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第一章
父と息子
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カイリは扉の横で壁にもたれながら待ち続ける柊に会釈をすると、扉の隙間から明かりが漏れる清流の部屋へと向かった。
「師匠、遅くにすみません……手合わせを願いたいのですが、よろしいでしょうか」
――静かな林の中に張られた結界。
その中でカイリと清流が術をかけ合い、黒狐と白狼が牙を向け合う。しばらく続いていた光とぶつかり合う音がピタリと止んだ。
ハァ、ハァ……。
落ち着いた清流とは反対に、激しく乱れるカイリの呼吸。それは両者の間にある力の差を表しているようだった。
(強い……)
「黒狐、戻れ……これが全霊、一流祓除師の強さなのですね……」
両手を膝に乗せ前屈みになっていた姿勢を元に戻すと、カイリは頭を下げた。
「参りました」
「白狼、おいで。カイリ、君はいずれ一流になるでしょう」
「ほ、本当ですか!?」
食い気味に答えたカイリに清流は笑顔を見せ、「ええ。少し休みましょう」と木のそばへ誘った。清流がもたれかかった木の根元に、膝を抱えて座り込んだカイリがポツリと呟いた。
「私の父も、師匠と同じ一流の祓除師でした」
「そうでしたか」
地面を見つめていたカイリの瞳が、ゆっくりと閉じられていく。幼い頃の思い出が、瞼の裏に浮かんだ――。
◇◇◇
「父上ー! おかえりなさい! 母上も早く来てください!」
トットットットッと軽い足音が、屋敷の奥から聞こえてくる。帰宅したばかりの父の姿に、喜びが最大限まで膨れ上がった幼いカイリはそのまま突進して飛びついた。短い腕を思いっきり伸ばして力一杯抱きつく。
後ろからゆっくりと歩いてきた母は、その様子を微笑ましく見守っていた。
「カイリ、まだ起きていたのか。早く寝る約束はどうなったんだ?」
「ごめんなさい……父上にどうしても会いたくて。僕、父上が大好きだから……」
叱られたカイリは父から少し離れると、しゅんと大人しくなり肩をすぼめる。
涙をためて小さな声で謝る息子が可愛くて、ついつい目尻が下がってしまう。屈んで優しく抱きしめる姿は、当主といえども普通の父親と少しも変わらないようだ。小さなおでこに人差し指をトンっとつけて「悪い子だ」と微笑めば、カイリはもう一度とびきりの笑顔を見せた。
「父上聞いてください! 僕ね、今日初めて青火の封印に成功しました!」
「本当か!? すごいじゃないか!」
大きな手でカイリの頭をなでた父は、封印済みの札を何枚か取り出して可愛い瞳を釘づけにさせた。
「この札に妖が封印してある。今日封印に成功したのなら、明日この札の妖を放って父と一緒に修行するのはどうだ?」
カイリの顔が、先ほどの自慢げな表情から一変して青ざめる。父にしがみつくと、小さな頭を全力で左右に振った。
「青火以外はまだ無理です」
「怖がることはない。お前の父は結構強いんだ、私がいる限りお前は何も心配しなくていい。さあ、寝室へ行こう。今回の妖退治のお話を聞かせてあげるから、もう寝るんだ」
軽々と抱き上げられたカイリは、ガッチリした肩の上に乗せられて体を揺らしながらはしゃぐ。
心は幸福感で満たされていた――。
それから時が経ち、カイリが成長するにつれて周りの目や態度も厳しさを増していった。
カイリが次期当主に相応しいかを、好き勝手に評価する大人たち。まだまだ子どものカイリにとっては、品定めされているこの環境がとてつもなく息苦しかった。
そして、十三歳のある日の出来事が、父と息子の間に大きな溝を作ることとなる……。
その日は、朝からカイリの先生の機嫌が悪く、何をしてもネチネチと嫌味を言われ、くどいほどの説教が続けられていた。その夜の祓除の修行中――。
「先生、封印できました」
カイリの言葉を聞くや否や、先生の顔がひどく歪む。この表情に、わずかに残っていたカイリのやる気が削がれた。
「遅い!! どれだけ時間をかけてるんだ!! 父君は、お前の歳の頃にはもっと強い妖を簡単に退治していた! 使い魔はまだ成長しきらないのか? やる気がないのか? それともお前の実力はこの程度ということか?」
先生は封印できたことはいっさい褒めず、一度けなしたくらいでは気が済まないのか、休むことなく罵声を浴びせ続ける。
もちろんカイリの封印が特別遅いわけではない。むしろ、この歳の者が一人で封印までできるのは、すごいことだ。この先生でなければ、きっと褒めてくれただろう。
「まったく……お前のせいで三堂がなんと言われているのか知っているか!? 三堂は終わったと……挙句の果てには、私の教え方が悪いと皆嘲笑っているのだ! そんなことでお前は父君を超える術師になれると思っているのか?」
(なんだ……機嫌が悪いのは自分がけなされたからか)
カイリが先生と呼ぶこの人物は、若き日の父の先生でもある。今は老齢であるが、昔は優秀な術師だった。しかし、内面は成熟しておらず、とても神経質で気位が高い。突きつける暴力的な言葉は度を超えていた。
また、カイリの父に心酔しすぎるあまり、事あるごとに二人を比べてカイリをなじった。
『父君はできたのに、どうしてお前は!!』
何度も繰り返される言葉。
先生はカイリが一人の時を狙って虐め続けた。
なぜこんなにも嫌われるのか……。
我慢し続ける日々は苦痛でしかなく、カイリの中で彼に対する嫌悪感だけが募っていく。
きっと、その日は我慢の限界だったのだろう。止まらない罵声に耐えかねたカイリは、母に助けを求めるように訓練場から逃げ出した。そして、母の部屋に入ろうと戸に手をかけた時、いつもと違う父と母の声色に思わず息を潜めた。
「――何をおっしゃるのですか!? 私は絶対に反対です!!」
「カイリはここにいてはダメだ」
「あなた正気ですか!? あの子は今とても不安定な年頃ですよ。どうして他人に任せるのですか!? そばにいてあげるべきです!」
「いや、私なりに考え抜いての結論だ。カイリは外に出て、ここから離れた方がいい」
普段穏やかな母からは想像できない、怒りをあらわにした激しい口調。
ーー聞いてはいけないことを聞いてしまった。
(父上が私を追い出そうとしている。私が優秀じゃないから……)
気づかれないように、ゆっくりと後退る。そして一気に駆け出すと三堂の外へ飛び出た。
あてもなく走り続ける。
呼吸が乱れて……苦しい。
溢れる涙で目の前のすべてが滲み歪む。人が見ていようが関係ない、カイリは涙と鼻水でぐちゃぐちゃのまま泣いた。
胸が、心臓が、心が……痛いと叫ぶ。そうだ、ごまかし続けてきたが、もうずっと前から痛かった。先生に虐められること。周りの大人たちに晒し者のように好き勝手に言われること。どれも全部痛かった!!
しかし、そんなことと比較にならないほど、父から見捨てられたことが一番つらくて痛くて……
悲しい。
苦しい思いをするのは何のため?
――父を喜ばせたいから?
今歩んでいるのは誰のための人生?
――三堂を存続させるための……人生?
誰のために命をかけて戦うの?
――自分を助けてくれない人のため?
何を聞かれても、カイリにはハッキリと断言できる答えが見つけられない。十三歳の脆くて不安定な心が、もうこれ以上は我慢の限界だと悲鳴を上げた。
痛み、苦しみ、憎しみの矛先を探す。そうでもしなければ心の均衡が壊れてしまう。そして注ぎ込む場所を見つけた。
すべての怒りは――父に。
その日からカイリの態度が明らかに変わり、素直な心はどこかに消えた。どんなに苦しくても欠かさず続けてきた修行をさぼり、父に反抗し、母の前でも笑わなくなった。
カイリを外弟子に出すという話は立ち消え、三堂を追い出されることはなくなったが、カイリはむしろ追い出してほしかった。その後も父と息子の関係は壊れ続け、大蛇が父の命を奪ったあの日が訪れる――。
カイリはあんなにも強く、誰からも一流の祓除師と讃えられた父が、地面に倒れ死にゆく姿を見ていた。
生臭い……。
深い森の中。無風のこの場所には、濃い血の匂いがたまり全身を包み込む。退治に参加したすべての術師、そして大蛇までもがグッタリと横たわり、カイリの父も例外ではなかった。
カイリ自身、深傷を負って倒れたまま動くことができずにいると、顔も動かせない父の目が、必死に何かを探していることに気がついた。その目はしばらくあちこちを見回していたが、カイリの姿を捉えるとピタリと止まった。
父の目から一筋の涙が流れ落ちる。
安堵の表情を見せると、わずかに口元が動いた。
「良かっ……た……」
一瞬止まった時が流れ出すと、溢れかえる水のようにカイリの目から涙がこぼれ落ちる。父に見捨てられたあの時のように視界が滲み歪んでいく。
「ちち……う……え……」
もう一度、父の手を掴みたい。
手を伸ばして這いつくばってみても、力の入らない指先が掴むのは手元の土だけ。
情けなく地面に横たわり、父の命が尽きていくのをただ眺めることしかできない非力な自分が悔しい……お願いだから……
「死な……ないでよ……」
顔を歪ませ絞り出した掠れ声、カイリの願い、伸ばした手は、父に届くことなく消えていく。頭が朦朧としてそのまま意識を失いそうになった時、あの言葉が聞こえた――。
「おのれ……お前の一番大切な者に取り憑いて殺す……」
それは大蛇と最後まで戦った父に向けられたもの。カイリは最後の力を振り絞って黒狐を呼び出したあと、意識を失った。
◇◇◇
「――カイリ……カイリ? 大丈夫ですか?」
何度も名前を呼ばれ、カイリはハッと目を開けた。屈み込んだ清流が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「気がつきましたか?」
どれくらい時間が過ぎていたのだろう。小花の昔話は、カイリに大切な人……父のことを思い出させたようだ。清流の呼びかけに、カイリは慌てて返事をした。
「す、すみません。父のことを思い出していました」
「カイリにとって、父君はどんな方でしたか?」
「……強くて、優しくて、勇敢で、尊敬できる人です。とても誇らしくて、私の自慢です」
清流は表情を和らげ頷いた。
「でも、私は父のようにはなれなくて、重圧に負けて逃げ出しました。使い魔の成長も同じ頃に止まってしまい、まじめに修行しない私が歯痒かったのでしょうね。何度も父を怒らせました……。あの頃はあんなに厳しく険しい顔をしていたのに、今父を思い出してみると幼い頃に見た優しい笑顔しか浮かんでこないのです……おかしいですよね」
カイリの目からポロポロっと涙がこぼれ落ちる。
「もし、あの時逃げ出さずに修行を続けていたら、父は死なずに済んだかもしれません。死傷者だって減らせたかもしれない。母が妖に取り憑かれることもなかったでしょう」
こんなに早く別れが訪れると知っていたら……こんな未来が待っていると知っていたのなら、必ず違う選択をした。命は一つしかないのに、なぜ失ってから気づくのだろう。
「私が、悪いのです。私が……間違えたのです」
父の死、両親への思い、後悔、自身が背負う重圧、未来への不安――。
長い間、胸の中にため込んできた思いは、十七歳の少年が抱えるにはあまりにも重くつらいものだった。
黙って話を聞いていた清流は、カイリと向かい合うと閉ざしていた口を開いた。
「カイリ、間違いは誰にでもあります。いついかなる時も正しい道を選べる人がいるでしょうか。私も自分の選択に対して不安になることがあります」
清流ほどの人でも何か不安なことがあるのか。カイリは伏せていた顔を上げて彼を見る。
「それに、逃げることはダメなことですか? すべての困難に立ち向かう勇気のある人は、そうはいません」
「師匠にも怖いものが?」
「もちろんありますよ」
清流の笑みにかすかな憂色が見て取れる。
「君が戦った大蛇ですが、妖の中でも特に珍しい上級の妖。簡単に勝てる相手ではありません。決して君のせいではない……もう自分を責めるのはやめましょう。その後悔はすでに胸に刻み込まれているはずです」
清流はカイリが自分を責める理由を一つ一つ打ち消していく。自分自身を許せという思ってもみなかった彼の答えに、カイリは少し驚いた。
清流の眼差しが、より一層柔らかくカイリを包み込む。
「今までつらかったですね。これからは私が君のそばにいます。共に前を向いて進みましょう」
――許されてもいいのだろうか。
穏やかな声と寄り添う言葉が、カイリの心を解きほぐしていく。目の前の清流から感じるのは、父と同じ安心感。
感謝を伝えたくとも、口を開ければ小さな子どものように声を上げて泣いてしまいそうで、カイリは、
「はい……」
そう一言口に出すのがやっとだった。
清流は声を押し殺して泣き続けるカイリの肩を優しくトン……トンと触れ、「大丈夫ですよ」と声をかけてくれる。
カイリにとって、清流に会えたことが何よりも幸いだった。
「師匠、遅くにすみません……手合わせを願いたいのですが、よろしいでしょうか」
――静かな林の中に張られた結界。
その中でカイリと清流が術をかけ合い、黒狐と白狼が牙を向け合う。しばらく続いていた光とぶつかり合う音がピタリと止んだ。
ハァ、ハァ……。
落ち着いた清流とは反対に、激しく乱れるカイリの呼吸。それは両者の間にある力の差を表しているようだった。
(強い……)
「黒狐、戻れ……これが全霊、一流祓除師の強さなのですね……」
両手を膝に乗せ前屈みになっていた姿勢を元に戻すと、カイリは頭を下げた。
「参りました」
「白狼、おいで。カイリ、君はいずれ一流になるでしょう」
「ほ、本当ですか!?」
食い気味に答えたカイリに清流は笑顔を見せ、「ええ。少し休みましょう」と木のそばへ誘った。清流がもたれかかった木の根元に、膝を抱えて座り込んだカイリがポツリと呟いた。
「私の父も、師匠と同じ一流の祓除師でした」
「そうでしたか」
地面を見つめていたカイリの瞳が、ゆっくりと閉じられていく。幼い頃の思い出が、瞼の裏に浮かんだ――。
◇◇◇
「父上ー! おかえりなさい! 母上も早く来てください!」
トットットットッと軽い足音が、屋敷の奥から聞こえてくる。帰宅したばかりの父の姿に、喜びが最大限まで膨れ上がった幼いカイリはそのまま突進して飛びついた。短い腕を思いっきり伸ばして力一杯抱きつく。
後ろからゆっくりと歩いてきた母は、その様子を微笑ましく見守っていた。
「カイリ、まだ起きていたのか。早く寝る約束はどうなったんだ?」
「ごめんなさい……父上にどうしても会いたくて。僕、父上が大好きだから……」
叱られたカイリは父から少し離れると、しゅんと大人しくなり肩をすぼめる。
涙をためて小さな声で謝る息子が可愛くて、ついつい目尻が下がってしまう。屈んで優しく抱きしめる姿は、当主といえども普通の父親と少しも変わらないようだ。小さなおでこに人差し指をトンっとつけて「悪い子だ」と微笑めば、カイリはもう一度とびきりの笑顔を見せた。
「父上聞いてください! 僕ね、今日初めて青火の封印に成功しました!」
「本当か!? すごいじゃないか!」
大きな手でカイリの頭をなでた父は、封印済みの札を何枚か取り出して可愛い瞳を釘づけにさせた。
「この札に妖が封印してある。今日封印に成功したのなら、明日この札の妖を放って父と一緒に修行するのはどうだ?」
カイリの顔が、先ほどの自慢げな表情から一変して青ざめる。父にしがみつくと、小さな頭を全力で左右に振った。
「青火以外はまだ無理です」
「怖がることはない。お前の父は結構強いんだ、私がいる限りお前は何も心配しなくていい。さあ、寝室へ行こう。今回の妖退治のお話を聞かせてあげるから、もう寝るんだ」
軽々と抱き上げられたカイリは、ガッチリした肩の上に乗せられて体を揺らしながらはしゃぐ。
心は幸福感で満たされていた――。
それから時が経ち、カイリが成長するにつれて周りの目や態度も厳しさを増していった。
カイリが次期当主に相応しいかを、好き勝手に評価する大人たち。まだまだ子どものカイリにとっては、品定めされているこの環境がとてつもなく息苦しかった。
そして、十三歳のある日の出来事が、父と息子の間に大きな溝を作ることとなる……。
その日は、朝からカイリの先生の機嫌が悪く、何をしてもネチネチと嫌味を言われ、くどいほどの説教が続けられていた。その夜の祓除の修行中――。
「先生、封印できました」
カイリの言葉を聞くや否や、先生の顔がひどく歪む。この表情に、わずかに残っていたカイリのやる気が削がれた。
「遅い!! どれだけ時間をかけてるんだ!! 父君は、お前の歳の頃にはもっと強い妖を簡単に退治していた! 使い魔はまだ成長しきらないのか? やる気がないのか? それともお前の実力はこの程度ということか?」
先生は封印できたことはいっさい褒めず、一度けなしたくらいでは気が済まないのか、休むことなく罵声を浴びせ続ける。
もちろんカイリの封印が特別遅いわけではない。むしろ、この歳の者が一人で封印までできるのは、すごいことだ。この先生でなければ、きっと褒めてくれただろう。
「まったく……お前のせいで三堂がなんと言われているのか知っているか!? 三堂は終わったと……挙句の果てには、私の教え方が悪いと皆嘲笑っているのだ! そんなことでお前は父君を超える術師になれると思っているのか?」
(なんだ……機嫌が悪いのは自分がけなされたからか)
カイリが先生と呼ぶこの人物は、若き日の父の先生でもある。今は老齢であるが、昔は優秀な術師だった。しかし、内面は成熟しておらず、とても神経質で気位が高い。突きつける暴力的な言葉は度を超えていた。
また、カイリの父に心酔しすぎるあまり、事あるごとに二人を比べてカイリをなじった。
『父君はできたのに、どうしてお前は!!』
何度も繰り返される言葉。
先生はカイリが一人の時を狙って虐め続けた。
なぜこんなにも嫌われるのか……。
我慢し続ける日々は苦痛でしかなく、カイリの中で彼に対する嫌悪感だけが募っていく。
きっと、その日は我慢の限界だったのだろう。止まらない罵声に耐えかねたカイリは、母に助けを求めるように訓練場から逃げ出した。そして、母の部屋に入ろうと戸に手をかけた時、いつもと違う父と母の声色に思わず息を潜めた。
「――何をおっしゃるのですか!? 私は絶対に反対です!!」
「カイリはここにいてはダメだ」
「あなた正気ですか!? あの子は今とても不安定な年頃ですよ。どうして他人に任せるのですか!? そばにいてあげるべきです!」
「いや、私なりに考え抜いての結論だ。カイリは外に出て、ここから離れた方がいい」
普段穏やかな母からは想像できない、怒りをあらわにした激しい口調。
ーー聞いてはいけないことを聞いてしまった。
(父上が私を追い出そうとしている。私が優秀じゃないから……)
気づかれないように、ゆっくりと後退る。そして一気に駆け出すと三堂の外へ飛び出た。
あてもなく走り続ける。
呼吸が乱れて……苦しい。
溢れる涙で目の前のすべてが滲み歪む。人が見ていようが関係ない、カイリは涙と鼻水でぐちゃぐちゃのまま泣いた。
胸が、心臓が、心が……痛いと叫ぶ。そうだ、ごまかし続けてきたが、もうずっと前から痛かった。先生に虐められること。周りの大人たちに晒し者のように好き勝手に言われること。どれも全部痛かった!!
しかし、そんなことと比較にならないほど、父から見捨てられたことが一番つらくて痛くて……
悲しい。
苦しい思いをするのは何のため?
――父を喜ばせたいから?
今歩んでいるのは誰のための人生?
――三堂を存続させるための……人生?
誰のために命をかけて戦うの?
――自分を助けてくれない人のため?
何を聞かれても、カイリにはハッキリと断言できる答えが見つけられない。十三歳の脆くて不安定な心が、もうこれ以上は我慢の限界だと悲鳴を上げた。
痛み、苦しみ、憎しみの矛先を探す。そうでもしなければ心の均衡が壊れてしまう。そして注ぎ込む場所を見つけた。
すべての怒りは――父に。
その日からカイリの態度が明らかに変わり、素直な心はどこかに消えた。どんなに苦しくても欠かさず続けてきた修行をさぼり、父に反抗し、母の前でも笑わなくなった。
カイリを外弟子に出すという話は立ち消え、三堂を追い出されることはなくなったが、カイリはむしろ追い出してほしかった。その後も父と息子の関係は壊れ続け、大蛇が父の命を奪ったあの日が訪れる――。
カイリはあんなにも強く、誰からも一流の祓除師と讃えられた父が、地面に倒れ死にゆく姿を見ていた。
生臭い……。
深い森の中。無風のこの場所には、濃い血の匂いがたまり全身を包み込む。退治に参加したすべての術師、そして大蛇までもがグッタリと横たわり、カイリの父も例外ではなかった。
カイリ自身、深傷を負って倒れたまま動くことができずにいると、顔も動かせない父の目が、必死に何かを探していることに気がついた。その目はしばらくあちこちを見回していたが、カイリの姿を捉えるとピタリと止まった。
父の目から一筋の涙が流れ落ちる。
安堵の表情を見せると、わずかに口元が動いた。
「良かっ……た……」
一瞬止まった時が流れ出すと、溢れかえる水のようにカイリの目から涙がこぼれ落ちる。父に見捨てられたあの時のように視界が滲み歪んでいく。
「ちち……う……え……」
もう一度、父の手を掴みたい。
手を伸ばして這いつくばってみても、力の入らない指先が掴むのは手元の土だけ。
情けなく地面に横たわり、父の命が尽きていくのをただ眺めることしかできない非力な自分が悔しい……お願いだから……
「死な……ないでよ……」
顔を歪ませ絞り出した掠れ声、カイリの願い、伸ばした手は、父に届くことなく消えていく。頭が朦朧としてそのまま意識を失いそうになった時、あの言葉が聞こえた――。
「おのれ……お前の一番大切な者に取り憑いて殺す……」
それは大蛇と最後まで戦った父に向けられたもの。カイリは最後の力を振り絞って黒狐を呼び出したあと、意識を失った。
◇◇◇
「――カイリ……カイリ? 大丈夫ですか?」
何度も名前を呼ばれ、カイリはハッと目を開けた。屈み込んだ清流が、心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「気がつきましたか?」
どれくらい時間が過ぎていたのだろう。小花の昔話は、カイリに大切な人……父のことを思い出させたようだ。清流の呼びかけに、カイリは慌てて返事をした。
「す、すみません。父のことを思い出していました」
「カイリにとって、父君はどんな方でしたか?」
「……強くて、優しくて、勇敢で、尊敬できる人です。とても誇らしくて、私の自慢です」
清流は表情を和らげ頷いた。
「でも、私は父のようにはなれなくて、重圧に負けて逃げ出しました。使い魔の成長も同じ頃に止まってしまい、まじめに修行しない私が歯痒かったのでしょうね。何度も父を怒らせました……。あの頃はあんなに厳しく険しい顔をしていたのに、今父を思い出してみると幼い頃に見た優しい笑顔しか浮かんでこないのです……おかしいですよね」
カイリの目からポロポロっと涙がこぼれ落ちる。
「もし、あの時逃げ出さずに修行を続けていたら、父は死なずに済んだかもしれません。死傷者だって減らせたかもしれない。母が妖に取り憑かれることもなかったでしょう」
こんなに早く別れが訪れると知っていたら……こんな未来が待っていると知っていたのなら、必ず違う選択をした。命は一つしかないのに、なぜ失ってから気づくのだろう。
「私が、悪いのです。私が……間違えたのです」
父の死、両親への思い、後悔、自身が背負う重圧、未来への不安――。
長い間、胸の中にため込んできた思いは、十七歳の少年が抱えるにはあまりにも重くつらいものだった。
黙って話を聞いていた清流は、カイリと向かい合うと閉ざしていた口を開いた。
「カイリ、間違いは誰にでもあります。いついかなる時も正しい道を選べる人がいるでしょうか。私も自分の選択に対して不安になることがあります」
清流ほどの人でも何か不安なことがあるのか。カイリは伏せていた顔を上げて彼を見る。
「それに、逃げることはダメなことですか? すべての困難に立ち向かう勇気のある人は、そうはいません」
「師匠にも怖いものが?」
「もちろんありますよ」
清流の笑みにかすかな憂色が見て取れる。
「君が戦った大蛇ですが、妖の中でも特に珍しい上級の妖。簡単に勝てる相手ではありません。決して君のせいではない……もう自分を責めるのはやめましょう。その後悔はすでに胸に刻み込まれているはずです」
清流はカイリが自分を責める理由を一つ一つ打ち消していく。自分自身を許せという思ってもみなかった彼の答えに、カイリは少し驚いた。
清流の眼差しが、より一層柔らかくカイリを包み込む。
「今までつらかったですね。これからは私が君のそばにいます。共に前を向いて進みましょう」
――許されてもいいのだろうか。
穏やかな声と寄り添う言葉が、カイリの心を解きほぐしていく。目の前の清流から感じるのは、父と同じ安心感。
感謝を伝えたくとも、口を開ければ小さな子どものように声を上げて泣いてしまいそうで、カイリは、
「はい……」
そう一言口に出すのがやっとだった。
清流は声を押し殺して泣き続けるカイリの肩を優しくトン……トンと触れ、「大丈夫ですよ」と声をかけてくれる。
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