赤くヒカル夜光虫

ろくろくろく

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番外編  続きとも言います。

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松本は身が縮むような思いで両手を前で組み、人差し指をコショコショ合わせていた

野島部長は一言も口をきかず企画書と報告書に目を通しながら小さな唸り声をあげるばかりだ



野島は松本に企画だけを立てさせ経験を積ませるだけのつもりだった

会議で言ったように、松本の持ち込んだ企画はTOWAにとってあまりにも畑違いでリスクが大きい上に次に繋がる訳ではない

毎日深夜まで居残り、時には家にも帰らず取り組んでいた事は知っている、実現の可能性はほぼ無いが企画を立てる経験は無駄にはならない、やるだけやらせて褒めてやればいいと見守っていると、会場の当たりをつけている段階で深川が余計な手を出した

テレビ局に勤める個人的な知合いから広大な敷地で行われる辛いものを集めた食のイベントに出展という形で捩じ込んでしまった

まだ予算もわからない、何より松本が勝手に構想を描いただけの青写真は、技術的に可能かどうかさえわからない

会場の真ん中に濾過した水を引いて簡易プールを作ると言っても、素材も、設計も何もかも白紙のままだ


「松本……」

「……はい」

「社長室に行くぞ」

「え?今からですか?」

「時間が無い、もたもた言いあぐねてる場合じゃ無いだろ」

急に具体的になってまだまだ詰めなければならないことは山程あるのに先に日取りが決まってしまった

「早い方がいいだろう、もう日もない……覚悟を決めろ、ブラック企業も舌を巻くほど益々寝れないぞ」

「はい!」




「野島部長がOKを出したのなら私に言う事は何も無いです、進めてください」

「……社長……」



もう引き返せない所に来てしまったが……駄目だと言われると思っていた、むしろ言って欲しいとも思っていたぐらいだ

違う言葉を期待していた

"何も言う事がない"つまりは責任はお前が持てと言われたような物だが、この話は社内で完結出来るような規模じゃない

ノウハウが何も無い為、外部のイベント会社に手を借りる必要もあるし、浄水器のテストもしなければならない、つまりは猶予無く多額の資金を必要としている


「しかし、銀行に頭を下げても果たしてうんと言ってもらえるか……」

「予算の話ですか?」

「勿論そうです、そこが一番の問題です、初動から纏まった大金が必要になるでしょう……いくら必要かも全く読めない」

「用意はある程度出来ています、もし足りなければ……」
「駄目ですよ、社長」

隣で黙って話を聞いていた渡辺が続きを読んで割り込んできた

「別にいい」

「あっちはあっち、こっちはこっちです」

「それなら……」
「もっと駄目です、公私混同は破綻の元です」

要点を隠しているのか、ただ省略が行き過ぎてるのか、どちらかはわからないが話の内容は見えた

つまり雪斗は私財を持ち出すつもりだったらしい

口に出すより先に、渡辺にバっサリ刈り取られ、机の上に組んだ手をモジモジと捏ねて困ったように眉を下げた

「駄目だって……」

「私も反対です、根本的に間違ってるでしょう」

今の松本と変わらない歳の頃……目の当たりにしたTOWA存亡の危機はそこから始まった、無い袖を振ってはその場凌ぎになるだけで渡辺の言う通り破綻の元になる

このイベントは成功しても直接的な収益の見込みはない、ある一定の相乗効果が間接的にあったとしても、それはイベントが終わってからの話になる

親息揃って同じ真似はさせられない
どっちにしろ、100万単位では話しにならず、スポンサーを探すしか手はなかった


「社長……どれくらいならうちで用意出来ますか?」

「うん……うちの自己資金足して……まだ5000万くらい……」

「へ?……ごせんまん?」

「……幾ら必要か簡単なシュミレートしたらもっと必要だと思うけど……会場の確保を引いてもまだ……」
「それは全部使えるんですか?それなら……」

「松本!」
ケロッと信じられない台詞を吐いた松本の首根っこを慌てて抑えた

「でも、今社長は……」

「馬鹿!何だその言い方は!一円利益を出すのがどんなに大変かお前は知らないのか!」

松本には五千万の価値がわかってない、伝票で見る数字は時に巨額だが、それはそれぞれの行き先に納まり手元に残る訳じゃない

「すいません社長」

「使っていい、足りなければ追々何とかする」

「社長!問題はそこじゃない、回ってる金と止まってる金の区別がついてないなんて……」
「その教育はあなたの仕事です、野島部長は出来る、と判断したから私に報告したんじゃないんですか?」

「出来ると言うか……もう後戻りが出来なくなったと言うか……」

ヒヤリと背中が冷たくなった
いつもそうだが頼りなげなベビーフェイスについ忘れてしまう
雪斗は自分に厳しい分同じ精度を求めてくる、佐鳥社長も相当だったがこんな時の雪斗は怖かった

「止めるんならさっさと辞退してください、時間の無駄です」

「いえ…………私が責任を持って進めます、任せて下さい、すぐに初動の見積書を提出します、いいな、松本」

「はい……え?……え……」


松本が当初企画したイベントは浄水器を使って小さな空き地に水を引く程度だった、飲食が出来る水だとアピールしたり子どもが水遊び出来るくらいの小さなプールを作るくらいで町内祭りと変わらない規模……の筈だった

予算は多く見積もっても500万程度……

独り歩きを始めた企画は勝手に育ち、青写真が白紙になってる

主犯で主役の筈がいつの間にか置いてけぼりを食らい話が見えなくなっていた

「行くぞ、松本」

「え?…あ…はい!」

もっと詳しい報告をした方がいいと思うが雪斗はもうパソコンに目を落としてる、ドスドスと社長室を出ていく野島に慌ててついていったが……責任の重さに身震いした


そのつもりも無かったのにTOWAが出店する事になったイベントの名前は物凄くベタな「天下の旨辛大決戦」
あちこちでよくある食の催しだが、今回はテレビ局を間に挟み、結構規模が大きかった

開催予定は来年の8月、約一年後の話だが時間の余裕は全く無い

TOWAの本業に支障があっては本末転倒だと、松本は勿論、営業全員が通常業務に加え、あちこちにスポンサードを持ちかける仕事がオマケについた



「そうか話は分かった……そうだな、協力は勿論……」
「え?するんですか?」

「しないに決まってるだろ、緑川……お前は馬鹿か」

「そう言うと思ってました」

H.W.Dに持ちかけてけてくれと佐鳥に頼まれ、一応木嶋に伝えてみたが当然のように断られた

頼ってくれるのは嬉しいが佐鳥も佐鳥だ、電話一本でよろしくと言われても顔も見せない相手に木嶋がうんと言うわけ無い


ダイビングショップの家賃は一応元の値段で落ち着いた

例え倍額払ったとしても木嶋なら私財でも賄えそうな物だが、小規模な店舗でも事業の1つとして捉え、歯をギリギリと噛んでも赤字に甘んじたりしなかった

ネチネチと勿体ぶり散々恩を売って勝ち誇る雪斗に、頭を下げて値切ら無ければならなかった事を木嶋はずっと根に持ってる


「それにしても笑えるな、入場料も取れないんだろ?どう考えてもただの暴走じゃないか、あいつにしては変な事に手を出してるな」

「まあそうですね、俺も実現するとは思ってませんでした」

「大体野外に飯を食いに来る奴なんてうちの客じゃない、ユニ○ロでも着てろってんだ」

確かに………単価の高いH.W.Dはイベントに来る客層とずれているのかもしれないが、協力しない一番の理由は"気に食わないから"が大半を締めてる

「ユニ○ロのコスパにいつも唸ってるくせに……負け惜しみですか?」

「あんなどでかい所に勝てるか、大体規模も資本も……俺が目指している場所と違うだけだ」

「じゃあ、ユニ○ロを着てる客に10倍払っても欲しいと思わせる商品を見せるって事でどうですか?」

「阿呆、そんな説得に乗るか」

「プールですよ、モデルさんにでも試作品を着せて放り込んでおけば認知度も上がりそうですけどね、全国放送が無料ですよ」

「あの糞生意気な糞餓鬼がヒョロヒョロで糞生っ白い体晒してオロオロするんなら3000円くらいなら出してやってもいいが………まあそれでも俺にメリットは無いな、そのうち赤字を笑いに行ってやるって言っとけ」

「わかりました、そう伝えます」


全文きっちり伝えてやる
頭の中にしっかりメモを取って社長の部屋を出ようとすると呼び止められた


木嶋は……雪斗もそうだがギアチェンジが唐突で見誤ると失敗する、声の調子が違った

「まだ何かありますか?」

「お前何を便利に使われてるんだ、古巣に同情するな、そんな余裕ないだろ」

「やる事はやってます、大体あの人は他人の助けなんか当てにしてませんよ、見た目と違ってそんな甘くない」

「ふん………」

吐き捨てるように鼻を鳴らした木嶋はアルミホイルを噛んでしまったような渋い顔をして、もう行けと手を振った

一見……

提携を画策している途中に、くだらない遺恨で揉めているように見えるがお互い公私を混同したりはしない、ダイビングショップでの場外乱闘は面白かったが……笑って見ていると置いていかれる

木嶋の言う通りTOWAの奴らに振り回されている場合じゃなかった



予想はしていたが……スポンサーを名乗り出てくれる企業は現れない、どこも関係ないのだから当たり前だが、ご祝儀程度の金額がパラパラ集まる程度だった

野島部長には予算が五千万あるなんて夢にも思うなと釘を刺されている

小型の浄水器に実績は無く、実地のテストをしてみたが池から水を引けば取水口に藻が詰まったり、水量が多過ぎたり………数度往復した搬送トラックのレンタル代も馬鹿にならない

設計にも手を加えなければならず開発費が重《かさ》を増し、本格的に動き出す前の手前でもうかなり資金を使ってる


まだ本題に入ってもいないのにもう行き詰り、どう考えても上限を越してしまいそうだ

試行錯誤の案は尽き、詰みかけていた秋口に………突然事態が好転した

テレビ放送が予定されている旨辛イベントのドキュメンタリーラインナップに様々な屋台の店主に混じって松本がフューチャーされる事になった

内容は、イベント開催までの奮闘を纏めた密着ドキュメンタリーだが、若く見た目もいい松本が一人で企画を立ち上げオタオタ走り回る姿は企画にピッタリだったらしい

そのおかげで大手の飲料メーカーがスポンサーに付き、資金面の心配が一挙に消え失せた

資金は一応クリア出来た事を営業部全員に伝えると、他人事だからなのかみんな軽く笑い飛ばし、誰からも反対の声は上がらなかった


「松本、お前スターだな」

「はあ……顔がいいからスカウトされたんです、サインが欲しいなら今のうちに言ってくださいね」

「バーカ」

ぽかっと頭を殴ってきた木下から順に、外回りに出る営業達に頭を混ぜられ、誰もいなくなる頃には髪の毛があちこちを向いてグシャグシャになっていた


………テレビに出る

その話を聞いた時は単純に嬉しかった

社長は好きにしろの一言しか言わないし、金が貰えるなら何でもしろと野島部長には突き放された

選択肢は無かったが………時間が経つ程に現実が見え、だんだん怖くなってきた、テレビ番組はもっと念入りな計画の元に作られるものと思っていたが、簡単な承諾を求められただけで"そのうち"伺います、といい加減な挨拶を貰っただけで何の説明もない


「"あいつ馬鹿www草"……とか言われんのかな……」

ネットではみんなが色んな事を面白可笑しく揶揄ってる、普段気にも止めていないが矢面に立つ側となると世界が違って見えた

好き勝手な悪口がTwitterに並ぶくらいならいいが、プライベートに踏み込まれる事もあり得る、TOWAを含め親にまで迷惑がかかる可能性だってあった

今から行くとテレビ局から電話がかかってきた時には逃げ出したくなっていた



「プロデューサーの美山です、こっちはカメラを担当するロブ.マッカーシー、よろしくお願いします」

「松本です、よろしくお願いします」


柄の入った水色のジャケットを着た美山は背の低い痩せた男だった、大きなカメラを肩に担いだロブは挨拶もしない

詳しい打ち合わせに来たのだと思っていたらもう撮り始めると言われて慌てた、スーツはよれよれ、ネクタイはもう10日も使い回している、普段通りが1番いいと美山は笑ったが普段の方がもうちょっと気を使ってる 

会議室を進めたが、時間が勿体ないからとエレベーター前のカウンターで予定日表を渡された

"打ち合わせ"は嘘みたいに簡素で内容も無い、イベント開催まで密着すると聞いていたが内訳はほんの3日間だけだった

スケジュールの要所要所を撮り溜めて、まるで一年密着したように編集されるらしい


「それだけで大丈夫なんですか?、あの……俺ちゃんと出来るかどうか……」

「こちらからの注文は何もありません、松本さんは普段通り仕事をしてくださって結構です」

「あの………上から社内を撮るのは構わないが他の社員を巻き込むなと言われてまして」

「そこはある程度配慮します、流す前に必ずデモをお渡ししますのでマズい物が写ってたら責任を持って処理しますからご安心ください」

「はあ……あの……あんまり面白く無いと思うんですがそれでもいいんですか?」

「まあ、任せてください、大丈夫ですよ」



そんな心配してくれなくても元から素人相手に大層な期待なんかして無い

美山にとってこの仕事は力を入れるような物じゃなかった、地方出張も多く面倒と言えば面倒だが放送時間は日曜の昼、評価の基準となる視聴率は上がりも下がりもしない

スパンも長く、追い立てられる事も無い、適当にVTRを撮り溜めて都合のいい編集をすればいいだけで、つまらないが楽だった


「今日一日のご予定は?そろそろカメラを回しますよ」

「え?もう?……今日はこれからプールの設計をお願いしている事務所に外出するんですが結構遠いですよ」

「勿論同行させていただきます、もう出るなら………ちょっと失礼します」

「え?え?何ですか?」

松本のネクタイを引くと、そこまで怯えなくても何もしないのに飛び退いて仰け反った

「そんなに驚かなくても大丈夫ですよ、ほら、良くテレビで見かけるでしょう?声を拾う為にマイクを仕込むんです、ちょっとじっとしててくださいね」

「はあ……」

スーツはピンマイクを仕込むのに一番適してる、ポケットも多くネクタイにマイクヘッドを付ければ綺麗に隠せてしまう

カチカチになっている松本に首を上げてもらってクリップで挟んでいるとエレベーターの扉が開いた


「あ………」

女性と一緒に降りてきた若い男を見た途端、松本は凭れていた窓際のカウンターから身体を起こし、慌てて頭を下げた


「社長……おはようございます、すいません、こんな所で…」


「………え?…………」

今松本は確かに社長と呼んだ

この会社に来てすぐに社長に………もっと社長と呼ぶに相応しい人物に挨拶をした筈……


「社長?……」

「いや……あの……」

「さっき私が挨拶したのはここの社長じゃないんですか?」


口には出さないが………社長と呼ばれた若い男は、「若い」を通り越して子供に見える

ただのニックネームだとしても社長どころか社員と言われても似合わないと思うが、"社長"は松本の挨拶にチラリと視線を寄越しただけで、ノックもせず"社長室"へ入っていった

「あれ?………どういう事なんですか?」

「…………あの隠していた訳じゃないんですけど、美山さんがさっき挨拶をしたのは顧問弁護士の渡辺です、すいません……」

「いえ……確かに社長だとは紹介されてません、私がそう思い込んだだけで…………今度こそ間違いなく今の方が社長なんですね?…いや………それにしても若いな………」

「あの……若いと言っても見た目だけで…」

「ふうん……」


松本を密着のラインナップに加えたのはイベントの説明会に来ていた参加者の中で、若いスーツ姿が目立ったからだ、若者が頑張る姿はどんな視聴者にもわかりやすく、ビジュアル的にも話題性が高い

食べ物ばかりの中でテイストの違う企画も味付けに都合が良かった


「社長さんにも………出てもらえせんかね」

「え?!社長に?!テレビですか?無理です無理です、うちの社長はとてもじゃないけどテレビ向きじゃないですよ」

「いえいえ、無茶苦茶テレビ向きですよ、ドンピシャです」

食のイベントはあちこちで数がこなされ求心力が落ちている、テレビの媒体としてはオワコンに近いが上層部の都合で無理矢理放送企画に捩じ込まれた

店舗を出ての出張屋台の出店は何度やってもドタバタが撮れるがマンネリ化している、今回突然飛び込んで来た松本の企画は、プールの完成ラフスケッチを見た所、転びようでは食イベントを食ってメインにも成りうる

失敗してくれてもそれはそれで面白い
抑えておいても損は無かった

「ロブ、カメラ回して……あっ!マイクもくれ」

「え?何するんですか?駄目ですよ!美山さん!」

「まあまあ、松本さんの人事評価をちょこっと話してくれるだけでいいんです、駄目なら挨拶だけでも十分です」

社長室からちょっと顔を出した所が撮れれば後はナレーションで何とでもなる、何故か物凄く慌てて止めてくる松本を避けて無理矢理社長室をノックした



「何かご用ですか?不備でも?」

立ち塞がるようにドアから顔を出したのは先程挨拶した渡辺だった、成程よく見れば胸に弁護士バッチが光ってる

ロブは報道の仕事もしている、説明しなくともワンチャンスを狙ってカメラを構えていたが、ガッチリとドアを固められ社長室の中は全く見えなかった

「社長さんのインタビューをちょこっと織り混ぜたいんですがお話しを……」

「駄目です」

「え?駄目って……」

無理でも嫌でも無く「駄目」……
話もろくに聞かずバッサリ話を切られた

「いや………あの、社長さんに一度聞いて……」
「申し訳ありませんがそれは出来ません」

キッパリと言い切った渡辺の顔には妙な警戒が浮かび、ドアを開けようとはしてくれない

「でも…お宅の宣伝にもなりますし……」

「うちは一般のご家庭に売るような商品は取り扱っていません、宣伝の必要はないんです、撮影には出来るだけご協力いたしますが、もし社長がほんのちょっとでも撮っていれば削除を要請します、そこは守っていただきたい………松本さん……」

「すいません、渡辺さん、わかってます」

後ろでオロオロしている松本に合図を送った渡辺はすぐにドアを閉めてしまった


「申し訳ありません、美山さん、俺は約束の時間があるので……その……もう出たいんですが……」

「そうですか……それなら仕方ないですね」

……強引に撮ってしまえば何とかなると思ったが余計な事をした、こっそり撮ってしれっと使えばよかったのに"撮るな、使うな"と言質を取られてしまった

何かの事情で社長に就任しただけのお飾りってとこだろうが……、それにしても松本にしても渡辺にしても対応が極端に見えたのは気のせいだろうか?

上手く立ち回れないのであれば要望は聞ける、どうせTOWAの名前は出るのだからちょっと映るくらいでそんなに問題があるとは思えない

「ちょっと面白いな……」

予定に無かったスパイスの香りにちょっとだけ興味を引かれた




松本の密着は映像にすると何の面白味もなかった

電車での移動に地味な設計事務所での地味な打ち合わせ……編集すれば1分ともたない撮れ高しかない

救いは松本の印象的で目立つ顔だった
見た所、社長を筆頭に会社全体の平均年齢が若い、勢いを描けるような話を語ってくれれば高感度も上がる

とにかく喋らせる事が大事だった

「松本さんはまだ入社2年目なんですよね、こんな企画の責任者なんて凄いですね」

「こんな筈じゃなかってんですけどね、うちの会社は出来る人が多くて……何もしないと俺の出番がなかったんです……もう一杯一杯です」

「いや……言っては何ですが俺ならOKしないな、このイベント参加は異業種でしょう?その割に松本さんはしっかりやってると思いますけど冒険したなって……」

企画を立ち上げた経緯は聞いていたが、本当に松本が一人で担当しているとは思ってなかった

話してみても松本は見た目通り……大学生に毛が生えたくらいで入社2年目そのものと言う印象に変わりない、構図としては上司から叱咤激励を食らい凹んだり伸び上がったりが理想的なのに本当に一人でやっている


「それは……そうなんですが社長がやればいいって」

「あの若い社長が?それはまた………勢い余って暴走に近いですね、彼はまだ研修中ってとこですか?」

「違いますよ!うちの社長はそんな甘い人じゃありません」

「そうなんですか?……すいません…言い方が悪かったみたいで………」

「いえ……こっちこそすいません、あの今日はもう終わりですか?」

「はい、撮影予定は3日間ですが何かトラブルがあったら呼んでくださいね、24時間受け付けます」

「だから……トラブルなんて無いですよ、勘弁してください」

「はは、何でもいいんです、とにかく何かあったら気軽に呼んでくださいね」



…………やっぱり少しおかしい……

今時は二十代で億を稼ぐ若い経営者は珍しくないがTOWAは社員3人の新興会社じゃない、歴史も古く関係会社も多い、周りとの兼ね合いもあり、もっと社長に相応しい人物は他にいるだろう

何か特別な事情があるならあるでそれなりに思う所もある筈なのに、松本はムキになって社長を養護するくせ、それ以上話す事を意図的に避けている

撮影が終わり、トイレに入った他の社員を追って話を聞いてみたが松本や渡辺と同じく言葉を濁した

社員全員が一致団結してあの若い社長を守っているように見える


やはり何かあるのか……

何も面白い事は無いかもしれないが聞いて損はない

ロブを先に帰らせ、ビルの影に隠れて社員が引き上げてくるのを待った

ターゲットはもう、決まってる

撮影中、ずっとチラチラ覗き見をしていた自己顕示欲が強そうでSNSが世界の中心になっていそうな女………

よくいるタイプだが経験からいっても総じて口が軽く「テレビ」に弱い

暫く待っていると都合よく一人で出て来た



「ちょっとすいません、聞きたい事があって……時間は取らせないから少しだけいいかな」

「はい?」

人目を引く派手なジャケット着るのは何も芸能界に毒されているからじゃない、テレビ局の者だとアピールすると何もかもがやりやすくなるからだ
案の定、女はすぐ、誰に声をかけられたのかを気付いて重そうな睫毛をパチパチと連射した

「今日は1日お世話になってすいませんでした、いやあ、いい会社に勤めてますね、社員の方がみんな若くて活気がある」

「そうなんです、おじさん達は去年に殆ど辞めたから平均年齢はすごく低いですよ」

「辞めた?どうして?」

「えーと……あの……」

「あっ……別に放送に使うんじゃないよ、番組編成の参考に一応細かい情報を把握したいだけなんだ、ここだけの話にするからさ……」

"ここだけの話"なんて無いに等しいが………やはり人選に間違いは無かった、周りをキョロキョロ見回してニッコリ笑った


「TOWAさんは古いよね、売上も安定しているし売上の割に従業員が少ない、新しい事業を立ち上げて体制を一新したって事?」

「違いますよ、去年の夏に今の音羽社長が前の佐鳥社長とお爺さん達を全員追い出したんです」

今の?………やっぱりあの若い男が社長になってまだ日が経ってない


「追い出したってどういう事ですか?」

「そこはあんまりわかんないですけど……そしたら部長とかもみんな辞めちゃって大変だったんです、引き継ぎも片付けも何にもしないで挨拶も無しに次の日から来ないなんてやめて欲しいですよね」

「それは……確かに……大変だね」

「最近の若い奴らはとかグジグジ爺臭い事よく言ってたくせにお前らは何だって思いません?」

……予想していた事情と少し路線が違う

もっとわかりやすい……例えば社長を勤めていた父親が急になくなって若い息子が大人の力を借りて健気に奮闘している………そんなシナリオを期待していた

「それはどういう状況で?あの若い社長は元々社員だったの?親族?…ってかあの人は何歳?」

「え?………あの……私……」



ぐいッと身を乗り出し、前のめりになった美山に余計な事を口走った事を後悔した

水谷は去年の夏に長谷川弁護士に社長のマンションの暗証番号を教えてしまい渡辺に大目玉を食らった
解雇を免れたのは塚下が庇ってくれたお陰だが、どうやら執行猶予が付いただけだ、渡辺は目が合うと今も渋い顔をする

もしこの事がバレたら今度そこクビになるかもしれない

TOWAは駅と繁華街も近く立地は申し分ない、給料も良いし、何より独身の若い男性社員も多い、辞めたくは無かった



「あの……ごめんなさい、私はこれから用事があって急ぐんです……もうこれくらいでいいですか?」

「そうなの?良かったらその辺でお茶でどうかと思ったんだけど……どうかな、何なら食事でも」

「いえ……ごめんなさい、失礼します」


「あ………ちょっと……」


……失敗………逃げられてしまった

人から秘密を聞き出すのは得意なのだが予想外の話に食い付き過ぎた

「前の社長を追い出したって……つまりクーデターって事?」

あの子供が?……

首謀者は別にいるのかもしれないが主役にしては若すぎる、何があったのか興味はあるが、どちらにしてもそんな殺伐としたエピソードは昼時に流す食のイベントには使えない

「面白い事は面白いんだがな…………」

そそくさと逃げるように帰っていった女子社員はもう広場の出口から消えている

丸一日我慢した煙草に火を点け、ビルのワンフロアに収まってしまう小さな会社を見上げると…………誰かが窓辺から見下ろしているような気がした



ぷふっと…………小さく吹いただけだ

絶対に笑ってない

顔も瞬時に整え、見られたとは思わなかった

それなのに雪斗は一度整えたネクタイをシュッとほどいて襟から抜いてしまった

普段から表情の薄い雪斗だが結構何でも顔に出て意外とわかりやすい、特に顔色のコントロールが下手ですぐ赤くなる

やっぱり恥ずかしかったのか………真っ赤になって俯いた顔から目だけをギロリと持ち上げ、下唇を突き出した

「笑うな……」

「笑ってない、せっかくだから…ほら拗ねないで」
「拗ねてない、今日は暑いからネクタイは要らないって思っただけだ」

雪斗が首から外したそのネクタイは丁度スーツの襟から顔を出す位置に何とも言えない表情を浮かべた猫がプリントされている、おまけに生地全体に色んな顔をした小さな猫が散っていた

色はピンク……

去年の冬、クリスマスプレゼントとして用意された物だが騒動の後、夏に緑川の手から佐鳥に渡り、お中元と名前を変えて雪斗の元にやって来た


雪斗に渡した時は無表情のまま首に懸けはしたが……不注意にもつい吹いてしまった

だってあまりにもピッタリで面白すぎる
女子達の目に雪斗がどう写っているか、ネクタイのデザインが物語っている


「みんなでお金出したって言ってたぞ、社員の気持ちを無下にする気か」

「卑怯だぞお前!笑った癖に!」
「雪斗!声が大きい……ここはお前のマンションみたいに防音が完璧じゃないんだ、隣に迷惑がかかるだろう」

「……そんな事言うならお前こそちょっとは手控えろ」

「わ……それ今言うんだ……」

「だって……」

我慢したが顔がニヤついてしまう、この部屋はロフトがある分天井が高く声が反響してよく響く……つまりあの時の声の話だが……雪斗は自分から言い出したくせにモニョモニョと言葉を濁し、顔がますます赤くなった


昨晩は後ろだ前だとベッドで暴れて部屋が揺れるくらいの勢いで壁を蹴ってしまった
最近の雪斗は顔を見られるのを嫌がりすぐ背中を向けてしまう

顔が見たい、耳元で吐息に混じる声が聞きたい

隣に聞き耳を立てられないようにそれこそかなり手控えているつもりだが……途中ですぐ忘れる

「お前が……加減しないからだろ…………絶対隣の奴聞いてる……」

「それは……どうかわからないけど………」

………聞いてると思う、聞きたくなくても聞こえてる

そもそも一度も文句を言ってこないのが不思議だと思っているくらいだった

雪斗は上下左右に騒音の心配をする様な家に住んだ事が無い、足音からドアの開け締めまで音や振動に気を使うスキルはゼロ

何よりも男二人で狭いワンルームで暮らすと喧嘩になればすぐ手が出てしまう

雪斗は固さも大きさも強度も選ばす手近にある物をすぐ投げるし、こっちもこっちでついタックルをかまし、酷い時は取っ組み合いになってしまう


「隣のくしゃみが聞こえるんだから聞いてるに決まってるだろ、もうやだ、今決めた、もうここでは一切しない」
「は?しないって……しない?しないって……やだよ、する、今日もする、何なら今からする」

「馬鹿ばっかり言うな」

「する!」

抱きつこうとすると頭を抑えられ腕が空振った

こうなったら意地でもキスくらいしてやる
腕の取り合っていると雪斗が出した足が胸につっかえた、足を持ち上げ飛びつくと今騒音の話をしていたのにドタンと二人で倒れ込み、また取っ組み合いになって来た

「何してんだよ馬鹿!今から仕事だろ!」
「休む、遅刻する、直接外回りに出た事にする」

「お前俺の前でそんな事をよく口走るな!減給してやる……わっ!」

もう雪斗との乱闘には慣れている、振り回す手足を気にせず大の字になって押しつぶすと雪斗に反撃は出来ない、こんな時はせっせと伸びた身長が有り難い

動けなくなった雪斗の腹に乗り上がって抑え込んだ

ハアハア言いながら勝ち誇って雪斗を見下ろすと……

怒っているか、ふざけているかと思っていた顔から表情が消えていた

雪斗がこんな顔をする時はろくな事を言い出さない


「何だよ……何か言おうとしてる?」


「………俺は………」
「変な事言い出すなら聞かないぞ、減給?まさかクビ?セックスレスよりマシだけど…」

「……………お前はいつも幸せそうだな」

「まあ雪斗さえいれば………」
「俺はこの部屋を出る」

「へ?!……………何で?!」

壁は薄いし駅からも遠いがこのマンションは天国だった、狭いからやけに密着度が高く、すぐ側で雪斗が食べて笑って眠る

最近はお腹がすくタイミングや眠くなる時間も揃ってきてリズムも出来てきた(違うのは起きる時間だけ)
絶対に無くしたくない


「どうするつもりなんだよ、言っとくが俺は認めないぞ、外はいくらなんでももう駄目だからな」

「俺はあの家に帰る」

「え?……」

………あの家………雪斗が自分の居場所じゃないと涙を流したあの辛い思い出がつまった屋敷……

知る限りだが雪斗は一度見に行った"あの時"以来近寄ってはいない筈だ、

一人で住むなんて多分雪斗にとっては拷問に近い


「それは……放っておけないのはわかるけど……無理をしない方がいいんじゃないか?」

「一昨日《おととい》……あそこに空き巣が入って窓が割られたんだ、これ以上放っておくと本当に荒れて住めなくなる……それは……」

…………出来ない

雪斗の顔に泣き笑いのような表情を浮かび……最期は声が沈んで小さく萎んだ

雪斗の気持ちは痛いほどよくわかる、それならやる事は一つしかない


「雪斗………一回……立とうか………」

「その前にお前がどけよ……重い」

「ハハッ……ごめん……」

眉が下がった顔を隠すようにクシャっと前髪を混ぜ、頬にキスを一つ落とした

腕を引くと釣り上がった雪斗はスンッと鼻を鳴らし、取っ組み合いをしたせいでパンツから出てしまったシャツをのそのそとしまい込んだ


「家に帰るんならさ、まずは一回今度の休みにでも二人で見に行こう、俺は雪斗と離れるつもりはないからお前があそこに帰るならついていく」

「……来なくていい……」

「一生付き纏うって宣言しただろ、付いていくよ」

「……お前………馬鹿だな……」

むっと考え込むように口を閉じた雪斗はずっと手に持ったままだったネクタイをボソボソと機械的に結んでジャケットを着た


朝早く起きてパソコンをチェックする習慣は変わらないが雪斗は近頃外に出なくなった
ロフトの隅に丸まり時に二度寝したりしている

そのせいで朝は一緒に出勤する事が多い
普段はもう少し早い時間だが、遊んでいたせいで遅くなった、いつもは貸し切りに近いエレベーターは他のフロアの社員も混じって満員に近かった


本当に止めて欲しいのに………誰もが雪斗を2度見する
酷い人は足から全身を舐め、胸に視線を止める
元々この商業ビルの中では雪斗は目立っている、見られるのはいつもだがさすがに雪斗も妙な視線を感じて変な顔をしていた


「おはようございます」

どこからか監視でもしているのか……本当にGPSでも仕込んだのか皆巳がエレベーターの前に立って待ち構えていた

皆巳は生真面目な45度の挨拶をした後雪斗を見るとぐるっと全身を見回し、やっぱり胸に目を止めた

「何で見るんだよ、俺の顔に何かついてるのか?」

「……別に……何でもありません、どうされたのかとは思いましたが」

「だから何?」

皆巳の視線を追って………やっと気付いたらしい、雪斗は自分の胸を見下ろして、一度外した筈のネクタイにぎょっとした


「あ……これ……」
「よくお似合いです」

普段から無表情を鍛えている皆巳だが、くるっと体を返した肩がふるっと揺れた

「っ!!………外す!こんなの外す!」

雪斗は慌ててネクタイに手をかけたがちょっと遅かった、フロアの方で女子社員が目ざとく見つけ、猫のネクタイをした雪斗を見にわらわらと集まってきていた


「社長!よくお似合いです」

「選んだ甲斐ありました」

いつどんな場所でもそうだが女子が固まると威力が増す、からかっているのか、本気でそう思っているのかはわからないが次々に褒め言葉が飛んできて雪斗はネクタイを外すタイミングを失った


「あり……がとう……」

顔を真っ赤にして慌てて社長室に逃げ込んでしまった雪斗に、また女子社員の悪戯根性に火をつけたらしい

その日から雪斗の顔を赤くして遊ぶ……なんてとんでもないイベントが発生した


女子は怖いくらい上手く空気を読む、わかりやすく怒ったり不機嫌な顔をしている訳じゃないのに、雪斗が怖いオーラを出している時を正確に見極め、ふっと抜けた瞬間を狙って仕掛けている

からかわれている事がわかっているのか、話しかけられただけで顔が赤くなって逃げ出す雪斗にどんどん拍車がかかって夕方近くなる頃には社長室から出てこなくなった


「塚下さん……みんなに注意してもらえませんか?雪斗は……その……みんなが知らない顔を持ってて……」

「いいじゃない、緑川くんが辞めてからイベントが消えてみんな退屈してたのよ」

「緑川?何で緑川が関係あるんですか」

「佐鳥くんは知らなくていいのよ、まあみんな喜んでるんだから放っておきなさいよ、大した害も無いし、社長も女の子に免疫ついていいんじゃない?」

「いや、そういう意味じゃ無くて……」

害は………起こってからじゃ遅い、雪斗に無い免疫は女子の塊だけでそんなに純情じゃない、もし切れたら何をするか考えただけでゾッとする

「じゃあどんな意味で言ってるのよ」

「いや……危なくて」

「何が?」

「雪斗は女に弱くない……って言うか……」

弱いどころか恐らくこのフロアにいる男……もっと広く集めても誰も太刀打ちできない、男女の区別なく1分で落としてしまう

何と言っても生き証人がここにいる、あそこにもいる(松本がいつビームを浴びたかは知らない)、更にいる(柳川*特典参照)、社外にもいる(考えたくないが緑川)(グラナダで会ったAさん、名前は覚えてない)(看護師のおばさん)(多分雪斗を刺した美人も怪しい)

……知ってるだけを並べても息切れして来た


「女子に物凄く弱く見えるけど?なあに?焼きもち?」

「とにかく……少し控えるように注意してください」

「ちょっと佐鳥くん……せめて"焼きもち"は否定しなさいよ」

「塚下さん!」

「はいはい」

あの目から照射するビームは浴びた本人にしかわからない、わかったわかったとカラカラ笑う塚下は多分わかってないがもう雪斗に節度を守ってもらうしか手はなさそうだった




一歩進むごとに足が重くなる

駅を出るともう靴底に5キロの鉛が張り付いているようだった

ドシ……ドシ……と杵で付かれたように心臓が押しつぶされ、空気中の酸素が足りないような気がする

嫌な兆候に冷や汗がじんわり湧いて喉が乾いた

息苦しくなって来た事を気付かれてしまったのか、コンビニ走っていった佐鳥を待っていると………

帰って来た佐鳥を見て全部吹っ飛んだ

背中と………ついでに心の中にヒヤーっと冷たい風が吹いて、湧き出る準備をしていた汗が引いた


「…お前…………何でそんなもん咥えてんだよ」

アメリカンドッグを口に突っ込み、後二本手に持ってる、言っておくが勿論一口サイズじゃない

「腹ヘっは」

「いい歳して何ですぐに買い食いとかするんだ……、せめて手に持って食え」

「もへなひ(持てない)」

はいっと手渡された湯気の立つアメリカンドックは、油が浮いたパン生地がいかにも口の中の水分を持っていきそうで……とてもじゃないが喉を通らない

佐鳥は変な事には妙に勘がいいくせに基本的には鈍感で能天気でいつも幸せそうだ

水でも買ってきてくれるのかと思っていたらアメリカンドッグしか買ってない

もういい加減、突然酸素が薄くなるあの不快な感覚とは縁を切りたいのにどうしてもコントロール出来ない

……何か納得出来ないが……結果的には………あくまで結果論だが、佐鳥の馬鹿さにはいつも助けられる、多分隣にいたのが緑川や渡辺だったら今頃息苦しくなっていた

佐鳥と一緒にいる事は……いいのか悪いのか……近頃よく考えるが未だによくわからない

…………このアメリカンドッグ…………手に持ってると匂いが鼻に付いて吐きそうだ、そこにまず気付け………鈍感と鋭敏を入れ替えて欲しい


「俺はこんなもん今は食えない、お前が食えよ」

「いらないなら食うよ、こっち食うからちょっと持ってて」

「本当によく食うな」

佐鳥との喧嘩は食べ物の量で揉める事が1番多い、体格を考えれば佐鳥が大量に食べるのは仕方ないが食事を作れば何故か同じ量を盛る

無理矢理食べてはち切れそうな腹を抱えている時にのし掛かられ、逆流の危機に何度もさらされた

今度遠慮なく吐いてやろうかと画策しているくらいだ


「体からはみ出そうな量の朝飯食っただろう、どこに入るんだお前の内蔵は胃しかないんじゃないか?」

「んな訳な無いだろ、俺は心と言う臓器の方が大きいんだ」

「嘘だ、脳ミソの代わりに食料を備蓄してるんだろ、腹が減ったら取り出してそれを食う」

「アンパンマンか」

「違うぞアンパンマンはな……」

頭の食い方という訳のわからない議論している間に遠くからも分かる伸びすぎて道路まで張り出した楠の木が見えてきた

また……足にくっついた鉛は重量を増したが……もう苦しくなったりはしなかった



当たり前に毎日を過ごしていた屋敷は、いつの日からか酷く懐かしい郷愁に駆られ、切ない思いが込み上げてくる場所になった

記憶にある年数は少ないが、多分雪斗も同じ思いを抱えている

高い塀に阻まれ、雪斗にはまだ見えていないが無残に割られた窓で補修に使われたダンボールが風に煽られベコベコ揺れている

ただでも古いのに伸びた蔦が壁を這い、人の住まなくなった惨めな姿を強調している

見せない方がいいような気がする

心が体のどこにあるのか……アンパンマンはどこで考えているのか、どこまで食べられても平気なのか、雪斗が真面目に語っているのは多分気持ちを他に逸らす為だと思う

生返事をしながらふわふわ髪の浮くつむじを見ていると、雪斗は途中で突然ピタリと話をやめた

「雪斗?……」

足を止めた雪斗を振り返ると視線が肩を通り越して先を見ている

向き直ると屋敷の門から誰かが庭の中を伺っていた

ピンクのジャケットに細身のジーンズ、リュックを肩に掛けてスニーカーを履いている、普通に考えても壊された窓の修理業者には見えなかった


「誰?……」
「何をしているんですか?美山さん」

問いかける前に雪斗が剣を含んだ声を出した
眉を潜めた眉間に皺が寄ってる


「あれ?社長さん?よく私がわかりましたね」

「廊下でお会いしたでしょう、名刺も頂いてます」

「そうですけど私の顔なんて見る暇ありましたか?まさか覚えてるなんて思わなかったな」

顔を覚えてなくても、その奇抜な服装がいつもなら誰だって忘れない、美山が誰だか知らないが雪斗とこの屋敷を繋ぐ線が見えているならあまり歓迎出来ない

雪斗を背中に回して前に出た


「失礼ですがどちら様ですか?」

「この人は松本の取材をしてるテレビ局のプロデューサーだよ、先週TOWAに来てた」

「テレビ局?」

密着取材の話は聞いていたが、外出先から帰るともう取材は終わっていた、簡単な雪斗の説明に「どうも」、と首を前に出した美山は、屋敷を見上げて納得したようにうんと頷いた


「ここにいるって事は音羽雪斗……君だね?」


雪斗は美山の問に答えなかったがつい……「はい」と素直に返事をしてしまった

美山はハハッと笑って何故か温かい目で見られた、だがそれは答えくれてありがとうっていう意味じゃない、ここに偶然居合わせるなんてあり得ないのだから最初から全部わかって質問してる


「何か用でも?」

「用はないよ、仕事じゃ無いんだ、これは道楽に近い」

「…………随分暇なんですね」

「まあね、今回の企画はスパンが長いからな、それでもこれで色々飛び回ってるんだよ、週明けからまた出張の連続だ、それなりに忙しいよ」


TOWAでの撮影が終わった後は北海道に飛んでいた
次に予定している山口での撮影まで間が出来てちょっと調べてみた………TOWAに何があったのか………

結果は空振り……TOWAにはホームページすらなく、電話の検索サイトに所在地が乗っているだけだった

元々期待は薄かった、例えば派手な社長交代劇があったとしても事件じゃ無いし、TOWAは世間の話題に上るような表に出てくる業種じゃ無い


残りのキーワードは軽口女が話してくれた名前……実は小型のレコーダーで録音していた

TOWAでもオトワでもサトリでも何も出てこなかったがオトワに関連した目を引く記事がやけにヒットした


小さな製薬会社の社長が起こした一家心中……

関係があるなんて思わなかったが取材を進めると脱線していくのは常だった

何を探しているのかさえわからないまま大概は無収穫で徒労に終るが、何がどこに潜んでいるかそれこそわからない、細い線が繋がっている限りは追っていくのが定石だった

暇潰しと乗りかかった船のつもりで会社の映像倉庫から当時のニュース映像を漁って見つけた

当時この一家心中は話題になっていた、年端もいかない子供を巻き込んだ父親は、まだ30を超えたばかりで目を引く眉目秀麗な姿をしていた、自殺の理由は公表されず、様々な憶測を呼んだせいか各番組で詳細に取り上げられ映像ストックは多かった

そこに写っていたのがこの壮麗な屋敷だった、TOWAの廊下でチラッと見ただけだが若社長は数多の写真が流出していた父親とどこか似ていた

無関係かもしれないが気になって見に来ると、皮肉な事に生き残った男の子当人だと本人が今ここで証明してくれた

「お父さんと……似てますね」

「だから何です、悪いけど何も面白いものは出てきませんよ」

「そうだな……別に事件の事なんか今更インタビューする気はないよ、あなたは当時五歳だ」

「やめてください………道楽って……」

握った拳が震えた、どんな目的があるにしても冗談じゃない

「一体どういうつもりですか、そんな話を口にするだけであなたの常識を疑います、帰って……二度と近寄らないで頂きたい」


雪斗がこの屋敷に来るだけで、それこそ近寄るだけでどんな思いを抱えているか、事情の一端を知っているなら多少なりともわかるだろう

雪斗はまだ、乗り越えてない山を今必死で踏破しようと震える手を伸ばしかけたばっかりだ

こんな非常識な奴の為に後戻りをして欲しくない


「雪斗、もう行こう、こんな奴放っておいたらいい」

雪斗の背中を屋敷の門に押しやって、早くこの話題から遠ざけようと錆びた鉄の門に手をかけた


「いいよ佐鳥、俺は大丈夫だ、この人にはうちも松本もまだまだ世話になる、無下に出来ないだろ?」

口に咥えた煙草に火をつけようとしていた美山は、雪斗の言葉にピクリと反応して手を止めた


「あれ?佐鳥って……前の社長と同じ名前ですね」

「そうですよ、それが何か?」

「じゃあ血縁の方?ちょっと珍しい苗字ですよね」

「TOWAは俺が経営権を金で買って社長と役員を全員クビにしました、佐鳥は前社長の息子です、別に違法でも何でもない、これくらいのネタはその辺にいくらでも転がっているでしょう」

「雪斗………やめろよ、相手にしなくていい、行こう」

美山の目的もわからないのにそこまで話す必要は無い、ニュース性は無いが雪斗の半生は誰が聞いても波乱万丈過ぎて話題になりやすい

もうやめて欲しいのに雪斗の手を引いても足を動かそうとはしなかった


「経営を金で買った?」

「市場に落ちていた株を買い占めて乗っ取っただけだ、何を驚いてるんです、金さえあれば誰にでも出来る」

「いや………驚いたのはそういう事じゃ無くて……」


何故TOWAに興味を持ったのかを言えば、単に安定した売上を持つ上場企業の社長が不自然な程若かったからじゃない、一致団結して秘密を隠そうとしているように見えた社内の雰囲気が少し異様だったからだ

その正体が今少し見えた、社員達が言葉を濁したのは社内のいざこざよりこの若い男そのものらしい

まるで業務報告をする様に淡々と冷静に話す雪斗は最初に持ったイメージと随分違った


「美山さん、何を聞きたいんです、どうぞ仰ってください」

「雪斗、やめろって…ほら行こう、暗くなる前に帰れなくなるぞ」

「そんな事どうでもいい、これはテレビのネタにする様な話じゃないでしょう、聞きたい事があるなら直接私に聞いてください、迂回されると面倒です」

「いや、お急ぎならいいんです、別に待ち伏せしてた訳じゃない、社長の仰る通りせっかくの楽しいイベントに水を差すようなネタは必要ないんです」

必死で庇う佐鳥には申し訳ないが益々興味が湧いてしまった、何も苦労して調べなくてももう少し話を聞けば色々聞けそうだが、都合のいい情報だけを与えられ誤誘導されるのは避けたかった

ただの小僧だと思っていた雪斗はどうやら一筋縄では行きそうもない

その上、このままでは酷くデリケートなプライベートを踏み荒らすだけになってしまう

そんなつもりは毛頭なかった


「今日は帰ります、こんな所までお邪魔してすいませんでした、イベントの本番当日までよろしくお願いします」

「遠慮なさらなくても俺は何でも答えますよ、聞きたいのはTOWAの事ですか?それとも事故の事ですか?父がどうやってしんだか、母が……」
「やめろよ雪斗…美山さん、頼むから止めてください」

「………帰ります……お邪魔しました」

困ったような笑顔を浮かべ、きっちり頭を下げた美山は意外にあっさり身を引いた

一度も振り返らず、遠ざかっていくピンクのジャケットが見えなくなると、ピリピリしていた雪斗からふっと緊張の糸が緩み、胸の中に溜め込んでいた濁った息を長く吐き出した


「雪斗……変に煽るなよ、調べてもわからない事まで教えてやる必要ないだろ」

「同情は嫌だ、興味本位も、好奇の目も……」

「全部終わった事だ、雪斗は俺と一緒に前だけ見てればいい、ほら行こう」

肩が落ちた背中を押して、中に入ると夏の間に背を伸ばした雑草が庭の地面を覆っている

空き巣の被害を見に来た警察や渡辺達だろうか窓の周りが踏み荒らされて潰れていた

むっつり口を閉じた雪斗は壁に這っている一本だけ細く伸びた蔦草を引っ張り、しがみついている根をプツ、プツ、と剥がしてポツリと呟いた


「…なあ…………俺はそんなに滑稽か?」

「……………雪斗………あの………そいつは根っこから抜かないと駄目だぞ、上だけ切っても3日もすればまた戻ってる」

「だって……こいつ家を食ってる」

「だから……ほら、蔓を伝って根を探せば…ん?……どこだ……」

靴を覆う草の影に本体が根を下ろしているのかと思えば、地面に食い込んだ細い根がブチブチと千切れて浮き上がっては来るがずっと続いてる

「うわ、どんだけ長いんだ」

「佐鳥、それ切るなよ、全貌を突き止めよう」

ハート型の葉を付けた今にも切れそうな細い蔓は一本かと思えば自らに巻き付いて補強している、雪斗が慎重に拾い上げ、伝って行くと途中で二股に別れて別の方向に伸びていた


楠の木の根本に大元らしい根はあったが反対方向に伸びた蔓は大きな幹を這い上っている

雪斗は躊躇いもせず、うろに足を掛けてスルスルと木の上に登って行った

「おい……待てよ…そこまでしなくても……」

試しに足を置いてみたがズルリと幹の皮が剥けて滑る、ヤケクソで飛び付くと太いくせに意外と不安定な幹が大きく揺れてザワザワと天辺の方まで振動が伝わった

「雪斗……お前よくこんな所登ったな……持つとこ無いじゃん」
 
「俺は何回も登ったからな、佐鳥は?ここに住んでたんだろ?登ってないのか?」

「木登りなんて……してないな、俺は都会っ子なの、雪斗みたいな野生児とは違うんだよ」

「ヘタれ」

横に伸びた枝に立って見下ろしている雪斗は木漏れ日を背負いキラキラ眩しい、笑った顔を見て心底ホッとした

"音羽"と"佐鳥"である以上、これからもきっとこんな事が付き纏う、その度に一々傷付いて欲しくない


屋敷を内偵するスパイのように手足を伸ばした蔓草は上からも覗こうとしていたのか、かなり高い所まで這い登ってる、器用に登っていく雪斗が幹を伝い、揺らした枝からまだ青い葉がパラパラ落ちてきた

茂った枝葉で雪斗の手元は見えない

「おい、もういいったら、降りてこいよ、下を切ったら勝手に枯れるだろ、落ちたらどうするんだ」

「佐鳥!蔓の先があったぞ、今降りるからそこをどけ」

「どうやって……え?飛ぶなよ?!そこ二階くらいある……雪っ!!」

聞い終わらない間に蔓の端を持った雪斗が降ってきた、かっこよく受け止めたり出来たらいいけど漫画のようにはいかない

思わず飛び退くと雪斗は綺麗に着地したのに尻餅をついて草の青がチノパンのお尻に擦り付いた

「……何してんだよ」

「受け止めようとか思ったけど、瞬時に無理だと判断して避けきった反射神経をまず褒めてくれ」

「倍増しでカッコ悪い」
「煩いな、そっち持てよ」

ブチブチと木の幹から乱暴に剥がしたのに蔓は切れていなかった

昨年の秋に一掃されていた筈の雑草は逞しくも様々な種類が生い茂り靴が埋まってる

二人で伸ばしてみると細く頼りないくせに蔓草は30メートルくらいあった


やはり住んで小まめに手入れしないと幽霊屋敷に拍車がかかる、手近な草を纏めて引いてみたが地面が乾いて簡単には抜けなかった

「この庭を片付けるなんて広いし無理だろ、プロに頼むよ……」

「雪斗は地味に浪費すんな、一緒に住んで暇な時にビールでも飲みながらやればいいだろ、きっと二人なら楽しいぞ」

「やだよ暑いし蚊に食われる……中に入ろう……きっと他にもこんな事が色々ある、もしかしたらゴキ……」
「雪斗!その続きを言ってはいけない法律が………来年くらいに出来る、言うな」

雪斗は部屋の中に蚊がいると殺してしまうまでギャーギャーうるさいが他の虫には平気な顔をする(噛まないし鳴かないしと言って殺ってはくれない)

実は緑川も黒いあいつが苦手で、部屋を片付け、物を置かないのは隠れ場所の制作を阻止する為だと言い切った

一度部屋に出現した時には二人で押し付け合い、キャーキャー喚きながら退治した


父はこの屋敷を出る時に業者に頼んで消毒をしたと言っていた、今は虫よりも人の方が怖い

ドアを開けると床を覆っている降り積もった埃に空き巣の検分に来た警官の足跡が鮮明に残っている

盗られるような物は何も置いてないが汚い手があちこちを探ったと思うだけで恐ろしい

雪斗は真新しいスリッパを無視して靴を履いたまま二階への階段を登っていった


ずっと住んでいたのに気づかなかった隠し部屋の扉は今は壁の中に溶けて全く見えない

ドアの辺りを叩いてみても空洞を示す音はしなかった、外から見てもあれだけの空間を暴く膨らみは無い

「上手く隠れてるな……」

澱んだ空気を追い出したくて窓を開けた
部屋の中はあちこち改修したのか所々綺麗になってる

磨かれて、照りを取り戻した階段の手摺には薄く埃が積もっていた

中学の頃、ふざけて滑り降り、ベルトのバックルで付けた傷が消えて見え無い、殴られる覚悟するくらい親父に怒られた

今思えば、父はどんな時も、いつもこの屋敷を………つまり清彦を優先していた

「凄い……呪いを遺してるな……」

家の中全体に降り積もった埃のように未だに世代を超えて覆ってる


手摺の埃に指の線を引きながら2階に上がると、雪斗は一番階段に近い部屋の前に立って中を覗いていた

思い出の欠片を探すようにじっと部屋を見つめて振り向かない背中に、肩から腕を回して抱き寄せるとトンっと肩に頭が乗った

雪斗の髪から同じシャンプーの香りがする、ふわふわしている猫っ毛がコショコショと頬を擽った


「………何も……無いな……」

「親父が片付けたんだ、この部屋は俺がTOWAに入社した年まで使ってた」

こんなに広かったのか………あったはずの勉強机も本や漫画、音楽CDが並んでいた棚もない、古い大きなベッドがポツンと残っているだけだった

「俺も…ここだった、縁は隣……」

「え?そうなの?じゃあ…あのベッドは……」

「俺のだ」

ヨーロッパからの輸入品らしい凝った作りの古いベッドは引っ越しで来た時からそこにあった、規格外のサイズに無理矢理マットレスを敷いていたが今は木の外枠だけになっている


「ビックリするな……俺達は子供の頃から同じベッドで寝てたんだな」

つくづく数奇な運命だと思う、最初の出会いは間違いなく偶然だった、いずれは知り合う事になってもそれでは今の関係はあり得ない

意味がわからなかったのか、腕の中から振り返って見上げて来る素の雪斗が何だか可愛くて(言ったら殴られる)うきうき感が倍増した

「何の事?…………」

「だってそうだろ、俺もあのベッドで眠ってたんだからな」

「あ……そうか……」

「不思議だな」
「気色悪いな」

声が揃った二人の答えは正反対だった

「気色悪いって何だ!」

「お前いつから俺に付き纏ってんだよ」

「嫌なのか?」

「だって……嫌もくそも……俺には選べない」


………こんな事を聞くと難解な答えばっかり………

この偏屈小僧は怒ると投げるが照れると噛む、可愛く甘噛するくらいならむしろ歓迎するがいつも手加減しない

首に回した腕にもぞもぞと顔を埋め………何か歯が当たる
まだ腕捲くりするような暑い日もあるのに目立つ所にガッチリ歯型を付けられるなんて困るし恥ずかしい

腰に腕を回してギュッと抱き寄せた


雪斗にとっては酷い休日になったのでは無いだろうか、この屋敷に住む決心をするだけでも………見に来るだけでもキツかった筈なのに無神経な来客は本当に間が悪かった

出来るなら二人で始める新しい生活に少しでも楽しい事を見つけて欲しい

まずはマットレスを買いに行ってついでにゴロ寝出来るふわふわのラグを選ぶ、大きなクッションを沢山揃えて、俺は青、雪斗は……


「おい、佐鳥」 

「ん?赤がいい?」

「何言ってんだ、何でもいいけど変なとこ触んなよ」


気が付けば雪斗の腹や脇を撫で回していた、近頃共用になってる丈の長いパーカー付きのトレーナーが捲れ上がり雪斗の臍が見えていた

どうやら雪斗の代わって新しい生活にワクワクしているのはこっちらしい

「誰もいないし……ここは狭いマンションじゃ無いから声出し放題だぞ、ちょっとくらいいいだろ」

「変な事言うなよ、エロ馬鹿!やめろよ」

「じゃあキスだけ」

「やだよ馬鹿!…やめろったら………」

薄く汗ばんだ腹に手を入れてトレーナーの中で揉めていると、ダンッ!!と壁を蹴る音がして飛び上がった

この頑強な作りの大きな屋敷が揺れたような気がする

そろそろと振り返ると渡辺が壁に脚を上げたまま腕組みして睨んでいた

眉間の皺が怖い

抱き合ったまま揉み合いをしていた体をさっと離れ、無意味に服を伸ばして叱られる準備をした


「何度も言うが雪斗に触るな」

「いや……あの……ふざけていただけで……すいません…こんな所で」

「二度とふざけるな」

例の結婚宣言をしてからという物、渡辺は雪斗と一緒にいると喉まで出掛かった不快と文句を飲み込み、一切口出ししては来なかったが場所が不味かった

いつから見ていたのか……我慢の堤が決壊したらしい、頭から湯気が出ている


「あの…渡辺さんは……どうしてここに?」

「雪斗がここに住むなら準備が必要でしょう、家財道具から家具に……ネットも通ってない」

渡辺は事務口調を強調する割に雪斗の手を引いて間に割って入って来た

今更だと思うが、多分この先もややこしい葛藤が続くと思うと苦笑いが浮かんできた

「インターネット回線の工事は明日朝から始めます、家具は手配済みですがベッドのマットレスは特注になります、2週間かかると聞いるからそれまでは適当な寝具を入れます、それでいいですか?」

「………何もしなくてもいいって言っただろ」

「自分で出来ないでしょう」

「出来るから…」


出来ない……と言うか多分雪斗は何もしない、そこは渡辺と意見が合致する

雪斗を放っておけば例の鞄一つでやって来て半径2メートルくらいで生活する

いつか言われた「宿代」は本当だった

たまに部屋に泊まった頃はそれなりに家事も手伝っていたし散らかす事もなかったが、気を使わなくなると散らかすし、片付けないし、ついでだが食べないし寝ない

雪斗の本性を知ってしまった皆巳が生活面の面倒を見てしまってる気持ちが物凄く理解出来た


「掃除洗濯は前と同じで週一回ハウスキープを申し込みました、民間警備会社との契約はもう済んでいます、家具、家電はまとめて明後日届きます、割れたガラスは特注なので来週になります、それから……」

「渡辺…………」

「わからないならいいです、勝手にやらせてもらいますから、ここに移るのは全部揃えてからにしてください」
「別に不自由しないからいい」
「知らない人が一杯出入りしますよ、いいんですか?」

「…それは………嫌だ………」

「じゃあ、言う通りにしてもらいます、見ないってわかってますが一応作っておいたリストを置いて行きます、もし足りないものがあれば言ってください私が手配します」

バインダーに止めたパンフレットや書類は分厚くなって弾けてしまいそうだ、渡辺は顧問弁護士と言うより最早執事と言った方がぴったりくる

必要な物を箇条書きにしてチェック欄まで作ったプリントアウトはチラッと見えただけでも詳細に及んでいた

渡辺はバインダーから一枚引き出し、嫌そうに咳払いを一つした

「それで?……佐鳥くんは……どうするつもりなんですか?」

「え?……それは勿論一緒にここに住むつもりです」

「まだ付き纏うんですね」

「一生付き纏います、渡辺さんにもそう伝えましたよね、俺は雪斗と結…………」
「結構です、雪斗がそれでいいなら私に言う事はありません、もう一つ部屋を用意します」

「いや……俺は雪斗と一緒で……」

渡辺はそれ以上言葉を続けるとぶっ飛ばすと目で威嚇した

男同士を認めるなんて簡単じゃない事はわかる、それでも渡辺は努力しようとしてくれている……らしい……

「隣の部屋でいいですね」

「俺達を……認めてくれるんですね」

「認める訳無いでしょう、馬鹿を言わないでください、私は今でもあなたをクビにするチャンスを狙ってます」


認めるとか認めないとかそんな次元の話じゃ無い
いつかこんな問題にぶち当たるとは思っていたがまさか相手が男で、馬鹿で、"佐鳥"だなんてあり得ない

それでも………

雪斗はずっと、誰にも心を許さずいつもピリピリと張り詰めていた

それなりの信頼は得ていたと思うが、背中を預けてくれない……心の中には決して入れてはもらえなかった

佐鳥の側では眠ると聞いた時はさすがに落ち込んだ


この春、決算を終えたタイミングで雪斗に「今までありがとう」と頭を下げられた

予想はしていた、していたが受け入れるつもりはない

その続きを聞くつもりは無かった、言いたい事は分かってる、この先も雪斗について行こうと決めていた、辞めるなら正木法律事務所の方だ

それまで子供との口約束のまま手伝ってきたが、その機会に正式に契約を交わし、雪斗個人に加えTOWAの顧問弁護士に就任して正木の事務所は畳んでしまった


「俺に手伝える事があれば言ってください、家財道具のお金も半分持ちます」

「結構です、ここに揃える家具は高額ですよ、悪いけど佐鳥くんに払える額じゃない」

「払います………………ロ…………ローンで……それでも無理なら肉体労働します」

「結構です!これ以上俺のテリトリーに入って来るな!」

荒れた渡辺は何度か見たが基本的にいつも冷静でシュッとしてる

その渡辺が壁に不満をぶつけ(また蹴った)いつか追い出しやると喚きながら帰って行った


「渡辺さんって……あんな人だったかな…」

「佐鳥、渡辺に任せておけばいいよ、趣味だって言ってたし」

「それをわかってなかったのは雪斗だけだよ」
「どいつもこいつも物好きだな……面倒だろう?俺……」

「面倒で楽しいんだよ」

「変態」

「よく知ってるだろう?」

「言い直す、エロチンコ」
「じゃあ続きを………」

「バーカ」
笑って逃げ出した雪斗は階段の手摺を滑り降りて………

やっぱりパンツのボタンで古い木に長い傷跡を付けた



隠し扉の開け方は知らなかった

他のコンセントは全てリフォームされていたがそこだけは元の古いままだ、雪斗が真鍮の蓋を開けて手を突っ込むと、何もない壁からコトンと隙間が現れた


全ての出来事が詰まったようなこの屋敷でこの隠し部屋が中心に居座っている気がする

「俺は……ここで待ってるよ」


もう乗り越えたつもりでいたが、暗く細い穴蔵に溜まって居る仄かに漂う埃っぽい匂いは思い出したくない

「佐鳥、大丈夫だよ全部片付いてる」
「でも……俺……」

「お前はこの家に住んでる時にこの部屋の事は知らなかったんだろう?」
「………うん」
「俺がここに来た時には「あの日」のままだったけど埃が積もったりはしてなかった、お前も毛布は触っただろう?栄治は家族が留守になるとこっそり掃除してくれていたんだと思う」

「親父が?」

「うん、その辺を見たらわかるだろ、ほんの数ヶ月……誰も埃を立ててないのにあの様だ、お前はいつか……ずっと先でもいいから一回ちゃんと栄治に謝っとけよ」

行こう……と雪斗に手を引かれた


暗く細い通路を抜けると壁の漆喰は綺麗に塗り直されている、窓明かりしかなかったのに電灯が取り付けられエアコンも付いている

古い家具は消えて床材も変わっていた

「渡辺には好きに改装してくれと言ったんだ……特にここは……」

「雪斗……」

「ん?」

「縁は笑ってる?」

雪斗は部屋をぐるっと見渡してからうん……と小さく頷いた

花だか星だかヒトデだかわからない紙粘土細工は、今冷蔵庫から親父の元に移ってる

今度……首からぶら下げて墓参りに誘ってみればいい

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