金魚の記憶

ましら佳

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59.祝福の別れ

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しばらくすると桃が耐熱ガラスのカップに香り高くて甘いチャイを手渡し、自分もまた再びベッドに潜り込んだ。
温かく香り高い夢心地のような風味。
そうではあるが、はるかには何なのか判別し難いものであった。

「・・・やっぱりおいしいです・・・でも、何だか複雑な・・・?」
「ええとね、大抵チャイは丸くしてあるお茶っ葉のCTCで作るんだけど、これはアールグレイで作ってみてね、カルダモンとクローブとシナモンと生姜と、あとはメースとフェンネルも入れてみたの。甘いのはいつもは蜂蜜だけど、これはジャグリーね」

嬉しそうに説明されて、はるかは一瞬ぽかんとしてから笑い出した。

「・・・すごい。全然わからないです」

子供の時、浴衣姿で一生懸命何か喋って居たがさっぱり要領を得なかった昔の桃を思い出す。

「・・・すっごい甘いけど・・・なんか、たまに・・・からいですね・・・・」
「それ黒胡椒ね」
「コショウですか?」

お茶にコショウ?とはるかは不思議な気持ちになった。
桃はうまそうにチャイを飲んでいた。

「・・・桃さんがチャイ味が好きって言うから、アイスとかお菓子とか探してみたんですけど、あんまりないですよね」
「そうなの。ミルクティー味は結構あるんだけどね。夏に飲む冷たいチャイも最高よ」
何で日本でもっと流行らないのか不思議、といつかのようにまた呟く。

「・・・桃さん、そう言えば、みりんちゃんは・・・?」
「ハム太郎と月子先生が引き取ってくれる事になったの。大家さんが、猫は環境の変化に弱いから、そんな世界の果てに連れて行くのは無理だって言うの。・・・月子先生も猫飼ってるんだって。だから・・・」
「ああ、子連れで転がり込むんですか、あのおじさん」
「・・・そういう言い方ないでしょ。・・・月子先生、お医者さんだから猫の健康にも気をつけてくれてるみたい。三毛猫なんだって」

桃は嬉しそうに言った。

みりんとの別れは寂しいけれど、公太郎と月子に託せるとしたらこれ以上の安心は無い。

「・・・心配なのは、みりんちゃんの事と、あなたの事だけだったから。・・・もう大丈夫ね。このおうちも無くなっちゃうからね、もう来ちゃダメですよ」
「桃さんが居ないのに来ても仕方ないです」
「あ、はるかさん、転勤しようとか思ってるでしょう?」
「いけませんか?2年もいれば十分ですよ」
「そういうもの?」
「本社に戻るにはいささか箔が弱いので、まあ違う支社に1年行って。・・・海外事業部に行くのが一番良いんですけど」
桃さんがダメだと言うから。
「必要ならそうなさって。ただ、私は・・・」
「わかってます」

ふいに黒猫のみりんがベッドに飛び上がって来た。
普段、大人しく甘えっこの猫だが、珍しく何かを訴えている。

「・・・わ、なんだろう」
「あー、眠いんでしょう。はるかがいる側はみりんちゃんの場所だから」

はるかが抱き上げると、黒猫は少しだけ納得したように大人しくなった。

「・・・ああ、そうか。ごめん。・・・いつも一緒に寝てるんですか?」
「・・・私、帰国してからベッドに上げたのはみりんちゃんだけですから」
「藤枝さんとは?」
「あの人は、ご飯食べてただけ。弱いくせにお酒が好きで、お酒飲むと必ず寝ちゃうの。いつも呼べば家まで送ってくれるタクシーがいてね、その人が送り届けてくれてたしね」

三毛猫タクシーの青年は実家の新潟に帰ったそうで、今後の公太郎が心配だが、月子がいるならば今までのように酔い潰れる事もあるまい。
貰っていた名刺の名前にピンと来て、新潟出身だから八一やいちなの?と言うと、嬉しそうだった。
会津八一の詩の覚えているものをいくつかそらんじてみせると、「え、暗記してんすか?小学校、新潟市内っすか?上越?下越?どこしょう?何中なにちゅう?」と本気で聞かれた。

祖父が日本の近代詩が好きで覚えさせられていたのだ。
彼も三毛猫を飼っていると言っていた。
元気でやっていけるといいけれど。

「・・・あの、桃さん。あちらでは、恋人はいたんですか」
「残念ながらいませんよ。ちょっと留学生気分でいたらすぐ三年ですもの」
「そうでしたか。帰国してからどなたとも交際されてないのは知ってます」
「帰国して社会人生活とお仕事に慣れるのに精一杯、夏に度々熱中症になって、タヌキ追っかけてたら、今です。・・・皆、すごくないですか。こんなに毎日あれこれ忙しいのに、どうやって恋愛して結婚して出産して育児して・・・。才能がないとできない事ですよ」

はるかは満足な気分で聞いていた。
桃は、才能の問題だとかモテないとか思っているようだが、そうではない。
そんな話、いくつもあった。
まず社内のそういった話は藤枝が遠ざけていたのを知っている。

社外に関しては、桃は露出が少ない仕事だからと安心していたが、あのタヌキ受賞以来、問合せが多く来ていた。
博士にお話を聞きたいとかで、お前の会社タヌキとなんの関係も無いだろうと言う業種ばかりで、明らかに桃が目当だと分かるものばかり。

悠《はるか》としては、本来、彼らの業種にもふさわしい桃の他の研究というのもあるのであるから斡旋しても良いのだが、それはしたくない。
しかも、この人は、縁談が来る。
妻に、息子の嫁に、後妻に。

冗談じゃない。
そこそこの、またはそこそこ以上の家の人間から正式にオファーされたらなかなか逃げる事は難しいのは、保真智ほまちの一件でよく分かった。
ついでに言えば、保真智ほまちからも一度、はるかも一緒に食事会でもと申し入れがあったが、どのツラ下げてと一蹴した。

桃は、自分をこう言う形でなら受け入れた。
彼女の言う自分の幸せの形が、彼女の幸福だと言うのならば、それを実現するのが、自分の使命だと思えた。
彼女を諦めるつもりはないのだけれど。

「・・・はるかさん、保真智ほまちさんのお子さん、4歳なんですって。電車が大好きな男の子らしいの。・・・もう大きくなったでしょうけれど、保真智ほまちさんのお兄さんのお子さんは、女の子と男の子。ご家族でよく旅行に行くって聞いたことがあるの。・・・ねえ、はるかさんも、幸せになってね」
「桃さん以外とですか?」
「・・・そうよ?・・・悠《はるか》さんきっといいパパになると思う。
「で、子供は女の子と男の子のですか?」
「だったら楽しいかもね。・・・奥様もきっとあなたを愛してくれる」
「桃さんは?」
「・・・わからなけれど。ほら、私、才能なくて向いてないから。・・・とにかくあなたから離れる事は出来る。そのほうがあなたを幸せに出来るから。・・・幸せになってね」

はるかが頷いた。

「・・・自信はありませんけど・・・」

黒猫がはるかの鼻に自分の鼻を近づけた。


「・・・きっと大丈夫」

桃はそう言うと、自分もはるかの唇に自分の唇を寄せた。

自分との別れは、彼への祝福。

これがひとまずの別れとなるのだろう。
桃がどこか遠い場所で自分を想ってくれるのだとしたら悪く無い。
改めてはるかは部屋を見渡した。
もう無くなってしまうと言うこの空間。
コットンフラワーと焼き菓子と、甘い蜜とスパイスの匂い。
桃はまた移住した先で、同じような場所を作り始めるのだろう。

「・・・桃さん、もう一回・・・」

はるかは桃を抱きしめた。
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