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栗栖と黒江のいい大人が真面目な顔を2つ並べて「あ"ー」と鳴く、鶏のおもちゃに音階を付けて稚拙な演奏を繰り広げていた。
曲目は調子っ外れ且つ異様に遅いWe will Lock youだ。
ミキサーなどの操作が分かる人材など他にいないからPAは無人になっている。
「何だこりゃ」
何の為にこんな事をするのか皆目見当も付かない。座ったまま前を見上げて動かない蓮の隣に座って珍しく必死になっている栗栖を眺めた。
「ウケてるからいいけど蓮はやりにくく無い?」
もしかしたら栗栖がステージを降りた途端ドッと観客が減ってしまうかもしれないのだ。
いい気味だと思う気持ちと気の毒に思う気持ちがない混ぜになって前を見たまま話しかけた。
お疲れ様とか、良かったとか、ステージの感想を期待していたのもある。
しかし、暫く待っても返事が無かった。
「蓮?」
耳元に口を寄せて呼んでみたが、まるで何も耳に入って無いように前を見つめたまま瞬きすらしない。もしかしたら極度の緊張に見舞われて固まってしまったのかと思っていたら、まだ演奏が続き、歓声と嬌声と笑い声が入り混じる中、空気を読まない乱入者のようにふいっとステージに上がって行く。
どうせ始まりも終わりも無い飲み会の余興みたいな物だった。
適当にフィニッシュを決めてステージから降りて来た栗栖が蓮のいた場所に座った。
「何だろ、蓮はあがっているんですかね」
「さあ?僕もライブ前の蓮は見た事が無いからわからないよ」
「ライブ前は見た事が無いって……ライブは見た事があるんですか?」
「見てなきゃ僕はここにいないよ、何かゾーンに入っているように見えるね」
「ゾーンって……」
まるで気取った大御所のパフォーマンスのような事を言われて笑いそうになった。やはりただ単にあがっているだけだと思えて、意識し過ぎていた事にやっぱり笑えた。
「俺はビールでも取ってきます」
「水ならここにあるからそれで我慢して、それよりも右側にある柵のポールに付いて、僕は真ん中、あっちのポールは誰かを呼ぼう」
「そんな必要は無い」と言い掛けた時、いきなりだった。カウント一つ聞こえなかったのに重低音のベース、ガツンと殴り込むようなドラム、そして驚くような声量に襲われて口が開いた。
不意打ちを喰らったのは観客も同じだ。
一斉に集まって来た視線は驚きで埋め尽くされている。
「え?……これは…蓮?…」
普段の蓮がボソボソと話す声とはまるで違う。
これはよくある事なのだがそれでも鮮烈だった。
もしかして何某かのエフェクトかPAの方にカラクリがあるのでは無いかと思わず振り返ったが、ステージの真前にいたせいでそれは失礼ないいかがりなのだとわかってしまう。
「凄え……」
気持ちいいくらい難なく上がる高音、少しハスキーなのに少年のように透き通る声、かなり自己主張の強いバック演奏に負けない声量は明らかに商品価値があるように思える。
そして、リードギターも無いままでまともに演れるのかと半分馬鹿にしていたのだが侮っていた。
演奏レベルの高さと一回聞いただけでも耳に残る楽曲は、激しい転調とワンフレーズの中に組み込まれた音階の高低差の作る完成度がプロにも見劣りしない。
こんな場所で、しかも無料で聞けている事自体が不思議だった。
「これ……シングルとして売り出したら売れるよな」
もう既に世に出ている既存のヒットを聞いているような錯覚を覚える。
大きく溝を開けられたレベルの違いに嫉妬や批判的な感情はもう持ち得なかったが……
ただ、ただ悔しくて拳を握った。
これだけの声を持ちながら出来ないと繰り返し、やる気の欠片も見せて来なかったのは何なのだ。
本当にわかってないのか?
それとも謙遜やフリなのか?
そんな蓮の前で偉そうな講釈を垂れていた自分を思い出すと顔から火が出そうだった。
「クソ……」
一回頭でも丸めて出直そうかとワックスで固めた髪をグシャグシャと掻き回していると、ドンッと肩を叩かれた。
何だと思えば栗栖が口を寄せて来た。
「ちゃんと前を見てて」
「見てますよ、プロが作った曲は流石ですね」
「うん、やっぱりあがっているのかな?まだまだ整然としているね」
「え?」
溢れるような音に紛れて聞こえなかったのか、答えが違う。驚いた顔に栗栖も驚いたようだった、お互いに聴こえてないと勘違いしたのか「え?」と口の代わりに耳が寄って来た。
「黒江さんの曲は凄いですね!」
「違うよ、黒江じゃない、RENの曲は全部蓮の作曲だよ、歌詞も蓮の作った物が素になってる」
「……え?蓮?蓮の曲は蓮がって何ですか?」
「そんな事はいいから前を見て、蓮が笑い出したら柵を支えて、笑いが消えたら注意して」
「注意って」
「どうなるかは僕も知らない」と言われたら何に注意をすればいいのだ。
ただでも新事実に打ちのめされていたのに意味のわからない事を言われては真剣に受け取れない。
しかし、そのまま一曲目が終わり、ワンテンポも間を取らずに始まった二曲目で「注意しろ」の一端がわかった。
蓮が笑っている。
笑うと言ってもにっこりとしているわけでは無く、嬉しい、楽しいと伝わってくるような顔だ。
その途端、狭かった蓮のセルフフィールドが大きく膨れ、見えない羽根に横殴りされたように感じた。
ハイテクニックなベースとドラムが観客を乗せて行く。
蓮の持つ巨大な吸引力に魅せられた観客がジリジリと前に出て来ていた。
これは不味いと直感が告げていた。
「栗栖さん!応援を呼んできます!!」
「頼む」と言う栗栖の声を背中で聞きながら走ったのは控え室にいる筈のバンドメンバーだ。
蓮の奇跡のような歌を聞き逃して欲しく無かったのだが「早く」とせき立て先に戻ったのは自分が聞き逃したく無かったからだ。
戻った時にはもう既にギリギリだった。
3本あるうちの真ん中のポールを背中で抑える栗栖がいた。
「すいません!他の奴らもすぐ来ます!」
蓮の演る曲は驚く程音が多く派手だった。何よりも観客が騒がしいのだ、恐らく栗栖には聞こえてないがそれでも構わない。
蓮を見たかった、歌が聴きたかった、集中したかった。
「凄い……」
観客達は本当に通りすがりか冷やかしばかりだったのだ。飲みの会場に選んだだけとも言える。
しかも全く知らない楽曲なのにこれだけの耳を集めるなんて凄いとしか言いようが無かった。
五感を持っていかれるとはこんな状態を言うのかもしれない。蓮が手を上げると観客も手を上げる。蓮が飛ぶと観客も飛ぶ。
巻き込んでいく、巻き込まれていく、心を、感性を奪い取られていく。
出来ないなどと何故言ったのか。
噛み付くような激しさと、透き通るような純粋さを兼ね備えた美しい歌声が妬ましい。
つまらなさそうに大学で過ごす暇があるならやるべきことがあるだろうに。
この先素直に蓮の応援が出来るかと聞かれたらわからないが、目を離し、見なかった事に出来るとは思えない。
「チクショー!!チクショー、チクショー!!」
どうせ誰にも聞こえないのだ。
遠慮無く叫んでいると、ひと息つく間も無く次の曲に入った。これで4連続なのだが、そこで一際大きな歓声が沸き起こった。
「え?え?何?何?」
嘘みたいだが、広場の奥の奥の方角、つまり広場を出た通路の方まで人が集まっているようだ。
抑えている弱々しいチェーンの仕切りからグッと押し出される感覚にゾォっと背中が震えた。
押し寄せている。
もしも、なけなしの柵が持ち堪えなければ将棋倒しになる可能性があるくらい押し寄せている。
蓮の声に合わせて歌う奴がいるって事はどうやら観客の一部には知られた曲らしい。
「何だよ……ちゃんと歌を出してんじゃん!!」
観客と一緒に蓮の世界に浸りたかった。
しかし少しでも力を抜けば事故につながりかねない状況になっている。
もしかしたら中止すべき事態なのでは無いかと思い始めた時、蓮の顔を見てハッとした。
笑顔はとうに消えていた。
代わりに浮かんでいたのは激しい興奮と飢えのような切迫感だった。
パンッ!と振り上げた髪からちぎれるように飛んだ汗は弧を描いて散らばっていく。
殆どトランス状態にさえ見えた。
「蓮?……」
息を飲むような迫力はどんどん威力を増して会場全体を飲み込んでいっている。
同じ講義を取る同期の誰かに「あれは誰だ?」と聞きたいくらい普段の蓮とは違う顔をしていた。
間奏の合間にペロリと舌を出しゆっくりと唇を舐める仕草や、全てを見下しているように見える流し目、汗で張り付くのが嫌なのか、裾から入れた手がTシャツを捲り上げている。
チラ見する腹の下に手を差し入れたりしないかとハラハラさせられた。
もし栗栖に聞かれたら今度こそ殴られそうだが妖艶で妖しげで……はっきり言えばエロかった。
「どう考えても……どう聞いても…プロになるよな」
しかも早々に…だ。
蓮にその気がないとしても周りが放っておく訳がない。プロが出張って来ているのはそういう意図があったからだ。
もしかして、蓮が進んで行く道の中でもこのライブは伝説になるのではないか……と、何だか思えて泣きそうになっていた時だった。
蓮に合わせて歌っていた観客の声が完全に外れた。
プロの黒江は一瞬でリカバリーをして見せたが、ベースもズレた事から蓮が間違ったのかと思ったのだがどうやらそれも違う。
「アレンジ?」
多くの観客を前にした本番で何をしているのか。
広場から溢れているとなると既に300人~500人か、あるいはもっと集まっている。
300と言えばそれなりの認知度とラジオで流れるヒット曲を持つレベルでないと埋まらない集客数になる。
しっかりしろと言いたかったのに、その前に「僕を見て!」と叫ぶクリスの声に先を越された。
聞こえて無かったが何回もそう言っていたようだ。どうやら同じタイミングで蓮にも届いたらしい、何とか軌道を修正して持ち直したようにそのまま乗り切った。
そして5曲目に入った。
一口の水も補給しないままでよく保つなと思うが止めたくても止められないのだろう。
観客の熱量も今や最高潮だ。
誰かが気付いてくれたのか柵を抑える人員は7、8人に増えている。
蓮の歌は既に神がかって見えた。
「僕を見て」と言う栗栖の声は最早届いてはいない。明らかにアドリブで編曲しているのに付いて行っているバックはさすがだが蓮は暴走の域に入っていた。
しかし、それがわかるのは素人なりに音楽をやって来たからだろう、蓮の作り出した大きな波に飲み込まれている観客には関係無かった。
ダン!!っと足を落とした蓮が両手を広げ、空に向かって大きく叫んだ。
バック演奏は無視しているのだが聞き惚れてしまう美しい声だ。
釣られるように観客も空に向かっている吠えている。
続けて2回目は音階が変わって少し高い。
3回目は最早素人に出せる音域では無い。
目眩を覚えた。
ザワァと湧いた鳥肌が体を横断していく。
そのまま突然戻ったメロディに合わせるようにブンと振り上がったのはマイクスタンドだ。
「蓮?……」
ギクリとした。
上り詰めた高揚と瞬きを忘れる程の興奮の中、蓮が何をしようとしているのかわかってしまった。
慣性に乗って振り戻ってくるマイクスタンドは鉄とステンレス製だ。
「ちょっと…うわ!!やめろっ!!やめろぉ!!」
瞬時に動けたのは半分腰が浮いていたからだ。
今、正に客席の方に向かって投げられようとしていたマイクスタンドごと蓮に飛びついた。
曲目は調子っ外れ且つ異様に遅いWe will Lock youだ。
ミキサーなどの操作が分かる人材など他にいないからPAは無人になっている。
「何だこりゃ」
何の為にこんな事をするのか皆目見当も付かない。座ったまま前を見上げて動かない蓮の隣に座って珍しく必死になっている栗栖を眺めた。
「ウケてるからいいけど蓮はやりにくく無い?」
もしかしたら栗栖がステージを降りた途端ドッと観客が減ってしまうかもしれないのだ。
いい気味だと思う気持ちと気の毒に思う気持ちがない混ぜになって前を見たまま話しかけた。
お疲れ様とか、良かったとか、ステージの感想を期待していたのもある。
しかし、暫く待っても返事が無かった。
「蓮?」
耳元に口を寄せて呼んでみたが、まるで何も耳に入って無いように前を見つめたまま瞬きすらしない。もしかしたら極度の緊張に見舞われて固まってしまったのかと思っていたら、まだ演奏が続き、歓声と嬌声と笑い声が入り混じる中、空気を読まない乱入者のようにふいっとステージに上がって行く。
どうせ始まりも終わりも無い飲み会の余興みたいな物だった。
適当にフィニッシュを決めてステージから降りて来た栗栖が蓮のいた場所に座った。
「何だろ、蓮はあがっているんですかね」
「さあ?僕もライブ前の蓮は見た事が無いからわからないよ」
「ライブ前は見た事が無いって……ライブは見た事があるんですか?」
「見てなきゃ僕はここにいないよ、何かゾーンに入っているように見えるね」
「ゾーンって……」
まるで気取った大御所のパフォーマンスのような事を言われて笑いそうになった。やはりただ単にあがっているだけだと思えて、意識し過ぎていた事にやっぱり笑えた。
「俺はビールでも取ってきます」
「水ならここにあるからそれで我慢して、それよりも右側にある柵のポールに付いて、僕は真ん中、あっちのポールは誰かを呼ぼう」
「そんな必要は無い」と言い掛けた時、いきなりだった。カウント一つ聞こえなかったのに重低音のベース、ガツンと殴り込むようなドラム、そして驚くような声量に襲われて口が開いた。
不意打ちを喰らったのは観客も同じだ。
一斉に集まって来た視線は驚きで埋め尽くされている。
「え?……これは…蓮?…」
普段の蓮がボソボソと話す声とはまるで違う。
これはよくある事なのだがそれでも鮮烈だった。
もしかして何某かのエフェクトかPAの方にカラクリがあるのでは無いかと思わず振り返ったが、ステージの真前にいたせいでそれは失礼ないいかがりなのだとわかってしまう。
「凄え……」
気持ちいいくらい難なく上がる高音、少しハスキーなのに少年のように透き通る声、かなり自己主張の強いバック演奏に負けない声量は明らかに商品価値があるように思える。
そして、リードギターも無いままでまともに演れるのかと半分馬鹿にしていたのだが侮っていた。
演奏レベルの高さと一回聞いただけでも耳に残る楽曲は、激しい転調とワンフレーズの中に組み込まれた音階の高低差の作る完成度がプロにも見劣りしない。
こんな場所で、しかも無料で聞けている事自体が不思議だった。
「これ……シングルとして売り出したら売れるよな」
もう既に世に出ている既存のヒットを聞いているような錯覚を覚える。
大きく溝を開けられたレベルの違いに嫉妬や批判的な感情はもう持ち得なかったが……
ただ、ただ悔しくて拳を握った。
これだけの声を持ちながら出来ないと繰り返し、やる気の欠片も見せて来なかったのは何なのだ。
本当にわかってないのか?
それとも謙遜やフリなのか?
そんな蓮の前で偉そうな講釈を垂れていた自分を思い出すと顔から火が出そうだった。
「クソ……」
一回頭でも丸めて出直そうかとワックスで固めた髪をグシャグシャと掻き回していると、ドンッと肩を叩かれた。
何だと思えば栗栖が口を寄せて来た。
「ちゃんと前を見てて」
「見てますよ、プロが作った曲は流石ですね」
「うん、やっぱりあがっているのかな?まだまだ整然としているね」
「え?」
溢れるような音に紛れて聞こえなかったのか、答えが違う。驚いた顔に栗栖も驚いたようだった、お互いに聴こえてないと勘違いしたのか「え?」と口の代わりに耳が寄って来た。
「黒江さんの曲は凄いですね!」
「違うよ、黒江じゃない、RENの曲は全部蓮の作曲だよ、歌詞も蓮の作った物が素になってる」
「……え?蓮?蓮の曲は蓮がって何ですか?」
「そんな事はいいから前を見て、蓮が笑い出したら柵を支えて、笑いが消えたら注意して」
「注意って」
「どうなるかは僕も知らない」と言われたら何に注意をすればいいのだ。
ただでも新事実に打ちのめされていたのに意味のわからない事を言われては真剣に受け取れない。
しかし、そのまま一曲目が終わり、ワンテンポも間を取らずに始まった二曲目で「注意しろ」の一端がわかった。
蓮が笑っている。
笑うと言ってもにっこりとしているわけでは無く、嬉しい、楽しいと伝わってくるような顔だ。
その途端、狭かった蓮のセルフフィールドが大きく膨れ、見えない羽根に横殴りされたように感じた。
ハイテクニックなベースとドラムが観客を乗せて行く。
蓮の持つ巨大な吸引力に魅せられた観客がジリジリと前に出て来ていた。
これは不味いと直感が告げていた。
「栗栖さん!応援を呼んできます!!」
「頼む」と言う栗栖の声を背中で聞きながら走ったのは控え室にいる筈のバンドメンバーだ。
蓮の奇跡のような歌を聞き逃して欲しく無かったのだが「早く」とせき立て先に戻ったのは自分が聞き逃したく無かったからだ。
戻った時にはもう既にギリギリだった。
3本あるうちの真ん中のポールを背中で抑える栗栖がいた。
「すいません!他の奴らもすぐ来ます!」
蓮の演る曲は驚く程音が多く派手だった。何よりも観客が騒がしいのだ、恐らく栗栖には聞こえてないがそれでも構わない。
蓮を見たかった、歌が聴きたかった、集中したかった。
「凄い……」
観客達は本当に通りすがりか冷やかしばかりだったのだ。飲みの会場に選んだだけとも言える。
しかも全く知らない楽曲なのにこれだけの耳を集めるなんて凄いとしか言いようが無かった。
五感を持っていかれるとはこんな状態を言うのかもしれない。蓮が手を上げると観客も手を上げる。蓮が飛ぶと観客も飛ぶ。
巻き込んでいく、巻き込まれていく、心を、感性を奪い取られていく。
出来ないなどと何故言ったのか。
噛み付くような激しさと、透き通るような純粋さを兼ね備えた美しい歌声が妬ましい。
つまらなさそうに大学で過ごす暇があるならやるべきことがあるだろうに。
この先素直に蓮の応援が出来るかと聞かれたらわからないが、目を離し、見なかった事に出来るとは思えない。
「チクショー!!チクショー、チクショー!!」
どうせ誰にも聞こえないのだ。
遠慮無く叫んでいると、ひと息つく間も無く次の曲に入った。これで4連続なのだが、そこで一際大きな歓声が沸き起こった。
「え?え?何?何?」
嘘みたいだが、広場の奥の奥の方角、つまり広場を出た通路の方まで人が集まっているようだ。
抑えている弱々しいチェーンの仕切りからグッと押し出される感覚にゾォっと背中が震えた。
押し寄せている。
もしも、なけなしの柵が持ち堪えなければ将棋倒しになる可能性があるくらい押し寄せている。
蓮の声に合わせて歌う奴がいるって事はどうやら観客の一部には知られた曲らしい。
「何だよ……ちゃんと歌を出してんじゃん!!」
観客と一緒に蓮の世界に浸りたかった。
しかし少しでも力を抜けば事故につながりかねない状況になっている。
もしかしたら中止すべき事態なのでは無いかと思い始めた時、蓮の顔を見てハッとした。
笑顔はとうに消えていた。
代わりに浮かんでいたのは激しい興奮と飢えのような切迫感だった。
パンッ!と振り上げた髪からちぎれるように飛んだ汗は弧を描いて散らばっていく。
殆どトランス状態にさえ見えた。
「蓮?……」
息を飲むような迫力はどんどん威力を増して会場全体を飲み込んでいっている。
同じ講義を取る同期の誰かに「あれは誰だ?」と聞きたいくらい普段の蓮とは違う顔をしていた。
間奏の合間にペロリと舌を出しゆっくりと唇を舐める仕草や、全てを見下しているように見える流し目、汗で張り付くのが嫌なのか、裾から入れた手がTシャツを捲り上げている。
チラ見する腹の下に手を差し入れたりしないかとハラハラさせられた。
もし栗栖に聞かれたら今度こそ殴られそうだが妖艶で妖しげで……はっきり言えばエロかった。
「どう考えても……どう聞いても…プロになるよな」
しかも早々に…だ。
蓮にその気がないとしても周りが放っておく訳がない。プロが出張って来ているのはそういう意図があったからだ。
もしかして、蓮が進んで行く道の中でもこのライブは伝説になるのではないか……と、何だか思えて泣きそうになっていた時だった。
蓮に合わせて歌っていた観客の声が完全に外れた。
プロの黒江は一瞬でリカバリーをして見せたが、ベースもズレた事から蓮が間違ったのかと思ったのだがどうやらそれも違う。
「アレンジ?」
多くの観客を前にした本番で何をしているのか。
広場から溢れているとなると既に300人~500人か、あるいはもっと集まっている。
300と言えばそれなりの認知度とラジオで流れるヒット曲を持つレベルでないと埋まらない集客数になる。
しっかりしろと言いたかったのに、その前に「僕を見て!」と叫ぶクリスの声に先を越された。
聞こえて無かったが何回もそう言っていたようだ。どうやら同じタイミングで蓮にも届いたらしい、何とか軌道を修正して持ち直したようにそのまま乗り切った。
そして5曲目に入った。
一口の水も補給しないままでよく保つなと思うが止めたくても止められないのだろう。
観客の熱量も今や最高潮だ。
誰かが気付いてくれたのか柵を抑える人員は7、8人に増えている。
蓮の歌は既に神がかって見えた。
「僕を見て」と言う栗栖の声は最早届いてはいない。明らかにアドリブで編曲しているのに付いて行っているバックはさすがだが蓮は暴走の域に入っていた。
しかし、それがわかるのは素人なりに音楽をやって来たからだろう、蓮の作り出した大きな波に飲み込まれている観客には関係無かった。
ダン!!っと足を落とした蓮が両手を広げ、空に向かって大きく叫んだ。
バック演奏は無視しているのだが聞き惚れてしまう美しい声だ。
釣られるように観客も空に向かっている吠えている。
続けて2回目は音階が変わって少し高い。
3回目は最早素人に出せる音域では無い。
目眩を覚えた。
ザワァと湧いた鳥肌が体を横断していく。
そのまま突然戻ったメロディに合わせるようにブンと振り上がったのはマイクスタンドだ。
「蓮?……」
ギクリとした。
上り詰めた高揚と瞬きを忘れる程の興奮の中、蓮が何をしようとしているのかわかってしまった。
慣性に乗って振り戻ってくるマイクスタンドは鉄とステンレス製だ。
「ちょっと…うわ!!やめろっ!!やめろぉ!!」
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そして、モテすぎて業務過多状態に陥る。
弁当争奪戦、放課後のデート攻勢…悠真の平穏は完全に崩壊。
そんな中、唯一冷静な男・藤崎颯斗の存在に救われる。
颯斗はやたらと落ち着いていて、悠真をさりげなくフォローする。
「お前といると、楽だ」
次第に悠真の中で、彼の存在が大きくなっていき――。
「お前、俺から逃げるな」
颯斗の言葉に、悠真の心は大きく揺れ動く。
転生×学園ラブコメ×じわじわ迫る恋。
これは、悠真が「本当に選ぶべきもの」を見つける物語。
続編『元社畜の俺、大学生になってまたモテすぎてるけど、今度は恋人がいるので無理です』
かつてブラック企業で心を擦り減らし、過労死した元社畜の男・藤堂悠真は、
転生した高校時代を経て、無事に大学生になった――
恋人である藤崎颯斗と共に。
だが、大学という“自由すぎる”世界は、ふたりの関係を少しずつ揺らがせていく。
「付き合ってるけど、誰にも言っていない」
その選択が、予想以上のすれ違いを生んでいった。
モテ地獄の再来、空気を読み続ける日々、
そして自分で自分を苦しめていた“頑張る癖”。
甘えたくても甘えられない――
そんな悠真の隣で、颯斗はずっと静かに手を差し伸べ続ける。
過去に縛られていた悠真が、未来を見つめ直すまでの
じれ甘・再構築・すれ違いと回復のキャンパス・ラブストーリー。
今度こそ、言葉にする。
「好きだよ」って、ちゃんと。
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