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3.行きはよいよい帰りは怖い

29話

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「これって」
「誓約書、いや通達というべきか。あるいは遺言書だ」

 内容は小難しく並べられていたが、簡単に言えばひとつ。

 たとえ月音が泰華を殺しても、月音に報復するのを禁ずる。

 仰々しい文面に眉をよせて胡乱に、男へ視線をやった。
 微笑みは崩されず、緩慢な動作で紙を机に置く。

「きみが殺したいなら、殺せばいい」

 その声音は、昨日の朝にいってきますと笑ったのと変わらない。死が隣にあるのに、彼は怯えなど一切見せずむしろ愉しげだ。緊迫感など通用せず、状況を傍観する。

 他人事のように、劇の観覧者のごとく。
 それでいて、いつでも乱入して月音を翻弄しそうな不可思議な距離感。

 彼は、なにを、愉しんでいるのか。

「だが、ひとつ忠告しておく。誰かを殺すということは、誰かの色を奪うということ。命をに背負って生きていくこと。きみは不器用だから、そんな生き方はできない」

 冷静で子供に言い含めるような穏やかさ。

 だけれど月音には、何よりも鋭利な刃となり、奥にある心のやわらかい部分を勢いよく刺されたような心地がした。

 かれをころしたら、いろをうしなう。灰色に、もどる。
 ――たえられない。

「なぁ。きみがしようと、しているのは、そういうことだよ。誰かの色を奪うんだ。だから軽々しく殺す決意はしなくていい。そんなものをきみに背負わせてたまるか」

 短く息を吐けば、彼はますます笑みを深くした。
 それから切り替えるように実はと、もったいぶった口調で語りかけた。

「俺はきみにひとつ、提案がある」
「なんですか」

 わずかに掠れた返答に男は気にせず続けた。

「これで制御できるのは、月花の連中だけだ。今、きみを狙っている者に効力はない。だが、もしきみが俺を生かしてくれるのならば、それを含めて、ありとあらゆるものから守ると約束する」

 甘言とともに届いた花の香りは、理性をたやすく崩壊させるほど甘美で、引きつける。
 しかしこの花は決して美しいだけの花ではなく、誘惑した虫を食らうだろう。

 惑わされるな。

 ぐらりと傾きそうになる己を叱咤し、唇を噛みしめた。
 じわりと鉄の味が舌に広がる。

「それは、あなたになんのメリットが?」
「愛した女性を、自分の手で守れるという欲求が満たされる」

 断言した声に迷いなど一切ない。
 宣言に嘘は皆無だと思わせるほどに。

 理解ができない。

「なぜ、そこまで」
「人を愛するのに理由は必要か――と言いたいが、俺はロマンチストにはなりきれない」

 どの口が、と毒を吐き捨てかけて慌てて飲み込む。
 遠くなっていた彼の微笑みが、薔薇の花束を捧げてくれた色が戻ろうとしている。

「もちろん、きみを愛しいと思ったのには理由がある。だが……一応問うが、きみは理由を知りたいか?」

 男の手に力が入る。
 もはや抵抗する気力は残っておらず、ナイフは呆気もなく取り上げられた。閃く銀が、床に転がって月音の視界から外れた。

「きみは――興味ない、そうだろう?」

 問いかけではない。確信している。

 加虐的な光をともした瞳に見つめられて、月音は諦めたように、こくりとうなずいた。

 彼の前で嘘は無意味だ、自分では太刀打ちできない。

「きみの目的はただひとつ。生きること。それだけだ」
「あなたは」

 ぽつりと、無意識にこぼれた声。
 あまりに覇気がなく、死んだかのようだと自嘲する。

 ずるりと膝から崩れ落ちかけたところを、男が支えた。
 抱きしめられてもなお、突っぱねるのもできなかった。

「あなたは、その理由を話して、お互いを知り、私に好きになってほしいとか考えないのですか」
「それこそ、おかしいだろう。俺が恋をした理由を知れば、きみは俺に恋心を抱くのか?」

 恋。

 かわいい、少女の無垢さのような響きがある単語は、男にも月音にも似合わない。

 ちぐはぐで、ゆがんでいる。

 きょとんとした顔で月音を見下ろす男から、逃れるように目を閉じた。

「いいえ。しません」
「だろう? お互いを知るというのも、利益もあれば不利益が生じることもある。ちなみに俺の予想では不利益の方が圧倒的の多い、つまり俺を嫌いになる」

 とんでもない発言だ。

 これが口がすべった、ならばかわいいが、彼に限ってありえない。わざと聞かせている。

 短い付き合いだというのに、そんな風に想像できるほどには近づいていたらしい。

 約束。それがすべてだと、生きるために生きている、殺すのだと、のたまわっていた自分が馬鹿のようだ。世間知らずの、愚かな子供だ。

「……今の時点で、かなり離れたいですね」
「そう言わず。きみは俺を見てくれればいい」

 優しく顎をすくわれて、上を向かせる。
 とても品のある仕草かつ、紳士的な動きだった。
 自然すぎて、月音は拒絶するのすら忘れて従う。

 彼の瞳が熱を孕んで、月音に際限なく注ぎ込む。火傷しようが、あふれて壊れようがお構いなしに、抗うのすら許されない。息苦しくてたまらなくなる。

 あえぐように息を吐くが、苦しさは消えず、胸と喉は詰まったままだ。

「きみの都合がよく、好みの男を見ていてくれ」
「演じるのですか」
「演じるというより、そうなる、が正しい」

 平然と言ってのけた彼の真意は読み取れない。
 本心かどうかさえ月音には判断できやしなかった。

「あなたの本音が、見えない」
「すべて本当さ」
「だとすれば、怖いですね」
「はは、これでも手加減しているつもりなんだがな」
「重い」

 とてつもなく。
 月音の体を潰すほどの思いが、彼の穏やかな言葉からにじみ出ている。心の内を知りたいが、軽率に手を伸ばそうものならば、容赦なく圧殺されるだろう。

「わたしは、私はどうすればいいんです。あなたが求めているのは何ですか」
「簡単さ。きみは自分と俺だけを考えて。今日の夕食や本の内容、花の香、感じて触れたことをいっぱい詰め込んで。帰ってきた俺におかえりと言って日常をおしえて」

 さらりと彼の黒髪がたれて、月音の頬にかかる。
 額を合わせる。月音は上をむかされ、彼がのぞき込む。花の香りに包まれ、ぐずぐずに思考をとかされていく。

「俺は、きみが大切だよ。言葉では伝わりにくいのか、信じてもらえないようだが」

 彼の瞳が愛おしげに細まり、唇が弧を描く。
 赤く熟した舌が扇情的にのぞいて、獰猛な獣が獲物を食らうような錯覚に陥った。

「それとも寝食を共にしても、きみを襲わない理由を説明した方がいいか」

 彼の吐息が、自分の苦しい息とまざりあって、なんともいえぬ熱がおびて体に絡みついた。

「……わざわざ、言わなくて、いい」

 ――弱くなってしまった。

 月音は目を閉じる。
 瞼の裏に母が微笑んでいる。
 最後まで、名前を呼ばなかった母のちかく。
 男が、泰華が月音を待つようにたっていた。美しい花は強烈な色を持って、月音を焼き尽くす。

 月音を殺さねばならぬ理由が、泰華にはある。
 わかっているのに抗えなかった。
 信じたいと思ってしまった。彼ならきっと守ってくれると、どこまでも他人を頼りすがってしまう。

 色が戻る。
 手のぬくもりが凍らせていたすべてを溶かしてしまう。
 弱くしていく。
 もう、手放して生きていくなど月音にはできない。

 一度優しさを、甘さを、穏やかな日々を知ってしまえば抜け出せない。月音にはもうナイフなど、見えやしなかった。 
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