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5.
151.運命の印
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早速、壁にぶつかった。
「駄目」
翡翠が頑として受け入れない。
孔雀は困り果てて金糸雀を見た。
少しは議論の余地があろうかと思ったのだが、これでは。
ほらごらん、という顔をして姉弟子は妹弟子を横目で見た。
「翡翠様、家令と致しましては常に人手不足ですから、他に適当な者がおりません」
孔雀がなんとも情けない顔をした。
宮城の管理、外交、内政、軍と神殿と聖堂、国連、他外部団体とアカデミーへの出向、他に家令は裏方仕事で動く事も多いので、どうしたって体が足りないのだ。
「私が勤めるべき神殿への出向期間は仏法僧で可能です。宮城でのお勤めは雉鳩お兄様がおります。まとまって体が空くのが私ですし・・・。あちらも、それぞれ軍のトップと、A国の副官房長官と、Q国の外交統括大臣がいらしているので、ちょうどいいんです」
国境の小競り合いで何度も揉めに揉め、その度に納めてきたが、今回は面子の肩書きがぐっと上がっていた。
軍事弁護士で報道官の金糸雀と、聖堂の司祭の甥であり、自分も司祭長である大嘴。
本来ならばどちらかでも十分役者は足るのだが、紅水晶皇女の輿入れが決まっている現在、孔雀は同時に国交も正常化できれば、有り体に言って終えば、大戦の一応の幕引きの場、利権の分捕り合いの場にQ国を引きずり出して、A国と共に、何をどこまで明らかにしてどこまでを閉ざし、つまりどこまで落とし所を見つけられるのか、という事。
その為の布石はもう何年も前からすでに打っていた。
ならば、自分で回収せねばならない。
「私ではご不満でしょうか?」
「梟か鷂を行かせなさい」
「梟お兄様では、大戦の記憶が生々しくて恨みにも怒りにもなります。きっとまとまりません。鷂お姉様は長年国連で中立の立場ではありますが、私がQ国に肩入れしていたのが鮮明になってしまうんです」
身も蓋もないがこれが事実。
「|両国共に軍のトップと、制服組のトップ、副官房長官と、外交統括大臣」
翡翠がごちた。
確かに、その役者に合わせて押し出しが効くのは、宮宰として皇帝の肝入りと知らしめる事の出来る総家令。
そもそも孔雀は神官長。更に司祭長の地位でもある大嘴もとなったら、確かに箔がつく。
「家令でなくともいいはずなのに」
「家令が出るのが相応しいでしょう」
家令は開戦や休戦、停戦の折には、相手の国へ斥候として訪問する役割もある。
当然、身の保証はないが、家令というのは独立した特殊な組織なので、もし万が一、下手を打った場合、責任は家令の身だけで済むのだ。
こちらの出方次第では無かったことにできる。
これが王族となったら、国際問題にならざるを得ない。
「自信はあるわけだね」
孔雀は頷いた。
出たとこ勝負ではなく、用意はしていた、という顔。
翡翠はわかったと言って立ち上がった。
書類にサインをしてファイルごと孔雀に手渡す。
孔雀はほっとして姉弟子を振り返ったが、ファイルを押し頂き、開いてから驚いて立ち上がった
「翡翠《ひすい》様!」
慌てた声に、金糸雀が何事かと不敬を覚悟で妹弟子の持つファイルを覗き込んだ。
天河の名前が書いてあった。
「金糸雀、この通りに準備をして雉鳩に正式に書類を出させなさい」
さすがに金糸雀もすぐに諾とは言えなかった。
「・・・金糸雀お姉様、ちょっと、待って・・・」
「もう決まったよ。極北総督府長は何も家令でなくてもいい。大戦の折には、王弟が就任しているはずだよね」
確かに、と孔雀は頷いた。
「・・・黒曜《こくよう》帝様の総家令を勤めました白雁お兄様が戦死された後に、緑髄玉王弟殿下がお務めになられておりますが・・・」
その彼もまた戦死したのだ。
それ以降、大戦が泥沼化したのは、白鷹からも梟からも家令達は何度も聞かせられていた。
「いけません。・・・危険な場所です。王族の方がいらっしゃるような場所ではありません」
前線よりさらにさらに先だ。
長年北の前線を守ってきた青鷺でも躊躇する空白地帯に出向かなければならない。
大戦の折に兵士が、王族が、家令が何人も死んだ場所。
琥珀帝と白鷹は前線を駆け抜けたと言われているけれど、それでもその外側で戦っていたのだ。
白鷹や梟より年上の家令達、青鷺や鷂の親に当たる世代の殆どがその内側で死んだ。
その場所を今実際に知っている者は、かつて勝戴と呼ばれた女家令のみ。
その実は今やQ国の母后だ。
凄惨であったと言われるその場所の現在をもう誰も見たことがない。
数十万とも言われる亡骸は打ち捨てられて、風化したのだろう。
だから祭禮に携わる孔雀は訪れるつもりなのだ。
多分、それはあの北の古い遺跡で命を落とした大鷲もそう思っていたのではないだろうかと思う。
「ひどかったのよ、数字を見ればわかるでしょうけれど。今は三割死んだら全滅なんて言われてるけど、昔は本当に文字通り。あの前線に投入された人員の九十%が死んだ。その中に私や梟や大鷲が入っていないのは、上の世代のお兄様やお姉様が私達を守ったから」
かつて白鷹がそう言ったのを聞いた事があった。
「・・・ならば、余計に王族が行くべきだよ。本来は私が行くべきであるれど」
翡翠に微笑まれて、孔雀は首を振った。
「翡翠様、それはいけません。・・・必ずお命を落とすでしょう。どうしてもと仰るなら、私、ここで死にます」
金糸雀が驚いて、ちょっと、と孔雀の袖を引っ張った。
孔雀がそう言うのを、なんとも幸せそうに聞いて翡翠が頷いた。
普段、穏やかで円やかなこの女家令の根底にあるのは、やはり家令。苛烈な激しさだ。
金糸雀は、不安を感じて見守っていた。
孔雀はやはり家令であり、激しさを持っていると知っているつもりであったが、翡翠に対する妹弟子の感情というのは、有り体に言ってしまえば、穏やかといえばいいが、責務感に近い、もっと素っ気ないものだと思っていた。
死なせる気はないので、と翡翠が微笑んだ。
「では、藍晶に行かせるかい」
孔雀は、そう言われて冷静になったのか、首を振って、また座った。
「とんでもないお話です。藍晶様は皇太子様です、そのようなわけにはまいりません・・・」
あの皇太子は花があり陰がない。
宮廷内外、安寧な場所では非常に評価が高いが、前線では別。
日々の中で己や身近な人間の命を危険にさらしている人間の前では、あまりにも存在が異質なのだ。それはどんなに言い繕っても、戦地にいる嗅ぎ取られる。
もし何かが起きたら。
身内に殺されかねない。
「だから孔雀は藍に軍に行けと言っていたのにね」
仕方ない、と翡翠は言った。
元老院の大部分や聖堂派は戦争のきな臭さを嫌う。
それは国民だって同じ。だからこそ、軍の気配の全くない皇太子が受け入られていた。
大嘴に言われるまでもない。どんなに体裁よく取り繕うとも、軍に所属した事のない王に、軍は決して靡かない。
これはまだ孔雀が雛鳥と呼ばれていた頃から真鶴について軍に出向して、悟った事。
そう。大嘴のいう事はいつだって正しいのだ。彼が言ったように、命を賭けて戦う彼らを、リベラルでは救えない。
何より、白鷹に強くそう言い含められて自分たちは育てられてきたのだから。
小競り合いが続く難しい状況下で、大きな衝突も何度もあった。命を落とした者もいる。
それは、いつか軍を顧みない皇太子への不安や不満に変わり、恨みになるかもしれない。
「ではやはり天河。経歴書付けて提出してやりなさい。もうこの世にはいないギルド出の妃の子供で、かつアカデミーで何の利権も絡まないような宇宙の元素だの準惑星の距離だの海の底の沈殿物の測量してる研究職以外さっぱり他の政治活動にも思想団体にも興味も活動の実績も無し。未婚でしがらみもない。軍でも一番危険な海兵隊に四百時間勤務経験あり。海兵隊は先発隊だから、この先常駐になる。適任だよ」
孔雀は金糸雀と顔を見合わせた。
それを見越して、彼は天河を海兵隊に送り込んだのだろうか。
アカデミーから無理に呼び寄せなかったのもそうなのだろうか。
「城の中では、皇帝の怒りを買って総家令に近づくのを禁じられているのは知られてきているし。ついに追ん出されたと思われて丁度いいよ」
なぜなのか、は家令以外には知らされていないが、何か総家令に不躾な言動でもして皇帝の不興をかったのだろうと噂されていた。
そもそも、皇太子の藍晶と違い、天河は、翡翠が自分の子供達の年齢に近い総家令を身近に置いた事を快く思っていないのは知られていたから。
「雉鳩から正式な書類が来たら天河にサインさせるから、孔雀もハンコ押すようにね」
翡翠はそう言うと、もうその件は済んだ、終わった、と言うようにファイルを金糸雀に押し付けた。
翌日の夜、翡翠を四妃の元へと送り出してから、孔雀は、ひっきりなしに甘いものを口に放り込んでいた。
過度のストレスがかかると、かき氷シロップまで飲み始める。
浜育ちでアルコールにも異常に強く、軍隊で度々問題になる薬物にもたいして興味も示さないが、あまりにも幼い頃から家令にさせられての軍隊生活のストレスの弊害か、砂糖依存症の傾向があるというのが黄鶲と鸚鵡の見解だ。
子供は犬と一緒だと思っていたのか、兄弟子や姉弟子達は、孔雀に言うことをきかせたい時にはごほうびや慰みにと、甘いものを口につっこんで来たから。
夜食用の煮込みをオーブンに入れてしまい、色鮮やかな果物の砂糖菓子《パート・ド・フリュイ》を齧りながら孔雀はじっとデスクの上のファイルを見た。
第二太子を北総督府長官代理に任命する旨の書類を何度も眺めて、ファイルを開いたり閉じたりしていた。
この書類に押印すればすぐに天河の急ごしらえの出立準備が始まるはずだ。
金糸雀と大嘴は随員として付ける事が出来た。
けれど。だからそれが何なのだろう。
天河が第二太子である事実は変わらない。
身の危険の不安等、これから冬を迎える北に降る雪よりも多いだろう。
孔雀は左の親指のそれは見事な印章つきの硬翡翠の指輪を右手で包み込んだ。
総家令の任と共に賜ったものだ。
数え切れない程押印して来た。表面には朱肉が染み込んでいるこの指輪に、いつになく重みを感じる。つい数日前までは体の一部だと思うほどに身にも心にも目にも馴染んだものなのに。
これ一つでいくつもの人間の運命や命すら左右してきた。
今、戸惑う事そのものに戸惑っている。
「・・・孔雀姉上」
そう燕に名前を呼ばれて、孔雀ははっとした。
弟弟子に何度か呼ばれていたようだが、気づかなかった。
「・・・あ、ごめん。・・・翡翠様、もうお戻り?・・・あらやだわ。もうない。誰が食べたのかしら・・・」
器にいっぱい盛ってあった砂糖菓子が一つ残らず無いのを本気で不思議に思った。
間違いなく孔雀が不安に苛まれて無意識に次々つまんでいた証拠だが自覚が無い。
たくさんあったと思ったのが勘違いだったのね、と都合よく片付けて、時計を見ると、一時間足らず。気まぐれな翡翠の事、珍しい事ではないが。
「・・・まだ隠元豆と肉の煮込みが出来てないわ。先にスフレでも焼こうか。燕も食べる?」
孔雀が慌ただしく立ち上がってミニキッチンに向かった。
「あの、孔雀《くじゃく》姉上・・・」
燕が頷きながら姉弟子を困惑して見上げた。
その横に忽然と天河が立っていた。
なんだか久しぶりに見た気がする。
孔雀は礼をしてから首を傾げた。
翡翠からの公式の接近禁止命令とは、この場合適用するのか、どうか。
するよな、どう考えても。
孔雀は眉を寄せてからまた礼をした。
天河が燕に声をかけた。
「燕少年」
「はあ・・・」
「見張ってろ。そこの窓から下の回廊の角を雉鳩がちゃらちゃら曲がったのが見えたら知らせるように」
兄弟子は翡翠と共に四妃の宮に向かった。当然、また同伴して戻ってくる。
燕は嫌そうな顔をした。
そもそも天河は王命で孔雀には近付けないはずであって。
バレたらまずは雉鳩に怒られる。あの兄弟子は、案外鉄拳制裁派なのだ。
渋々、燕は一番早く兄弟子が角を曲がってこちらに戻ってくるのがわかる場所に向かった。
「駄目」
翡翠が頑として受け入れない。
孔雀は困り果てて金糸雀を見た。
少しは議論の余地があろうかと思ったのだが、これでは。
ほらごらん、という顔をして姉弟子は妹弟子を横目で見た。
「翡翠様、家令と致しましては常に人手不足ですから、他に適当な者がおりません」
孔雀がなんとも情けない顔をした。
宮城の管理、外交、内政、軍と神殿と聖堂、国連、他外部団体とアカデミーへの出向、他に家令は裏方仕事で動く事も多いので、どうしたって体が足りないのだ。
「私が勤めるべき神殿への出向期間は仏法僧で可能です。宮城でのお勤めは雉鳩お兄様がおります。まとまって体が空くのが私ですし・・・。あちらも、それぞれ軍のトップと、A国の副官房長官と、Q国の外交統括大臣がいらしているので、ちょうどいいんです」
国境の小競り合いで何度も揉めに揉め、その度に納めてきたが、今回は面子の肩書きがぐっと上がっていた。
軍事弁護士で報道官の金糸雀と、聖堂の司祭の甥であり、自分も司祭長である大嘴。
本来ならばどちらかでも十分役者は足るのだが、紅水晶皇女の輿入れが決まっている現在、孔雀は同時に国交も正常化できれば、有り体に言って終えば、大戦の一応の幕引きの場、利権の分捕り合いの場にQ国を引きずり出して、A国と共に、何をどこまで明らかにしてどこまでを閉ざし、つまりどこまで落とし所を見つけられるのか、という事。
その為の布石はもう何年も前からすでに打っていた。
ならば、自分で回収せねばならない。
「私ではご不満でしょうか?」
「梟か鷂を行かせなさい」
「梟お兄様では、大戦の記憶が生々しくて恨みにも怒りにもなります。きっとまとまりません。鷂お姉様は長年国連で中立の立場ではありますが、私がQ国に肩入れしていたのが鮮明になってしまうんです」
身も蓋もないがこれが事実。
「|両国共に軍のトップと、制服組のトップ、副官房長官と、外交統括大臣」
翡翠がごちた。
確かに、その役者に合わせて押し出しが効くのは、宮宰として皇帝の肝入りと知らしめる事の出来る総家令。
そもそも孔雀は神官長。更に司祭長の地位でもある大嘴もとなったら、確かに箔がつく。
「家令でなくともいいはずなのに」
「家令が出るのが相応しいでしょう」
家令は開戦や休戦、停戦の折には、相手の国へ斥候として訪問する役割もある。
当然、身の保証はないが、家令というのは独立した特殊な組織なので、もし万が一、下手を打った場合、責任は家令の身だけで済むのだ。
こちらの出方次第では無かったことにできる。
これが王族となったら、国際問題にならざるを得ない。
「自信はあるわけだね」
孔雀は頷いた。
出たとこ勝負ではなく、用意はしていた、という顔。
翡翠はわかったと言って立ち上がった。
書類にサインをしてファイルごと孔雀に手渡す。
孔雀はほっとして姉弟子を振り返ったが、ファイルを押し頂き、開いてから驚いて立ち上がった
「翡翠《ひすい》様!」
慌てた声に、金糸雀が何事かと不敬を覚悟で妹弟子の持つファイルを覗き込んだ。
天河の名前が書いてあった。
「金糸雀、この通りに準備をして雉鳩に正式に書類を出させなさい」
さすがに金糸雀もすぐに諾とは言えなかった。
「・・・金糸雀お姉様、ちょっと、待って・・・」
「もう決まったよ。極北総督府長は何も家令でなくてもいい。大戦の折には、王弟が就任しているはずだよね」
確かに、と孔雀は頷いた。
「・・・黒曜《こくよう》帝様の総家令を勤めました白雁お兄様が戦死された後に、緑髄玉王弟殿下がお務めになられておりますが・・・」
その彼もまた戦死したのだ。
それ以降、大戦が泥沼化したのは、白鷹からも梟からも家令達は何度も聞かせられていた。
「いけません。・・・危険な場所です。王族の方がいらっしゃるような場所ではありません」
前線よりさらにさらに先だ。
長年北の前線を守ってきた青鷺でも躊躇する空白地帯に出向かなければならない。
大戦の折に兵士が、王族が、家令が何人も死んだ場所。
琥珀帝と白鷹は前線を駆け抜けたと言われているけれど、それでもその外側で戦っていたのだ。
白鷹や梟より年上の家令達、青鷺や鷂の親に当たる世代の殆どがその内側で死んだ。
その場所を今実際に知っている者は、かつて勝戴と呼ばれた女家令のみ。
その実は今やQ国の母后だ。
凄惨であったと言われるその場所の現在をもう誰も見たことがない。
数十万とも言われる亡骸は打ち捨てられて、風化したのだろう。
だから祭禮に携わる孔雀は訪れるつもりなのだ。
多分、それはあの北の古い遺跡で命を落とした大鷲もそう思っていたのではないだろうかと思う。
「ひどかったのよ、数字を見ればわかるでしょうけれど。今は三割死んだら全滅なんて言われてるけど、昔は本当に文字通り。あの前線に投入された人員の九十%が死んだ。その中に私や梟や大鷲が入っていないのは、上の世代のお兄様やお姉様が私達を守ったから」
かつて白鷹がそう言ったのを聞いた事があった。
「・・・ならば、余計に王族が行くべきだよ。本来は私が行くべきであるれど」
翡翠に微笑まれて、孔雀は首を振った。
「翡翠様、それはいけません。・・・必ずお命を落とすでしょう。どうしてもと仰るなら、私、ここで死にます」
金糸雀が驚いて、ちょっと、と孔雀の袖を引っ張った。
孔雀がそう言うのを、なんとも幸せそうに聞いて翡翠が頷いた。
普段、穏やかで円やかなこの女家令の根底にあるのは、やはり家令。苛烈な激しさだ。
金糸雀は、不安を感じて見守っていた。
孔雀はやはり家令であり、激しさを持っていると知っているつもりであったが、翡翠に対する妹弟子の感情というのは、有り体に言ってしまえば、穏やかといえばいいが、責務感に近い、もっと素っ気ないものだと思っていた。
死なせる気はないので、と翡翠が微笑んだ。
「では、藍晶に行かせるかい」
孔雀は、そう言われて冷静になったのか、首を振って、また座った。
「とんでもないお話です。藍晶様は皇太子様です、そのようなわけにはまいりません・・・」
あの皇太子は花があり陰がない。
宮廷内外、安寧な場所では非常に評価が高いが、前線では別。
日々の中で己や身近な人間の命を危険にさらしている人間の前では、あまりにも存在が異質なのだ。それはどんなに言い繕っても、戦地にいる嗅ぎ取られる。
もし何かが起きたら。
身内に殺されかねない。
「だから孔雀は藍に軍に行けと言っていたのにね」
仕方ない、と翡翠は言った。
元老院の大部分や聖堂派は戦争のきな臭さを嫌う。
それは国民だって同じ。だからこそ、軍の気配の全くない皇太子が受け入られていた。
大嘴に言われるまでもない。どんなに体裁よく取り繕うとも、軍に所属した事のない王に、軍は決して靡かない。
これはまだ孔雀が雛鳥と呼ばれていた頃から真鶴について軍に出向して、悟った事。
そう。大嘴のいう事はいつだって正しいのだ。彼が言ったように、命を賭けて戦う彼らを、リベラルでは救えない。
何より、白鷹に強くそう言い含められて自分たちは育てられてきたのだから。
小競り合いが続く難しい状況下で、大きな衝突も何度もあった。命を落とした者もいる。
それは、いつか軍を顧みない皇太子への不安や不満に変わり、恨みになるかもしれない。
「ではやはり天河。経歴書付けて提出してやりなさい。もうこの世にはいないギルド出の妃の子供で、かつアカデミーで何の利権も絡まないような宇宙の元素だの準惑星の距離だの海の底の沈殿物の測量してる研究職以外さっぱり他の政治活動にも思想団体にも興味も活動の実績も無し。未婚でしがらみもない。軍でも一番危険な海兵隊に四百時間勤務経験あり。海兵隊は先発隊だから、この先常駐になる。適任だよ」
孔雀は金糸雀と顔を見合わせた。
それを見越して、彼は天河を海兵隊に送り込んだのだろうか。
アカデミーから無理に呼び寄せなかったのもそうなのだろうか。
「城の中では、皇帝の怒りを買って総家令に近づくのを禁じられているのは知られてきているし。ついに追ん出されたと思われて丁度いいよ」
なぜなのか、は家令以外には知らされていないが、何か総家令に不躾な言動でもして皇帝の不興をかったのだろうと噂されていた。
そもそも、皇太子の藍晶と違い、天河は、翡翠が自分の子供達の年齢に近い総家令を身近に置いた事を快く思っていないのは知られていたから。
「雉鳩から正式な書類が来たら天河にサインさせるから、孔雀もハンコ押すようにね」
翡翠はそう言うと、もうその件は済んだ、終わった、と言うようにファイルを金糸雀に押し付けた。
翌日の夜、翡翠を四妃の元へと送り出してから、孔雀は、ひっきりなしに甘いものを口に放り込んでいた。
過度のストレスがかかると、かき氷シロップまで飲み始める。
浜育ちでアルコールにも異常に強く、軍隊で度々問題になる薬物にもたいして興味も示さないが、あまりにも幼い頃から家令にさせられての軍隊生活のストレスの弊害か、砂糖依存症の傾向があるというのが黄鶲と鸚鵡の見解だ。
子供は犬と一緒だと思っていたのか、兄弟子や姉弟子達は、孔雀に言うことをきかせたい時にはごほうびや慰みにと、甘いものを口につっこんで来たから。
夜食用の煮込みをオーブンに入れてしまい、色鮮やかな果物の砂糖菓子《パート・ド・フリュイ》を齧りながら孔雀はじっとデスクの上のファイルを見た。
第二太子を北総督府長官代理に任命する旨の書類を何度も眺めて、ファイルを開いたり閉じたりしていた。
この書類に押印すればすぐに天河の急ごしらえの出立準備が始まるはずだ。
金糸雀と大嘴は随員として付ける事が出来た。
けれど。だからそれが何なのだろう。
天河が第二太子である事実は変わらない。
身の危険の不安等、これから冬を迎える北に降る雪よりも多いだろう。
孔雀は左の親指のそれは見事な印章つきの硬翡翠の指輪を右手で包み込んだ。
総家令の任と共に賜ったものだ。
数え切れない程押印して来た。表面には朱肉が染み込んでいるこの指輪に、いつになく重みを感じる。つい数日前までは体の一部だと思うほどに身にも心にも目にも馴染んだものなのに。
これ一つでいくつもの人間の運命や命すら左右してきた。
今、戸惑う事そのものに戸惑っている。
「・・・孔雀姉上」
そう燕に名前を呼ばれて、孔雀ははっとした。
弟弟子に何度か呼ばれていたようだが、気づかなかった。
「・・・あ、ごめん。・・・翡翠様、もうお戻り?・・・あらやだわ。もうない。誰が食べたのかしら・・・」
器にいっぱい盛ってあった砂糖菓子が一つ残らず無いのを本気で不思議に思った。
間違いなく孔雀が不安に苛まれて無意識に次々つまんでいた証拠だが自覚が無い。
たくさんあったと思ったのが勘違いだったのね、と都合よく片付けて、時計を見ると、一時間足らず。気まぐれな翡翠の事、珍しい事ではないが。
「・・・まだ隠元豆と肉の煮込みが出来てないわ。先にスフレでも焼こうか。燕も食べる?」
孔雀が慌ただしく立ち上がってミニキッチンに向かった。
「あの、孔雀《くじゃく》姉上・・・」
燕が頷きながら姉弟子を困惑して見上げた。
その横に忽然と天河が立っていた。
なんだか久しぶりに見た気がする。
孔雀は礼をしてから首を傾げた。
翡翠からの公式の接近禁止命令とは、この場合適用するのか、どうか。
するよな、どう考えても。
孔雀は眉を寄せてからまた礼をした。
天河が燕に声をかけた。
「燕少年」
「はあ・・・」
「見張ってろ。そこの窓から下の回廊の角を雉鳩がちゃらちゃら曲がったのが見えたら知らせるように」
兄弟子は翡翠と共に四妃の宮に向かった。当然、また同伴して戻ってくる。
燕は嫌そうな顔をした。
そもそも天河は王命で孔雀には近付けないはずであって。
バレたらまずは雉鳩に怒られる。あの兄弟子は、案外鉄拳制裁派なのだ。
渋々、燕は一番早く兄弟子が角を曲がってこちらに戻ってくるのがわかる場所に向かった。
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⁂お楽しみ頂けましたら嬉しいです。

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