ストーキング ティップ

ろくろくろく

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午後1番の講義はドイツだった。
知らない間に増えて行くノートの書き込みに感謝しながら授業を終え、その足で打ち合わせによく使うスターバックスに向かった。

耳にはイヤホンを仕込み、黒江から送られて来たメロディを流してる。歌詞は鍵付きのPDFファイルがメールで届いていた。
目的のスターバックスまでは電車で15分、歩いて10分くらいの少し不便な場所にあるのだが、そこは黒江の自宅兼私設スタジオと近いのだ。

しかし、大学の講義室から駅までは歩いて20分くらい掛かる。
つまり1時間弱の間、同じメロディを聴いていると、もうすっかりと別の曲が頭を占めていた。

約束の時間よりも30分以上早く着いてしまいそうだからこの後また更に変わってしまうかもしれない。
目的のスターバックスが見えて来た頃、もうイヤホンは必要無いと耳から外した。

その時だった。
ガラスの自動ドアから出て来たスーツの男が足を踏み出した瞬間にハッと顔を上げて回れ右をした。

彼がそんな事をしなければ、すれ違っても気が付きもしなかったと思う。
しかし、明らかに人の顔を見て進路を変えたその行動がある事を思い出させた。

何事も無く歩いて行く後ろ姿には見覚えがあった。テレビの音楽番組を撮影した時にも見た男だ。
関係者しか入れない現場にいたって事は黒江と何らかの関係があるのだろうが、それよりも何よりも、いつどこで見かけたかを突然思い出した。

「あの人……前に…」

ガラス張りの店内には椅子に座り書類のようなものを吟味している黒江が見える。
しかし、モヤッと生まれた奇妙な不安が腹の底で蠢いて打ち合わせも音合わせもやる気が失せてしまった。

「ごめん」と心の中で黒江に謝り、折り返したのは大学だった。
何でも無い事なのだとわかっているが、不安なのだ、佐竹か誰かにクリスの試験会場はどこなのかを聞きたかった。

彼を知っていた。
彼と会っていた。

RENとしての活動現場で2度見かけたその男は夏休みに海まで出かけた時に車を運んで来てくれた人だ。
彼はクリスを社長と呼び、「私用で使って申し訳ない」と頭を下げるクリスに畏まっていた。
その時はポロシャツだったからすぐには結び付かなかったが、同い年くらいに見える若い風貌は今見たスーツで間違いない。

駅まで走って電車に飛び乗り、大学の真前にある駅に着いた時には吐き気を催すくらいになっていた。

ムカつく胸を抱えてノロノロと無駄に広い構内を歩いて見えてきた学生サロンのテラスに、そこにはいない筈の姿を見つけてしまった。
一段高いテラスの下に潜んだのは思わずだっだが、そんな事をしなければ良かった。


「賭はクリスの勝ちだな」

そう言って笑った佐竹が札のようなものを差し出すと、とてもよく知っている長い人差し指と中指の2本がサッと拐った。

「まさかとは思ったけどな」
「何が何でもモノにするって言ったろ?」

「芝居がかった告白」
「男相手」
「CMを決めた」
「会社を立て直す切り札」

そして「さすが社長」「何でも言いなり」

軽い冗談で笑い合う会話に具体的な固有名詞は一つも出て来ないが誰の事を話しているかは明白だった。
激しく胸を叩く心臓は耳の横で音を出しているように響いてくる。
しかし、吐き気はもう無かった。
潜む必要ももう無い。
座り込んでいたテラスの支柱に手を置いて、少し茶色くなった下草を千切って立ち上がった。


「蓮?!」

慌てたクリスの大声が聞こえた。
もう振り返るまいと思ったのに、小さな期待がどうしても消えない。
テラスの方を見ると木で出来た手摺りを身軽に乗り越えて走り寄ってくる。

「どうしたの?」って?
「何故ここにいるのか?」って?
本当に……何故なのだろう。

多分言い訳や弁解を並べているのかもしれないが声が音になって何も聞き取れない。
肩に掛かった手を振り払いたいのにそれも出来ずに困惑に歪んだ綺麗な顔を呆然と見つめた。

「蓮?熱があるのか?」

「………面白……かった?」

冷静になって考えれば笑えてくるくらい最初から全部がおかしかった。

クリスの目的は別にあったという事だろう。

望めばどんなモノだって手に入りそうなクリスが誰の目にも入ってない地味な透明人間を欲しがる訳は無い。
30人余りが聞いていた派手な告白劇の後に佐竹も、田代も、みんなも……あれからどうなった?と一度聞いた以降は何も言わなかったのも不自然だった。
つまりは、何も知らない馬鹿なボッチがその気になるかを賭けて遊んでいたのだ。
「蓮」と呼ぶ聞き慣れた声が益々遠くなって行くような気がした。

「どうしたの?デモ曲の収録に行くって言ってただろ?具合が悪いの?」

「そっちこそ……」

「何?」と聞くいつもの心配顔が空々しく感じるのはそれが本物では無いのだからだろう。
足の先からパキパキと音を立てて凍って行くような気がする。

「司法試験は?……行ってないの?」
「それは…外せない仕事が入って…」
「外せない用……なんだろうね、でも不味かったみたいだね」
「蓮…今のは……」

本当に可笑しい。
自分にもオロオロするクリスにも笑える。

「利用したんだね」
「違……」
「テレビの話を聞いた時も……CMの時も……真城がさ…不思議がってたよ、いつも一緒にいるくせにクリスは来ないんだなって……」
「蓮、落ち着いて」
「利用したんだ!!」

自分の出した声なのに他の誰かが耳元で叫んだように聞こえた。
息苦しくて肩が踊る。
立っているのが辛かった。
それでも言わなければならない、やらなければならない。

「黒江さんも知ってる事なんだね、そんな顔をしなくてもCMはやるから心配しないでいいよ、これはビジネスなんだろ?わかってるから」
「蓮、蓮、聞いて、今のは冗談だよ?ちょっとした悪ふざけに付き合っただけで…」

「言い訳は……もういいから」

違うとでも言いたげに首を振るがクリスには何も言えないのだ。

クリスが興した会社はギガックスだ。
今思えばギガックスのプロフィールとクリスから聞いた起業会社の断片は全て合致している。
若い身で全ての責任を負うのは大変だろう。
社員を養わなければならない義務もある、金銭の絡む関係者も多数いる筈だ。

「でもね、そこで終わりだ。もう2度と俺に触らないで、話しかけないで、目を合わせないで、姿を見せないで」

どっちしろストーキングの目的は既に達成している。彼にとったら仕事なのだからそりゃ熱心にもなるだろう。
今考えたら部屋の鍵もうまい時期に返して来たものだと思う。
そういう事なのだ。

肩に乗った手を払う事も煩わしい、そのまま何も言わないクリスに背中を向けて歩き出した。
青くなって立ち尽くしている佐竹達の姿はあまりにも滑稽で笑いさえ生まれてくる。
彼には………彼らには何も言えないのだ。
追っても来ない。
それで良かった。
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