優しい風に背を向けて水の鳩は飛び立つ (面倒くさがりの君に切なさは似合わない)

岬 空弥

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思い出す訳にはいかない

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 仕事に行きたくない。離れたくない。一緒に居たい。縋るように瞳を潤ませているヤソックを無理やり馬車に押し込んだジョナスは、にっこり微笑んで大きく手を振った。

「いってらっしゃーい」

魔力も回復し体調も万全と医師から太鼓判を押されていたヤソックが重い腰をようやく上げたのは、早く復帰しろと騎士団からの催促がきてしまったからである。
往生際の悪いヤソックは、復帰の催促がきた後も今日は魔力が完全でないとやら、今日は足が痛い、腰が痛いと連日仮病の限りを尽くし、最後には瞼が痙攣するから仕事には行けないと言い張った。
結果、 「疲れ目ってこと!?」 とジョナスには呆れられ、夫人には 「いい加減にしなさい!」 と怒られた。

「ようやくジョナスと本当の恋人になれたのに・・・今が人生で一番幸せな時なのに・・・。俺の幸せを邪魔しょうとするなんて許せない・・・まだ庭のブランコも見せてないのに・・・俺が目を離した隙にジョナスに何かあったらどうするんだ・・・やっぱり駄目だ、心配で離れることなんてできない・・・くそっ、こんなに大好きなのに・・・仕事ごときで離れ離れにされてたまるか・・・絶対に負けないぞ」

そして、騎士団なんか潰れてしまえと呪いの言葉を吐いたところで、ヤソックは再び夫人の怒りを買ってしまった。

(ブランコかぁ・・・私の体重でも大丈夫なのかな)

ヤソックの乙女思考に薄ら寒いものを感じるジョナスだったが、魔法と記憶を同時に失った彼女からしてみれば、彼の悩みなど子供の我儘にしか見えなかった。

侯爵家での生活に不満はない。夫人だけでなく使用人からも親切にしてもらっている。重すぎるヤソックの愛情に驚かされることも多いが、それほど愛されていると思えば嬉しくもあった。

「俺とジョナスは、初めて会った時から惹かれ合っていたんだ。あれは間違いなく運命的な出会いだった。なのに、二人の間には様々な障害があって―――」

「そうね、初対面で挨拶もしなかったわね」

「む・・・会った瞬間、二人は熱く見つめ合って―――」

「そういえばあの時、私のことをすごい冷たい目で睨んでたわよね」

「ん、んんっ・・・、そして、何度も繰り返す失敗をお互いに慰め合って・・・」

「そうそう、失敗する度に顔を真っ赤にして怒鳴りつけてきたよね!?」

「もう・・・ジョナス・・・もう少し夢を見させてよ」

そう言いながら、さり気なくジョナスの肩を抱くヤソックは、力の抜けた笑顔でジョナスの顔を覗き込んだ。メイドや夫人の前でもヤソックの甘さは容赦なかった。

うん、自分は愛されていてとても幸せな生活をしている。
それは分かっているはずなのに、どうしてか心は常に落ち着かなかった。自分でも気づかぬうちに足りない何かを捜しているような気がしてならない。

ジョナスは、それを魔法と思うことにしていた。実際、魔法が使えないと知った時は大きなショックを受けた。物心ついた時から水魔法と共に生きて来たジョナスにとって、魔法を失うということは自分の存在意義を失うのと同じことだからだ。

しかし、魔法は使えなくても魔力自体を失ったわけではない。であれば、魔法を使える日はいつか必ず訪れる・・・。

そう・・・正直に言うと、ジョナスは魔法に関してそこまで気落ちしていなかった。けれど、だからと言って 「私は失った記憶を求めています!」 とは絶対に言えない・・・いや、言いたくない。

今さら裏切者の夫を思い出してどうするというのだ。浮気されても離婚に踏み切れなかった自分は、きっとヤソック以上に重い女だったのだろう。
もしかしたら、愛人の家に入り浸る夫の帰りを待つだけの寂しい暮らしをしていたのかもしれない。

これほどの愛情を与えてくれるヤソックよりも、そんな男を選ぶくらいだ。きっと忘れるべきものだったのだろう。無理に思い出す必要などない。いや・・・もうそんな男のことなど思い出してはいけない。

そうだ。だからいつも窓から見えるあの男性・・・。

毎日のように屋敷の前で門前払いされているあの男の人は、絶対に夫などではない。

その時間になると、なぜか黙って私の手を引いてソファーに座るヤソックの行動も・・・きっとただの偶然で、別におかしなことなどではない。

非道な夫は愛していない妻のもとになど来るはずがないのだから・・・。

自分のことを誰よりも愛してくれるのはヤソックであって、決して裏切者で浮気性な最低夫などではない。
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