金蘭大夜総会 GoldenOrchidClub

ましら佳

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1.金蘭酒楼

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空港を出ると、三月だというのにまるで梅雨のような強い雨が降ってきた。
慌ててコンビニで買ったビニール傘の持ち手がギザギザして痛い。
どこまでが一つの建物なのか区別のつかない巨大な塊のような街並み、信じられない程の人の波、乱暴な運転の車の列。
今まで雨が降る前の匂いは大好きだったのに。
あの鼻腔から涙腺まで抜けるような少しくすぐったい土と草の匂い。
これから雨が降るよ、と木々が優しく教えてくれるようだった。
なのに。今は排気ガスと埃とよくわからない食べ物と、沢山の人間の匂いに襲われているような気分。
都市の喧騒というものを初めて体で思い知った。
星桜ほし さくらはイガイガする喉の奥に力を込めて、涙をぐっと堪えた。
このままではどんどん不安になってしまいそうで。
携帯は充電がとっくに切れてしまっていた。
通学にも使っているお気に入りの鳥の書いてあるリュックが、今は肩に食い込むほど重い。
母に渡された、近所の工務店から貰ったメモ用紙に書かれた住所だけが頼りだ。
ここに行きなさい。そう言われて、母親の好物の鳩のクッキーが入っていた缶に入った現金とパスポート、そしてメモを渡されて一人送り出された。
地震と、そして多分原子の毒で傷ついた街から。
雨に濡れながら街行く人は、皆、自分と同じような顔をしている。目の色も、髪の色も同じ。
だが、時たま聞こえる誰かが携帯電話で話している声や、流れるヒットチャートらしき歌は間違いなく外国語で、怒っているような、眠いような声。
抑揚のある広東語カントニーズの海。
香港。改めて桜は辺りを見回した。
ビニール傘越しに滲む景色は賑やかで、華やかで、
外国と言えば、去年修学旅行で行った整然として広いカナダの街しか知らない自分には目が回る騒々しさだった。
歩道は人と人とが肩をぶつけ合わないのが不思議なくらいの狭さで、開けっ放しの商店の入り口からは冷房の風が流れ込んでくる。
少し坂を登って、道が開けた。
・・・・この辺のはず。
しかし、疲れと緊張と不安で半分貧血気味の頭では、何か目標物を探すのも難しそうだった。
ふと、乾物屋の店先のブチ模様の猫と目が合った。
商品の剥き出しの魚介類は猫の好物なのだろうが、別に興味もないように素知らぬふりだ。
香港の猫は魚が嫌いなのだろうか。
いや、そんなはずはないから、きっと、いつもお腹一杯にごはんを貰っているのだろう。
実家の猫のウメを思い出し手を伸ばしてちょっとだけ鼻先に触れた。
嫌がる様子もなく、されるがまま。
半野良で、自宅から半径二キロを縄張りとしている顔面に向こう傷のある半飼い猫ウメにはない穏やかさ。
彼女はたまに二、三日留守にし、山鳩やアオダイショウ等の手土産を持ち帰ってくるので、両親も自分も玄関先でその度に悲鳴をあげる。
特に母親の怯えっぷりは酷く、蛇の絵すら怖いと言う。
「ママ!中国人ってなんでも食べるんじゃないの?平気なんじゃないの?」と母に言うと、「そんなのウソです!私はパパが日本人だからだいぶモグリなの」とかわけわからないことを言って誰よりも蛇から遠くに逃げ出す。
あの震災直後からスーパーから食べ物が消えて、電気が復旧した後は、米は炊けたからしばらくおにぎりばっかり食べていた。
ウメは好物のカリカリのフードがなくなったとわかるや、さっさと自活を決めたようで今まで成功したことのない大物の鴨を仕留めてきた。
ほらよ、とばかりに母の自慢のハーブの寄せ植えにまだ温かい鴨を放り投げると、またも母が悲鳴を上げていた。
ウメはあの調子だから、何があっても大丈夫だろうけど・・・。
消防隊員で津波の被害のあった土地に出向が決まり毎日瓦礫がれきの間をを駆けずり回っている父は心配だ。
パパがいるもの、ママもどこかに行くわけにはいかないと母は自分は家から動かないと決めてしまった。
だったら、別に自分にもいわゆる避難する理由がないんだけど、と言うと、母は、何を言ってるの!と怒り出した。
ドラマで見る男を向こうに回して、はきはきとした中国人の女性よりだいぶのんびりした性格の母がこんなに人を説得しようとしているのを初めて見た。
「香港にはママのママがいるの。弟もいる。行って!」
そう言われて渡されたメモ用紙には、見たこともない漢字だらけの住所と英語の筆記体が書かれていた。"金蘭酒楼"。ひときわ大きく書かれた文字のそれが店名らしい。
乾物屋の店の奥から、おじいさんが出てきた。
猫が店主に向かって低く鳴いた。
この田舎者をなんとかしてやれ、と言っているように。
最初は乾物を勧められて戸惑ったが、桜の持っているメモに気付くと、彼はここに行きたいのか、と身振り手振りで尋ねた。
うん、うん、と桜はただ頷いた。
彼は、老人が持つにはだいぶファンシーな可愛いボールペンを取り出して、「日本人?」と書いた。
桜はまた、頷いた。
老人は悲しげに首を振り、桜の肩を叩いた。
震災のニュースを知っているのだろう。
口を開けろ、と自分の口を開けて真似させると、カゴいっぱいにあった飴をひとつ桜の口に突っ込んだ。
甘い。久々に味合う甘い甘いミルク味。
桜は、思わず泣きそうになり、頭を下げた。
おじいさんは、桜の手にいっぱいの同じウサギの絵が書いてある飴を握らせ、ほら、あそこだ、とすぐ先の店を指で示した。
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