上 下
70 / 75

旅立ち

しおりを挟む
 翌日、ヤソックが仕事に行ったのを見計らってジョナスは部屋を出た。
向かった先はヤソックの母親、ドノワーズ侯爵夫人の部屋だった。

部屋には、いつもとは違って少し疲れた様子の夫人が静かにジョナスを待っていた。そしてジョナスの顔を見るなり夫人は言った。

「出て行ってしまうのね」

一瞬目を瞠ったジョナスだったが、直ぐに気を引き締めると深く頭を下げた。

「これほど良くしていただいて、とても感謝しています。本当にありがとうございました」

「記憶も魔力も、完全に戻ったのね」

「はい」

「そう・・・、ご主人のところに帰るの?」

曖昧に微笑むジョナスと目が合った夫人は、驚いたように目を見開いた。

「・・・一つだけ聞いてもいいかしら。ヤソックと恋人っていうのは、やはりあの子の―――」

「こちらにお世話になっていた間、私は彼を愛していました。記憶が戻った今も・・・私は彼を愛しています」

「だったら―――」

真っ直ぐに夫人を見つめるジョナスが言葉を遮るように首を振った。

今にも泣いてしまいそうなジョナスの悲痛な瞳が夫人の言葉を奪った。

「お世話になりました」

もう一度頭を下げたジョナスは、顔を上げながら必死に笑顔を作る。

(泣いてはいけない)

最後の挨拶を終え、夫人に背を向けたジョナスを夫人は呼び止めた。

「これを持って行きなさい」

夫人の手に握られているのは、ずっしりと重そうな巾着袋。中身がお金であることは間違いなさそうだった。

「困ります。私は、もう十分にしていただきました。これ以上ご迷惑はかけられません」

すると夫人は、焦って後退るジョナスの前まで来ると、痛みを感じるほど強い力でジョナスの片手を掴んだ。ジョナスを見降ろすその顔は今まで見たこともないほど冷たい。

「命令です。受け取りなさい」

なんの表情も浮かべず、夫人はジョナスのお腹にドンと巾着袋を押し付けた。

「あなたに拒否権などありません。持っていきなさい」

恐怖を感じるほどの迫力だった。いつも優しく微笑んでいる夫人しか見たことのないジョナスが、突然豹変した高位貴族を前に自分の意見など言えるはずがなかった。

突き付けられた袋をジョナスは黙って受け取ると、深く頭を下げた。

「さっさと行きなさい」

夫人の言葉が突き放すように部屋に響いた。

ドアを出たジョナスは背筋をピンと伸ばして歩き出した。顔を上げて、できる限りの速足で歩いた。

だから・・・勝手に零れる涙を拭いはしない。


その時、

「ジョナスさん!」

背後から夫人の大きな声が聞こえた。立ち止まったジョナスが振り向くと、廊下の真ん中に夫人が立っていた。
高位貴族のご夫人は決して大声など出さない。けれどその声は、長い廊下の端から端まで響き渡った。

「ヤソックを・・・息子を愛してくれて、ありがとう」

この時、ジョナスは初めて自分の涙を拭った。そして、涙で酷い状態の顔を笑顔に変えた。


(ありがとうございました)




 屋敷を出ると、今までジョナスのお世話をしてくれた侯爵家のメイドが立っていた。そして手に持っていたトランクを差し出した彼女の声もまた、感情のこもらない冷淡なものだった。

「ヤソック様からです」

夫人と同様、ジョナスの体に押し付けるように重いトランクを突き出してくる。

「あの・・・」

「ヤソック様からです」

同じ言葉を繰り返すメイドからは、もうそれ以上の言葉はもらえないようだ。

余計な話は一切するつもりがないのだろう。トランクを押し付けたメイドは、くるりとジョナスに背を向けて歩き出してしまった。

「お世話になりました。・・・ありがとう。そして、どうか・・・ヤソックに・・・お礼をお伝えください」

立ち止まったメイドは、背を向けたままジョナスの話を聞き終わると、振り向くこともなく再び歩き出した。

ジョナスは彼女の後ろ姿と、その背後に見えている大きな侯爵家の屋敷に向かって深く頭を下げた。


(ありがとうございました・・・どうか、お元気で)




その日、ジョナスは街を去って行った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

思い出さなければ良かったのに

田沢みん
恋愛
「お前の29歳の誕生日には絶対に帰って来るから」そう言い残して3年後、彼は私の誕生日に帰って来た。 大事なことを忘れたまま。 *本編完結済。不定期で番外編を更新中です。

【完結】お飾りの妻からの挑戦状

おのまとぺ
恋愛
公爵家から王家へと嫁いできたデイジー・シャトワーズ。待ちに待った旦那様との顔合わせ、王太子セオドア・ハミルトンが放った言葉に立ち会った使用人たちの顔は強張った。 「君はお飾りの妻だ。装飾品として慎ましく生きろ」 しかし、当のデイジーは不躾な挨拶を笑顔で受け止める。二人のドタバタ生活は心配する周囲を巻き込んで、やがて誰も予想しなかった展開へ…… ◇表紙はノーコピーライトガール様より拝借しています ◇全18話で完結予定

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

10年間の結婚生活を忘れました ~ドーラとレクス~

緑谷めい
恋愛
 ドーラは金で買われたも同然の妻だった――  レクスとの結婚が決まった際「ドーラ、すまない。本当にすまない。不甲斐ない父を許せとは言わん。だが、我が家を助けると思ってゼーマン伯爵家に嫁いでくれ。頼む。この通りだ」と自分に頭を下げた実父の姿を見て、ドーラは自分の人生を諦めた。齢17歳にしてだ。 ※ 全10話完結予定

愛することをやめたら、怒る必要もなくなりました。今さら私を愛する振りなんて、していただかなくても大丈夫です。

石河 翠
恋愛
貴族令嬢でありながら、家族に虐げられて育ったアイビー。彼女は社交界でも人気者の恋多き侯爵エリックに望まれて、彼の妻となった。 ひとなみに愛される生活を夢見たものの、彼が欲していたのは、夫に従順で、家の中を取り仕切る女主人のみ。先妻の子どもと仲良くできない彼女をエリックは疎み、なじる。 それでもエリックを愛し、結婚生活にしがみついていたアイビーだが、彼の子どもに言われたたった一言で心が折れてしまう。ところが、愛することを止めてしまえばその生活は以前よりも穏やかで心地いいものになっていて……。 愛することをやめた途端に愛を囁くようになったヒーローと、その愛をやんわりと拒むヒロインのお話。 この作品は他サイトにも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID 179331)をお借りしております。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...