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2.すぎた幸福を噛みしめるように
26話
しおりを挟む「ん、とに、なにも、しら、ない。なにもしてない」
這いつくばった男は、自分は悪くないのだと涙ながらに濁声で訴える。
それを冷ややかに見下ろした誠司は嘲笑を浮かべた。
「五人」
「え……?」
「僕の管轄で住む一般家庭に侵入して、夫婦に見つかった際子供を人質に取り妻を強姦、夫に拷問。人格を破壊したのち、目の前で三歳、十四歳の子供を殺害。そして無抵抗になった夫婦も同じく命を奪った。残された子供は逃走」
「あ……、? えぁ……?」
「金品を手に入れて、裏で賭け事に溺れて資金は尽きる。その後、困窮すれば家を手当たり次第に襲った上で非道な手法で殺す」
つらつらと抑揚なく語れば男の目がこぼれんばかりに見開かれる。頬骨と鼻が折れて、涙と血に汚れた面がキョトンとして滑稽だ。
「あのさ、おまえについては調べついてんの。どうしようもない、ゲスだってこともさ」
「な、ん、なんで」
「この程度さ、おまえの所業に比べたら楽なもんだよね。現場見たけど、僕ですら気分が悪くなったよ。金品に困るどころか、殺すのを好むクソ野郎が、『何もしてない』? ――笑えないね、本当に」
ルールを破った。
それも凪之が仕切るところで、だ。
甘く見られたものだ。土足で人の庭を荒らされて怒られないとでも思っているのか。
男の体から力が抜けたのがわかった。
何もかも絶望して諦めたようである。ぶつぶつと何事か呟いているが聞く価値もなさそうだ。
誠司と男のやりとりを静観していた泰華は壁に体を預けて、腕を組む。
その仕草に色気が含まれ場の雰囲気を乱した。優雅で、とことん血生臭い場所が似合わない男である。
「で、どこまでわかった?」
「雇い主が虎沢ってとこまで」
虎沢秀喜。
泰華がご執心の少女『月音』を狙う輩。
月花、凪之にとって即刻取り除かなければならない存在。
「といっても、なーんにも知らない。刀の件も裏切り者についても、身代わりも。捨て駒以下だね」
「やっぱりそうか。こんなにあからさまで馬鹿な行動、もし」
その先は飲み込んだ泰華に、同意見だとうなずく。
もし同業者だったら、とんでもない話だ。
まして自分の組織から出た裏切り者なら、これからの教育について考え直す必要がある。
「それで、ええっとどこまで聞いたっけな。あの情報を持ってきたやつも、虎沢の息がかかったやつなんだよな?」
喫茶店で泰華が対峙した情報屋。
それも虎沢の捨て駒だったらしい。
追跡してもやつにはたどり着けなかった。
「それは既知の情報だ。それより虎沢の人なりを知りたかったんだが」
「それこそおまえの部下が調べ尽くしてるだろ」
「情報提供者からは大した話も聞けなくてな。だからもう少し詳細を。……多分無理だろうな」
「もう諦めた方がいいかもな」
「そうだな。あとは……おい、誠司」
「あ?」
「寝てるぞ」
寝ているのではなく気絶しているのではないか。
指摘しようとして寸前でやめる。
どちらも同じことだ。
誠司は手に持った器具をカチリとならした。
「まぁ、起こせばいいや」
「やはりおまえの方が優しくないだろう」
「似てるんだろ、僕たち」
虎沢は用心深い。
二つの組織が牛耳る町で、身を隠す術は持ち合わせているらしい。到底、不可能なはずの行為だが事実行方が掴めない。
手下が酷い目に遭おうが、知らぬ存ぜぬを押し通す。
自分は無関係だというスタンス。おおよそ裏の社会で上に立つ人間とは思えない行動が目立つ。
そんな小物に、二つの組織が翻弄されたのだから笑えない。
恥にもほどがある。
これが解決した暁には、掃除と教育に力を入れなくては。
「虎沢の所在は、こいつ、多分知らんだろうな」
泰華の高望みに「そりゃそうだろ」と間髪なく答える。
誠司たちすら探し出せない巧妙な場所。
おそらく部下にすら伝えていない。
やつは万が一にも居場所がばれないように、細心の注意を払っている。
そして一番厄介なのは。
「虎沢は何人か身代わり――それも自分の顔へ整形させたやつを何人も用意している」
「元から自分に似ているのを探し出しているみたいだけど、ずいぶんと手のかかる方法だよね。僕なら、まだるっこしくて避ける」
見つけても偽物ばかり。このままではいけない。
今までとは別のやり方で探るべきなのかもしれない。
ああ本当に。
「面倒だ」
誠司のぼやきに、泰華がまったくだと苦笑をこぼした。
鉄さびの、生臭さが充満する倉庫でひっそり二人分のため息が重なった。
泰華はこれ以上いても実りはないと判断したらしく、背を向ける。出口へと足を動かし始めた。
「あとは頼んだ。長いすれば勘づかれる」
「はぁ? いいの、月音ちゃんをおびえさせた罪を与えに来たんじゃなかったのかよ」
「このあと予定があるんでな。それに存外この男、貧弱そうだ。俺が相手すれば間違って殺しかねない」
それは俺の役目ではないだろう。
そう言い残した彼と。
――すれ違う影が倉庫に、するりと滑り込んだ。
暗闇に溶けこんだ黒。
ごうごうと燃える炎を瞳だけが、獰猛に輝いた。
興奮しているのか息づかいは荒く、ひゅうひゅうと鳴る。
「あぁ、来たの」
迎えをよこすと伝えたが、我慢できなかったらしい。
薄汚れて、服もボロボロ。
みすぼらしい格好の子供から歯ぎしりの音がした。
獲物を前に、苦しみの根源を前に必死にこらえている。
もはや人ではなく、復讐そのものだ。
「ずっと探していたやつだ。遅くなってごめんね」
謝罪をすれば子供は幾分か冷静な態度で首を横にふった。
小さく「ありがとうございます」と頭を下げる。それから誠司を見て、僅かに歪んだ笑みを浮かべた。
「わたし、このまちにうまれてよかった。復讐できるもの」
「――そうか」
もう、壊れてしまっている。
誠司は目を伏せて、静かに息をついた。
この街に生まれなければ家族が死ぬことはなかった。
しっかり警察が機能して、復讐する前に止めてくれる。正しい方へ導いてくれる、まともな大人がいたはずだ。
そんな簡単な真実さえ見失っている。
この子供は、復讐を果たしても、きっと元には戻れない。
己が守れなかったものの大きさを誠司は拒絶せず、認めて受け入れる。後悔が押し寄せるが、どうにか噛み砕き飲み込む。
珍しいことではない。この街では。
分かっていても誠司の胸を締め付ける。
それはきっと同じく街を守る泰華も。
だとしても、この街に生まれ、この組織の跡継ぎとして存在する自分たちには進むしかない。
奈落の、血で濡れた道。
地獄だけが待ち受ける方へ、ゆるやかに辿っていく。
「ほんと、面倒」
ろくな死に方しないだろうな。
誠司はポケットに入れたライターを握った。
礼を言った子供の意識は移る。
次には、もう転がる男しか見ていなかった。
冷静さが戻ることはないだろう。
「好きにしていいよ」
男に殺された家族で、唯一逃げおおせた子供は凪之に拾われた。
いつしかこの手で恨みを晴らしたいと、すべてを目撃して奪われた子供の、ただひとつの願い。
それ以外はいらないと吐き捨てた、狂わされてしまった子供。
凪之は守れなかった。
一般人を保護するのも役目だったのに。
これは、果たせなかった凪之からせめての罪滅ぼしだった。
復讐が動く。
燃えたぎる激情を刃にのせて、男の元へ。
「さて、これからどうするかな」
虎沢秀喜。
凪之。
月花。
陽野月音。
瞼を下ろして、絡み合った糸の解き方を描く。
男の醜い絶叫を聞きながら。
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