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真実は缶の中にあるのだから

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 記憶のないジョナスがヤソックとの仲を深めている間、夫であるロステルはジョナスの居ない生活に限界を迎えていた。
誰も居ない家に帰る気にもなれずに食事は外で済ませるようになった。酒で気を紛らわせなければ、あの家では一人で眠ることも出来なくなってしまった。
酔っぱらって一人家に帰るも、部屋に灯りをともせばどうしたってジョナスの姿を思い出してしまう。

小さなキッチンに立つ彼女が振り返る。そして、満面の笑みを浮かべて大きな声で言うのだ。

『おかえり!』

その後は、一人で話したいだけ話す。人が着替えていてもお構いなしだし、風呂に入ってもドア越しに話は続く。
洗濯メイドの噂話に、隣の奥さんとの世間話。どこぞのお店が安いとやら誰それの息子は自分よりも頭が良いと・・・。

自分にはなんの興味もない話を永遠と続けるジョナスに返事はいらない。彼女はそんなことを望んではいない。
だから自分は黙って彼女を見つめるだけでいい。一人で笑ったり怒ったり、鼻を膨らませて興奮している顔も可愛かった。

まるで女神かと思うような大きな優しさを見せるかと思えば、人間の本性丸出しかと思うようなズルい顔で、見え透いたイタズラを仕掛けてきたりもする。
いつだってキラキラ輝く瞳に魅入られ、その嬉しそうな口元からは目が離せなくなってしまう。

彼女が自分の妻であることに感謝せずにはいられなかった。この世の全てがどうでもよくなるほどに心が満たされていた。

帰って来ると信じている。

だから机の上にほったらかしてある離婚届は必要ない。
昼間、ポケットにねじ込んだ封筒を取り出すと、同じように机の上に放り投げる。

ドノワーズ侯爵家から送られて来た離婚届は、これで二通になった。二通とも既にジョナスの署名はされており、後は自分が署名して提出するだけだ。
こんなことで離婚は成立してしまう。

だが、こんな書類を何十通送ってこようと、自分が離婚に応じることはない。
これがジョナスの本当の意思でないことをロステルは知っているからだ。



 ジョナスの記憶が失われたと聞いた時、それまで不審に思っていたことに合点がてんがいった。
彼女の意識が戻っても一切連絡してこない侯爵家。今では会いに行っても門番に追い返されてしまい、話しすら聞いてもらえない有様だ。

自分の力ではどうすることもできないと悟ったロステルは、騎士団と自分の実家に頭を下げて協力を仰いだ。
だが、魔法を使えないジョナスを騎士団がどうにかできるはずもなく、実家のモンテナス伯爵家に至ってはロステル同様、侯爵家に無視を決め込まれた。

その上、ドノワーズ侯爵夫妻がロステルと噂になっている女性騎士と面会したことで、自身の不倫話に信憑性が生まれてしまった。
話しかけるなといくら追い払っても寄って来る女性騎士は、わざと人の多い場所を選んでいるようで、噂を利用しようという魂胆が見え見えだった。
ロステルを信じてくれるのは、直接本人から事情を聞いたカミューぐらいであり、そのおかげでジョナスの現状を知ることができていた。

ロステルが自暴自棄にならずに心を保てていたのは、毎朝確認に行っている秘密の宝箱のおかげだった。


『もし、ロステルが浮気した場合―――』

『浮気なんてしない!』

『いや、いいから聞いて!・・・で、ロステルが浮気して、私が怒るでしょう? 大嫌いって叫んで、離婚よ!! ってなる』

『ならない!』

『実家に帰らせてもらいます!とは言ったけど実家は遠いので、とりあえず職場に逃げ込むの。すると同僚たちに守られて私達は引き裂かれる。話をしなければ解決しないのに、きっとそれすら難しい状況になるの・・・そういう時の女性陣の強さを想像できる?』

『・・・想像しない』

『もう!普段は声も出さないくせに。いいからちょっとだけでも想像してみて!」

『いやだ』

『それで、そんな時、相手の本心を知れる方法があるといいと思わない? ね!?思うでしょう?・・・はい、そこでこちらをご注目! 私達のクッキー缶! 決まり事はたったの一つ、嘘偽りのないこと。 例えばこの場合 「僕、本当に浮気なんてしていまちぇーん、誤解なんだよー」 だったり、「本当はあなたを信じてるの。離婚なんて嘘よぉ、お願い早く迎えに来てー」 など、・・・口ではうまく言えない不器用なあなたも、文字ならばいける!! さあ、どうだ!』

『俺のモノマネが腹立つ』

『ぷっ、いいから、いいから』

『それが嘘の場合は?』

『え、嘘?本当は浮気したってこと?・・・でも、そんな嘘なんて直ぐにばれるでしょ。だって嘘なんてその場しのぎにしかならないのよ?相手だって馬鹿じゃないんだし・・・ただでさえ疑われてるのに、そんな人を相手に騙し通すなんて無理よ』

『・・・・』

『はいはい、大丈夫!そんな心配しなくても、私もロステルも嘘つきじゃないでしょ!そもそも平気で嘘を吐く人間と私は結婚なんてしてないんだし』



本当にジョナスが離婚を望むのならば、離婚届はこの缶の中に入っているはずだ。それが二人の約束だ。本物のジョナスであるならば、彼女は人との約束を絶対に破らない。

だからロステルは、明日も宝箱の確認に行く。
缶の中が前日と変わっていないことを確かめる為に。
彼女の気持ちが自分から離れていないと確信を得る為に。
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