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旅立ち
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翌日、ヤソックが仕事に行ったのを見計らってジョナスは部屋を出た。
向かった先はヤソックの母親、ドノワーズ侯爵夫人の部屋だった。
部屋には、いつもとは違って少し疲れた様子の夫人が静かにジョナスを待っていた。そしてジョナスの顔を見るなり夫人は言った。
「出て行ってしまうのね」
一瞬目を瞠ったジョナスだったが、直ぐに気を引き締めると深く頭を下げた。
「これほど良くしていただいて、とても感謝しています。本当にありがとうございました」
「記憶も魔力も、完全に戻ったのね」
「はい」
「そう・・・、ご主人のところに帰るの?」
曖昧に微笑むジョナスと目が合った夫人は、驚いたように目を見開いた。
「・・・一つだけ聞いてもいいかしら。ヤソックと恋人っていうのは、やはりあの子の―――」
「こちらにお世話になっていた間、私は彼を愛していました。記憶が戻った今も・・・私は彼を愛しています」
「だったら―――」
真っ直ぐに夫人を見つめるジョナスが言葉を遮るように首を振った。
今にも泣いてしまいそうなジョナスの悲痛な瞳が夫人の言葉を奪った。
「お世話になりました」
もう一度頭を下げたジョナスは、顔を上げながら必死に笑顔を作る。
(泣いてはいけない)
最後の挨拶を終え、夫人に背を向けたジョナスを夫人は呼び止めた。
「これを持って行きなさい」
夫人の手に握られているのは、ずっしりと重そうな巾着袋。中身がお金であることは間違いなさそうだった。
「困ります。私は、もう十分にしていただきました。これ以上ご迷惑はかけられません」
すると夫人は、焦って後退るジョナスの前まで来ると、痛みを感じるほど強い力でジョナスの片手を掴んだ。ジョナスを見降ろすその顔は今まで見たこともないほど冷たい。
「命令です。受け取りなさい」
なんの表情も浮かべず、夫人はジョナスのお腹にドンと巾着袋を押し付けた。
「あなたに拒否権などありません。持っていきなさい」
恐怖を感じるほどの迫力だった。いつも優しく微笑んでいる夫人しか見たことのないジョナスが、突然豹変した高位貴族を前に自分の意見など言えるはずがなかった。
突き付けられた袋をジョナスは黙って受け取ると、深く頭を下げた。
「さっさと行きなさい」
夫人の言葉が突き放すように部屋に響いた。
ドアを出たジョナスは背筋をピンと伸ばして歩き出した。顔を上げて、できる限りの速足で歩いた。
だから・・・勝手に零れる涙を拭いはしない。
その時、
「ジョナスさん!」
背後から夫人の大きな声が聞こえた。立ち止まったジョナスが振り向くと、廊下の真ん中に夫人が立っていた。
高位貴族のご夫人は決して大声など出さない。けれどその声は、長い廊下の端から端まで響き渡った。
「ヤソックを・・・息子を愛してくれて、ありがとう」
この時、ジョナスは初めて自分の涙を拭った。そして、涙で酷い状態の顔を笑顔に変えた。
(ありがとうございました)
屋敷を出ると、今までジョナスのお世話をしてくれた侯爵家のメイドが立っていた。そして手に持っていたトランクを差し出した彼女の声もまた、感情のこもらない冷淡なものだった。
「ヤソック様からです」
夫人と同様、ジョナスの体に押し付けるように重いトランクを突き出してくる。
「あの・・・」
「ヤソック様からです」
同じ言葉を繰り返すメイドからは、もうそれ以上の言葉はもらえないようだ。
余計な話は一切するつもりがないのだろう。トランクを押し付けたメイドは、くるりとジョナスに背を向けて歩き出してしまった。
「お世話になりました。・・・ありがとう。そして、どうか・・・ヤソックに・・・お礼をお伝えください」
立ち止まったメイドは、背を向けたままジョナスの話を聞き終わると、振り向くこともなく再び歩き出した。
ジョナスは彼女の後ろ姿と、その背後に見えている大きな侯爵家の屋敷に向かって深く頭を下げた。
(ありがとうございました・・・どうか、お元気で)
その日、ジョナスは街を去って行った。
向かった先はヤソックの母親、ドノワーズ侯爵夫人の部屋だった。
部屋には、いつもとは違って少し疲れた様子の夫人が静かにジョナスを待っていた。そしてジョナスの顔を見るなり夫人は言った。
「出て行ってしまうのね」
一瞬目を瞠ったジョナスだったが、直ぐに気を引き締めると深く頭を下げた。
「これほど良くしていただいて、とても感謝しています。本当にありがとうございました」
「記憶も魔力も、完全に戻ったのね」
「はい」
「そう・・・、ご主人のところに帰るの?」
曖昧に微笑むジョナスと目が合った夫人は、驚いたように目を見開いた。
「・・・一つだけ聞いてもいいかしら。ヤソックと恋人っていうのは、やはりあの子の―――」
「こちらにお世話になっていた間、私は彼を愛していました。記憶が戻った今も・・・私は彼を愛しています」
「だったら―――」
真っ直ぐに夫人を見つめるジョナスが言葉を遮るように首を振った。
今にも泣いてしまいそうなジョナスの悲痛な瞳が夫人の言葉を奪った。
「お世話になりました」
もう一度頭を下げたジョナスは、顔を上げながら必死に笑顔を作る。
(泣いてはいけない)
最後の挨拶を終え、夫人に背を向けたジョナスを夫人は呼び止めた。
「これを持って行きなさい」
夫人の手に握られているのは、ずっしりと重そうな巾着袋。中身がお金であることは間違いなさそうだった。
「困ります。私は、もう十分にしていただきました。これ以上ご迷惑はかけられません」
すると夫人は、焦って後退るジョナスの前まで来ると、痛みを感じるほど強い力でジョナスの片手を掴んだ。ジョナスを見降ろすその顔は今まで見たこともないほど冷たい。
「命令です。受け取りなさい」
なんの表情も浮かべず、夫人はジョナスのお腹にドンと巾着袋を押し付けた。
「あなたに拒否権などありません。持っていきなさい」
恐怖を感じるほどの迫力だった。いつも優しく微笑んでいる夫人しか見たことのないジョナスが、突然豹変した高位貴族を前に自分の意見など言えるはずがなかった。
突き付けられた袋をジョナスは黙って受け取ると、深く頭を下げた。
「さっさと行きなさい」
夫人の言葉が突き放すように部屋に響いた。
ドアを出たジョナスは背筋をピンと伸ばして歩き出した。顔を上げて、できる限りの速足で歩いた。
だから・・・勝手に零れる涙を拭いはしない。
その時、
「ジョナスさん!」
背後から夫人の大きな声が聞こえた。立ち止まったジョナスが振り向くと、廊下の真ん中に夫人が立っていた。
高位貴族のご夫人は決して大声など出さない。けれどその声は、長い廊下の端から端まで響き渡った。
「ヤソックを・・・息子を愛してくれて、ありがとう」
この時、ジョナスは初めて自分の涙を拭った。そして、涙で酷い状態の顔を笑顔に変えた。
(ありがとうございました)
屋敷を出ると、今までジョナスのお世話をしてくれた侯爵家のメイドが立っていた。そして手に持っていたトランクを差し出した彼女の声もまた、感情のこもらない冷淡なものだった。
「ヤソック様からです」
夫人と同様、ジョナスの体に押し付けるように重いトランクを突き出してくる。
「あの・・・」
「ヤソック様からです」
同じ言葉を繰り返すメイドからは、もうそれ以上の言葉はもらえないようだ。
余計な話は一切するつもりがないのだろう。トランクを押し付けたメイドは、くるりとジョナスに背を向けて歩き出してしまった。
「お世話になりました。・・・ありがとう。そして、どうか・・・ヤソックに・・・お礼をお伝えください」
立ち止まったメイドは、背を向けたままジョナスの話を聞き終わると、振り向くこともなく再び歩き出した。
ジョナスは彼女の後ろ姿と、その背後に見えている大きな侯爵家の屋敷に向かって深く頭を下げた。
(ありがとうございました・・・どうか、お元気で)
その日、ジョナスは街を去って行った。
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