ヴィーナスは微笑む

蒼井 結花理

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三章

第71話 残された熱

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ガチャン!!


今日数回ほど聞いてきた音が、厨房に響き渡る。


バイトの休憩中、舞はハンバーグを食べようとフォークに突き刺した手をぴたりと止めた。



今日の拓海はどこかぼーっとしていることが多かった。


ミスはするし、皿も何度か割った。


拓海にしては珍しいことだったけど、拓海はいつものようにへらっと笑って"大丈夫"と言っていたから特に気にしてはいなかった。


もうまたですかぁ、と経口を開こうとした口が止まる。



「拓海さん?!」


見ると床には粉々になった皿の破片が散らばっていて、拓海がうずくまっていた。


舞はフォークを置くと、拓海の元に駆け寄る。


音を聞いてびっくりしたのか、絵理も飛んできた。


拓海の額には大量の汗が浮かんでいて苦しそうだ。



「拓海くん大丈夫?!」


絵理が拓海の額に手を当てると、険しい表情になる。


「熱があるわね。今日は、帰って休んだほうがいいわ。お店も今日は暇だし。悪いけど、舞ちゃん送ってあげてくれる?たしか舞ちゃんは車の免許を持ってたわよね?私の車使っていいから。」


「はい。」


舞が頷くと、絵理は"車の鍵を取ってくるわ"と言って出ていった。


「拓海さん、大丈夫ですか?」


拓海はこちらを向いて大丈夫、と答えた。


顔が紅潮していて、目は虚ろだった。




「ごめんね、ナナちゃん。」


帰りの車の中。


弱々しく蚊の鳴くような声で拓海がぽつりと言った。


「大丈夫ですよ~でもほんとびっくりしました。まさか、倒れちゃうなんて…」


「…倒れたなんて大袈裟だよ。」


「いーえ、大袈裟ではありません。家に帰ったらしっかり休んでください」


「はぁ~い…」


しゅん、と子供のように唇を突き出す拓海。


いつもはお兄ちゃんって感じなのに、こういう時はなんだか子供っぽくなるんだな。


なんだか子犬みたいで可愛らしく見えてしまい、くすりと笑みが零れる。



「にしてもあれだな……何とかは風邪ひかないって言うけど、嘘だったんだな。」


「もぉ。そこまでふざける元気があるなら大丈夫ですね。」


へらぁ、っと笑って言う拓海にこちらもふざけて返す。



10分程車で走らせると、拓海の家に着いた。


車を開けて、肩を貸してあげる。


「ほんとにごめんね、ナナちゃん…」


「だから謝らないでください!ちゃんと安静にして休むんですよ。だいたい拓海さん頑張りすぎじゃないですか。今日はしっかり水分も取って、栄養取って、それから…」


そこまで言うと、拓海はお腹を抱えてケラケラ笑った。


「な、なんで笑うんですか?」


「い、いやごめん。なんだかナナちゃんお母さんみたいなこと言うなって思って…」


よほどおかしかったのか、拓海は涙が出た目尻を手の甲で拭う。


舞はぷぅっと頬を膨らませた。


「だって、今日はほんとにびっくりしたんです。」


少し怒ったように言うと、拓海はきゅっと笑顔を引っ込めて真剣な顔になった。


「分かってるよ。…ありがとう。」


少し低くなったボイスに思わずドキリとする。


ふと、真桜に言われたことが頭によぎった。



『お兄ちゃんは舞さんのことが好きだと思います』



「わ、私…そろそろバイト戻りますね。」


動揺している顔を拓海に見られたくなくて踵を返そうとした、その時。


「きゃ!」


腕を引かれ、舞はバランスを崩す。


反動で、そのまま拓海の胸にぶつかってしまった。


「拓海さん?何す……」


次の瞬間、背中に回された拓海のがっちりとした腕に力が入る。


……え?



時間にするとどのくらいだったのだろうか。


短いようにも、長いようにも思えた。


そのぬくもりが、ゆっくりと名残惜しそうに離れていく。




「……っごめん。」


それだけ言うと、拓海はそのまま家の中へと入っていった。


しばらくの間、舞はその場に呆然と立ち尽くしていた。


まだ彼の熱が残っているような、そんな感覚だった。
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