金魚の記憶

ましら佳

文字の大きさ
上 下
76 / 86
3.

76.喪くした妻

しおりを挟む
ミカエルはネットで日本の酒の種類を調べながらメモを取っていた。
スマホで、次の競売のラインナップを確認する振りをして。
すっかりハマり、今では、日本酒の勉強をする為に大学へ聴講に行ったり、アメリカで醸造を始めた会社に投資までするようになっていた。

画廊ギャラリーには何人もの客達がいて、スタッフがそれぞれ案内をしているが、いろいろ聞かれて集中出来ない。
はっきり言ってもう帰って貰いたい。

桃が出して来た日本酒は良かった。
桃の亡くなった祖父が、アクアヴィットの代わりに飲んでいたと言っていた焼酎もとても美味しかった。
麦や作るというのもヨーロッパ人には親しみやすいが、サツマイモや米で作る場合もあるらしい。
更には、野菜や果物も。
トマトの焼酎、と出して来た焼酎は無色透明なのに確かにトマトの風味がした。
すっかり魅了されてしまった。

「・・・・マジック・・・」

ミカエルが呟いた。

マジックと言えば。
あれだけカリカリしていた妹のサーラも、桃の事はすっかり気にしなくなったのも不思議だ。
レオンに恋人ができたと聞いて自分同様、神経質になっていたのに。
まあ、自分は桃とこの素晴らしい酒にすっかり丸め込まれてしまったけれど。一度、サーラに会ってやってほしいとレオンに頼み、彼は桃とパリを訪れて会ったらしい。
どうだったと聞いたら、桃に無礼を働いたが、謝っていたと言っていた。
あの幼稚で、その分純粋な所のある、意地っ張りで鼻っ柱の高い妹が謝ったのか、と驚いた。
つまり、サーラは桃に負けたのだと思うと、可哀想な気分と、だろうなと言う得意な気持ちにもなった。

頭がよく、芯の強い女なのはちょっと話したら分かった。
更に面倒見が良くて、頭良くて、飯もうまくて優しいと会ったら、そりゃあ気難しい猛獣であるレオンだって懐くというもの。

卸しもいいが、焼酎バーなんてどうだろう。
桃が酒のつまみだと出して来たあのよく分からない猫のエサみたいなチマチマした料理。
あれをもっと人間にふさわしい量にして、バーで提供するというのは・・・。素晴らしいアイディア、自分に酔っていた時、

「・・・オーナー、お客様がお話をお聞きしたいそうです」

と、大学を出たばかりの若く美しい社員に遠慮がちに言われて、ミカエルは、取り繕うように頷いて立ち上がった。


客と言うのは東洋人の男だった。
素晴らしく仕立ての良いスーツ。
東洋人は体が薄いから、どうしてもジャケットに着られているように見えるが、そう見えないのは彼が鍛えているのとそれからやはり仕立てがいいからだろう。
曽祖父の代から仕立テイラーを営んでいたのだ。
お見通しだ。

「何かお気に召したものはありましたか」
「お忙しいところお呼び立てしてすみません」
滑らかな発音に、ミカエルは微笑んだ。
東洋人は堪能に外国語を話しても、声の使い方は結構無頓着だ。
アルファベットが音声文字に対して、漢字を使う国は象形文字の言葉だからかな、と桃は言っていたけれど。
「Aを発音する時。あなた達は、やっぱりAが備えているものを想起するでしょ。Aがつく単語、名前。音一つ一つに愛着があると思うの。そうすると声や音を大切に思うし使う。そう言う事?・・・それで、例えば、漢字で、そうだなあ・・・春とか?春と一文字書く時、私たちは、春の全てを思うの。やっと訪れた暖かな日差し、春の式典、満開の桜・・・春の美味しいもの・・・お花見団子・・・桜餅・・・カツオのたたき・・・あさりごはん・・・苺フェア・・・」

なんだかぶつぶつ呪文のような事も言っていたけど。
とにかく桃のその意見は、ちょっとメルヘンだけど、悪く無い考えだと思う。こんな話をずっとそばで聞いていれば、レオンだって夢中になるはずだ。

「・・・こちらの、作者の方の作品なのですが・・・」

ああ、とミカエルは困ったように微笑んだ。
1メートル四方もないもの。

「・・・こちらは実は販売出来ないんです」
「もう売約済みでしたか?」
「・・・いいえ。実は。この作家が売り物用にしていませんでね。趣味で描いたものでしょう。他のと一緒に、私がアトリエから持ち出してしまいましてね」
「そうでしたか・・・」
「はい。でも良い絵でしょう?だからつい飾っておきたくてね」

それは、レオンが眠る桃を描いたものだった。
あの不思議なヘイゼルの瞳を描いていないのは残念だけど、描き手の愛情を感じるものだった。

長い間、注文されたもの器用に提供して来た彼が、久々に描いた描きたいものだろう。
実はこうしたものが何枚かあったのだが、売り物ではないと分かりつつ、黙って持って来てしまったのだ。
素直に感心したのもあるし。長年、そう言ったものを描かせる事ができなかった罪悪感もあった。何より客に、レオンがこう言うものを描けるのだと知らしめたかった。

「・・・お譲り頂く事でできませんか」
「申し訳ありません。作家に黙って持って来てしまっておりまして」
「そうですか・・・。ではどうでしょう。・・・大変不敬な申し出で恐縮ですが、ここにある彼の他の作品も全部買い上げますので。それならば多少お考えいただけますか?」
「・・・は?全部ですか?」
「はい。ギャラリーに出ているものの他にバックヤードに在庫があるようでしたら、それもよろしければ」

ミカエルは戸惑って、黙り込んだ。

「・・・奇妙な客だと思っていらっしゃる事でしょう。・・・実は、くした妻に似ているんです」

静かにそう言われて、ミカエルはつい頷いていた。


ギャラリーを閉めてから、ミカエルは興奮したままレオンに電話をした。
時差が6時間あるから、スウェーデンは真夜中だったが夜型のレオンは普通に通話に出た。
桃に作ってもらった夜食を食べていたと言い機嫌が良かったのをチャンスとまくし立てた。

「・・・なあ、レオン!お前の作品、全部売れたぞ!だから全部すっからかんだ。早く追加分寄越してくれ」
「全部ぅ?・・・なあ、それより・・・ミカエル、ミカ!奥に置いておいたやつ、持ってったろ?無いんだけど?」
「あー・・あーそれだ。・・・それも売った。いいじゃないかよ、まだ他にも結構あったろ?」

アトリエを物色していた時、隠す用に隅っこにあったのだ。
描きかけのものばかりだったけれど、あと5.6枚はあった。

「ミカ?!あれは売りもんじゃないって言ったろ?・・・ベニに内緒で描いたんだ。見つかったらなんて不調法な人間だと泣かれてしまうかもしれない!」
「・・・うー、そうなんだけど・・・。その、東洋人の紳士が、全部お買い上げになってな」
「あれ一枚の為に全部?」
「そうだよ。・・・亡くなった奥さんに似てるんだそうでな・・・」

レオンがしばし黙った。

「・・・なら、いい・・・」
「良かった」
「・・・最初にそう言ってくれれば良いのに。何も全部じゃなくてあれだけ売ったのに」
「・・・・お前、それじゃせっかくの儲け時が・・・」

相変わらずの商売気の無さに呆れつつ、それでも怒られなくて良かった、とミカエルは通話を切った。

レオンの絵が飾ってあった場所は全て取り外されて、すっかりガランとしてしまった。
あのスペースは、取り敢えず、倉庫にあるものを出して埋めねばなるまい。

妻を亡くしたとは、お気の毒な話だ。
まだ若い女性だろう。
彼は亡くなったのは5年ほど前だと言っていた。
時期柄、数年前に世界中で流行した感染症で命を落としたのかもしれない。
当時、自分も友人を何人か亡くした。
レオンもそうで、一緒にコペンハーゲンで活動していた仲間を二人も失っていた。
ミカエルは当時の混乱を思い出して、ほんの少し憂鬱ゆううつになった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

じれったい夜の残像

ペコかな
恋愛
キャリアウーマンの美咲は、日々の忙しさに追われながらも、 ふとした瞬間に孤独を感じることが増えていた。 そんな彼女の前に、昔の恋人であり今は経営者として成功している涼介が突然現れる。 再会した涼介は、冷たく離れていったかつての面影とは違い、成熟しながらも情熱的な姿勢で美咲に接する。 再燃する恋心と、互いに抱える過去の傷が交錯する中で、 美咲は「じれったい」感情に翻弄される。

エリート警察官の溺愛は甘く切ない

日下奈緒
恋愛
親が警察官の紗良は、30歳にもなって独身なんてと親に責められる。 両親の勧めで、警察官とお見合いする事になったのだが、それは跡継ぎを産んで欲しいという、政略結婚で⁉

甘すぎるドクターへ。どうか手加減して下さい。

海咲雪
恋愛
その日、新幹線の隣の席に疲れて寝ている男性がいた。 ただそれだけのはずだったのに……その日、私の世界に甘さが加わった。 「案外、本当に君以外いないかも」 「いいの? こんな可愛いことされたら、本当にもう逃してあげられないけど」 「もう奏葉の許可なしに近づいたりしない。だから……近づく前に奏葉に聞くから、ちゃんと許可を出してね」 そのドクターの甘さは手加減を知らない。 【登場人物】 末永 奏葉[すえなが かなは]・・・25歳。普通の会社員。気を遣い過ぎてしまう性格。   恩田 時哉[おんだ ときや]・・・27歳。医者。奏葉をからかう時もあるのに、甘すぎる? 田代 有我[たしろ ゆうが]・・・25歳。奏葉の同期。テキトーな性格だが、奏葉の変化には鋭い? 【作者に医療知識はありません。恋愛小説として楽しんで頂ければ幸いです!】

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

処理中です...