金魚の記憶

ましら佳

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36.奪えないもの

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祖母が亡くなり、すっかり気落ちした祖父は、帰国を決めた。
日本で親しかった友人達も年上で、彼らの多くは故人となり、やはり母国が恋しくなったのかもしれない。

ストックホルム育ちの祖父は久々の生まれ育った街での生活に、徐々に元気を取り戻した。
緯度が高いから、一日中明るい白夜の他に、一日中暗い極夜もある。
夏なんて夜になっても明るいのだ。
変なの。何だか調子崩しそう、と言う桃に、祖父はこれこれ、変ですねぇと言いながらも嬉しそうだった。

桃はストックホルムの大学院に入り直して新しい生活を初めていた。
突然に退学をして一緒に祖父の母国に行くと言い出した桃に、周囲はならば休学にしておけ、考え直せと言ったが、桃はもう決めたと言って退学届を出してしまった。
復学するつもりは無かったのだが、祖父から説得されたのと、豊花ゆたか教授が大学に推薦状を書いてくれたものが自宅に届いた事が決め手となった。
桃がそんなに短気を起こすとは呆れたと言っていた教授だったのに。

同封の手紙には、場所や時間を変えたとしても、必ず戻って来る人間がいる、多分、貴殿はそうだと思う。その時に、少しでも助けに慣れるように、と書いてあった。

「桃ちゃん。豊花ゆたか君は素晴らしい教育者です。研究者や学者は多いけれど、教育者というのは稀有なものです。・・・彼が教え子でおじいちゃんはとても嬉しい」
と喜んだ。

それから、祖父もまた大学にスウェーデン語と英語で大学に推薦状を書いた。
桃は、ありがたく受け取り、その道を進もうと思った。

が、やはりまたしてもぶち当たったのは言葉の壁。
正しくは言葉ではなく、いわば言語の壁である。
スウェーデン語で講義を受けるのみならず、いずれスウェーデン語と英語でも講義ができる程の語学力と知識を求められたのだ。

「仕方ありません。日本は翻訳大国ですが、スウェーデンには世界中の本があれ程、翻訳されているわけではありませんからね」

祖父はそう言うと、困り果てる桃を気の毒そうに、楽しそうに見た。

「さあ、苦しんで獲得しなさい。それは誰にも奪えない」

歌うように言う。

「・・・頑張ります。・・・とりあえず、甘いものが食べたい」

二人はすっかり常連になったカフェへと向かった。


カフェ文化というのは都市で成熟するもの。
スウェーデンはコーヒー文化で、苦めの深炒りのコーヒーに、それに合うちょっとパサッとした甘いペストリー。
日本では、クリームチーズたっぷりで甘味がじゅわっと溢れるアメリカのシナモンロールが人気だけど、スウェーデンのシナモンロールはもっと素朴な味わいがする。
大人も子供も、甘いものが大好きだ。
寒い時期が長く、人々が癒しと慰みを求めるのか、北欧における砂糖とアルコールの消費量はだいぶ多いらしい。

祖父も毎日のようにこのカフェでコーヒーと甘い物を楽しんでいた。
桃も大学から帰って来ては立ち寄る、ほっとする場所でもあった。
国の方針で移民政策を打ち出した事で、様々なルーツを持つ人々が増えたそうで、カフェにも観光客なのかと思えば、移民一世や、二世だという人々もちらほら見かける。
外国人ヘイトがないと言えば嘘であるが、それはどこの国でも同じだろう。

日本から帰国した元大学教授の祖父と大学に復学したばかりのその孫娘はすぐに店主に興味を持たれた。
カフェ経営者は文化人でなくてはならぬという彼の信条により、客としても好ましいと言う事らしい。
彼は読書家で、中国の古典や日本の文学も読んだ事があるそうだ。

壁には昔の街並みや女優や俳優の写真が飾ってあり、雰囲気もあり、目にも楽しい。

「エダマメと言うのを買ってみたら固いんだけど、日本人は歯が丈夫だなあ」

店主がそう言って枝豆を皮ごと食べているのを見て、祖父が大笑いした。

「これは中身だけ食べるんだよ」
「枝豆、久しぶり!」

桃はテーブルの上の塩をパラリと振った。

祖父と桃がうまそうに食べるのに、店主と妻も摘んだ。

「これはいいな。自然の味がする」
「本当。優しい味ね!」
「これをマッシュして甘くしたお菓子もあってね、大好きなの」

でもね、と桃は祖父と顔を見合わせて笑った。

「・・・枝豆には、とりあえずビールですよ」

ヴィゴと桃はそう言うと、ビールを頼んだ。


「この写真はね、俺の友人がやってるカフェの写真なんだ。そこに可愛いマッチがあるだろ。その店のものなんだ」

地方都市にあるらしく、店の外観と簡単な説明、それとその下のグラスに店の名前の入ったマッチが入っていた。

「スウェーデン人はキャンドル大好きだからね。マッチで火をつけたキャンドルやタバコって格別だよ」

何が違うのかはわからないが、こだわりがあるらしい。

「桃ちゃん、それにね、スウェーデンは世界で初めて安全なマッチを開発したんですよ」
「そうそう!先生、よく知ってる!さすが!昔は、着火剤と燃焼剤が一緒のまだまだ危険なシロモノだったんだよ。スウェーデン人が開発したのは、世界一危険なダイナマイトと世界一安全なマッチだ!」

そう言って店主と祖父は笑った。

実は桃はマッチを使ったことがない。
そう言うと、店主は大袈裟に嘆いた。

「ああ、若者め!ジェネレーション・ギャップだ!・・・教えてやるから、ほら!やってみなさい。もし冬に遭難して、マッチがあったのに使えなかったら悲劇だ!」

店主の妻が桃の前にマッチと、蝋燭ろうそくを置いた。

「・・・こうやって擦ってね。大丈夫よ」

恐々とした動作の1度では着火せず、4度目でようやく火がついた。
桃はそっと、キャンドルの芯に火を移した。

「・・・ほら。あなたが灯したキャンドルよ」

マッチ一本火事の元、と日本の学校で教育された桃は裸火が怖いと思うのだが、確かにこの小さな揺れる炎には目を奪われて、心が暖かくなるような気がする。

思うよりも明るく力強い灯り。
桃は励まされたような気分で、その息付くように揺れる小さな炎に見入った。
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