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第三章 死闘
第87話 仇討
しおりを挟む「島田は、本当に温厚な人だったよ。家族に対しても、周囲に対しても優しい人だった。だけど事件の容疑者になって、何もかも変わった。
一番変わったのは、世間の島田に対する態度さ。押しかけるマスコミ、夜な夜な家に投げ込まれる石や、悪意に満ちた手紙。……嫌がらせの数々。
あれだけの事をしておきながら、島田が犯人じゃない可能性が出てきても、それを行った奴らは誰一人として謝罪の言葉なんて口にしなかった。
……笑っちまうよ。それを奴らは、正義と呼ぶらしい」
当時を思い出す様に、水崎は目を閉じた。
そしてゆっくりと目蓋を開けると、静かに話の続きを始めた。
「島田は死んだよ、多分な。……ある日、ふらっと気分転換に登山に行って来るって笑顔で出掛けて行ったきりさ。 ……もう生きてはいないだろ。8年以上も音信不通だからな。
きっと堪えきれなかったんだと思う。自分が信じていた世間……いや、人間って生き物に、本当に嫌気が差したんだと思う」
そこまで話すと水崎は、両手を戯けた様に持ち上げて肩を竦めた。
「……残された家族に、不幸は続いた。居なくなってしまった夫に替わって、一日中働くようになった妻。それでも家で父と母の帰りを待つ子供達は、仲良くやってたさ。不安で一杯になりながら、きっと大丈夫だよって弟を勇気付ける姉と、そんな姉を信頼しきっている無邪気な優しい弟。……だけど全然、大丈夫なんかじゃなかったんだ」
水崎翔子は、そこで唇をぎゅっと噛みしめた。
「直にお母さんは心労で倒れて、お父さんに似て優しかった優樹は学校で虐め抜かれた挙句に、白血病になったとさ。ガリガリにやつれて、あの子は死んだ。
……死んだんだ」
そして深い深い溜息を一つ付くと、懐かしむ様な優しい笑顔を浮かべて、それを火東へと向ける。
「優樹は、最後まで優しい子だったよ。自分が一番苦しかったろうに、お父さんやお母さん、それから私の心配ばかりしてたんだ。本当に、最後の最後まで……。
……お母さんも、死んじゃった。脳卒中だったから、最後まで優樹が死んだことを知らなかったのが、せめてもの救いだけどね」
今までの話を、黙って聞いていた火東がゴクリと唾を飲み込む。水崎翔子の優しい笑顔の中に、何を感じたのだろうか?
「……ねえ火東。私がお前を、怨まない理由があるってのか?」
水崎翔子が笑っている。ただただ、優しい笑顔を火東に向けている。
その笑顔に恐怖を感じながらも、火東が水崎に必死に弁明をし始めた。
「たっ確かに君のお父さんのことは担当刑事だった私にも非はあるかもしれないが、お母さんと弟さんのことは、仕方がないじゃないか!とても残念なことだとは思うが、どうしてやることも出来ないことなんだよ!」
「……仕方ない、だと?」
火東の言葉を聞いた水崎翔子の顔が、みるみる怒気を帯てゆく。
……みんな、いずれ死ぬんだから仕方がない。
今、コイツが口にしたのは、残念なことだと如何にも心を痛めている体裁を繕ってはいるが、苦しんで亡くなった人の心に少しも寄り添っていない言葉だった……。今まで翔子が何度となく誰かに言われ、その度に心の底から憎悪した言葉だった。
その言葉を口にしたのが自分の大切だった家族を苦しみに追いやった、この男の口から出たのだと理解した瞬間、翔子の中で人として一番大事な何かが弾け飛んだ気がした。
「あはは……っ!」
自然と、笑い声が口から洩れ始めた。
「あははっははっはっはは……………っっっ!!!!」
何が可笑しいのか、自分でも分からなかった。分からなかったが、その笑い声は自分で止めることなど出来はしなかった。
……コイツが。こんな奴が、家族を殺した。
大声で笑いながら、自分の目蓋から涙が溢れているのを翔子は感じた。
あたしは……泣いているの?それとも笑っているの?
そんなことすら、もう分からないよ。
目から涙を流し、口からは薄気味悪い笑い声と涎を垂れ流し、鼻からは鼻水が止めどなく流れ出る。分かってはいたが、そんな事どうでもよかった。
ただ心と体の中から溢れ出てくる感情に身を委ねて、
翔子は泣き、そして笑い続けた。
……気付くと、翔子は誰かに優しく抱きしめられていた。
その抱擁は力強く、そして温かく、翔子を包み込んでくれた。
「……りょ…涼兄ぃぃぃ……」
笑い声が止んで、初めて口から出た言葉はそれだった。
「もういい、もういいんだ翔子ちゃん。もう苦しまなくていい。……ゴメンな。俺たち警察が不甲斐ないばっかりに、こんな辛い想いをさせちまって。本当にゴメンな」
翔子を抱き締めながら、小野涼太は肩を震わせて自らも泣いていた。
それから小野は翔子のくしゃくしゃな顔を両手で優しく包みこみ、小さいがハッキリした声で言った。
「……翔子ちゃん。もう終わりにしよう」
その言葉に、翔子は頷いた。
小野は翔子から離れると火東に近付き、椅子と体を縛り付けているロープを解いた。急に自由の身になった火東は、逆に何をしていいか分からず、あたふたと二人を見ている。
「何だ?どうしろっていうんだ!?」
「……逃がしてやる」と、小野は言った。
「な、何だと?」
小野の言葉が理解出来なかったのか、火東がもう一度聞き返している。
「逃がしてやるって言ったんだ。ただし、こちらにはこちらの事情ってものがある。こちらの私怨は、晴らさせてもらうからな。
今からこの子と命懸けで闘うんだ火東。昔で言う仇討ってやつさ。お前が見事、この子を倒せたら好きに何処にでも逃げろよ。もっとも全国で指名手配になるのは時間の問題だから、その後のことは知らないけどな」
そう言って小野が、火東を冷たく睨みつけた。そして翔子に視線を送り…… 本当に、これでいいんだね?と尋ねる。
翔子が頷くのを確認すると、軽く咳ばらいをしてから
「じゃあ、早速始めようか。 …………始めっ!!!」
と、まるで試合でも始める様に大声で合図を出した。
小野の合図を聞いても、火東には目の前で何が起こっているのか理解出来ていなかった。何だ……?こいつら馬鹿なのか?……仇討?翔子と決闘をしろって言うのか?
……だが。
だが、願ったり叶ったりじゃないか!
正直、さっきまでは、もう駄目だと思っていた火東は、息を吹き返した気分だった。俄かには信じられないが、もしあいつらの口から俺がこの10年でやってきた事が暴露されたとしたら、本当に俺の人生は終わるだろう。
それに、この二人の雰囲気から自分はこの場所で殺されるのかとも思っていた。
だが、この場を上手く逃げられたとしたら……?
……逃げ切れるかもしれない。いや、絶対に逃げ切る!
金ならある。絶対に見つからない隠れ場所にも心当たりがある。
そこに潜伏して、頃合いを見計らって海外に高飛びすればいい。その手のルートにも心当たりがある。
火東は、心の中でニヤリと笑みを浮かべた。
腕には自信があった。火東からすれば、学生時代から鍛え上げた柔道で目の前の女子高生を捻り潰すなど、造作もない事だった。
何ならこの少女を人質にして逃げればいい。さっき気が触れちまったみたいだが、逃走中の慰み者くらいにはなるだろう。
……翔子は、いずれはと目にかけていた女だしな。
心の中で下卑た情事を想像しなから、火東は翔子の全身を舐める様に見つめる。後は、この少女が武器を持っていないか警戒すればいいだけだった。
だが、彼女が武器等を所持している様子はなかった。
水崎翔子は開始の合図があったにも関わらず、両手をぶらりと下げたまま、ぼーっと立っているだけだった。時折、空中へと視線を泳がせては、所在がない表情を浮かべている。
……本当に、気が触れてしまったのかもしれない。そう、火東は考えた。
しかし警戒は怠らず、ゆっくりと彼女へと近付いてゆく。そして自分の間合いまで近づくと、もう一度様子を確認してから一気に組み伏せようと少女へと飛び付いていった。
ゴスッ!と、鈍い音がした。
胸元を掴もうと伸ばしてきた火東の右手を、翔子が右肘でガードしたのだ。
だがそれは、もはやガードなどという生易しいものではなかった。肘という体で一番固い部位を使った、強烈なカウンターだ。火東自身の体重と突進力が乗った右手に、翔子の体重と打撃力を乗せた肘打ちを喰らわせたのだ。
手の甲にある骨など、簡単に砕かれる一撃だった。
「ぐあ!!」と、慌てて右手を引っ込めて悶絶する火東の金的を、容赦なく蹴り上げる翔子の左脚。
「うごっ!!」
堪らず前のめりに倒れ込んだ顔面に、今度は右脚の廻し蹴りをお見舞いする。
数メートル吹き飛んだ火東は、動かなくなった。
「ああ……言い忘れたけど、その子は強いぞ?うちの空手道場で、俺も含めた大人の男の誰一人として、彼女に敵う奴はいないからな」
小野が、今更言っても仕方ない言葉を口にする。
小野自身が全国の腕に覚えがある警察官が集まる空手大会で、上位入賞を何度もしている猛者だ。……その彼も敵わないと語った水崎翔子の実力は、如何ほどのものなのだろうか?
その言葉が終わるのを待っていたかの様に……
水崎翔子はふ――っと、深い深呼吸をして構えを取った。
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