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第三章 死闘

第90話 振り上げた拳

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「――あなたは、……本当の…馬鹿…ですね。それくらい――ッ!! 気が付いてよっ!!」

 打たれた頬を抑え、力なく項垂れる小野を紅葉が叱りつけている。その様子を見届けた金森いずみは、再び前に向かって進み出した。その瞳の中には、火東の胸ぐらを掴んだまま固まっている、水崎翔子をしっかりと写していた。

「――ッ!?金森ッ!何も知らないくせに、出しゃばってくんじゃねえッ!お前に何が分かるってんだ!」

 気が付けば直ぐそこまで近付いて来ていた金森いずみを、ハッと我に返った水崎翔子は声を張り上げて静止させようとした。

「――ッ!水崎さんっ!もう止めようよ!そんなことしても水崎さんの手が汚れるだけだよ!もう止めよう!」

 だが、いずみは怒鳴り声に少しも怯む様子もなく、どんどんと近付いて来る。

「――ッ!ふざけんなッ!何の苦労もなく、ぬくぬくと親に育てられてきた甘ちゃんが何様のつもりだッ!お前らが楽しい学生生活とやらを送ってる間、あたしはこの日の為に、ずっと闘ってきたんだ!コイツを、ぶち殺す為だけにッ!!」

 そう叫ぶと、翔子はまた火東を殴ろうと右腕を振り上げた。

「やめて――ッ!!水崎さん!もうやめてよ!」

 するといずみは、車椅子のスピードを速め翔子に抱きついていった。

「――ごめんッ!わたし――近くにいたのに水崎さんが苦しんでいることに気付いてあげられなかったね。ごめん水崎さん、本当にごめんなさい!」

「――ッ!てめぇ……何のつもりだッ、離せよ!お前なんかに、謝られる筋合いないんだ!離れろッ――!!」

 暴れる翔子に、いずみが必死に喰らいついている。

「――ッ!いやだ!嫌だよ!だって離したら水崎さん、またその人を殴るじゃない!!もう止めてよ!!」

「――てめぇ!!コイツを庇うつもりか!コイツがどれだけの人を不幸にしたのか、分かっているのかよッ!」

 いずみ言動が理解出来なかった翔子は、とうとう我慢の限界を迎えた。衝動的に、彼女に腕を振り下ろしてしまったのだ。

 ――ゴスッと、鈍い音がした。

 拳を振り下ろした先には、寸前で体を滑り込ませてきた如月ユウの背中があった。痛そうに顔を歪め、庇う様にいずみを抱きしめている。

「――ッ!? 如月!? てめぇもかよッ!」

 叫びながら、翔子はその背中に何度も拳を振り下ろした。

 ゴスゴスとした鈍い音に続き、パシッ!と響いた乾いた音。それは、もみ合いを抜け出した、いずみが翔子の頬に平手打ちをした音だった。

「もう止めて水崎さん!私も……!ユウくんも……!その悪い人を庇っているんじゃないの!だって水崎さんがその人を傷付ける度に、もう止めて姉ちゃんって――っ!
 こんなにも悲しそうな顔をした優樹くんが、ずっとあなたに話し掛けているじゃない!?あなたに抱きついて、もう止めて姉ちゃんって――っ!優樹くん、ずっと言ってるんだよ!?」

「――――!?」

 その言葉の真意を確かめるように、紅葉が青葉に視線を向ける。そこには、溢れ出した涙に頬を濡らす妹の姿があった。


「……優樹? 何を、……言ってんだ?優樹が居る筈ないだろ、あの子はもう……」

「いるの! ……水崎さん、信じてもらえないかもしれないけど、今もあなたの側に優樹くんはいるよ。ずっと、ずっと!あなたと一緒にいるんだよっ!!」

 いずみの言葉を聞いた翔子は、動くのをピタリと止め――

「優樹……?」

 キョロキョロと辺りを、見回し始めた。

「いるの? ……優樹? ………ねえ、優樹?いるなら応えてよ?」

 だがしかし、いつまで待っても室内はシーンと静まり返ったまま。

「ははっ…… あはは……」

 だから暫くの間、辺りの様子を伺っていた翔子が、思わず笑い出してしまったのは仕方がなかったのかもしれない。

「………ふざけんじゃねえ、またオカ研の戯言かよ。優樹なんか、居やしねえじゃねえか………」

「水崎さん!いるの!視えないかもしれないけど、いるの!」

「―――――ふざけるのも、いい加減にしろ。お前らにしか、視えないってか?
 お前らさ、何様のつもりだよ?優樹が本当に居るなら、何であたしに視えない?
 ……そんなの、ズルくないか?
 お前らだけ……!お前らにだけ視えるなんて、ズルイだろう!!!

  優樹!ゆうきぃーーー!!姉ちゃんを一人にしないでよ!お願いだから!!姉ちゃん、もう一人はイヤなの!!

 ううっ……ゆうきぃ……お願いよ………お願……い。もう…… 一人で闘うの……疲れたの。 姉ちゃん……一人じゃ、もう……」

 そこから翔子は、その場に崩れる様に座り込むと息が出来ない位に泣きじゃくった。そんな彼女の姿を、その場にいる全員が涙を流しながら見つめていた。



「優樹………何で?何で……何も応えてくれないの?」

 やがて、肩を震わせ続けていた翔子は立ち上がる。そして―― 憎しみの籠った瞳を、ユウ達一人一人に向けた。

「―――何で、お前らだけに視えてる?優樹は優しい子だから、もし此処に居いるなら絶対に応えてくれた。

 ………居ないんだろ? 初めから優樹なんて、いやしないんだろ?
 
 人の気持ちを弄んで、楽しい?それとも人に視えないものが視えて、いい気分?
 なあ!――ッ!何とか言えよ、如月――ッ!!」

 そう叫び、翔子は近くにいたユウの胸ぐらを掴んで殴り掛かった。だが、その拳は振り下ろすことを許されはしなかった。


 止めたのは、黒木紅葉――

「………水崎さん。この人を、これ以上傷付けたら許さない」

 ――――ゾクリ、と背中が粟だった。

 二人の視線がぶつかり合った刹那だ。翔子は、身体が動かせなくなっている自分に気が付く。


 ―――ッ!?

 な……んだ、こいつ? ………何んなんだ、この女?

 ………このあたしが、竦んでるのか? 
 
 
「………水崎翔子、私と勝負しなさい。もしも、あなたが勝ったら、復讐の続きをすればいい。何も見なかった事にして、私達はこの場から消えるわ。ただし――
 私が勝ったら、復讐は止めてもらいます」

「――ッ!紅葉ちゃん!?」

「………先生」

「大丈夫よ。こうでもしなければ、水崎さんは振り上げた拳を下ろせない。……二人も、分かっているでしょう?彼女が振り上げた拳は、そんなに軽いものじゃないの」

 ユウといずみを見つめ、紅葉は真剣な顔をした。

「――どうする水崎さん?あなた、腕には自信があるのよね?」

 挑発的な視線で翔子を見つめる紅葉と、掴まれていた腕を振りほどき、負けじと紅葉を睨み返す翔子。


「面白れぇ…… 受けて立つぜ。その綺麗な顔を、ボコボコにされて吠え面かくなよ黒木先輩」

 そう啖呵を切り、翔子は拳にハメていたメリケンサックを放り投げると頬を濡らしていた涙を拭う。

「紅葉ちゃん、止めろ!翔子ちゃんも!何で、二人が闘う必要があるんだ!?」

 慌てて二人の間に割って入ってきた小野の静止を無視し、紅葉が合図を促した。


「……小野さん、合図です――」

 紅葉が翔子から視線を離さずに言うと――

「……涼兄。悪いけど、手加減しないから――」

 上段の構えを取った翔子が、紅葉との間合いを計り始める。

 一気に――
 
 二人を包む空気が、ピリピリと緊張感を増していった。


「………………ッ!!」

 二人を、もう止められはしない。そう悟った小野が、悔しそうに後ろに下がっていく。そして――


「――――――始め!」

 勝負は、一瞬だった。

 開始の合図が響いた瞬間に間合いを詰め、右の正拳突きを繰り出した翔子は不思議なものを見た。鍛え抜かれた渾身の突きが相手の顎を正確に捉えたと思った刹那、目の前から紅葉の姿は消えていた。右腕の死角に潜り込まれたと一瞬で判断した翔子は、コンビネーションで左膝蹴りを繰り出す。当たれば顔面が潰れるのは間違いない、遠慮なしの本気の膝蹴りだった。

 ――――だが、その空間には誰も居やしなかった。

「――――!?」


 ――トン。   ……… …… … …


 次の瞬間、頚髄の辺りに軽い衝撃を感じて………?

 翔子の意識は、無くなった。




 倒れ込む、翔子を受け止めた紅葉。

 腕の中にいる二人を優しく抱き締めながら、労いの言葉を掛けた。


「貴女も優樹くんも、………よく、頑張ったね」



 
 
        第三章   終


        第四章へ続く。
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