その答えは恋文で

百川凛

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5通目:勉強と条件

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「問三はこっちの公式で合ってる?」
「うん。合ってるよ」

 さっきまで何人かの生徒が残っていたこの教室には現在、私達の他には誰もいない。下校時刻が迫ってきているからだろう。室内には私がプリントに数字を書き込む音と、彰くんが参考書を捲るわずかな音しか聞こえない。

「……ねぇ、彰くん」

 私の声に反応して参考書を捲る手がぴたりと止んだ。彼はすぐに「どこかわからない所でもあった?」とプリントを覗きこむ。が、残念ながら呼んだ理由は勉強ではない。私は彼に気になっていた疑問を投げ掛けた。

「彰くんはなんでうちの学校に来たの?」
「……突然だね」

 不意打ちを食らったのか一瞬驚いた顔をしてこちらを見やる。私は追い討ちをかけるように続けた。

「有名進学校の推薦断って来たって聞いたよ」
「……その話誰から聞いたの?」
「……風の噂で」

 う~ん、我ながらひどい言い訳だ。

「へぇ。珍しいね、栞里が他人に興味持つなんて」

 別に平岡彰について興味を持ったわけではない。ただ、何故うちの学校に来たのか、それだけが気になっただけだ。……うん。私が心の中で言い訳めいた事を並べていると、彰くんは顎に手を当て、少し考えてから口を開いた。

「大した理由はないよ。でもそうだな……あえて言うなら自分のため、かな」
「自分のため?」
「そう。完全なる自己満足っていうか、己の欲望に忠実に動いたっていうかなんていうか」

 自己満足の為にわざわざ推薦を蹴ってまでうちの学校に来た、とはどういうことだろうか。この学校にそこまでの価値なんて微塵もないと思うんだけど。謎が深まる。

「まぁ、これ以上はちょっと言えないな」
「……彰くんって秘密ばっかりだね」

 ほんの少しだけ嫌味を含ませながら言うと、彰くんは苦笑いを浮かべる。この秘密主義者め。

「ご両親には反対されなかったの?」
「うん、特には。親はさ、自分が決めた道なら後悔しないように進めって言ってくれたんだ。でもその代わり学校側がうるさくてさ。最後の最後まで考え直せってしつこく説得されたよ」

 当時を思い出しているのか、困ったように自分の後頭部を掻いた。

「下校時刻になるしそろそろ帰ろうか。送って行くよ」
「あ、うん」

 いまいちスッキリしないが、気になっていた事が少しでも知れたので良しとしよう。誰にだって言いたくないことの一つや二つあるものだ。そこに土足で踏み込んでいくほど私は非常識な人間ではない。

 急いで荷物をまとめる。机の位置を直して戸締まりを確認し、最後に電気を消して教室を出た。

 外は雨こそ降っていないが、全体的に雲に覆われていて薄暗い。夏服に衣替えして少しだけ身軽になった体に、梅雨時期特有のじめじめとした空気がまとわりつく。きっと、期末試験が終わる頃には梅雨も明け、空気も気持ちもカラッと乾いているのだろう。その日が実に待ち遠しい。

「彰くん、勉強教えてくれてありがとう」
「別に気にしなくていいよ。それより大丈夫そう?」
「うーん……たぶん大丈夫だとは思うんだけど」

 今日は金曜日だ。

 土日を挟んで、月曜日からは地獄の期末試験が始まる。私の場合、数字さえ乗りきればあとは心配ないだろう。

「本当にごめんね、迷惑かけて」
「大丈夫。迷惑なんて思ってないから。むしろ栞里に頼られてる感じがして嬉しかったし?」

 彰くんは笑って言った。

「……でも」

 彼は自分の勉強時間を削ってまで私に数学を教えてくれたり、わざわざ手書きの問題を作ってくれたり、色々とサポートしてくれた。赤点を回避出来たら何かお礼をしなくちゃいけないな。

「彰くん、私が目標達成したら何かお礼するね」

 ああ、でも七十点以上が目標点数だったっけ。大丈夫だろうか。

「ははっ。いいのに」
「それじゃ私の気が済まないから。何が良いか考えてて」
「へぇ。……じゃあさ」

 少しだけ間を空けて彰くんは話し出す。

「栞里が数学で七割以上取れたら、俺のお願い一個だけ聞いてくれない?」

 ……彰くんのお願い?

 それは一体どんなものだろう。はっきり言って想像もつかない。彼の性格上人の嫌がる事はしないはずなので、そんなに心配する必要はないと思うけど……不安だ。

「まぁ……私に出来る範囲の事だったら」
「うん、それは大丈夫。保証する」

 唇の端をつり上げて笑う彰くんは、私に軽くプレッシャーを与えているようだった。これ、七割取れなかったら後が怖そうだな。じとりと冷たい汗が滲む。

「はい。じゃあ約束」
「え?」
「あれ? 約束って言ったらこれやんない?」

 差し出された右手の小指に戸惑いながらも、私も自分の小指をそっと絡めた。

「はい、ゆーびきーりげんまんうっそついたら」

 いつになくノリノリで歌い出す彰くん。指切りなんていつ振りだろう。小学生以来じゃないだろうか。初めて感じた彰くんの温もりに、血液が一気に体中を駆け巡る。どうやら心臓のポンプが張り切って仕事をしているようだ。

 私の手が、体が、顔が、熱い。

 ゆっくりと離れていくその温かさを名残惜しく思ってしまったのは、雰囲気に呑まれたせいだ。今は恥ずかしくてとてもじゃないけど彰くんの方に顔を向けられない。きっと彼は余裕の表情を浮かべながら私をからかうように見ているのだろう。

「なんか顔赤いけど、もしかして恥ずかしかった?」

 ……ほらね。こうやっていつも私ばかりが動揺させられる。

 ああ、今夜は勉強がちゃんと手につくだろうか。心配でたまらない。
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