩の上に座っていることが多かった。川岸からちょっとだけ離れているため浩太は岩の所まで行くことはできなかったので、川を挟んで話をしていた。
 彼女は浩太を見つけると、肩までの黒い髪をさらりと揺らしていつも最初につぶやく。
「まだ見えるの」と。
 それは疑問でも確認でもなく、ただの独り言だった。最初は意味がわからなかったが、話していくうちにこの人は他人には見えていないことがわかった。

 浩太は幼稚園に入学する前、人に見えない存在、いわゆる「幽霊」の物語を読み聞かせてもらった。その存在が女の人に似ていたので「女神さまは幽霊?」と聞くと「わからない」と言ったまま彼女は黙ってしまったことがある。
 その間、浩太はとても居心地が悪かった。いくら待っても反応がなく、そうこうするうちに自分が人から幽霊かと聞かれた場面を想像してしまい、浩太は顔をしわくちゃにして泣いた。

「何を泣く?」

 唐突に女の人は問う。そして決して怒っていたわけではないのだと浩太にたどたどしく語りかけた。しゃくりあげる浩太を表情なく女の人は見つめていた。

「トマト。小さなものがあるんだな」

 突然の話題転換に浩太はひっくひっくいいながら女の人を見上げる。
 浩太は首を傾げる。

「……とまと、すき?」

 女の人はしばらく考えてからこくりと頷いた。

「いっぱいもってくる」

 ピタリと泣き止んだ浩太は目をキラキラ輝かせた。

「……1個がいい」
「いっこだけ?」

 浩太は不満げだった。

「そう1個」

 1年で1個、一生懸命どれがいいか選んでくれたら嬉しいといいながらも、笑顔をみせることのない女の人の代わりに浩太は笑顔をみせた。

「わかった。いちばんをもってくる」

 女の人は表情をかえることなく「うん」とうなずいた。
 それから毎年、一番のトマトを見つけるのが浩太の最大の課題であり楽しみとなった。
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