10days of the HITMAN

登美丘 丈

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五日目

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 昨日も菓子パン一個しか口にしなかった。いや、できなかった。
 そして俺は今日も路地に佇んでいる。
 毎日、妙な来客に仕事の邪魔をされている。だが、それはそれで、俺に色々なことを考えさせてくれてはいる。思うことも色々ある。ただ、それもその一時だけで、菓子パン一個しか口にできない現実が、俺をヒットマンに変えるのだった。
 それに、本当にそろそろ仕事を成し遂げないと、依頼主が黙っていないだろう。標的より先に俺が殺されるかもしれない。
 もう見飽きた標的の顔がガラスの向こうにある。今日の日替わりはトンカツのようだ。思わず涎が出そうになる。標的は歳のせいか、トンカツを半分以上残した。
 くそっ! もったいないじゃねえか。俺によこせよ、爺さん! 
 ポケットの中身を確認する。三百二十二円。俺の全財産。何度確認しても、増えることはなかった。当たり前だ。
「そろそろ仕事を成功させなければ、残飯漁りをすることになるな……」
 呟く。
 残飯漁りをするようになったら、本当のホームレスだ。まあ、今も、家がないという意味ではホームレスなのだが……。
 しかし、それだけは避けたい。
「よし、もうすぐ四時だ。気合入れて、今日こそ仕事を成功させるぞ!」
 と再び呟いた時だった。俺の視界を誰かが遮った。
「……」
 もう慣れっこだ。俺は今日こそ相手に厳しく接しようと思い、一喝しようとしたが、相手が女性だと知り、気後れした。
 女性は苦手だ。特に同年代の女性は……。
 生まれてこの方、恋なんて園児の頃に先生にして以来一度も経験がない。思い返せば、同級生の女子と会話をした記憶もない。
 目の前の女は、俺に向かって両手を合わせている。
 俺は地蔵じゃねえぞ!
 しかし……それにしても、なんとまあ、不幸な顔立ちをした女だ。顔の造作の綺麗、不細工ではなく、表情が暗い。目が死んでいる。まだ二十代だろうに、世界中の不幸を背負ったかのような、或いは苦労が沁み込んだ老人のような顔をしている。
 俺が女の顔を横目で見ていると、女は、
「すみません」
 と、まるで地獄の底から聞こえてくるような重く暗い声を出した。
 よく見ると、女の顔はもっとひどかった。顔色は、どこか内臓が悪いのではないかと思うような土気色をし、皺だらけだ。特に眉間には深く皺が刻み込まれ、そのまま固まってしまったように見える。その上、目つきが悪い。まるで何も信用していないような、世間の全てが敵だと思っているような目だった。
 俺がじっと女の顔を見ていると、女は俺を睨み付けるようにし、言った。
「私に幸せを下さい」
「……」
 幸せをくれだぁ? 馬鹿野郎、俺の方が欲しいよ。
 俺が固まったように黙っていると、女は一気に言った。
「さあ、早く下さい。幸せになれる方法でも、道具でも何でもいいです、出してください。あるのでしょう? ネットで見ました。あなたは何でも望むものを与えてくれると」
「!」
 地蔵の次はドラえもんかよ! 全くネットってやつは怖いよな。ていうか、そんな話を信じるんじゃねえよ、馬鹿!
「嘘なのですか? あなたも嘘をつくのですか? あなたも一緒だったんですね? あなたもそうやって人を騙して喜んでいる人種なんですね!」
 女がヒステリックに叫ぶ。
「……」
 ああ、今日も標的が逃げていく。
 俺は耳くそをほじくるフリをして耳を塞いだ。俺のそんな態度にキレたのか、女がまた叫び始める。
「聞いているのですか? その態度は明らかに私を変質者扱いしているでしょう? まったく、悪いのは人を騙すそっちの方なのに、何ですか、一体! そもそも……」
「うるせぇんだよ、この野郎!」
 思わず怒鳴っていた。
 女は一瞬怯んだが、その怯んだ顔も鬼のような形相で、俺は空恐ろしくなった。
 女が呼吸を整え、口を開く。
「都合が悪くなれば恫喝ですか。みんな同じですね。いいです、よくわかりました。あなたも同じ穴の狢だったのですね」
 女が俺を一瞥し、背を向ける。
「待てよ、あんた!」
 放っておけばいいものを、思わず声をかけていた。だが、それには理由があった。俺は、女が誰のことを言っているのかわからなかったが、その誰かと同じ穴の狢だとか、一絡げにされるのが我慢ならなかったのだ。俺のちっぽけなプライドが声をかけさせた。
  足を止め、振り返った女に訊く。
「さっきから一体何のことを言ってるんだ? 騙されたとか嘘とか同じ穴の狢とか……」
 女はよくぞ訊いてくれたとばかりに戻ってくるや、一気にまくし立てた。
「私は今、二十五歳なのですが、生まれてから不幸なことばかり身のまわりに起きました。生まれてすぐに両親を事故で亡くし、親戚中をたらい回しにされた後、養護施設へ入れられ、そこでもいじめに遭い、あげくの果てに施設の運営費を盗んだと濡れ衣をかけられ、施設を追われ、ホームレスをしました。まだ子供のホームレスはこの国では珍しいこともあって可愛がられ、他のホームレスからやさしくされ、衣食住に困らない路上生活をしていました。でも、ある日一人のホームレスにいたずらされそうになり、警察へ駆け込みました。警察は私を別の施設へ放り込みました。でも、同じようにいじめられ、居づらくなり、抜け出し、パチンコ屋の住み込みの仕事を得ました。そこで知り合った彼と結婚したのですが、結婚した途端、彼は仕事を辞めてしまい、私が稼いだ金でギャンブル三昧、やがて借金まみれになり、姿を消してしまいました。残された私が借金をかぶることになり、パチンコ店の給料だけでは返せず、夜の仕事に就きました。短時間で稼げると考えて。でも、この器量では客は付いてくれず、結局洋服代や美容院代など吐き出しの方が多くなり、借金は減るどころか、増える一方で、どうにも首が回らなくなった私は、ある連鎖販売の会社に入りました。今なら親会員になれると聞いて。親会員なら何もしなくても、子や孫会員が稼いできてくれ、その上前を手にすることが出来ると言われて。借金返済どころか、幸せな未来が広がっていると思いました。でも、嘘でした。最初に入会金と商品の保証金を払い込むと、その会社は消えてしまいました。会社があった事務所はもぬけの空でした。騙されたんです。傷心の私は次に石を撫でるだけで幸せになれると謳っている宗教団体のセミナーに参加し、「光り石」という、月の石を買いました。藁にも縋る気持ちだったのです。それは本当に光って見えました。すると、その石を世の人に広める役割を与えようと、教祖がおっしゃってくれました。その役目は誰にでも与えられるわけではなく、それまでは教祖の身内しかその役を担っていないと言われ、石を広めることは自分がどんどん幸せになることだと言われ、有頂天になった私は、お布施を払い、売るための石を買い取りました。石は売れませんでした。セミナーへの参加を呼びかけても、誰も来てくれませんでした。皆、石を見て馬鹿にしたように笑うだけでした。それもそのはずでした。私が光っているように見えたその「光り石」は、そのへんの河原に転がっているただの石だったからです。月の石などではありませんでした。夢から覚めた私にも、ただの石に見えました。教団に抗議に行きましたが、もう、そこに教団は存在していませんでした。でも、近くで教祖を見つけました。私は彼をつかまえ、抗議しました。でも、彼はシラを切りました。私が警察へ行こうと言うと、証拠を見せろ、名誉毀損で訴えるぞ、と恫喝してきました。それ以上何も言えませんでした。泣き寝入りです。まだ、あります……」
「もう、いいよ!」
「……」
 女が不満げな顔で俺を睨む。
 ちっ! そんな拗ねたような目をしてるからまっすぐ前が見えねえんだよ。
 まあ、俺も同じようなものかもしれねえが……。
「あんたの自慢話……いや、不幸話っていうのか……いや、別に不幸話じゃねえなぁ。今聞いた話なんて、よくある話じゃねえか。そのへんに転がってるドラマにもならねえ話じゃねえか」
「……」
 女が思わぬことを言われたとでもいうように、ポカッと口を開け、俺を見つめている。
「あんたがそういう人生を送ってきたのはわかったよ。で、あんたは自分を不幸だと思った。それもそれでいいよ。あんたの価値観だ。それなら、あんたが言う幸せって一体何なんだ?」
「……だから……それは……ごく普通でいいんです……普通に生きられれば……人並みに……」
 と、さっきまで不幸話をしていた勢いはどこへ行ったのやら、自信なさげな態度と口調で答える。
「普通? 普通って何だ? あんたが言う普通とは、誰かと比べて、例えば、上や下と比べてその中間位が普通だって言ってるんだろう? 人並みって何だ? 人なんて十人十色なんだよ」
「……」
「まあ、それもいいけどよ。そういうのを中流志向ってのか。よくわからねえけどよ。ただ、幸せなんてものは、他と比べてどうとかっていうもんじゃないんじゃねえか?」
「……」
「どっちにしても、あんたが今のように、拗ねた目で世間を見て、自分が世界で一番不幸だなんて考えているうちは、あんたが言う普通の生活なんて手に入れることなどできないよ。それから今までのように逃げてばかりだったら絶対幸せなんてやってこねえ」
「……逃げる?」
「そうだ。あんた今までずっと逃げてきたじゃねえか。いじめに負け、泥棒の汚名を着せられては逃げ、地道にパチンコ屋で働いていればいいものを、楽をしようと水商売に移り、挫折した。当然だよ、水商売は短時間で稼げる楽な商売だと思い込んで、その楽な方に逃げたんだからな。いや、それでも逃げずに続ければまだよかった。でも、あんたは逃げた。そして今度は幸せになれると謳う連鎖販売や宗教に逃げた。全部逃げてるじゃねえか。そしていかがわしい宗教の教祖を見つけた時もそうだよ。教祖を糾弾し、訴えることのできるせっかくのチャンスをみすみす逃した。それもあんたが逃げたからだろう!」
「……」
 また偉そうに言っちまった。逃げてるのは俺じゃねえか。
 と、女が突然泣き出した。
 おいおい、俺は、女は苦手だけど、女の涙はもっと苦手なんだよ。
 俺はじっと待った。
 やがて女が涙を拭い、口を開く。
「確かにあなたのおっしゃるとおりです。私は逃げてばかりいました」
 女の目から険が消えていた。眉間の皺も消えている。驚いたことに顔色まで良くなっていた。
「逃げてばかりいたら、どんどん落ち込んでいくことにも、今頃になってようやく気づきました。当たり前の人生なんて、逃げていては望めないことも……」
 俺は頷いた。そして、
「まあ、そうだな……そのインチキ教祖に関しては、被害者がいっぱいいるだろうから、協力して訴えるなりなんなりできるだろうが……その他のことはもう振り返らないことだよ。過去は過去だ。終わっちまったことは仕方ねえ。それらを振り返ったり、あんたみたいに不幸話を思い出したり人に話すことも逃げてることになる。嫌な過去は忘れるこった」
「はい」
「忘れる才能が人にはあるんだ」
「はい」
 女は従順に見えた。いや、実際素直になっていた。覇気のある声でそれはわかった。そして上げた顔には笑顔が広がっていた。笑うことで、肌に張りが生まれ、逆に皺が消えていた。
 随分若返ったじゃねえか。
 女が頭を下げ、去っていく。
 幸せか……そう言や、考えたこともなかったな。金があることイコール幸せだと漠然と考えていた。でも、そうじゃないのかもしれねえな。
 ああ、また今日も、随分偉そうなことを言っちまったなあ……全部、自分自身に対する説教じゃねえか……まあ、でも、俺のようなどうしようもない奴だからこそ、自分のことを棚に上げて、人に説教たれることができるのかもしれねえな。
 何せ、俺自身が反面教師だからな……。
 ああ、腹減った。
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