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エピソード1
しおりを挟む俺は江越隆文。奥田製薬の営業部に勤めて丸2年の3年目。
突然で申し訳ないが俺は今、猛烈に呆気に取られていた。「猛烈」に「呆気に取られる」とは?
少し語彙が変なのだがそうなのだから仕方が無い。目前に見えている光景が本当に現実なのかと目を擦っている途中だ。
空からはサヤサヤと細い雨が落ちていた。
冬用のビジネスコートはクリーニングに出してしまったが夜になると息はまだ白い。今はそんな季節だ。
死戦だった期末の繁忙期を乗り越え、無事生還を祝う為に同僚で同期の矢田と2人で、軽く一杯呑んでから店を出てきた所だった。
埋まっている。
道路の角にある植え込みの中に水嶋が埋まっている。それはいつか見た光景とまるで同じ、まだほぼ知らない人だった2年前と同じだった。
水嶋とは。
同じ会社、つまり奥田製薬の同僚で先輩で上司、しかも営業部不動の絶対的エースである。
今、「エース」と一口に纏めたが水嶋は「エース」という語彙から連想するクレバーでスクエアなイメージとは程遠い。兎に角ガツガツと、兎に角喧々と、何にそこまで駆り立てられるのか、神に与えられた使命と言わんばかりにムキになってまで仕事をする人だ。
今季、奥田製薬の純利益はとうとう300億を超えた。それは水嶋1人が大層な売り上げを積み立てているおかげと言っても過言では無いのだが、働き過ぎの反動はある。
それがこれだ。
プラベートなど無いに等しい生活をしている水嶋は、時々浴びるように酒を飲み酩酊する。
その性質を知ってからは注意して見張っているのだが、水嶋の仕事に常に付いて回るなんて出来る訳がない。今日は要注意の金曜日なのだが取り引き先と食事に行くと聞いていたから油断していたのだ。
「水嶋さんだな」
少し遅れて矢田も水嶋に気付いたようだ。
物珍しい物を検分するように「ふーん」と腕組みをした。
「ああ、水嶋さんだな」
「寝てるな」
「ああ、寝てる」
「どうする?」と矢田。
どうするって…そりゃ勿論拾って持って帰るけど、その事は矢田には言わない。
「起きてもらうしか無いだろうな、深く埋まってるから足場も悪いし、持ち上げるったって水嶋さんも男だから重いだろ」
「俺がやろうか?」
「いや、俺のもんだから」
「………」
「………え?何か言ったか?」
「言ってない、俺が何とかするから矢田は帰っていいよ、じゃあな、また月曜」
雨に濡れているのも前回と同じ、春に向けて伐採されたつつじに埋もれているのも前回と同じだ。
腕を取って引っ張り上げると、熟睡していかに見えた水嶋は「うぅ」と唸り声を上げ、薄目を開けた。
「あれ?起きたかな」
「起きてないよ」
「いや、今唸っただろ、江越、お前それをどうする気だ?水嶋さんの家を知ってるのか?」
「……大丈夫だ、俺に任せてくれ、遠慮しないで矢田は帰れよ」
寝てようが起きていようがどっちでもいいのだ。
まだ時間は早いからタクシーは列を成して客待ちをしている、数メートル引き摺れば何とかなる。
また目を伏せて寝ようとする体を持ち上げ、だらんと垂れた腕を肩に担いだ。
もう一回「じゃあな」と矢田を切る。
「水嶋さんってプラベートが謎だよな」
「………」
何回も「帰れ」と言ったのに…。
矢田と別れて見えなくなってからタクシーに乗りたいのに。ここで別れても不自然では無いのに、矢田は何故か後を付いてくる。
耳にイヤホンを仕込んだ所を見ると手伝う気も会話をする気は無いらしい、それなのに付いてくる。
矢田とは同期で同い歳で営業成績を競う仲ではあるが友達では無い。
どっちにしろここで別れて帰るつもりだったのだ。
「………帰れよな…」
「いや、水嶋さんをどこかに放り込むんだろ?面白そうじゃん」
音楽を聞いてんじゃないのかよ。
「どこか…じゃ無くて俺の部屋に連れて行くから矢田は帰れ」
「へえ、そう、じゃビールでも買ってく?」
「………」
「…………いや、やっぱ水嶋さんのマンションに連れて行く、矢田は帰っていいから」
「へえ、江越は水嶋さんのマンションを知ってんだ、何?入った事ある?どんなとこ?ちょっと楽しみだな」
「………」
「…………遠いからやめといた方がいいと思う」
「え?遠いってどこ?」
「……国後島…」
「そんなに北なのか」
「明日休みだから構わない」って…
ボケたら突っ込め。
「矢田は水嶋さんが嫌いなんだろ?俺に気を使わなくていいぞ、帰れ」
「嫌いじゃねえし、ムカつくだけだ」
「今は寝てるけど起きたらムカつくぞ、ウザいぞ、怒鳴るぞ、喚くぞ、吐くぞ、寝るぞ」
「寝るならそんでいいじゃん」
「水嶋さんの部屋には何も無いぞ、汚ねえぞ、あるのはベッドと机と玉になってる埃だけだぞ」
「へえ、やっぱり部屋に入った事あんだな、まあ江越は水嶋さんと仲いいもんな、何?プライベードでもこき使われているとか?」
「ああ、自家用フォークリフトがあるくらいだからな、付いてきたら土曜出勤になるぞ」
「うお、それなら余計見たい」と矢田。
正体を無くした水嶋を肩に担いだ今の状態では残念ながら走って逃げるのは無理だ。
それよりも何よりも、腕一本でぶら下がっている水嶋のジャケットからズルズルと袖が抜けていく。今は何とか引っ掛かっている状態なのだ。ボタンが飛んだら中身が抜けて落ちてしまう。
手首を掴んで担ぎ直すと、ブチンと音がした。
矢田はモスキートトーンでも聞いてるのか?って思った。イヤホンをしているくせにボタンの千切れる小さな音を拾って「あ~あ」と笑う。
「水嶋さんってインナー着ないんだな、うわあ乳首が透けてる、普通なら引くけど……」
「何だか色っぽい」………だと?
もうこの際だから鼻を潰して逃げてやろうかと思う。しかし、恐らく、絶対、矢田の方が強い、文化系を極めた俺に出来る事はもうこれしかない。
「矢田、悪いけどそこのコンビニでビールと水を買ってきてくれないか?」
「ああ、そうだな、発砲酒でいいか?ツマミは?さっきはビールしか飲んでないから何かしっかりしたもん買う?」
返事は笑顔でいいだろう。
起きているのか寝ているのか、「俺は……チーズタラ」と寝言のようにムニャムニャと呟いた水嶋の腰を抱え、肩に乗せた腕を引っ張っり背中に乗せた。
そして矢田がコンビニのドアを潜ったらダッシュだ。手近なタクシーを拾って飛び乗る。
白い光を煌々と放つコンビニの店内に矢田が見えた。熱心に何かを選んでいるらしい背中にバイバイと手を振ると、発車したタクシーの車窓からはあっという間に邪魔者は消えた。
うん。
何も「一緒に飲もう」とは一言も行ってない、ビールを買ってきてくれと頼んだだけだ。
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