青天のヘキレキ

2.恋のキューピッドは鯉

　ああ。死ぬ。
まさかこんな観光地の沼に落ちて、死ぬのか。
ああ、私わざわざ修学旅行の引率で、地元に死にに来たのか・・・。
落ちた拍子にだいぶ水を飲んだのだろう、肺に空気は残っていないようで体が重くて、冷たく、底に、底にと沈んでいくのがわかる。
プールで泳ぎを覚えた今の子供たちは、川だの海だの湖が怖くて泳げない、と消防士の父の言葉が蘇った。
本当に、怖い。
あの澱よどみに、あの岩の影に、何か魔物が手を伸ばしているようで、とてつもなく恐ろしかった。
ふと、腹の横に、塊があるのに気付いた。
あ、靴だ。これさっきの、スイーツ、じゃなくて、ええと、・・・ドルチェ。
ということは・・・高久たかくも一緒に落ちたのか。
環たまきは初めて焦った。
どうしようどうしようどうしよう。
自分はまだしも、生徒が沼に落っこちたなんて。
こんなとこで死なせるわけにはいかないじゃないの。
ああどうしよう、神様・・・・・・。
ああ、私の卒業した学校、カトリックのミッション系なんです。
今の職場もプロテスタント系なんですけど。
そんなよしみでなんとか助けてみらえませんか、神様・・・。

　ざばっと水の音がして、世界がひっくり返ったような気がした。
「・・・ぅおぇっ・・・生ぐさっ！！」
スーパーの鮮魚コーナーとは比較にならないような生臭さ。
「んまあ、失敬なっ！」
突然目の前に現れた白い魚が喋った。
しかもどうも怒っている様子で、ヒレでペチペチと環の頭を叩く。
うう、べたべた冷たくて気持ち悪い。
「ああ、人間はなんて熱いんでしょう。死にかけているくせにまだ熱い。人間に触られたりしたら、私たちは大火傷なのよ」
心底嫌そうに睨まれる。
触ったのはそっちじゃないか！と思ったが、黙った。
よく見ると、魚の白銀の背中に痣があった。
もしや、自分に触れたせいで、本当に火傷したのだろうか。
「・・・それ、私のせいですか・・？」
ああ、これ？と鯉はチラリと自分の背中を見せた。
「あっ！？伝説のハートの鯉じゃんっっっ！」
振り返ると、高久たかくがなぜか盛り上がっていた。
「うっそ！レジェンド!？ちょーバエる・・・って、スマホ・・・あれ？！スマホねぇしっ!？」
頭をかきむしって騒ぐ高久たかくに、鯉が不愉快そうに水を吐いた。
あまりの騒々しさに環たまきはすみませんと謝った。
「・・私の生徒なんですが・・・ちょっと興奮しているみたいで」
「生徒ぉ?おまえ、教師か？」
「・・・はい」
魚相手に問答しているのを不思議に思いながら、あまりにも上から目線なので素直に答えてしまった。
「ふうん。・・・何教えてるの、アナタ？」
「保健です」
「ふうん・・・？言葉や数字や歴史ではなくて?なにそれ？わからんけれども？」
パールホワイトの鱗をきらきらと輝かしながらちょっと小首を傾げる様は、なんだか可愛らしかった。鯉こいだけども。鯉こいなりに。
そりゃ、わかんないですよね。
保健なんて。鯉だもの。
「では。とにかく。そなたら、教師と生徒ということだな。そう神様に報告せねばならぬ」
「か、かみさま・・・・?」
「神様かよっ？！神様、キタコレー!」
「やかましいわ！！・・・で?そなたら、仔細しさいを聞こう。男女二人ならば、恋愛成就の宣伝文句につられて来たのか?それとも心中か?」
がっくりと環はうなだれた。
何言ってんだこの淡水魚。
「・・・違います。なんですか、それ」
だって、とくるんと鯉こいが一回転して、ハート型の痣を見せた。
「私のこの印が恋愛成就のお守りだと、これ目当てに男女がやってくるではないか。私は恋のキューピッドの鯉と言われておる。ま、去年の暮れくらいからかのう」
こじつけやダジャレじゃないの、と環たまきは呆れた。
うんうん、と高久たかくは激しく頷いた。
「看板にそう書いてあったじゃねえか。センセイのくせに見てねえのかよ。インスタでも話題だし。でもこいつレアキャラなんだよ」
高久たかくは、ババアになるとこれだからな、と余計なことをまた言った。
「・・・ただ単に落ちたんです」
「だっからよー。雷かみなり鳴ったじゃん。それにびっくりした別のセンセーが、こいつのこと押したわけ。ほんで巻き込まれて俺も落ちたの」
「はっ？！マヌケじゃのー！」
呆れた様子で、また、くるん、と鯉こいが一回転した。
「・・・そういうことのようですわ、かみさま」
そう言うと、くるんくるんと泳ぎ、現れた眩しい光の中に入っていく。
「・・・・神様登場かよ・・・」
さすがの高久たかくも少し怖気付いた様子だ。
環たまきも身構えた。
光が、白く、青く、眩しくなって、すとんと二人の前に降りた。
「・・・許す。目を開けよ」
厳しい、男の声だ。
年の頃なら四十代。
諸説あるが実際のイエス・キリストは、三十代～四十代の頃に十字架に架けられたと言う歴史家がいるそうだ。
「・・・なんだこのオッさん」
高久たかくが、ぽかんとして言った。
え、と環も目を凝らした。
光の中には、学校の肖像画や美術の教科書に出てくるような痩せてシーツのようなものを着て茨いばらの冠を被ったイエス・キリストではなく。
まるで、昔の中国の時代劇のような甲冑を身に付けた、意外にちょっと太めの中年の男が立っていたのだ。
「・・・あんた・・・いい年こいたコスプレオヤジか?キショ・・・」
高久たかくが若干引いた様子で訪ねた。
「馬鹿者ぉっ!こちらは、毘沙門天びしゃもんてん様であるぞっ」
鯉こいが怒って高久たかくに水苔を投げた。
「・・・びしゃもんさま・・・?・・・ああ、そっちね・・・・」
環たまきは、なんだか納得して頷いた。
「うむ。・・・そなた、此この期ごに及んで何が出てくると思ったのじゃ？」
あー、よいよい、と毘沙門天《びしゃもんてん》が鯉こいに高久たかくへの折檻せっかんをやめるように言った。
「あの、・・・いわゆるキリスト様かな、と・・・」
「ああ、そっちね」
毘沙門天びしゃもんてんが頷いた。