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25.亀裂
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悠は父に呼び出されて、彼が滞在している家の一室を訪れていた。
海外出張が多く、月の半分、年の半分以上を海外で過ごす事の多い父の、帰国時に一息つく為の空間の一つ。
彼は、家族にも私生活をあまり見せたがらないところがある。
秘書が各地に何人も控えており、彼は秘書から秘書へ引き渡されるようにして仕事をしている。
「久しぶりだな、元気なようでよかった」
「はい。お父さんも、お変わりないようですね」
秘書がコーヒーを出して、父は昨夜の遅くに中東から帰国したばかりだと言った。
「あの暑さからこの寒さだからな。体がびっくりしたまま戻らないよ」
多少、戯けたように言い、父である小松川匠《こまつがわたくみ》がコーヒーを飲んだ。
「お母さんは?」
「元気ですよ。伯母さんと蘭の展覧会の為に来週シンガポールに行くそうです」
匠はちょっと不思議そうな顔をしたが、ふうん、とだけ言って納得したようだ。
世の中に蘭の展覧会なんてあるのか、というような感想を持ったのだろう。
確かに、母もその妹である伯母も、特に蘭の愛好家であるという経歴は無い。
花を育てるのが趣味の園芸家でも無いし、父の違和感は当然だろう。
まあ、花を贈ったり贈られたりは大好きではあるようだけれど。
「・・・お祖母さんは?」
「怒ってます」
「・・・だろうな」
認知すらしなかった娘が結婚すると聞いて、では式に出たいと言い出したのは自分。
母親は、孫娘の幸せを思って、混乱を嫌って、すっかり自分に腹を立てている。
妻は、義母が自分のいわゆる非嫡出子と交流を持った上、息子である悠を巻きこんだと反感を持っているのだ。
彼女がシンガポールまでわざわざ蘭なんぞを見に行くというのも、それは当て付け。
「・・・まあ、仕方ないな」
匠はそう言うと、悠に向き直った。
「・・・今、大学何年生だって?」
「2年です」
「そうか。じゃあ、お前、来月からアメリカに行け。準備はしておく」
「・・・今、2年ですよ?」
卒業後の進路でもあるまいに。
「早い方がいいだろう?」
悠はため息を飲み込んだ。
「・・・急すぎます」
「退学が急でダメなんてことあるか」
休学どころか、さっさと退学しろ、と言うことだ。
「・・・お父さん・・・」
反論しようした悠を匠が手で制した。
じっと見据えるような目をしている。
ああ、似ている。
悠は、桃のあの不思議な榛の瞳を思った。
「・・・先週末、祖父さんの鎌倉の家へ行ったって?大雪で大変だったろう?」
平然とした口調と表情だったが、知っているぞ、と、ひたりと視線を合わされて、悠は一瞬怯んだ。
「・・・来週の半ばまでならいつ出発してもいい。ここから出発しろ」
自宅には戻るな、誰にも会うな、という事だ。
反論などもう出来ない。
父は、全て知っている。
悠は、粛々と頷いた。
2日後、空港に到着すると、会員のみが利用できるラウンジに悠の姿があった。
このラウンジは、軽食やアルコールを含めたドリンクがあれこれと用意されて、ラグジュアリーなサービスは話題になっていた。
しばらくするとビジネスではないエレガントなスーツ姿のホスト役の女性が近付いて来た。
緩やかに巻かれて束ねられた髪が揺れた。
悠は、彼女に気づいて立ち上がり、にこやかに微笑んだ。
「宝さん、久しぶりですね」
「悠さん!・・・お会いできると思わなかったわ」
英家が経営するホテルグループが参入して運営している空港ラウンジで、保真智の妹の宝が勤務していた。
エントランスのスタッフに、彼女に会いたいので呼んでくれないかと申し入れていた。
「これからどちらへ?」
「ボストンです。東海岸は寒波だそうですよ」
「まあ、お気の毒。・・・あちらのお客様はホノルルですって。うらやましいわね」
窓際の席で既にご機嫌でカクテルを重ねているカップルを見ながら宝は快活に笑った。
悠は、カップルにしては、年齢差があると思ったが、まあそういうことよ、と宝は敢えて言葉にしなかった。
富豪と愛人、という構図か。
ホテル業や旅行業ではよく見る物語なので、宝は心得たものだし、悠も、マナーとして深入りしない感覚を持ち合わせていた。
「宝さん、聞こえてきたんですが・・・ちょっとやんごとない方と結婚されるご予定だとか」
そう言われて、宝の頬が少し赤く染まって緩んだ。
「その言い方!時代劇みたいよ?」
「だって、本当でしょう?」
「・・・と言ってもね、だいぶ傍系の方でいらっしゃるから。お仕事もされているし。まあ、役員で、存在していらっしゃる事がお仕事・・・な方ね」
そうでしたか、と悠は微笑んだ。
「・・・お伝えしたいことがあるんです」
悠がちょっとだけ声を潜めた。
「保真智さん、婚約されましたよね」
「ええ。すっかり夢中よ。仕事場のデスクも、結婚式やパーティーのカタログやらパンフレットやらあちこちから持ってきて山積みなの。おかしいわよね」
でもあんな兄も悪くない、と宝は思う。
今まで散々遊んだんだから、良い意味で年貢の収め時になってくれればいいけれど。
「その方、オルソンさんという方ですよね」
「お兄ちゃんの婚約者の方でしょ?・・・知っているの?」
「実は、私の姉なんです」
「でも・・・お姉様がいらっしゃるなんて・・・」
聞いたことがない。
「ええ、誰も知りませんよ。でも、保真智さんも、ご両親もご存知ですよ」
知らないのはお前だけと言いたいのか。
本来、誰も知らない姉。
事情があるという事か。
「・・・悠さん、何をおっしゃりたいのかわからないけれど。兄が決めた事で両親が了承したのなら、何がいけないんですか?」
「いえ、宝さんにとってかわいそうかな、と思いまして」
宝はむっとした。
可哀想と思われるいわれなどない。
「・・・宝さんの婚約者の方は、当然だいぶ厳しいお家だから、お兄さんの妻に何か問題があるというのはお嫌いになるのでないですか?」
宝はちょっと体を引いた。
「・・・つまり彼女は、私の父の認知していない娘なんですよ」
悠はそう言うと、悲しそうに微笑んだ。
海外出張が多く、月の半分、年の半分以上を海外で過ごす事の多い父の、帰国時に一息つく為の空間の一つ。
彼は、家族にも私生活をあまり見せたがらないところがある。
秘書が各地に何人も控えており、彼は秘書から秘書へ引き渡されるようにして仕事をしている。
「久しぶりだな、元気なようでよかった」
「はい。お父さんも、お変わりないようですね」
秘書がコーヒーを出して、父は昨夜の遅くに中東から帰国したばかりだと言った。
「あの暑さからこの寒さだからな。体がびっくりしたまま戻らないよ」
多少、戯けたように言い、父である小松川匠《こまつがわたくみ》がコーヒーを飲んだ。
「お母さんは?」
「元気ですよ。伯母さんと蘭の展覧会の為に来週シンガポールに行くそうです」
匠はちょっと不思議そうな顔をしたが、ふうん、とだけ言って納得したようだ。
世の中に蘭の展覧会なんてあるのか、というような感想を持ったのだろう。
確かに、母もその妹である伯母も、特に蘭の愛好家であるという経歴は無い。
花を育てるのが趣味の園芸家でも無いし、父の違和感は当然だろう。
まあ、花を贈ったり贈られたりは大好きではあるようだけれど。
「・・・お祖母さんは?」
「怒ってます」
「・・・だろうな」
認知すらしなかった娘が結婚すると聞いて、では式に出たいと言い出したのは自分。
母親は、孫娘の幸せを思って、混乱を嫌って、すっかり自分に腹を立てている。
妻は、義母が自分のいわゆる非嫡出子と交流を持った上、息子である悠を巻きこんだと反感を持っているのだ。
彼女がシンガポールまでわざわざ蘭なんぞを見に行くというのも、それは当て付け。
「・・・まあ、仕方ないな」
匠はそう言うと、悠に向き直った。
「・・・今、大学何年生だって?」
「2年です」
「そうか。じゃあ、お前、来月からアメリカに行け。準備はしておく」
「・・・今、2年ですよ?」
卒業後の進路でもあるまいに。
「早い方がいいだろう?」
悠はため息を飲み込んだ。
「・・・急すぎます」
「退学が急でダメなんてことあるか」
休学どころか、さっさと退学しろ、と言うことだ。
「・・・お父さん・・・」
反論しようした悠を匠が手で制した。
じっと見据えるような目をしている。
ああ、似ている。
悠は、桃のあの不思議な榛の瞳を思った。
「・・・先週末、祖父さんの鎌倉の家へ行ったって?大雪で大変だったろう?」
平然とした口調と表情だったが、知っているぞ、と、ひたりと視線を合わされて、悠は一瞬怯んだ。
「・・・来週の半ばまでならいつ出発してもいい。ここから出発しろ」
自宅には戻るな、誰にも会うな、という事だ。
反論などもう出来ない。
父は、全て知っている。
悠は、粛々と頷いた。
2日後、空港に到着すると、会員のみが利用できるラウンジに悠の姿があった。
このラウンジは、軽食やアルコールを含めたドリンクがあれこれと用意されて、ラグジュアリーなサービスは話題になっていた。
しばらくするとビジネスではないエレガントなスーツ姿のホスト役の女性が近付いて来た。
緩やかに巻かれて束ねられた髪が揺れた。
悠は、彼女に気づいて立ち上がり、にこやかに微笑んだ。
「宝さん、久しぶりですね」
「悠さん!・・・お会いできると思わなかったわ」
英家が経営するホテルグループが参入して運営している空港ラウンジで、保真智の妹の宝が勤務していた。
エントランスのスタッフに、彼女に会いたいので呼んでくれないかと申し入れていた。
「これからどちらへ?」
「ボストンです。東海岸は寒波だそうですよ」
「まあ、お気の毒。・・・あちらのお客様はホノルルですって。うらやましいわね」
窓際の席で既にご機嫌でカクテルを重ねているカップルを見ながら宝は快活に笑った。
悠は、カップルにしては、年齢差があると思ったが、まあそういうことよ、と宝は敢えて言葉にしなかった。
富豪と愛人、という構図か。
ホテル業や旅行業ではよく見る物語なので、宝は心得たものだし、悠も、マナーとして深入りしない感覚を持ち合わせていた。
「宝さん、聞こえてきたんですが・・・ちょっとやんごとない方と結婚されるご予定だとか」
そう言われて、宝の頬が少し赤く染まって緩んだ。
「その言い方!時代劇みたいよ?」
「だって、本当でしょう?」
「・・・と言ってもね、だいぶ傍系の方でいらっしゃるから。お仕事もされているし。まあ、役員で、存在していらっしゃる事がお仕事・・・な方ね」
そうでしたか、と悠は微笑んだ。
「・・・お伝えしたいことがあるんです」
悠がちょっとだけ声を潜めた。
「保真智さん、婚約されましたよね」
「ええ。すっかり夢中よ。仕事場のデスクも、結婚式やパーティーのカタログやらパンフレットやらあちこちから持ってきて山積みなの。おかしいわよね」
でもあんな兄も悪くない、と宝は思う。
今まで散々遊んだんだから、良い意味で年貢の収め時になってくれればいいけれど。
「その方、オルソンさんという方ですよね」
「お兄ちゃんの婚約者の方でしょ?・・・知っているの?」
「実は、私の姉なんです」
「でも・・・お姉様がいらっしゃるなんて・・・」
聞いたことがない。
「ええ、誰も知りませんよ。でも、保真智さんも、ご両親もご存知ですよ」
知らないのはお前だけと言いたいのか。
本来、誰も知らない姉。
事情があるという事か。
「・・・悠さん、何をおっしゃりたいのかわからないけれど。兄が決めた事で両親が了承したのなら、何がいけないんですか?」
「いえ、宝さんにとってかわいそうかな、と思いまして」
宝はむっとした。
可哀想と思われるいわれなどない。
「・・・宝さんの婚約者の方は、当然だいぶ厳しいお家だから、お兄さんの妻に何か問題があるというのはお嫌いになるのでないですか?」
宝はちょっと体を引いた。
「・・・つまり彼女は、私の父の認知していない娘なんですよ」
悠はそう言うと、悲しそうに微笑んだ。
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