金魚の記憶

ましら佳

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85.侵食する粒子

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はるかは、桃の手を取った。
促されて行く先が、寝室だと分かると、桃は小さく首を振った。

「・・・大丈夫。桃さんが嫌なことはしませんから」

はるかは、襖を開けて、壁にかかっている絵を見せた。

桃は薄ぼんやりとした和室独特の明るさに目を凝らし、まさか、と顔色を変えた。

「・・・これ、どうしたんですか・・・なんで・・・」

レオンのアトリエにあった絵の一部に違い無かった。
眠る女の絵は、薄闇の中でまどろんでいた。
それが自分だと、はるかは分かっているのだろうか。
それがどうしてここにあるのだろう。

「・・・レオンの代理人が画廊ギャラリーに持って行ってしまって、それが売れてしまったって・・・」
「そうです。買い求めたのは私ですから」
「・・・亡くなった奥様がいらっしゃる方だったって聞いてます・・・」
「そうでも言わないと、譲って頂けなさそうな雰囲気だったので。・・・失くした、と言うなら、正しいですよね。桃さんは私の前からいなくなってしまったのだし」

はるかは、さも当然と言うように言った。

「・・・はるかさん・・・、その代理人でオーナーの人ね、ミカエルって言うんだけど・・・。本当に、奥様を亡くしているんです。結婚してすぐだった頃に」

はるかは驚いた表情をして、それは気の毒な事でしたと呟いた。
「・・・ミカ、自分の事も思って、あなたに同情して売ったのよ・・・。ミカエルもその奥様も、レオンのお友達だったの。だからレオンも納得したのよ。・・・それなのに、嘘をつくなんて・・・」

ショックだったし、怒りを感じていた。
それがまさか、はるかが、自分に関する事でこんな愚かなことをしていたなんて。

桃が怒っている所なんて初めて見たと、ついはるかは見惚れていた。
はしばみ色の虹彩の色が、鮮やかになっていた。
彼女にもう少し、甘く苛まれるのも悪くは無いけれど。
しかしこのままでは嫌われる、とはるかは説明を始めた。

「・・・桃さん。私にとったら、全部、嘘とかバカな事では無いんです。全て事実だし真実だし、本気です」

桃はそれでも唇をぎゅっと結んではるかに強い視線を向けていた。

「・・・ねえ、桃さん。・・・あなたに届くものも届かないものもあった。多分これからもそう。それは理解しています。けれど、それでも私はあなたを手放せない。ずっと、この胸の中に、あなたがんで離れない」

苦しそうに言われて、桃は口籠った。

そんなの知らない、と言おうと思ったのに。
同じ表情を、レオンもしていたと思い出したから。

彼に取り憑いたラースの影が、レオンを蝕む事は無いだろうかとずっと心配をしていたけれど。
レオンはわからないという不可解さを抱えながらも、それでも彼は親友を拒否せずにラースの影と共生する事を選んだのだ。
それは、苦しいものであろうに。
レオンは、その為にも強くあろうと決めたのだろう。
だから自分もそれを受け入れた。
レオンの中でラースの影が、いつか美しい何か宝石や、花や、それこそ金魚に変わる日が来るのかどうか、それはわからないけれど。

はるかの中の自分の影は、どうなるのだろう。
心の奥に金魚を飼っているような気分なのだと言うけれど。

それがいつか彼を苛む影に、闇に、悪霊になってはしまわないだろうか。
そんな予感がして、たまらなく怖い。
彼の中の自分が、この部屋の薄闇とも薄明かりともつかない怖い粒子が、ひたひたとはるかを侵食して食い殺してしまったらどうしよう。

どうしよう。
どうしたら、この人を守れるだろう。

どうしたらいい、と、桃は口の中で小さく呟いた。




冬に入ったばかりの庭で、自分たちと同じくらい大きな犬と遊んでいる子供達が歓声を上げていた。

「・・・はるかさん、雪が降って来そうです」

いつでも腹ぺこの子供たちに、トレイに乗せた山のようなお菓子を持って来た桃がそう声をかけた。

自分もまた犬や子供達と楽しんでいたはるかが振り返った。

「積もるほどは降らないでしょう。・・・まあ、遭難してもホリーがいますから」

そう冗談を言うはるかに桃が吹き出した。

「ホリーちゃんは人懐こすぎて番犬にも救助犬にも向かないんでしょう?」

英語でひいらぎと言う意味の名前を持つ黄金の被毛の犬はあまりにもフレンドリーで、獣医からも「怪しい人物や事件からは気を付けてやってください」と全くボディーガードにはならないというお墨付きを頂いた。

万が一、雪の中、主人であるはるかと共に遭難や事故にあったとしても、助けを呼ぶどころか、めそめそ泣いているだろうと思うと、はるかも苦笑ものだし、それが可愛くてならない。

「防寒具くらいにはなりませんかね?マフラーとか」
はるかさんが抱っこして温めてあげてると思いますよ?」

そう言うと、二人は微笑みあった。

「ママ、ホリー帰る?」
「もっと、ちょっと、遊ぶ!」

微妙なカタコトっぷりの幼い姉弟が飛び込んできた。

アンと呼ばれているあんずと、かい
二人は、冬の休暇で母親である桃と共に一年ぶり二度目の日本を訪れていた。
彼らは長い休みにしか訪れる事の出来ないこの別宅をすっかり気に入ったらしい。
はるかがホリーと共によく遊びに来てくれるのにも大喜び。

この可愛いのともうちょっと一緒に居たいという、子供たちと同じ顔で金色の犬にまで心配そうに見上げられて、桃は強く言えなくなってしまった。

「もう少しいるよ。大丈夫。・・・おやつを食べたら、お散歩行ってみるかい?」

はるかがそう言ったのに、子供たちと犬は弾けるような笑顔になり「手を洗って、ホリーの足も洗ってあげて、一緒におやつにする」と浴室に走って行った。

「・・・元気ですね。ホリーも遊んでもらえて嬉しそうです」
「あの子達、あんまりまとわりついて、ホリーちゃんのストレスにならないといいんですけど・・・」

犬や猫がストレスで体調を崩すと言うのもよく聞くから。
子供ならではの愛嬌を越えたしつこさをホリーが嫌がっては居ないかと心配。

「大丈夫。ホリーの方が会えない寂しさで寝込んでしまうくらいでしょう。私のように」

愛情を込めた眼差しで見つめられて、桃は少し笑った。
この視線を戸惑わないで受け入れられる事が出来るようになったのは、いつの事だったか。

数年前に、所有者であったはるかから、この邸宅が文化財になる一歩手前で購入したのだ。
しかし、日本人ではあるが海外の大学に籍を置いていて、訪れるのは長期休みのみという意向に、文化財の話を進めようとしていた自治体が懸念を示した。
それに対して、所有者であるはるかが、桃が大学教授であり、祖父の遺した資料と共に共著として文化的に意義のある書籍を上梓した実績、事実婚の夫が有名な芸術家である事を提示し、更にぜひ譲りたいと申し出た事、管理は責任を持つ事を約束して、やっと円満に認可さされた。

はるかは、こういったふるい邸宅を管理し維持して警備までする委託会社を作ってしまった。


現実的な日々の管理維持や警備、それから資本がある海外の人間に簡単に譲り渡す事への懸念。
それに対する法律や金融の審査や防衛として、今では自治体や寺社からも依頼が来る程で、昨年は会社が自治体から貢献を認められて表彰された程。

はるかとしては、正直、他人ヒトの家やどこかの寺なんてどうでも良く、桃が安心して自ら降り立てる場所を用意したかっただけであって。
だが、まあそれが良く作用したと言うなら文句はない。
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