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第五話 私の罪と、罰
しおりを挟む――― そして、今 ―――
青葉はこの三日間と夢の中の出来事を思い返しながら、すぐ前を歩く彼のことを考えずにはいられなかった。
無事に部活の用事を済ませた二人は、駅へと向かって歩いている最中だった。また二人きりで電車に揺られて、学校へと戻らなければいけないのだ。
しかし、先程から……
二人の間には、昼過ぎから降り出した雨が傘を濡らす音だけが響いている。
………怒らせて、しまいました。
数メートル前を無言で歩く背中をまともに見ることも出来ずに、青葉はトボトボと彼の後ろをついていく。
先程、幽霊が少しだけ視えている様子の彼に、もっとみせてあげようと調子に乗ったのがいけなかった。突然に涙を流し始めた彼に、青葉はどうしていいか分らなくなってしまった。
人の気持ちなど分からないくせに、何かしてあげようなどと考えた自分がいけなかったのだ。今まで他人の気持ちに関わる事から逃げ続けていた自分が、何かしてあげようなどと、おこがましい限りだ。
無表情に通り過ぎてゆく幽霊達と雨粒が、青葉の重い心を更に重くする。
「何すか、先輩?さっきからっ!俺に何か言いたいことでも、あるんすか!? さっき泣いてたのが、そんなに可笑しいんすか!?」
ずっと黙っていた彼が話し掛けてきたのは、駅に着いて電車を待っている時だった。それだけで青葉の心は少しだけほっとする。もう二度と、話し掛けられることなんて無いのだと思っていたから。
「……ごめんなさい」
自然と口から出てきた言葉に、自分でも少し驚いた。
「……なんで、謝まってくるんです?」
少しキョトンとした顔をした彼に、こちらもキョトンとしてしまう。
「私… 何か嫌がること、してしまったんですよね?だから、ごめんなさい……」
彼の顔をまともに見るなんてことは出来なかったが、青葉は出来る限り精一杯の謝罪の気持ちを伝えた。
「いや、別に嫌がることなんて、していませんよ」
「……さっき、泣いていました。私、人の気持ちとかよく分からないから、きっと気が付かない内にあなたの嫌がることをしてしまったんですよね?」
「い、いや。そうじゃないです。そうじゃないんですよ、先輩。 ……俺は、嬉しかったんですよ」
彼の予想もしていなかった言葉に、青葉は驚いてしまった。
「……嬉しい、ですか?何で幽霊を視て、嬉しくなるんですか?それに何で嬉しくて泣いたんですか?男の人は、嬉しいと泣くんですか?」
「いや先輩、男も女も関係なく泣きますよ。先輩だって、嬉しくて泣いたことくらいあるでしょ?」
「……無いです。私、泣いたこと無いです。嬉しくても悲しくても…… 泣いたりはしないです」
そんな青葉の言葉足らずの台詞に、彼が小さく溜息をついた。また、呆れられてしまったかもしれない、そう思った。
だけど……
「泣いたことが無くったって、別にいいんじゃないですか?だって先輩には、いつもあんな素敵な世界が視えているんでしょ?」
「……素敵?霊たちがですか?」
「ええ、さっき視えた霊たちは皆、幸せそうでしたよ。だから俺、つい嬉しくって泣いたんです」
言葉が上手く見つからなかった。どうやら彼は呆れたのではなかったようだ。
なんて言葉を、返したらいいのだろうか……?
「そう、……ですか?幸せってよく分からないけど、あなたが言うならそうなのかもしれないですね」
「はあ?先輩だって、先生や金森と一緒にいる時は幸せそうですけど?」
「……幸せ? 私がですか?」
少し考えてから青葉は、そうなのかもしれないと言った。予想外の言葉ばかり言う彼に、青葉の頭は混乱してしまう。
だけど、何だろう。この気持ち……?
今までは、気持ち悪がられただけだった。
怖がられた、だけだった。
ただ自分が視えている出来事を話しただけなのに、拒絶され、怖がられ、傷付けられた。
でもこの人は、私が視ている世界を……
素敵だって、言ってくれた。
その時、雨風を吹き上げながら電車が到着した。言葉を無くしていた青葉は、我に返る。
ベンチを立ち上がり電車に向かって歩き出した彼の背中を慌てて追いかけながら、青葉の胸はトクトクと不安定なリズムを刻んでいた。
心細くて怖くて、なのに少しだけ嬉しい様な………?
上手く息が出来なくって、苦しい ………です。
私、どうしたら……?
とても、とても無理です。
もう電車の中で二人だけの時間を過ごすなんて、とても出来そうになかった。
そんなことを頭で考えながら、軽くパニックを起こしている胸にぎゅっと手を当てる。すると少しだけ落ち着いた気がして、恐る恐る彼の背中に目を向けた。
すると………
彼の前に、花柄模様が描かれた白いワンピースを着た女が立っていた。
一目で分かった。
あの女は生きている人間ではない。そして今、あの女は彼に憑りつこうとしているのだ。気が付けば青葉は、ワンピースの女と彼の間に割り込んでいた。すると女が飛び退く様に後ろに下がり、睨みつけてくる。
「先輩!」
青葉の位置から彼の表情は分からない。だがその声を聞く限り、どうやら彼は無事のようだ。青葉は、ほっと胸を撫で下ろした。
発車を告げるベル音が鳴り響く。
扉が閉まる音がすると、すぐ横で電車はゆっくりと発車し徐々にスピードを上げていった。しかし青葉には、そんなことなど目に入ってこなかった。徐にこちらに歩き始めたワンピースの女に、ふつふつと怒りの感情が沸き上がってきたからだ。
……許せない。
絶対に、許せないです。
お前…… あの人に、何をした!
意識が持っていかれそうな程に荒れ狂いだした怒りに、体が震えている。
あと数歩という所まで女が近付いてきた時、青葉の中であの門が開いた音がした。
あの門から、化け物が出て来るのだ。
「……消えて下さい」
ぞわり!
その言葉を口にした途端、体の中を悪寒が駆け巡り体の自由が奪われていった。もう自分でも止める事が出来ない、恐ろしい時間が始まったのだ。
ズ…ズズ……ズズズ
青葉の背中から、何かがゆっくりと飛び出していく。そして黒い靄《もや》の様なそれは、段々と膨れ上がりいつもの姿を形づくっていった。
………門。
これは、門だ。
絶対に近寄ってはいけない、何処かへと繋がる門。
いつか私が連れていかれる、恐ろしい場所へ繋がる門だ。
ズゾゾゾ……
そして何の前触れもなく、門の中からそいつが姿を現した。
体長が2メートル以上もある真っ白な人間の赤子の姿をしたその化物は、全身裸でうっすらと光りながら目を閉じ、手足を丸めたまま左手の親指をしゃぶっている。
スッと赤子の目が開いた。目の前には、ワンピースの女が立っている。
女は恐怖の表情を浮かべて、全身を小刻みに震わせていた。化物の右手が、ゆっくりと女に向かって伸びていく。左手は、しゃぶったままだった。
………始まった。
荒れ狂うほどの怒りの感情が通り過ぎると、心は無感情になった。その光景をただ黙って眺めながら、青葉はこれから起こる出来事を目に焼き付けようと瞬きを止めた。それは、いつもしている事だ。
この化物は、物心がつく前から私の中に住み着いている。そして私に危険が迫って感情が高ぶった時に姿を現しては、周りにいるその原因を強制的に排除していく。
だけど……
この化物が自分を守ってなどいないと、青葉は分かっていた。
コイツは必要だから、そうしているだけ。
いずれ…… それも近い未来に、コイツは私をあの門の向こうに連れて行く。
だから私は、自分が今までしてきたことを忘れない。自分が感情を抑えきれなかったせいで、連れて行かれてしまった人達のことを忘れたりはしない。
……許される筈、ないんです。
私に関わったせいで連れて行かれた人達が、私を許す筈ないんです。
いずれ私も、この人と同じところに行く。
そうしたら……
そうしたら、どうか私を許さないで下さい。
ワンピースの女は恐怖で体が動かないのか、化物の大きな手が彼女の胴体を掴んでも何の抵抗もしなかった。ひょいっと片手で軽々と持ち上げて、左右、上下に揺さぶられてから初めて、彼女は大きく悲鳴を上げて抵抗した。
まるで新しい玩具で遊んでいる様に、化物は彼女を振り回している。
抵抗など無意味なのだ。今まで、この化物から逃げられた人は誰もいなかったのだから……
「……や、めろ」
その時、彼の声がしてビクリとする。
「やめろよ、先輩!やり過ぎだぞっ!!」
その声は、青葉の動かない筈の体をゆっくりと振り向かせた。
心が悲鳴を上げている。
お願い……
お願いだから………!
貴方だけは、私を見ないで下さい。
どうかこんなにも恐ろしくて、醜い私を、どうか……
しかし……
青葉の喉を通ったのは、氷のように冷たい言葉だった。
「……何故ですか?この人はあなたに手を出しました。消えて当然です」
化物がゆっくりと門の中に消えていく。手には女を掴んだままだ。
心とは裏腹な言葉しか言えない、自分が嫌い。
冷たくて、醜くて、弱くて…… 惨め。
………罰だ、きっとこれは罰だ。
ずっと、こうやってしか生きてこれなかった私への罰。
この人を、愛する資格なんて私には無い。
それに私は、大きな罪を犯した。
決して許されない、大きな罪を犯した。
その時、彼は青葉の想像していなかった行動をした。突然、化物に向かって駆け出したのだ。そして彼女に抱きつく様に化物から奪うと、彼はそれを抱えたまま数メートルもホームを転り、そして彼女を背中に庇う様にして化物を睨みつけている。
黒い門の中には化物の右腕だけが生えていて、直に完全に消えた。そして黒い靄も段々と小さくなっていき、やがて完全に消えていった。
そしてそれを見届けた後で、その場に倒れ込む彼。
青葉は倒れ込んで動かなくなってしまった彼を、茫然と見つめていた。
暫く動くことが出来ず、ただ立ち尽くしていた。 向かいのホームで電車の到着を知らせるベルが鳴り、ようやく青葉の両足はノロノロと歩き出した。
「あ、あの……? あの…… 大丈夫…です…か?」
やっとそれだけ声を絞り出し、倒れている彼を揺さぶっても反応が無い。
「い、嫌………… こんな、こんなの……っ!」
震える手で何度もスマホを落としながら、やっと一本の電話を繋ぐ。
「もしもし…… 何かあったの、青葉?」
スマホの向こうから姉の声が聞こえると、咳を切ったように青葉の両目から涙が溢れ出した。
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