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悪役令嬢は悪徳商人に娶られる
7 ヴィンセント
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「お嬢様!お嬢様、お待ちください!」
声量は押さえられていたが、緊迫した色は隠しきれていなかった。
明らかにどこかの屋敷の侍女といった様子の女が帽子の女を追いかける。旅用の質素なドレスを着て大きな帽子を被った女だ。髪は帽子の中に入れ込んでいるのだろう、細くて白いうなじが剥き出しで、白金の髪が一筋垂れている。
「あれか?」
「そうです」
部下の男の返事に頷きを返す。
全身黒を纏った背の高い男は、これまた黒の帽子をさっと直すと大きく一歩足を踏み出す。
「ごめんください」
女は服飾店の従業員に声をかけている。
「職人を雇ってはおりませんか?わたくしはレース編みができます」
「レース編み?なんだいそれ、かぎ針編みのことかい?この店じゃ職人は雇ってないよ」
「そうなんですか」
残念そうに肩を落とした女に向き直る相手。
「仕事を探してるなら――」
「失礼」
男は横から割り込んだ。
帽子の女の正面に立って見下ろす。顔は隠れていてわからない。
「職人の仕事を探しているのですか?」
「え、ええ、そうなんです。あなたは?」
「これは失敬。レアード商会のヴィンセントと申します。お仕事をお探しなら窺いますよ」
「そうそう!仕事を探しているならこの方に斡旋してもらえばいいよ!」
従業員の女が後ろから口を挟む。帽子の女は「斡旋…」と呟いた。花の色をした形のいい唇だった。
「お嬢様!」
帽子の女に追いついた侍女が声を荒げる。
「いけませんお嬢様!こんなどこの誰かもわからない者の話など…!」
「エステル」
女が静かに諌める。鈴の音のような声だった。
「やめてください。わたくしはもう誰の指示も受けません」
「ですが…!!」
「ここで騒いでは目立ちます。少し場所を変えましょうか」
ヴィンセントが進言すると、帽子の女はこくりと首を縦に振った。そして侍女に小さく告げる。
「どこの誰ともわからないのはわたくしの方です。この場所で名を晒していいのですか」
「……っ…!」
侍女は息を飲んで唇を閉ざす。
その様子をヴィンセントはただ黙って眺めていた。
移動した先はレアード商会の事務所だった。
一階の応接間に女を通す。侍女は部下に任せて、部屋には二人きり。
「職人をご希望されているんですか」
「わたくしはレース編みが得意です」
膝の上に揃えて置かれた手。白く滑らかな手だった。
女はこのところ平民街にふらりと現れては「職人になりたい」と触れて回った。顔を晒すことはなかったが、目につくものひとつひとつが、その辺の平凡な女ではないことを示している。極めつけは女を追いかけてくる侍女だ。明らかに上流階級の匂いがする。
そしてヴィンセントはこのところ虫の居所が悪かった。社交界でこそこそと囁かれる噂。庶民たちにはまだ公表されていない話。貴族たちは耳が早い。
「ひとつお伝えしなければいけません」
「なんでしょうか」
「レース編みは貴族の嗜みで、庶民にその文化はない」
「!!」
女は驚きに息を飲んで口許を押さえる。その仕草だけでもう美しい。
「あなたのお探しの仕事はどうがんばっても見つからないでしょう。どうしてそこまで職人になりたいのです?――メイヴェル様」
肩を強張らせた女は、そしてゆるゆると力を抜いた。折れそうなほど細い肩が、背中が、すっときれいに伸びる。
「わたくしのことをご存知でしたのね」
はらり。
大きな帽子を持ち上げると長い白金の髪がこぼれ落ちる。きらきらと、目も眩むような神々しさ。
透き通るアイスブルーの瞳がヴィンセントを捉えた。
「そうです。わたくしはメイヴェル・バーネット。バーネット侯爵家の長女です」
あまりの美しさに震えた。ヴィンセントは恭しく膝をつく。
「メイヴェル様、私はヴィンセント・レアード。このレアード商会の代表であり、辺境伯レアード家の三男でございます」
ヴィンセントの言葉に「ああ…」とメイヴェルは吐息混じりに頷く。
「貴族の方でしたか」
「第一王子の美しき婚約者様がなぜこんなところに?」
「あなたも貴族なら知っているでしょう?」
ふふ、と笑う横顔のなんという儚さ。
「殿下に捨てられた婚約者など跪く価値もないのですよ」
お座りになって、とメイヴェルは言う。
「あの噂は真実でしたか…」
「いまはまだわたくしとの婚約破棄の処理が落ち着いていないけれど、そう遠くない未来に殿下の新しい伴侶が発表されるでしょう」
「そんな話よりあなたのことです」
いまだ膝をついたままのヴィンセントが力強い視線でメイヴェルを見上げる。煌めくライトグリーンの瞳にメイヴェルはぱちりと瞬いた。
「あなたほど美しい人が下町で無防備に仕事を探し回られて、どこかに拐われてしまうとはお考えになられなかったんですか」
叱るようなヴィンセントの言葉に、メイヴェルは情けなく眉を下げた。
「拐われてしまいたかったのかもしれません」
「は?」
「もちろん恐ろしい思いはしたくないですが、わたくしはわたくしじゃない人間になってみたかったのです」
声量は押さえられていたが、緊迫した色は隠しきれていなかった。
明らかにどこかの屋敷の侍女といった様子の女が帽子の女を追いかける。旅用の質素なドレスを着て大きな帽子を被った女だ。髪は帽子の中に入れ込んでいるのだろう、細くて白いうなじが剥き出しで、白金の髪が一筋垂れている。
「あれか?」
「そうです」
部下の男の返事に頷きを返す。
全身黒を纏った背の高い男は、これまた黒の帽子をさっと直すと大きく一歩足を踏み出す。
「ごめんください」
女は服飾店の従業員に声をかけている。
「職人を雇ってはおりませんか?わたくしはレース編みができます」
「レース編み?なんだいそれ、かぎ針編みのことかい?この店じゃ職人は雇ってないよ」
「そうなんですか」
残念そうに肩を落とした女に向き直る相手。
「仕事を探してるなら――」
「失礼」
男は横から割り込んだ。
帽子の女の正面に立って見下ろす。顔は隠れていてわからない。
「職人の仕事を探しているのですか?」
「え、ええ、そうなんです。あなたは?」
「これは失敬。レアード商会のヴィンセントと申します。お仕事をお探しなら窺いますよ」
「そうそう!仕事を探しているならこの方に斡旋してもらえばいいよ!」
従業員の女が後ろから口を挟む。帽子の女は「斡旋…」と呟いた。花の色をした形のいい唇だった。
「お嬢様!」
帽子の女に追いついた侍女が声を荒げる。
「いけませんお嬢様!こんなどこの誰かもわからない者の話など…!」
「エステル」
女が静かに諌める。鈴の音のような声だった。
「やめてください。わたくしはもう誰の指示も受けません」
「ですが…!!」
「ここで騒いでは目立ちます。少し場所を変えましょうか」
ヴィンセントが進言すると、帽子の女はこくりと首を縦に振った。そして侍女に小さく告げる。
「どこの誰ともわからないのはわたくしの方です。この場所で名を晒していいのですか」
「……っ…!」
侍女は息を飲んで唇を閉ざす。
その様子をヴィンセントはただ黙って眺めていた。
移動した先はレアード商会の事務所だった。
一階の応接間に女を通す。侍女は部下に任せて、部屋には二人きり。
「職人をご希望されているんですか」
「わたくしはレース編みが得意です」
膝の上に揃えて置かれた手。白く滑らかな手だった。
女はこのところ平民街にふらりと現れては「職人になりたい」と触れて回った。顔を晒すことはなかったが、目につくものひとつひとつが、その辺の平凡な女ではないことを示している。極めつけは女を追いかけてくる侍女だ。明らかに上流階級の匂いがする。
そしてヴィンセントはこのところ虫の居所が悪かった。社交界でこそこそと囁かれる噂。庶民たちにはまだ公表されていない話。貴族たちは耳が早い。
「ひとつお伝えしなければいけません」
「なんでしょうか」
「レース編みは貴族の嗜みで、庶民にその文化はない」
「!!」
女は驚きに息を飲んで口許を押さえる。その仕草だけでもう美しい。
「あなたのお探しの仕事はどうがんばっても見つからないでしょう。どうしてそこまで職人になりたいのです?――メイヴェル様」
肩を強張らせた女は、そしてゆるゆると力を抜いた。折れそうなほど細い肩が、背中が、すっときれいに伸びる。
「わたくしのことをご存知でしたのね」
はらり。
大きな帽子を持ち上げると長い白金の髪がこぼれ落ちる。きらきらと、目も眩むような神々しさ。
透き通るアイスブルーの瞳がヴィンセントを捉えた。
「そうです。わたくしはメイヴェル・バーネット。バーネット侯爵家の長女です」
あまりの美しさに震えた。ヴィンセントは恭しく膝をつく。
「メイヴェル様、私はヴィンセント・レアード。このレアード商会の代表であり、辺境伯レアード家の三男でございます」
ヴィンセントの言葉に「ああ…」とメイヴェルは吐息混じりに頷く。
「貴族の方でしたか」
「第一王子の美しき婚約者様がなぜこんなところに?」
「あなたも貴族なら知っているでしょう?」
ふふ、と笑う横顔のなんという儚さ。
「殿下に捨てられた婚約者など跪く価値もないのですよ」
お座りになって、とメイヴェルは言う。
「あの噂は真実でしたか…」
「いまはまだわたくしとの婚約破棄の処理が落ち着いていないけれど、そう遠くない未来に殿下の新しい伴侶が発表されるでしょう」
「そんな話よりあなたのことです」
いまだ膝をついたままのヴィンセントが力強い視線でメイヴェルを見上げる。煌めくライトグリーンの瞳にメイヴェルはぱちりと瞬いた。
「あなたほど美しい人が下町で無防備に仕事を探し回られて、どこかに拐われてしまうとはお考えになられなかったんですか」
叱るようなヴィンセントの言葉に、メイヴェルは情けなく眉を下げた。
「拐われてしまいたかったのかもしれません」
「は?」
「もちろん恐ろしい思いはしたくないですが、わたくしはわたくしじゃない人間になってみたかったのです」
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