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64.妃の恋人

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 激務の合間を縫っては、孔雀くじゃく川蝉かわせみの元を訪れていた。
川蝉お兄様、何か召し上がりますか」
「・・・ビールかハイボール」
孔雀くじゃくはため息をついた。
だいぶ顔色が悪いのに。
「・・・スポーツドリンクがいいらしいですよ?」
「嫌だもう、なんだよそのスポーツドリンクって。スポーツなんかやってねえわ」
川蝉かわせみが文句を言ったのに、うるさい、と黄鶲きびたきが一喝した。
「ああもう、バカなんだから!じゃあ、何でも飲めばいいじゃないの。孔雀くじゃく、灯油かガソリン持って来な。ガロンで飲ましてやるから!」

これが夫婦だと言うのだから、家令の結婚はやはり人事じんじなのだろう。
尉鶲じょうびたき孔雀くじゃくの後ろに控えていた。
まだ十歳の彼はこの二人の息子に当たる。
初対面に近かった父親と、普段あまり会う事のない母親の様子を心配そうに見ていた。
これが母親であり父親であると言われても、ピンと来るものはやはり薄いらしく父子の対面も、久々に出稼ぎから帰ってきた年の離れた兄とか親戚に会ったくらいの反応だった。
だからこそ川蝉かわせみ尉鶲じょうびたき軋轢あつれきもなくすんなり馴染んだようで一安心ではあるが。

じょうちゃん。つばめに、軽いエールが欲しいと伝えて。・・・川蝉かわせみお兄様、あとなんですか?」
「・・・嫌だ。うんと濃いハイボールと唐揚げ!」
「・・・じょうちゃん、白鴎はくおうお兄様に唐揚げ揚げて貰って・・・」
尉鶲じょうびたきは、神妙な顔で頷き、家令の礼をしてから退出した。
「・・・ちゃんと厨房行けるかなぁ」
心配そうに言う孔雀くじゃくに、黄鶲きびたき川蝉かわせみはバカ言うなと反論した。
「家令の十歳なんつったらそこそこ丁稚でっちだぞ」
「そうよ。私達も十で城の使い走りくらいはちゃんとしたものよ。その後は軍に行くんだから。今から叩き込んでおかないと使い物にならないわ」
でも、と孔雀くじゃくは兄弟子と姉弟子に反論した。
「前線には出ないとはいえ、十五で軍属というのは、心配です」
「家令は十五で成人だもの。あんたなんて、真鶴まづるに連れられて十二くらいでふねにいたじゃない」
「・・・そりゃそうですけど。今時あんまりだわ」

家令として生きるしかない以上、早く慣れた方がいいという言い分はもっともだと思う。
彼らにはそれが当たり前だ。
だが、そうではない世界からやって来てそれに慣れて。
しかし、それを振り返った時に決して普通ではないのだと思う自分もいるのだ。 
「普通ってのが大多数のことならアンタ、我々は普通でないのは当たり前よ」
「そうだ、いちいち頓着とんちゃくするな。皆違って皆いいんだ」
フリーダムな世代はそう言って妹弟子を呆れたように見た。
世代間格差とかそういうものともまた違う、文化的なギャップを感じて孔雀くじゃくは苦笑した。



孔雀くじゃくがお茶を持って来たとベッドの兄弟子に近づいた。
川蝉かわせみは目を細めて妹弟子を見上げた。
「・・・お部屋暗いですよね。そろそろ灯り付けましょうか」
孔雀くじゃくはスタンドに手を伸ばして灯りをつけ、窓を開けた。
湿気を含んだ柔らかな風。
雨が降る前後の、あの独特の不思議な草や木や大地のミネラルを感じる匂い。
川蝉かわせみお兄様、いい風よ。いい匂い。雨が降る前の匂いはペトリコール、雨が降った後はゲオスミンて言う匂いなんですって。雪の匂いはもっと冷凍庫みたいな匂いがするよね」
変なことを知っている、と川蝉はペンを走らせて紙にその化学式を書いた。
「オゾン臭いっていうか、カビ臭いって言うか。植物の油とか土の中の有機物と微生物の匂いが上がってくるんだな。色気のないこっちゃ。いいか、俺も大分自由な時代に育っちまったけど、そもそも宮廷で香り文化というのはな、もっと雅やかなもんだぞ。後宮に居る人間は香りも凝るだろう。昔は宮廷お抱え調香師もいた程で。アフロディーテもかくやと思うような香りをまとった方がいたもんだ」
まあ、さすが文学部、と孔雀くじゃくが冷やかした。

孔雀くじゃく川蝉かわせみの持っていたペンで新たな化学式を書いた。
「ジャスミンと排泄物スカトールの匂い成分は同じよね」
川蝉かわせみ孔雀くじゃくが笑い合った。
宮城に戻ってから二ヶ月で川蝉《かわせみ》はみるみる衰弱して行った。

元気は元気なのだが、少しずつ違うものになる準備が出来ているという予感をさせる。
例えば卵が幼虫になり、長いこと地中に潜らねば地上に出れないせみように。
じょうちゃん、昨夜から金糸雀カナリアお姉様と鳥達の庭園ガーデンに行ってるの」
「白鷹《はくたか》姉上にきっとしごかれてんな。尉鶲じょうびたき神殿オリュンポス聖堂ヴァルハラのどちらに行くんだ?」
軍事の他に、祭祀を預かるのも家令の役目だ。
「川蝉お兄様も黄鶲お姉様も聖堂ヴァルハラの司祭だもの。じょうちゃんもそのほうがいいと思って」
ふうん、と川蝉《かわせみ》は相槌あいづちを打った。

「司祭職と言えば。翡翠ひすい様と二妃様の結婚式をお取り仕切りになったのは川蝉かわせみお兄様なんでしょ」
「そうそう。大変だったんだ。その半年前のご正室様との結婚式は唐丸とうまる兄上が仕切ったんだけど。二妃様の婚礼も昔の旧聖堂でその段取りしたのに、前日に唐丸とうまる兄上、ギックリ腰になっちまって。まあ、歳だったしな。慌てたふくろう兄上が自分がやると言い出したけど、総家令だから当日宮城を離れるわけにもいかないしな。だから、急遽代理だよ」
孔雀くじゃくは自分も腰痛持ちだから痛さがわかる、とため息をついた。
雉鳩きじばとお兄様も腰痛持ちよ。今年に入ってギックリ二回やってるの」
「そりゃ大変だな。今、まだ四月だろ?」
気の毒そうに川蝉かわせみは言った。
あの取り澄ました美貌の家令がギックリ持ちとは。

本来、この兄弟子が翡翠ひすいの総家令を務めるはずであったのに、と孔雀くじゃくは不思議に思う。
「不思議というか、もはやヘンテコ。私がこうしているなんて」
この兄弟子が亡くなろうとしていて、この自分が翡翠ひすいのそばにいるなんて。

しかし、兄弟子は首を振った。
孔雀くじゃく、何も不思議じゃない。お前がこうしていることも、俺がこうであることも。・・・正直、お前にとっては分からないけど、翡翠ひすい様は、お前を福音と言った。だから、不思議じゃない。どうか、悲しい事が少ないようにと願うよ」

思う事が無いわけがない、今でも後悔ばかり、文句ばかりだ。
だが、今となっては。
進退極まった自分に出来る事など、祈り、願う事だけだもの。
しかし、川蝉かわせみは、いつかのように、妹弟子の頭を撫でた。


ノックの音がして、孔雀くじゃくが立ち上がって振り向き、ちょっと微笑んだ。
自分より幾分年上の女性が、戸惑ったように少し開けた扉から顔を覗かせていた。
「・・・まあ、ごめんなさい。私、ふくろうおじさんに言われて来てみたんだけど・・・」
クリーム色のブラウスと似た系統の濃い色のパンツに、薄いすみれ色のカーディガン姿。女官か、宮廷の関係者の親族だろうか。宮廷でこういう装いの女は珍しい。
あの兄弟子が、またうまいこと言って女性に手を出そうとしているのだろうか、と川蝉かわせみは苦笑した。
彼女は戸惑ったように室内を見渡していた。
「ここでいいはずなんだけど。・・・ねえ、前ってもっと、カーキ色の壁紙ではなかった?」
心配そうに彼女は尋ねた。


「間違いありませんよ。私が、模様替えをしてしまいまして・・・。どうぞお入りくださいませ」
彼女はほっとしたように微笑んで、楽し気にあちこち見て回っている。
「あら、そう。そうなの。・・・これリヨンレースね?鳥の羽根の模様なのね。タッセルもかわいい」
カーテンのタッセル飾りをちょっとつまむ。
「姉弟子と徹夜で作りましたものです」
まあそれは大変じゃないの、家令って何でもさせられるのねえ、と気の毒そうに微笑む。

彼女が動くたびに、ふわりといい香りが鼻腔をかすめる。
柑橘類のような、もっと花弁を感じる香り。
ああ、これが川蝉かわせみの言う宮廷の雅やかな宮廷文化云々、いやいやアフロディーテ云々の事だなあと孔雀くじゃくは思った。

「そう。じゃあ、いいのね。良かった。ごめんなさいね、可愛い家令さん」
少しだけすまなそうに微笑まれて、孔雀くじゃくはいいえ、と首を振って、道を譲った。

「・・・ねえ、早く行きましょうよ?」
彼女は嬉しそうにベッドに近づくと、川蝉かわせみに声をかけた。
何事だろうと言う不思議そうな顔をしている兄弟子に孔雀くじゃくが眉を寄せた。
川蝉かわせみお兄様、木蓮マグノリアの香りよ、これ。・・・せっかく恋人が迎えにきてくださったのに、なんて野暮な反応ですか」

そう言われて川蝉かわせみは驚いて体を起こし、恋人の瞳を見つめた。
とても薄い透明な茶色のような琥珀色のような不思議な虹彩の瞳、はしばみ色というのはこの色か、と思った、あの日の。
彼女は手を差し伸べた。
川蝉かわせみがその手を戸惑いながらも取ると、彼女は得意気に孔雀くじゃくを振り返った。
孔雀くじゃくはその天真爛漫てんしんらんまんな表情に、つい微笑んだ。

「ごきげんよう存じます。川蝉かわせみお兄様、頼むからご迷惑かけないでくださいよ」
「かけないよ!」
川蝉かわせみが余計なこと言うな、かっこ悪いだろ、と妹弟子を苦笑して叱責した。
腕を組んで、二人は何か楽しそうに話しながら部屋を出て行った。
その足取りがとても軽やかで。
二人を見送って、しばらくそうしていたのだろう。
ノックの音がして、孔雀ははっとした。

「失礼します、家令の黄鶲きびたきつばめが参りました。・・・つばめ、テーブルにお茶と果物置いて。このバカ、ほんとにこれ全部食う気かしら。・・・孔雀くじゃく、どうしたのよ、まだ明るいのに電気なんかつけて。・・・翡翠ひすい様が心配してらしたわ。私いるから、行ってきなさい」

孔雀くじゃくが頷きながら姉弟子の方を見た。
異変を感じて、黄鶲きびたきはベッドに近付いた。
川蝉かわせみの呼吸が止まっているのを確認して、目を閉じさせた。
「・・・苦しんだでしょう?」
孔雀くじゃくは小さく頷いた。
「・・・そう。そういう病気だから仕方ないわね。孔雀くじゃく、総家令としての責任は果たしたわ。後は私達でやるから」
孔雀くじゃくはそっと息を吐いた。
「・・・翡翠ひすい様にご報告してくる」
ええ、と黄鶲きびたきは落ち着いた返事を返した。
つばめが二人の姉弟子のやり取りを黙って見ていた。

 孔雀くじゃくが退出すると、部屋に残された黄鶲きびたきが、手早く書類を書いてサインをした。
さて、とまだ少年に近い弟弟子を振り返る。
「飛ぶ鳥、後を濁さずってね。今晩中に火葬場に送らなきゃ」
基本的に家令に個人の墓所はない。しかも火葬もキルンと呼ばれる発電所だ。
それでおしまい。
「こいつでもちょっとは発電するでしょうよ。献血もした事ないやつだけど最後くらいは誰かの為になるといいよ」
つばめは遠慮がちに顔を向けた。
「・・・尉鶲じょうびたきは呼ばなくていいんですか?」
「お前、心得違いだよ。私達は家令。本来兄弟子姉弟子の旅立ちに立ち会えなくて当たり前。その為に総家令がいるのよ?」
あの妹弟子は、おかしなところがあるから、多分川蝉かわせみが今日あたり死ぬと分かっていたのだろう。
だから、尉鶲じょうびたきを昨晩のうちに鳥達の庭園ガーデンに使いに行かせていたのだ。
父親が最後まで苦しんで死ぬ姿を見せたくは無かったのだろう。

母親の感情などあまりない自覚があるが、それは孔雀くじゃくに感謝したいところだ。
「・・・孔雀くじゃく姉上、大丈夫でしょうか」
瑠璃鶲るりびたきの最後を看取った時は、しばらく消沈していたから。
それでも、これから彼女は何人の兄弟姉妹を看取ることになるのかを考えると、辛いものがあるが。

翡翠ひすい様にセラピー犬くらいの役には立って貰わなきゃ。居る意味ないよ」
不敬な事を言ってから、黄鶲きびたきつばめふくろうを呼んで来るようにと伝えた。
あの末の妹弟子にいろいろ押し付けてしまった我々上の世代は、なるべく長生きして、出来れば総家令が間に合わぬほどポックリ逝きたいもんだわと思っていたのに。

「・・・最後まで面倒かけてくれちゃって」
黄鶲きびたきは兄弟子であり夫でもあった川蝉《かわせみ》の亡骸にため息を吹きかけた。

ふと、柑橘のような花弁の香りに包まれた気がして、不思議な気持ちになった。
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