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佐鳥は一晩中帰ってこなかった
梨央とヤッてる時に帰って来ないか……なんてムクムク膨らむ黒い妄想は楽しかったが、そんな事をすれば佐鳥はきっと遠慮して出て行ってしまう
何もせず早々に梨央を追い出し、黒に席巻されたオセロで逆転出来ないか一晩中考えていた
断っておきたいが決して待っていた訳じゃない
待ってはいないが出勤時間が近付いてくるとイライラして時計ばかり見ていた
放っとけばいいのに……放っとけない
負けを認めるようで悔しかったが、我慢出来ずに携帯を鳴らすと………クローゼットの前に吊るした佐鳥のコートがブルブルと震えた
「あの!馬鹿!!」
思わずコートに携帯を投げつけてしまい、慌てて拾いに行くと、佐鳥がハァハァ言いながら帰ってきた
「何やってんだ!遅刻するぞ」
「悪い!携帯持っていってなくてさ、寝こけてたら朝何時かわからなくなって焦ったよ」
「…………………社長には会えたのか?」
「ああ……まあな……何だよ緑川も起きたばっかりなのか?昨日のまんまじゃないか」
「え?」
佐鳥に言われてハッとした、いつもならもう会社にいる時間なのに着替えもしていない
心が離れていく同棲相手の帰りを、悶々と待つ気分になってるなんて情けなくて死にたくなる
「ね……寝坊したんだよ」
「珍しいな」
珍しいどころかこんな事は初めてだ、入社以来遅刻の心配なんてした事は一度もない
早く自分のペースを取り戻したくて風呂場に向かうと佐鳥が当然のように付いて来た
「何だよ、俺が先だ、暁彦は歯磨きでもして待ってろ」
「別に一緒でもいいだろ、走って帰ってきたから汗かいたんだよ」
「良くない、待ってろ」
男と寝た事はあるが男の裸に興味を持った事なんか無い、少なくとも狭い風呂場で佐鳥と一緒にシャワーなんてしたくない
どうせ一瞬で終わる、先に済ましてしまおうと、寒いとか何とかグダグダ言っている佐鳥を無視して、さっさと服を脱ぎシャワーの蛇口をひねった
パッと花が開いたように固まって落ちてきた水を一気に頭から被るとザワッと体が泡立つ、刺すような刺激は慣れるまでキツイがすぐに馴染む
いつもなら暫くじっとしているが今日はのんびりしてる時間なんか無い、少量のシャンプーを手に取ると背後でドアが開く音がした
「何だよ、覗くなよスケベ、歯磨き粉なら洗面台の中に………暁彦?!」
バスタブに入って来た男の素足にブハッと顔にかかった水が吹き出した
「何してんだよ!」
この……………天然くそ馬鹿癒やし系呑気野郎、何を素っ裸になってこの狭い風呂場にのこのこ入ってくる
「わっ!!何だよ水じゃないか……冷た!」
「待ってろって言っただろ!嫌なら出て行けよ、っつか出ていけ、すぐ出るから!」
「お湯出してくれよ、今の季節に水は無いだろう」
「お前が勝手に入って来たんだろ、出て行かないなら諦めて水を被ってろ」
蛇口に手を伸ばした佐鳥の首を引き寄せシャワーの中に引き入れるとぎゃあ!と喚いた
不思議だが佐鳥が何をしても腹が立たない
佐鳥の頭にシャンプーを落としグシャグシャ掻き回し、ひとしきり格闘すると冷たい水はすぐに忘れた
「せめてお湯からちょっとずつ冷たくしていってくれよ、変な趣味だな」
「同棲するんだから遠慮なんかするか、ほら、今は暖かいだろ」
「うん、まあ……確かにホカホカしてるけど……」
水風呂は一旦冷えるが代謝が上がって指の先までほかほかしてくる、毎日やってる習慣だった
冷水は今日もきっちりいい仕事をしてくれる、頭がスッキリしてモヤモヤを綺麗にふっ飛ばしてくれた、佐鳥の口にチュッとキスして笑ながらシャツの袖に腕を通した
「同棲って言うな、口にキスするな」
「遠慮しないって言っただろ」
「遠慮の意味が違うだろ」
意味はあってるが佐鳥に説明する気なんかない、何を莫迦みたいに浮かれてるんだか、本当に同棲を始めたばかりのカップルみたいで真面目に気持ち悪い
ただでも遅れていたのにワチャワチャ遊んでいたせいでギリギリになってしまい、駅前のコンビニで食料を買って電車に走り込んだ
見られる事には慣れているが佐鳥と並ぶといつもより注目度が上がってしまう
丁度頭一つ分飛び出した満員電車の中で、ゼリー飲料とかカロリーメイトでいいのにチョコバーをモゴモゴ噛じられて結構恥ずかしかった
一緒にいると振り回されて大変なのにいつの間にかずっと笑ってる
「おい……やばいぞ……間に合うかな」
「暁彦がモタモタチョコなんか食ってるからだろ、俺はこんな時間に来た事ないから間に合うかなんてわかるもんか、おい!ゴミは後にしろ」
駅に着いた時間は本当にギリギリだったのに、チョコの包装紙を律儀に捨てようとウロウロしている佐鳥の腕を引っ張り、会社までの二百メートルを走った
佐鳥は人のペースを食う天才だと褒めてやる
勝ったとか訳のわからない事を言ってる佐鳥は色んな意味を込めて一発殴っておいた
エレベーターから降りると社員達はもう業務を始め、外線がなってる
いつもならもう一軒目の取引先に着いている頃だった
「今日は二人ともゆっくりなんですね」
藤岡がお茶を入れてくれたお茶を置いて珍しいですね、と笑った
「佐鳥の面倒を見るのに時間がかかってね」
「おい、緑川!何言ってんだよ、面倒かけた覚えはないぞ」
「かかってるんだよ、このバカ」
マンションからずっと一緒にいるせいでどこにも切れ目が無い
職場用の顔に切り替えができないまま佐鳥の頭をグシャグシャ乱してふざけていると……
パーテーションが隔てた廊下から松本の驚いた声と、ここにいてはいけない声が聞こえた
女子の注目を浴びてじゃれ合っていた佐鳥がさっと腕の中から消え、伸ばしていた腕が宙に浮いた
抱きしめていたブランケットに熱が溜まりムッとした空気に目を覚ますと、毎度の事だが隣に眠っていた雪斗はもういなかった
ガランとした荷物のない部屋は設定温度を上げ過ぎたせいで暑い
夏も冬もフル稼働していた古い型のエアコンが文句を言うようにガタガタとうるさかった
何度も同じ喪失感を食らったが、今はまたすぐ会えると信じられる
エレベーターの前にスーツを着て立っている雪斗はこうして見ると少し痩せた
ただでも細いのに顎のラインが益々華奢に見える、Tシャツ姿の時は何も思わなかったが髪が伸びて目にかかっている
「雪斗、どうしたんだ、まだ無理なんじゃないか?」
「別にマラソンする訳じゃないら俺は座ってるだけだ、もう社員を部屋に呼ぶなって渡辺に怒られたから仕方ないだろ」
「渡辺さんは?雪斗がここに来てるって知っているのか?」
「…うん…………まだ……知らない……」
じゃあ多分また怒られる
顔がよく見たくて目にかかっている前髪をサラリと避けると鬱陶しそうに避けた
「伸び過ぎじゃないか?邪魔だろう?」
「渡辺みたいなこと言うな、後で切っとくから触んな」
「え?自分で切ってるのか?雪……」
「あっ!あ!暁彦!」
ドギマギと狼狽えている松本の横で、また雪斗の髪に触ろうとする佐鳥の前に割り込んだ
…………新密度を伺わせるスキンシップが多すぎる
「何だよ、緑川……変な声出して」
「もう出ないとまずい、お前田辺食品に行くんだろ?あそこの担当者はうるさいぞ」
「行くけど……今更5分10分変わらないだろ、なあ雪斗……」
仕事があるなら早く行けと雪斗に蹴飛ばされ、ずっと開きっぱなしだったエレベーターに押し出された佐鳥の前を塞いで締めるのボタンを押した
閉まっていく扉の先向こうに、初めて見る……皮肉のこもってない、普通に笑った雪斗の顔が見えた
「あ……渡辺さんだ……」
社屋の外に出ると広場の端に止まったタクシーから渡辺と皆巳が飛び降りてきた
「社長……また怒られるな」
「渡辺さんも大変だな」
「そうか?楽しそうだからいいんじゃないか?」
呑気に笑う佐鳥も楽しそうだ
ついこの間恐慌の渦に巻き込み、散々混乱を産んだ雪斗が目的も理由もわからないまましれっと会社に馴染んでいく
「これ以上モタモタするなら置いていく」
一々足を止める佐鳥を置いて駅に向かうと飼い犬のように追いついてきた
「待てよ、どっかで落ち合って昼飯食おう」
「…………そうだな………」
雪斗が連れ去ってしまうわけじゃない、佐鳥が笑っている限り何でもいい
外回りの順路を決めて待ち合わせの場所を決め、ホームの手前で別れた
一気に日常が戻ってきた
雪斗は何事もなかったように仕事を進め怪我をした片鱗はまったく見せない
血に汚れた壁は綺麗に拭き取られエタノールで消毒された、会議室にも凄惨な血の跡は残っていない
営業は飛び回り、三人見つかった現地の出身者を面接して英語とフランス語、それに片言の日本語を話す出稼ぎ青年をリクルートして深川が出発した
後に残った問題は……もう緊急を要し先に伸ばせない、最大且つ、史上稀なる難題だけが大きく立ちはだかっていた
「佐鳥、お前も参加しろ」
夕方になって営業先から戻ると、社長室から顔だけだした野島部長にちょっと来いと呼ばれた
何があったのかフロアでは雪斗と塚下を囲み、内勤の女子(20代から50代までほぼ全員)が集まって何やら揉めているように見える
「何があったんですか?あれ」
「ああ……あれな……あれはどうでもいいんだが……」
野島は憎々しげに女子の塊を睨みボリボリと頭を掻いた
事の発端は社長が平社員のおばさんに怒られる、という変な構図から始まった
雪斗は役員報酬の受取を保留にしたままどうするかの答えを出さずに逃げ回り、経理が困っていると塚下に呼び出しを食らっていた
まるでお母さんに叱られて拗ねている子供のようで社員全員が面白がって見ている中、受け皿を持って社長室から出て来た皆巳が、雪斗の口元に差し出したスプーンをパクっと口に入れた
誰もが驚いたのは仕方がない
皆巳は佐鳥社長とデキていると以前から噂になっていたが、今度は若い社長を食ったのかと女子が爆発した
薬を飲ませただけです、と何を言われても鉄面皮は変わらないが、それなら公平にとじゃんけん大会が始まっていた
「馬鹿らしいだろ?」
「はあ……」
自分で薬を飲もうとしない雪斗に、皆巳が一々ゼリーに包んで食べさせている事はマンションに通っていた営業組全員が知っていた
勿論、営業達の間でも出来てるんじゃないかって話にはなったがそれは違うと知っている(多分)、立ちはだかっている問題は、誰がどうやって薬を飲ませるかなんかじゃない
手術をした日から一度も診察を受けていない雪斗の傷に縫い込まれた糸をどうするかだった
会議室に入ると、先に帰っていた緑川と渡辺が難しい顔をして対策を練っていた
通常なら5日で抜糸する所もう10日も経っている、あまり日が経つと皮膚に癒着して糸が抜けにくくなるから早く病院に連れてこいと長野医師から催促されているが今の所有効な手立ては思いつかない
眠らせて病院に連れていく案が一番手っ取り早いが設備のない場所で薬を使うんなんて絶対嫌だと長野に拒否されていた
抜糸など人によっては痒いところに手が届くようで気持ちいいと言うくらいだ
10分もかからないが病院と聞くと雪斗がどう出るか誰にでも簡単に予想が付き、説得には踏み切れないでいる
「渡辺さん、あなた弁護士なんだから医者に知り合いとかいるでしょう、握ってる秘密を盾に取れば何とかしてもらえそうじゃないですか、ここまで来てもらってチョチョイと抜糸してもらえばいい」
「固定観念で物を言わないでください、私が仕事で知り合う相手は企業の担当者か犯罪者くらいです」
「この際手刀で沈めて病院に運んだらいいんじゃないか?」
こんな事を議論していることさえ不毛なのだから仕方が無いが、野島が茶化すと渡辺が真面目に困った顔をした
「野島部長、雪斗……社長を舐めないで貰いたい、背後で手を振り上げた途端反撃されますよ」
思わずうん、と深く頷くと渡辺の横に立って話を聞いていた緑川も同じように頷いていた
何故このメンバーでこんな話をしているのかと言えば、最終的には力ずくになる可能性が濃く、事情を知るものがこの四人だけだからなのだが、どこでどうやって仕入れているのか、何回取り上げても舞い戻ってくる雪斗の例の柄物がまたポケットに舞い戻っている可能性が否定できない
「誰か医者の友達くらいおらんのか?」
野島がぐるっと全員を見渡して、こんな問題を話し合いは早く終わりたいと眉を捻じ曲げた
「あの……医者じゃないけど医師免許を持っている知り合いならいます」
嫌だけど………物凄く嫌だけど、ダイビングショップで聞いたあの話、詳しい事情を話さなくてもわかってくれるあいつがいる
「誰ですか?佐鳥くんの知り合いですか?」
「……知り合いと言うか……木嶋さん……なんですけど……」
「木嶋?」
野島部長と緑川がオーバーに驚いて身を乗り出した、よりによって今一番弱味を見せたくない相手だ
「ハイパーの木嶋?」
「そうです……あの人は雪斗の事情もちょっとはわかってるし……嫌な奴だけど口は固いと思います」
嫌な奴だと思うのは個人的な感情だ、主治医が投薬を怖がるような患者を引き受けてくれる医者は見つかりそうに無い、何よりも雪斗の体が一番だった
「そんな事を頼んでもし弱みに付け込まれたらどうする?」
「"友人"として頼めば………多分そこは大丈夫なんじゃないかと……」
野島と緑川が盛大に唸ったが他に代案は無かった
「何かいい報告かと思ったら何なんだ……」
勝手に私用の直通番号を使う訳にはいかない、木嶋に直接番号をもらった緑川が電話をかけると、ワンコールで出た木嶋の声がスピーカーから聞こえてきた
事のあらましを話すと、当たり前だがすぐにうんとは言わない
「あなたは医師免許を持っているって言ってましたよね、出来たらお願いしたいんです」
「抜糸って……雪斗君どうしたの?」
「ちょっと事故で脇腹を切ってしまっただけなんです」
「でも俺は道具もないし……まあ先の細いハサミでも出来るけど、俺は真っ当にやった事ないぜ?まあ、抜糸くらいなら誰でも出来るけどな、何で病院に行かないんだ?」
「それは………あの………雪斗が嫌だって………眠らせて知らない間に済ませたいんですけど責任者がいないと主治医が薬を出してくれないんです」
「ふうん………本当にあの子は色々あるね……責任は持てないけどただ医師免許が必要なだけなら行ってもいいよ、その代わり隠し事無しにしてもらう」
「今話したじゃないですか」
「病院に行けないから抜糸出来ない?一番大切な情報が抜けてる、どんな怪我なのか、何故担当医が薬を出してくれないか聞かないことにはこの話、うんとは言えない」
木嶋の口調は明らかに面白がっている、やっぱり嫌な奴だと再認識したがもう日が無い
「来てくれるなら……話します……」
「違うだろ、話してくれたら行く、当然だろう、一応命を預かるんだ」
やっぱり木嶋に頼んだのは失敗だったかもしれない、抜け目のない木嶋相手に最低限の説明をして(そこは緑川が話した)その日のうちに来て貰えるよう約束を取り付けた
決行は夜5時を過ぎて社員が減り始める頃
グズグズ文句を言う長野医師から睡眠導入剤を一回分だけ処方してもらい皆巳がゼリーに混ぜて食べさせた
薬がいつどう効いてくるかわからない
かなり量をセーブしたのか長野は効くかどうかもわからないと笑っていた
薬を飲ませる前に来てもらった木嶋には大変申し訳なかったが、偶然雪斗と顔を合わせたりしないように非常階段を使って5階まで上がり、女子更衣室に隠した
「すいません、こんなとこで……雪斗は思い立つと急にフロアに出てくるんです」
「女子更衣室ってのがいい、それにしてもたかが抜糸に大変な事になってるね、会社ぐるみで結束力が凄いな」
「雪斗の病院拒否は洒落にならないんです、暴れる所をほぼ全員が見てるから説明しなくてもわかってくれるんですよ」
「う~ん……それってご両親のせいかな?」
「……は?……何の事ですか?」
木嶋は音羽という苗字も歳も知っている、調べるのは簡単だったと思うが……何故雪斗がそんなに気になるのからかが気に食わない
むっとした顔が思いっきり表に出た
「ごめんごめん、そんな顔するなよ、雪斗君の過呼吸は何か原因があるんだろうなって、ちょっと調べただけなんだ……わりとすぐにわかっちゃって……」
「その事で木嶋さんが雪斗に何か言ったりしたら俺は躊躇なくぶん殴りますからね」
「そんな事をしないって信頼してくれたから俺を呼んだんだろ」
ヨシヨシと頭を撫でられ、あまりの胸くそ悪さに黙り込んだ
本当は木嶋と二人っきりでこんな所にいたくない
雪斗に飲ませた薬が効き始めるのを側で見ていたかった
少量の筋肉弛緩剤で体中の動きを止めたあの時……
思い出すだけで寒気がする
木嶋係と割当られた時に抗議したが、渡辺と(理由ははっきりしてる)緑川に(お前がいると雪斗にバレるって言われた)押し付けられた
女子更衣室は仄かにいい匂いがする
TOWAの本社には男子更衣室など無いが、あったらこんな匂いは絶対しない、あんまり見てはいけないと禁忌に押されながらも手持ち無沙汰で部屋の中を見回した
壁にかかった数着の事務服はもう帰った主婦層の物……水色のカーディガンは藤岡が着ていた、クンクンを鼻を伸ばして匂いを嗅いでいると………コンコンとドアを打つ音にすけべ心を責められたような気がしてごめんなさいと叫びそうになった
「は、はい!」
男が女子更衣室の中から返事をするなんて変な感じたがドアを開けると皆巳がもう出てもいいとチョイチョイ手招きした
「ようやく落ちました」
落ちたって……
皆巳はどんな女性にも好かれそうな木嶋を前にしても仮面を崩すことはない
「随分時間がかかったんですね」
「お待たせしてすいませんでした、うちの社長は何かに夢中になると集中力が凄くて……薬の量が足りないのかと思ってたら急に頭が落ちたんです」
「なるほど…そんな効き方をするような薬じゃないね……処方するのを怖がるわけだ」
木嶋は空になった錠剤の名前を見ておかしいな……と呑気に笑った
「本当に大丈夫なんですか?」
木嶋の見た目は一見チャラい、長髪を一つに括り、もう冬に差し掛かるこの時期に日焼けで肌が浅黒い、アパレルブランドの代表的という肩書も何となく胡散臭かった
渡辺は木嶋を見た最初から何回も不安を口にしていた
「私には実地の経験は無いとお伝えしている筈です、まあ、心配なさらなくても抜糸くらいなら出来ますよ、雪斗くんを横にしてもらえますか?」
「はい、ソファでいいですか?それとも机とか床とか……」
「ソファにお願いします」
机に突っ伏した雪斗は皆巳が「落ちた」と表現した通り、意識を無くす瞬間まで動いてたと分かるポーズで眠っていた
手にはまだそのまま書き出せる形でボールペンを握ってる、ボヤけた意識をはっきりさせようとしたのか猫だかドラえもんだか下手過ぎてわからないが、髭のある何かを描きかけ伸びていた
抱き起こそうとすると渡辺に肩を引っ張られ、触るなと言いたげに雪斗を抱き上げソファに寝かせた
渡辺が性的な目で雪斗を見ているなんて絶対にないとは思うが、釣り合わない相手との交際を反対する親のような目で見られている事だけは間違いない
あんまり刺激するととんでもない手段に出そうで、(しかも雪斗が従いそうで怖い)そっと緑川の後ろに廻り口と手を出すのはやめておいた
「これでよく起きないな………意外と呑気なのかな」
木嶋は笑いながらコツンッと雪斗のおでこに指を跳ねた…………口は出さない………出さない
「それにしても起きてると小憎たらしいけど、眠ってると益々ベビーフェイスだな、雪斗くんはホントに顔がつるっつるで女子みたい……」
「ちょっと!」
「木嶋さん、早く済ませて下さい、大人一人分の容量は飲んでないんです、目を覚ますととんでもない事になりますよ」
「はいはい、それもちょっと見たいけど引き受けた以上ちゃんとやります、まったく……人騒がせだな雪斗君は……」
緑川が被せてくれて何とか黙っていられたが……この際雪斗が目を覚ましてこの小憎たらしい木嶋をプッスリやってくれないか……なんて思ってしまった
木嶋が持ってきた卒業証書の写しは日本最高峰の医学部、しかもそれを振って事業を興してる、生まれた時から持ち合わせている才能やスペックが神様から贔屓されているとしか思えない、見れば見るほど、聞けば聞くほど憎らしい
「さて……やってみるか」
木嶋は友達から借りてきたと医療用の抜糸剪刀をチョキチョキと動きを確かめ、ガーゼとアルコールを渡辺に渡した
眠りコケる雪斗のシャツを胸まで捲り上げると、臍の横から伸びている赤黒い筋が、縛り上げる窮屈そうな糸で引き攣れている
「ふうん……思っていたより大きな傷だね」
「え?……あっっ……」
危うく叫びそうになった
傷は全部見えているのに遠慮無しに下着ごとズボンが引き下げられ、全部脱がす気かと慌てた
腰骨や足の付け根から伸びている筋まで見える、もうちょっとで……も見えそう……
皆巳は部屋の外で見張りをしているが、明るい蛍光灯の下で男5人が見下ろす下でほぼ半裸
ちゃんと病院で処置してもらえばこんな姿を、こんな場所で晒さずに済んだのに……木嶋にももうちょっと遠慮して欲しかったが医療に携わる奴らは人の裸なんか気にしない
傷口とその周りを丁寧にアルコールで拭き取り、チョキチョキと糸の上っ面を切っていった
抜糸くらいと散々口にしていたが見ているとちょっと痛そうだ
糸に引っぱられた肉がピンセットで引き抜く糸にくっついてプツッと音がする、やはり癒着しているのか針で刺したように小さな血の山が産まれては崩れる
細かく丁寧に縫い込まれた糸は10針以上あった
「男の腹なんてステープラーで止める方が早いのに緊急だった割に丁寧に縫ってある、長野さんはマメだな」
「ステープラーってホッチキス?そんなもの医療で使うんですか?」
「そう、パチンパチンっとね、きっと雪斗くんの肌があんまり綺麗だからなるべく傷を残さないようにしたのかな」
大業に作戦を立て大騒ぎした割に抜糸はあっと言う間に終わり、消毒が済むと渡辺がさっとシャツを引き下ろした
「ありがとうございました、これ、少ないですが……」
一々余計な事を言う木嶋に、苛つきを隠さない渡辺は早く帰れと言いたいのか、用意してあった封筒を差し出した、謝礼金が包まれているとひと目でわかるが分厚い、半分に折り畳めないくらい分厚い
「困ります、そんな物は必要ありません、私は友人として来ただけですから……」
「断らないでください、受け取っていただく方がこちらも楽なんです」
要らないと手を振る木嶋の手に茶封筒を強引に握らせ、ドアの外にいた皆巳を呼んだ
「勘弁して下さいよ」
「お茶を入れます、こんな事にお時間を取らせてすいませんでした」
「いえ、無駄だったと思っていた医師免許が一回でも役立って良かった」
渡辺は腕を背中に回して組んでしまった、予想はついたがこんなに早く出てくるとは思わず、断るタイミングを逃してしまった
普通ならこんな頼み事を聞いたり絶対にしない、抜糸の作業自体に問題ないがもし飲んだ薬のせいで何かあっても対処は出来ない
自分の名の元で人の命を預かるだけのスキルは持ち合わせていないのに引き受けるべきじゃない
使用済みの脱脂綿、血のついた細切れの糸、一応産業廃棄物に指定されている為ビニール袋に纏め二重に包みキツく縛り上げ、眠り続ける雪斗を横目で見た
何故引き受けたかと言えば雪斗とTOWAには興味があるから
佐鳥や渡辺は何も知らずに眠り続ける雪斗を心配そうに見つめ………その二人を心配そうに緑川が見つめている
何がある訳じゃないが人を観察するのはもう癖になっていた
佐鳥と雪斗がカップルなのだとマキから話は聞いていたが………
面白い三角関係だった
散々固辞された謝礼の茶封筒は渡辺と木嶋の間を行ったり来たりしたが結局根負けした木嶋は渋々と懐に納め仕事があると帰っていった
長野には災難だったのかもしれないがややこしい患者の見立ては正確だった
眠れる程効くかどうかわからない、とセーブされた量しか飲んでいないのに2時間眠り続けた雪斗は、目を覚ました途端トイレに駆け込んで吐き戻してしまった
何から何まで手がかかる
「社長って何でも一人で出来そうで実は何にもできないな、一人だったらあの怪我が勝手に治るまで放っておいたんじゃないか?」
「渡辺さんがいなければ今頃はとっくに野垂れ死んでたかもな」
渡辺と皆巳に保護名目で連行されて行った雪斗を見送った後、佐鳥と緑川はマンションに近いスーパーに寄って食材を仕入れに行った
緑川のマンションは地価が高いだけあって並ぶ食材も全部高い
「暁彦……肉……食べたいのか?」
籠を持ってうろついていると佐鳥が肉の前でピタッと足を止め動かなくなった
いつも思うが佐鳥は脳みそじゃなく各部署でモノを考える
どうやら今は内臓が主導権を取った
「高いな……何グラムまで払えるかな?グラム1200円………300買って3600円と消費税で4000円弱……足りないかな、500買って……」
どちらかと言えば肉より魚の方が好みだがはっきり言って食べ物なんか何でもいい方だった
「暁彦が食べたいなら買えばいいだろう、俺は適当につまみで誤魔化せる」
「いや……心配すんな……」
思わず払ってやるからとか馬鹿な事を言いそうになって口をつぐんだ
本当に大型の犬でも飼っている気分………
こうやって佐鳥と一緒に何かをするのは楽しい
見ていると考えている事が手に取るようにわかり、単純、明快、素直で時たま脊髄反射で動く
操っているのか操られているのかわからないが笑える事だけは確かだ
「腹が減っている時にあのスーパーはトラップだらけで危ないな」
「引っ掛かってるじゃないか、チョロい奴」
「チョロいって言うな」
何で粒胡椒と岩塩ないかな……と文句を言いつつ佐鳥がサイコロに切ったステーキを焼き上げ、ジャガイモを丸々電子レンジで吹かして見事に料理した
佐鳥の几帳面は料理にも反映され男二人、仕事の後なのに綺麗に皿に盛ってソースで飾ったりする
「……お前最高だな……わかった……この際だ、籍を入れよう」
「緑川の稼ぎを見せて貰ってからじゃないと判子は押せない……いくら貰ってるか吐けよ」
「判子ついたら見せてやるよ、まあ減給中の暁彦くんよりは多いだろうな」
「それ言うな」
ビールと高い肉、炊きたての米、佐鳥と暮らすと絶対に太る、リベンジオセロを並べながらの極上と言える夕食だった
「暁彦………お前……オセロ得意なのか?」
佐鳥はやっと気付いたかとニッと笑いを浮かべて駒を置いた
「俺は大人になってから一人を除いて誰にも負けてない」
「クソ……最初に言えよ、それならもっと真剣にやったのに……」
「真剣にやっても俺には勝てないぞ、俺の事を馬鹿と言うのはやめてもらおうか」
パタパタと佐鳥の白に盤面が変わっていくのを止めるのはなかなか難しい、強いと豪語するのは意味の無い自慢じゃなかった、何度やっても気が付けば劣勢になってる
「本当に強いな……勝てなかった相手って誰だ?」
「………雪斗………」
「……そっか…確かに社長はこういうの強そうだな」
………だから後生大事にオセロなんか持ってきたのか……
別に佐鳥が雪斗にぞっこんでも構わない
佐鳥はこうして手の中で笑っている
時々慌てる顔が見たくて揶揄いたくはなるが佐鳥に対する所有欲は単純な肉欲じゃ無い
知ってか知らずか………何も考えてない佐鳥は、床は固いと狭いシングルベッドに上がり込んでくる
足元にはスツールを置いて長さは増量してあるが狭い事この上ない
馬鹿みたいに身を寄せあって眠るようになっていた
「何だよ……」
雪斗の第一声がこれだった
社員全員に騙されたと知ってから雪斗はずっと不機嫌だった、怪我を押して出社していたくせに、完治とは言えないが抜糸が済んで一区切りついたのに会社に来ない
様子を見に………ただ単に会いたかっただけだが食料を持ってマンションに来るとドアの隙間からチロッと覗いてリビングに戻ってしまった
それでも鍵を閉めなかったという事は入ってもいいって事……と思う
「そんな顔をするなよ……傷口を放っておけないんだから仕方がないだろう」
「薬を盛るなんて二度としないでくれ」
「女に刺されるような真似をした雪斗が悪い、大体病院に行けば済むのに雪斗が……」
「俺に一言でも相談したか?糸を抜くくらい自分でやる」
そう言い出す事も想定済みだったから眠らせた
プイッと顔を背け、会社に来ないで何をしているのか知らないがパソコンに目を落とし続きに戻って相手をしてくれない
床に散らばった書類は全部英語で読む気になれない、食べ物を出しても知らん顔、する事が無くて襟足でふわふわしている雪斗の髪を見ていて………いい事を思いついた
…………人前で眠る怖さを再認識した
施設を逃げ出してから渡辺以外の人間とまともな付き合いなんか無い、初めてと言っていい環境でついつい甘え油断した
頭じゃ駄目だとわかっているのに佐鳥への無害認定は中々上手く取っ払えず、どうしたいのかもわからなくなっていたが………そんな事を考えていたくせにまた油断していた
耳元で聞こえたシャキッと鋭角な音に背筋に悪寒が走った
「何?!!何してんだよ!」
ハラリと肩から落ちてきた黒い塊にヒッと変な悲鳴が出た
落ちて来たのは髪の毛?慌てて首を触ると襟足の片方がスカスカになっている
「いや……散髪してやろうと……」
「馬鹿っっ!!!」
信じられない事をする
腹の底から声を出してしまいウグッと息を飲んだ
まだ体のどこかに力を入れると傷が引きっったように痛む
「クソ…………本物の大馬鹿だな……何してくれるんだよ」
「俺……意外と出来ると思うけど」
「すんなっ!!二度とすんな!」
今もしその鋏が振り上げられていたとしても気付けていない、馬鹿と無害が高じて有害になってる
佐鳥から鋏を取り上げてTシャツを脱げ捨てた
「雪斗?何してんの?何で脱いでる」
「風呂に入って自分で切る」
「え~……それなら俺にやらせてくれても」
「……お前帰れ」
冷たい言葉にはすっかり耐性が出来てる
服を脱いだ雪斗の腹に見えた傷跡はまだまだ生々しいがちょっと触ってみたくもある
雪斗の放置され伸びすぎた髪は、個人的には色っぽくて好きなのだが自分だけが見る訳じゃない、変な所からモテそうで気になっていた
自分で切るってどうするのか………
シャンプーの香りをふわふわ撒き散らし風呂場から出て来た雪斗の髪はちゃんと短くなっていた
少しは男っぽくなるかと思えば短ければ短いで幼く見える、生え際の髪が短いせいで逆立っていた
「何か……可愛いな」
「は?可愛いとか言うな、ぶっ殺すぞ」
「………ちょっとだけ触ってもいい」
「いいけど………俺はまだ出来ないぞ」
「まだ?……もうちょっと我慢したらいいってこと?」
「知るか!」
直接欲しいと言うとどうして顔が赤くなるのかわからないが、上から目線で小悪魔を演じる雪斗とは別人に思える
「何もしないよ、今日は……雪斗を眠らせに来ただけだよ」
「俺は……子供じゃない……」
ギュッ背中を抱いて赤くなった耳たぶをパクッと口に入れた
「……あっ……」
「……変な声を出すなよ……」
「そっちが変な事するからだろ!」
「我慢してるのに……」
「お前もう帰れ!」
肘鉄を腹に食らって腕の中から逃がしてしまった
ますます顔が赤くなりこっちがビックリするほど可愛い
「もう電車がないし今更帰れない」
「じゃあとっとと寝ろ、俺はまだ仕事がある」
「待ってるよ」
「勝手にしろ、俺は寝ないかもしれないぞ」
「待ってるって」
そういってたにも関わらず雪斗の側で床に寝そべっている間にウトウトしていたらしい
気が付けば雪斗は胸に腕を投げ出して脇の下に丸まっていた
短くなった髪を指で鋤いて地肌に爪を立てると鬱陶しそうに手を払われた
眠っていても雪斗は雪斗だ
ギュッと頭を抱いて引き寄せ、朝までお互いの体温で暖めあった
梨央とヤッてる時に帰って来ないか……なんてムクムク膨らむ黒い妄想は楽しかったが、そんな事をすれば佐鳥はきっと遠慮して出て行ってしまう
何もせず早々に梨央を追い出し、黒に席巻されたオセロで逆転出来ないか一晩中考えていた
断っておきたいが決して待っていた訳じゃない
待ってはいないが出勤時間が近付いてくるとイライラして時計ばかり見ていた
放っとけばいいのに……放っとけない
負けを認めるようで悔しかったが、我慢出来ずに携帯を鳴らすと………クローゼットの前に吊るした佐鳥のコートがブルブルと震えた
「あの!馬鹿!!」
思わずコートに携帯を投げつけてしまい、慌てて拾いに行くと、佐鳥がハァハァ言いながら帰ってきた
「何やってんだ!遅刻するぞ」
「悪い!携帯持っていってなくてさ、寝こけてたら朝何時かわからなくなって焦ったよ」
「…………………社長には会えたのか?」
「ああ……まあな……何だよ緑川も起きたばっかりなのか?昨日のまんまじゃないか」
「え?」
佐鳥に言われてハッとした、いつもならもう会社にいる時間なのに着替えもしていない
心が離れていく同棲相手の帰りを、悶々と待つ気分になってるなんて情けなくて死にたくなる
「ね……寝坊したんだよ」
「珍しいな」
珍しいどころかこんな事は初めてだ、入社以来遅刻の心配なんてした事は一度もない
早く自分のペースを取り戻したくて風呂場に向かうと佐鳥が当然のように付いて来た
「何だよ、俺が先だ、暁彦は歯磨きでもして待ってろ」
「別に一緒でもいいだろ、走って帰ってきたから汗かいたんだよ」
「良くない、待ってろ」
男と寝た事はあるが男の裸に興味を持った事なんか無い、少なくとも狭い風呂場で佐鳥と一緒にシャワーなんてしたくない
どうせ一瞬で終わる、先に済ましてしまおうと、寒いとか何とかグダグダ言っている佐鳥を無視して、さっさと服を脱ぎシャワーの蛇口をひねった
パッと花が開いたように固まって落ちてきた水を一気に頭から被るとザワッと体が泡立つ、刺すような刺激は慣れるまでキツイがすぐに馴染む
いつもなら暫くじっとしているが今日はのんびりしてる時間なんか無い、少量のシャンプーを手に取ると背後でドアが開く音がした
「何だよ、覗くなよスケベ、歯磨き粉なら洗面台の中に………暁彦?!」
バスタブに入って来た男の素足にブハッと顔にかかった水が吹き出した
「何してんだよ!」
この……………天然くそ馬鹿癒やし系呑気野郎、何を素っ裸になってこの狭い風呂場にのこのこ入ってくる
「わっ!!何だよ水じゃないか……冷た!」
「待ってろって言っただろ!嫌なら出て行けよ、っつか出ていけ、すぐ出るから!」
「お湯出してくれよ、今の季節に水は無いだろう」
「お前が勝手に入って来たんだろ、出て行かないなら諦めて水を被ってろ」
蛇口に手を伸ばした佐鳥の首を引き寄せシャワーの中に引き入れるとぎゃあ!と喚いた
不思議だが佐鳥が何をしても腹が立たない
佐鳥の頭にシャンプーを落としグシャグシャ掻き回し、ひとしきり格闘すると冷たい水はすぐに忘れた
「せめてお湯からちょっとずつ冷たくしていってくれよ、変な趣味だな」
「同棲するんだから遠慮なんかするか、ほら、今は暖かいだろ」
「うん、まあ……確かにホカホカしてるけど……」
水風呂は一旦冷えるが代謝が上がって指の先までほかほかしてくる、毎日やってる習慣だった
冷水は今日もきっちりいい仕事をしてくれる、頭がスッキリしてモヤモヤを綺麗にふっ飛ばしてくれた、佐鳥の口にチュッとキスして笑ながらシャツの袖に腕を通した
「同棲って言うな、口にキスするな」
「遠慮しないって言っただろ」
「遠慮の意味が違うだろ」
意味はあってるが佐鳥に説明する気なんかない、何を莫迦みたいに浮かれてるんだか、本当に同棲を始めたばかりのカップルみたいで真面目に気持ち悪い
ただでも遅れていたのにワチャワチャ遊んでいたせいでギリギリになってしまい、駅前のコンビニで食料を買って電車に走り込んだ
見られる事には慣れているが佐鳥と並ぶといつもより注目度が上がってしまう
丁度頭一つ分飛び出した満員電車の中で、ゼリー飲料とかカロリーメイトでいいのにチョコバーをモゴモゴ噛じられて結構恥ずかしかった
一緒にいると振り回されて大変なのにいつの間にかずっと笑ってる
「おい……やばいぞ……間に合うかな」
「暁彦がモタモタチョコなんか食ってるからだろ、俺はこんな時間に来た事ないから間に合うかなんてわかるもんか、おい!ゴミは後にしろ」
駅に着いた時間は本当にギリギリだったのに、チョコの包装紙を律儀に捨てようとウロウロしている佐鳥の腕を引っ張り、会社までの二百メートルを走った
佐鳥は人のペースを食う天才だと褒めてやる
勝ったとか訳のわからない事を言ってる佐鳥は色んな意味を込めて一発殴っておいた
エレベーターから降りると社員達はもう業務を始め、外線がなってる
いつもならもう一軒目の取引先に着いている頃だった
「今日は二人ともゆっくりなんですね」
藤岡がお茶を入れてくれたお茶を置いて珍しいですね、と笑った
「佐鳥の面倒を見るのに時間がかかってね」
「おい、緑川!何言ってんだよ、面倒かけた覚えはないぞ」
「かかってるんだよ、このバカ」
マンションからずっと一緒にいるせいでどこにも切れ目が無い
職場用の顔に切り替えができないまま佐鳥の頭をグシャグシャ乱してふざけていると……
パーテーションが隔てた廊下から松本の驚いた声と、ここにいてはいけない声が聞こえた
女子の注目を浴びてじゃれ合っていた佐鳥がさっと腕の中から消え、伸ばしていた腕が宙に浮いた
抱きしめていたブランケットに熱が溜まりムッとした空気に目を覚ますと、毎度の事だが隣に眠っていた雪斗はもういなかった
ガランとした荷物のない部屋は設定温度を上げ過ぎたせいで暑い
夏も冬もフル稼働していた古い型のエアコンが文句を言うようにガタガタとうるさかった
何度も同じ喪失感を食らったが、今はまたすぐ会えると信じられる
エレベーターの前にスーツを着て立っている雪斗はこうして見ると少し痩せた
ただでも細いのに顎のラインが益々華奢に見える、Tシャツ姿の時は何も思わなかったが髪が伸びて目にかかっている
「雪斗、どうしたんだ、まだ無理なんじゃないか?」
「別にマラソンする訳じゃないら俺は座ってるだけだ、もう社員を部屋に呼ぶなって渡辺に怒られたから仕方ないだろ」
「渡辺さんは?雪斗がここに来てるって知っているのか?」
「…うん…………まだ……知らない……」
じゃあ多分また怒られる
顔がよく見たくて目にかかっている前髪をサラリと避けると鬱陶しそうに避けた
「伸び過ぎじゃないか?邪魔だろう?」
「渡辺みたいなこと言うな、後で切っとくから触んな」
「え?自分で切ってるのか?雪……」
「あっ!あ!暁彦!」
ドギマギと狼狽えている松本の横で、また雪斗の髪に触ろうとする佐鳥の前に割り込んだ
…………新密度を伺わせるスキンシップが多すぎる
「何だよ、緑川……変な声出して」
「もう出ないとまずい、お前田辺食品に行くんだろ?あそこの担当者はうるさいぞ」
「行くけど……今更5分10分変わらないだろ、なあ雪斗……」
仕事があるなら早く行けと雪斗に蹴飛ばされ、ずっと開きっぱなしだったエレベーターに押し出された佐鳥の前を塞いで締めるのボタンを押した
閉まっていく扉の先向こうに、初めて見る……皮肉のこもってない、普通に笑った雪斗の顔が見えた
「あ……渡辺さんだ……」
社屋の外に出ると広場の端に止まったタクシーから渡辺と皆巳が飛び降りてきた
「社長……また怒られるな」
「渡辺さんも大変だな」
「そうか?楽しそうだからいいんじゃないか?」
呑気に笑う佐鳥も楽しそうだ
ついこの間恐慌の渦に巻き込み、散々混乱を産んだ雪斗が目的も理由もわからないまましれっと会社に馴染んでいく
「これ以上モタモタするなら置いていく」
一々足を止める佐鳥を置いて駅に向かうと飼い犬のように追いついてきた
「待てよ、どっかで落ち合って昼飯食おう」
「…………そうだな………」
雪斗が連れ去ってしまうわけじゃない、佐鳥が笑っている限り何でもいい
外回りの順路を決めて待ち合わせの場所を決め、ホームの手前で別れた
一気に日常が戻ってきた
雪斗は何事もなかったように仕事を進め怪我をした片鱗はまったく見せない
血に汚れた壁は綺麗に拭き取られエタノールで消毒された、会議室にも凄惨な血の跡は残っていない
営業は飛び回り、三人見つかった現地の出身者を面接して英語とフランス語、それに片言の日本語を話す出稼ぎ青年をリクルートして深川が出発した
後に残った問題は……もう緊急を要し先に伸ばせない、最大且つ、史上稀なる難題だけが大きく立ちはだかっていた
「佐鳥、お前も参加しろ」
夕方になって営業先から戻ると、社長室から顔だけだした野島部長にちょっと来いと呼ばれた
何があったのかフロアでは雪斗と塚下を囲み、内勤の女子(20代から50代までほぼ全員)が集まって何やら揉めているように見える
「何があったんですか?あれ」
「ああ……あれな……あれはどうでもいいんだが……」
野島は憎々しげに女子の塊を睨みボリボリと頭を掻いた
事の発端は社長が平社員のおばさんに怒られる、という変な構図から始まった
雪斗は役員報酬の受取を保留にしたままどうするかの答えを出さずに逃げ回り、経理が困っていると塚下に呼び出しを食らっていた
まるでお母さんに叱られて拗ねている子供のようで社員全員が面白がって見ている中、受け皿を持って社長室から出て来た皆巳が、雪斗の口元に差し出したスプーンをパクっと口に入れた
誰もが驚いたのは仕方がない
皆巳は佐鳥社長とデキていると以前から噂になっていたが、今度は若い社長を食ったのかと女子が爆発した
薬を飲ませただけです、と何を言われても鉄面皮は変わらないが、それなら公平にとじゃんけん大会が始まっていた
「馬鹿らしいだろ?」
「はあ……」
自分で薬を飲もうとしない雪斗に、皆巳が一々ゼリーに包んで食べさせている事はマンションに通っていた営業組全員が知っていた
勿論、営業達の間でも出来てるんじゃないかって話にはなったがそれは違うと知っている(多分)、立ちはだかっている問題は、誰がどうやって薬を飲ませるかなんかじゃない
手術をした日から一度も診察を受けていない雪斗の傷に縫い込まれた糸をどうするかだった
会議室に入ると、先に帰っていた緑川と渡辺が難しい顔をして対策を練っていた
通常なら5日で抜糸する所もう10日も経っている、あまり日が経つと皮膚に癒着して糸が抜けにくくなるから早く病院に連れてこいと長野医師から催促されているが今の所有効な手立ては思いつかない
眠らせて病院に連れていく案が一番手っ取り早いが設備のない場所で薬を使うんなんて絶対嫌だと長野に拒否されていた
抜糸など人によっては痒いところに手が届くようで気持ちいいと言うくらいだ
10分もかからないが病院と聞くと雪斗がどう出るか誰にでも簡単に予想が付き、説得には踏み切れないでいる
「渡辺さん、あなた弁護士なんだから医者に知り合いとかいるでしょう、握ってる秘密を盾に取れば何とかしてもらえそうじゃないですか、ここまで来てもらってチョチョイと抜糸してもらえばいい」
「固定観念で物を言わないでください、私が仕事で知り合う相手は企業の担当者か犯罪者くらいです」
「この際手刀で沈めて病院に運んだらいいんじゃないか?」
こんな事を議論していることさえ不毛なのだから仕方が無いが、野島が茶化すと渡辺が真面目に困った顔をした
「野島部長、雪斗……社長を舐めないで貰いたい、背後で手を振り上げた途端反撃されますよ」
思わずうん、と深く頷くと渡辺の横に立って話を聞いていた緑川も同じように頷いていた
何故このメンバーでこんな話をしているのかと言えば、最終的には力ずくになる可能性が濃く、事情を知るものがこの四人だけだからなのだが、どこでどうやって仕入れているのか、何回取り上げても舞い戻ってくる雪斗の例の柄物がまたポケットに舞い戻っている可能性が否定できない
「誰か医者の友達くらいおらんのか?」
野島がぐるっと全員を見渡して、こんな問題を話し合いは早く終わりたいと眉を捻じ曲げた
「あの……医者じゃないけど医師免許を持っている知り合いならいます」
嫌だけど………物凄く嫌だけど、ダイビングショップで聞いたあの話、詳しい事情を話さなくてもわかってくれるあいつがいる
「誰ですか?佐鳥くんの知り合いですか?」
「……知り合いと言うか……木嶋さん……なんですけど……」
「木嶋?」
野島部長と緑川がオーバーに驚いて身を乗り出した、よりによって今一番弱味を見せたくない相手だ
「ハイパーの木嶋?」
「そうです……あの人は雪斗の事情もちょっとはわかってるし……嫌な奴だけど口は固いと思います」
嫌な奴だと思うのは個人的な感情だ、主治医が投薬を怖がるような患者を引き受けてくれる医者は見つかりそうに無い、何よりも雪斗の体が一番だった
「そんな事を頼んでもし弱みに付け込まれたらどうする?」
「"友人"として頼めば………多分そこは大丈夫なんじゃないかと……」
野島と緑川が盛大に唸ったが他に代案は無かった
「何かいい報告かと思ったら何なんだ……」
勝手に私用の直通番号を使う訳にはいかない、木嶋に直接番号をもらった緑川が電話をかけると、ワンコールで出た木嶋の声がスピーカーから聞こえてきた
事のあらましを話すと、当たり前だがすぐにうんとは言わない
「あなたは医師免許を持っているって言ってましたよね、出来たらお願いしたいんです」
「抜糸って……雪斗君どうしたの?」
「ちょっと事故で脇腹を切ってしまっただけなんです」
「でも俺は道具もないし……まあ先の細いハサミでも出来るけど、俺は真っ当にやった事ないぜ?まあ、抜糸くらいなら誰でも出来るけどな、何で病院に行かないんだ?」
「それは………あの………雪斗が嫌だって………眠らせて知らない間に済ませたいんですけど責任者がいないと主治医が薬を出してくれないんです」
「ふうん………本当にあの子は色々あるね……責任は持てないけどただ医師免許が必要なだけなら行ってもいいよ、その代わり隠し事無しにしてもらう」
「今話したじゃないですか」
「病院に行けないから抜糸出来ない?一番大切な情報が抜けてる、どんな怪我なのか、何故担当医が薬を出してくれないか聞かないことにはこの話、うんとは言えない」
木嶋の口調は明らかに面白がっている、やっぱり嫌な奴だと再認識したがもう日が無い
「来てくれるなら……話します……」
「違うだろ、話してくれたら行く、当然だろう、一応命を預かるんだ」
やっぱり木嶋に頼んだのは失敗だったかもしれない、抜け目のない木嶋相手に最低限の説明をして(そこは緑川が話した)その日のうちに来て貰えるよう約束を取り付けた
決行は夜5時を過ぎて社員が減り始める頃
グズグズ文句を言う長野医師から睡眠導入剤を一回分だけ処方してもらい皆巳がゼリーに混ぜて食べさせた
薬がいつどう効いてくるかわからない
かなり量をセーブしたのか長野は効くかどうかもわからないと笑っていた
薬を飲ませる前に来てもらった木嶋には大変申し訳なかったが、偶然雪斗と顔を合わせたりしないように非常階段を使って5階まで上がり、女子更衣室に隠した
「すいません、こんなとこで……雪斗は思い立つと急にフロアに出てくるんです」
「女子更衣室ってのがいい、それにしてもたかが抜糸に大変な事になってるね、会社ぐるみで結束力が凄いな」
「雪斗の病院拒否は洒落にならないんです、暴れる所をほぼ全員が見てるから説明しなくてもわかってくれるんですよ」
「う~ん……それってご両親のせいかな?」
「……は?……何の事ですか?」
木嶋は音羽という苗字も歳も知っている、調べるのは簡単だったと思うが……何故雪斗がそんなに気になるのからかが気に食わない
むっとした顔が思いっきり表に出た
「ごめんごめん、そんな顔するなよ、雪斗君の過呼吸は何か原因があるんだろうなって、ちょっと調べただけなんだ……わりとすぐにわかっちゃって……」
「その事で木嶋さんが雪斗に何か言ったりしたら俺は躊躇なくぶん殴りますからね」
「そんな事をしないって信頼してくれたから俺を呼んだんだろ」
ヨシヨシと頭を撫でられ、あまりの胸くそ悪さに黙り込んだ
本当は木嶋と二人っきりでこんな所にいたくない
雪斗に飲ませた薬が効き始めるのを側で見ていたかった
少量の筋肉弛緩剤で体中の動きを止めたあの時……
思い出すだけで寒気がする
木嶋係と割当られた時に抗議したが、渡辺と(理由ははっきりしてる)緑川に(お前がいると雪斗にバレるって言われた)押し付けられた
女子更衣室は仄かにいい匂いがする
TOWAの本社には男子更衣室など無いが、あったらこんな匂いは絶対しない、あんまり見てはいけないと禁忌に押されながらも手持ち無沙汰で部屋の中を見回した
壁にかかった数着の事務服はもう帰った主婦層の物……水色のカーディガンは藤岡が着ていた、クンクンを鼻を伸ばして匂いを嗅いでいると………コンコンとドアを打つ音にすけべ心を責められたような気がしてごめんなさいと叫びそうになった
「は、はい!」
男が女子更衣室の中から返事をするなんて変な感じたがドアを開けると皆巳がもう出てもいいとチョイチョイ手招きした
「ようやく落ちました」
落ちたって……
皆巳はどんな女性にも好かれそうな木嶋を前にしても仮面を崩すことはない
「随分時間がかかったんですね」
「お待たせしてすいませんでした、うちの社長は何かに夢中になると集中力が凄くて……薬の量が足りないのかと思ってたら急に頭が落ちたんです」
「なるほど…そんな効き方をするような薬じゃないね……処方するのを怖がるわけだ」
木嶋は空になった錠剤の名前を見ておかしいな……と呑気に笑った
「本当に大丈夫なんですか?」
木嶋の見た目は一見チャラい、長髪を一つに括り、もう冬に差し掛かるこの時期に日焼けで肌が浅黒い、アパレルブランドの代表的という肩書も何となく胡散臭かった
渡辺は木嶋を見た最初から何回も不安を口にしていた
「私には実地の経験は無いとお伝えしている筈です、まあ、心配なさらなくても抜糸くらいなら出来ますよ、雪斗くんを横にしてもらえますか?」
「はい、ソファでいいですか?それとも机とか床とか……」
「ソファにお願いします」
机に突っ伏した雪斗は皆巳が「落ちた」と表現した通り、意識を無くす瞬間まで動いてたと分かるポーズで眠っていた
手にはまだそのまま書き出せる形でボールペンを握ってる、ボヤけた意識をはっきりさせようとしたのか猫だかドラえもんだか下手過ぎてわからないが、髭のある何かを描きかけ伸びていた
抱き起こそうとすると渡辺に肩を引っ張られ、触るなと言いたげに雪斗を抱き上げソファに寝かせた
渡辺が性的な目で雪斗を見ているなんて絶対にないとは思うが、釣り合わない相手との交際を反対する親のような目で見られている事だけは間違いない
あんまり刺激するととんでもない手段に出そうで、(しかも雪斗が従いそうで怖い)そっと緑川の後ろに廻り口と手を出すのはやめておいた
「これでよく起きないな………意外と呑気なのかな」
木嶋は笑いながらコツンッと雪斗のおでこに指を跳ねた…………口は出さない………出さない
「それにしても起きてると小憎たらしいけど、眠ってると益々ベビーフェイスだな、雪斗くんはホントに顔がつるっつるで女子みたい……」
「ちょっと!」
「木嶋さん、早く済ませて下さい、大人一人分の容量は飲んでないんです、目を覚ますととんでもない事になりますよ」
「はいはい、それもちょっと見たいけど引き受けた以上ちゃんとやります、まったく……人騒がせだな雪斗君は……」
緑川が被せてくれて何とか黙っていられたが……この際雪斗が目を覚ましてこの小憎たらしい木嶋をプッスリやってくれないか……なんて思ってしまった
木嶋が持ってきた卒業証書の写しは日本最高峰の医学部、しかもそれを振って事業を興してる、生まれた時から持ち合わせている才能やスペックが神様から贔屓されているとしか思えない、見れば見るほど、聞けば聞くほど憎らしい
「さて……やってみるか」
木嶋は友達から借りてきたと医療用の抜糸剪刀をチョキチョキと動きを確かめ、ガーゼとアルコールを渡辺に渡した
眠りコケる雪斗のシャツを胸まで捲り上げると、臍の横から伸びている赤黒い筋が、縛り上げる窮屈そうな糸で引き攣れている
「ふうん……思っていたより大きな傷だね」
「え?……あっっ……」
危うく叫びそうになった
傷は全部見えているのに遠慮無しに下着ごとズボンが引き下げられ、全部脱がす気かと慌てた
腰骨や足の付け根から伸びている筋まで見える、もうちょっとで……も見えそう……
皆巳は部屋の外で見張りをしているが、明るい蛍光灯の下で男5人が見下ろす下でほぼ半裸
ちゃんと病院で処置してもらえばこんな姿を、こんな場所で晒さずに済んだのに……木嶋にももうちょっと遠慮して欲しかったが医療に携わる奴らは人の裸なんか気にしない
傷口とその周りを丁寧にアルコールで拭き取り、チョキチョキと糸の上っ面を切っていった
抜糸くらいと散々口にしていたが見ているとちょっと痛そうだ
糸に引っぱられた肉がピンセットで引き抜く糸にくっついてプツッと音がする、やはり癒着しているのか針で刺したように小さな血の山が産まれては崩れる
細かく丁寧に縫い込まれた糸は10針以上あった
「男の腹なんてステープラーで止める方が早いのに緊急だった割に丁寧に縫ってある、長野さんはマメだな」
「ステープラーってホッチキス?そんなもの医療で使うんですか?」
「そう、パチンパチンっとね、きっと雪斗くんの肌があんまり綺麗だからなるべく傷を残さないようにしたのかな」
大業に作戦を立て大騒ぎした割に抜糸はあっと言う間に終わり、消毒が済むと渡辺がさっとシャツを引き下ろした
「ありがとうございました、これ、少ないですが……」
一々余計な事を言う木嶋に、苛つきを隠さない渡辺は早く帰れと言いたいのか、用意してあった封筒を差し出した、謝礼金が包まれているとひと目でわかるが分厚い、半分に折り畳めないくらい分厚い
「困ります、そんな物は必要ありません、私は友人として来ただけですから……」
「断らないでください、受け取っていただく方がこちらも楽なんです」
要らないと手を振る木嶋の手に茶封筒を強引に握らせ、ドアの外にいた皆巳を呼んだ
「勘弁して下さいよ」
「お茶を入れます、こんな事にお時間を取らせてすいませんでした」
「いえ、無駄だったと思っていた医師免許が一回でも役立って良かった」
渡辺は腕を背中に回して組んでしまった、予想はついたがこんなに早く出てくるとは思わず、断るタイミングを逃してしまった
普通ならこんな頼み事を聞いたり絶対にしない、抜糸の作業自体に問題ないがもし飲んだ薬のせいで何かあっても対処は出来ない
自分の名の元で人の命を預かるだけのスキルは持ち合わせていないのに引き受けるべきじゃない
使用済みの脱脂綿、血のついた細切れの糸、一応産業廃棄物に指定されている為ビニール袋に纏め二重に包みキツく縛り上げ、眠り続ける雪斗を横目で見た
何故引き受けたかと言えば雪斗とTOWAには興味があるから
佐鳥や渡辺は何も知らずに眠り続ける雪斗を心配そうに見つめ………その二人を心配そうに緑川が見つめている
何がある訳じゃないが人を観察するのはもう癖になっていた
佐鳥と雪斗がカップルなのだとマキから話は聞いていたが………
面白い三角関係だった
散々固辞された謝礼の茶封筒は渡辺と木嶋の間を行ったり来たりしたが結局根負けした木嶋は渋々と懐に納め仕事があると帰っていった
長野には災難だったのかもしれないがややこしい患者の見立ては正確だった
眠れる程効くかどうかわからない、とセーブされた量しか飲んでいないのに2時間眠り続けた雪斗は、目を覚ました途端トイレに駆け込んで吐き戻してしまった
何から何まで手がかかる
「社長って何でも一人で出来そうで実は何にもできないな、一人だったらあの怪我が勝手に治るまで放っておいたんじゃないか?」
「渡辺さんがいなければ今頃はとっくに野垂れ死んでたかもな」
渡辺と皆巳に保護名目で連行されて行った雪斗を見送った後、佐鳥と緑川はマンションに近いスーパーに寄って食材を仕入れに行った
緑川のマンションは地価が高いだけあって並ぶ食材も全部高い
「暁彦……肉……食べたいのか?」
籠を持ってうろついていると佐鳥が肉の前でピタッと足を止め動かなくなった
いつも思うが佐鳥は脳みそじゃなく各部署でモノを考える
どうやら今は内臓が主導権を取った
「高いな……何グラムまで払えるかな?グラム1200円………300買って3600円と消費税で4000円弱……足りないかな、500買って……」
どちらかと言えば肉より魚の方が好みだがはっきり言って食べ物なんか何でもいい方だった
「暁彦が食べたいなら買えばいいだろう、俺は適当につまみで誤魔化せる」
「いや……心配すんな……」
思わず払ってやるからとか馬鹿な事を言いそうになって口をつぐんだ
本当に大型の犬でも飼っている気分………
こうやって佐鳥と一緒に何かをするのは楽しい
見ていると考えている事が手に取るようにわかり、単純、明快、素直で時たま脊髄反射で動く
操っているのか操られているのかわからないが笑える事だけは確かだ
「腹が減っている時にあのスーパーはトラップだらけで危ないな」
「引っ掛かってるじゃないか、チョロい奴」
「チョロいって言うな」
何で粒胡椒と岩塩ないかな……と文句を言いつつ佐鳥がサイコロに切ったステーキを焼き上げ、ジャガイモを丸々電子レンジで吹かして見事に料理した
佐鳥の几帳面は料理にも反映され男二人、仕事の後なのに綺麗に皿に盛ってソースで飾ったりする
「……お前最高だな……わかった……この際だ、籍を入れよう」
「緑川の稼ぎを見せて貰ってからじゃないと判子は押せない……いくら貰ってるか吐けよ」
「判子ついたら見せてやるよ、まあ減給中の暁彦くんよりは多いだろうな」
「それ言うな」
ビールと高い肉、炊きたての米、佐鳥と暮らすと絶対に太る、リベンジオセロを並べながらの極上と言える夕食だった
「暁彦………お前……オセロ得意なのか?」
佐鳥はやっと気付いたかとニッと笑いを浮かべて駒を置いた
「俺は大人になってから一人を除いて誰にも負けてない」
「クソ……最初に言えよ、それならもっと真剣にやったのに……」
「真剣にやっても俺には勝てないぞ、俺の事を馬鹿と言うのはやめてもらおうか」
パタパタと佐鳥の白に盤面が変わっていくのを止めるのはなかなか難しい、強いと豪語するのは意味の無い自慢じゃなかった、何度やっても気が付けば劣勢になってる
「本当に強いな……勝てなかった相手って誰だ?」
「………雪斗………」
「……そっか…確かに社長はこういうの強そうだな」
………だから後生大事にオセロなんか持ってきたのか……
別に佐鳥が雪斗にぞっこんでも構わない
佐鳥はこうして手の中で笑っている
時々慌てる顔が見たくて揶揄いたくはなるが佐鳥に対する所有欲は単純な肉欲じゃ無い
知ってか知らずか………何も考えてない佐鳥は、床は固いと狭いシングルベッドに上がり込んでくる
足元にはスツールを置いて長さは増量してあるが狭い事この上ない
馬鹿みたいに身を寄せあって眠るようになっていた
「何だよ……」
雪斗の第一声がこれだった
社員全員に騙されたと知ってから雪斗はずっと不機嫌だった、怪我を押して出社していたくせに、完治とは言えないが抜糸が済んで一区切りついたのに会社に来ない
様子を見に………ただ単に会いたかっただけだが食料を持ってマンションに来るとドアの隙間からチロッと覗いてリビングに戻ってしまった
それでも鍵を閉めなかったという事は入ってもいいって事……と思う
「そんな顔をするなよ……傷口を放っておけないんだから仕方がないだろう」
「薬を盛るなんて二度としないでくれ」
「女に刺されるような真似をした雪斗が悪い、大体病院に行けば済むのに雪斗が……」
「俺に一言でも相談したか?糸を抜くくらい自分でやる」
そう言い出す事も想定済みだったから眠らせた
プイッと顔を背け、会社に来ないで何をしているのか知らないがパソコンに目を落とし続きに戻って相手をしてくれない
床に散らばった書類は全部英語で読む気になれない、食べ物を出しても知らん顔、する事が無くて襟足でふわふわしている雪斗の髪を見ていて………いい事を思いついた
…………人前で眠る怖さを再認識した
施設を逃げ出してから渡辺以外の人間とまともな付き合いなんか無い、初めてと言っていい環境でついつい甘え油断した
頭じゃ駄目だとわかっているのに佐鳥への無害認定は中々上手く取っ払えず、どうしたいのかもわからなくなっていたが………そんな事を考えていたくせにまた油断していた
耳元で聞こえたシャキッと鋭角な音に背筋に悪寒が走った
「何?!!何してんだよ!」
ハラリと肩から落ちてきた黒い塊にヒッと変な悲鳴が出た
落ちて来たのは髪の毛?慌てて首を触ると襟足の片方がスカスカになっている
「いや……散髪してやろうと……」
「馬鹿っっ!!!」
信じられない事をする
腹の底から声を出してしまいウグッと息を飲んだ
まだ体のどこかに力を入れると傷が引きっったように痛む
「クソ…………本物の大馬鹿だな……何してくれるんだよ」
「俺……意外と出来ると思うけど」
「すんなっ!!二度とすんな!」
今もしその鋏が振り上げられていたとしても気付けていない、馬鹿と無害が高じて有害になってる
佐鳥から鋏を取り上げてTシャツを脱げ捨てた
「雪斗?何してんの?何で脱いでる」
「風呂に入って自分で切る」
「え~……それなら俺にやらせてくれても」
「……お前帰れ」
冷たい言葉にはすっかり耐性が出来てる
服を脱いだ雪斗の腹に見えた傷跡はまだまだ生々しいがちょっと触ってみたくもある
雪斗の放置され伸びすぎた髪は、個人的には色っぽくて好きなのだが自分だけが見る訳じゃない、変な所からモテそうで気になっていた
自分で切るってどうするのか………
シャンプーの香りをふわふわ撒き散らし風呂場から出て来た雪斗の髪はちゃんと短くなっていた
少しは男っぽくなるかと思えば短ければ短いで幼く見える、生え際の髪が短いせいで逆立っていた
「何か……可愛いな」
「は?可愛いとか言うな、ぶっ殺すぞ」
「………ちょっとだけ触ってもいい」
「いいけど………俺はまだ出来ないぞ」
「まだ?……もうちょっと我慢したらいいってこと?」
「知るか!」
直接欲しいと言うとどうして顔が赤くなるのかわからないが、上から目線で小悪魔を演じる雪斗とは別人に思える
「何もしないよ、今日は……雪斗を眠らせに来ただけだよ」
「俺は……子供じゃない……」
ギュッ背中を抱いて赤くなった耳たぶをパクッと口に入れた
「……あっ……」
「……変な声を出すなよ……」
「そっちが変な事するからだろ!」
「我慢してるのに……」
「お前もう帰れ!」
肘鉄を腹に食らって腕の中から逃がしてしまった
ますます顔が赤くなりこっちがビックリするほど可愛い
「もう電車がないし今更帰れない」
「じゃあとっとと寝ろ、俺はまだ仕事がある」
「待ってるよ」
「勝手にしろ、俺は寝ないかもしれないぞ」
「待ってるって」
そういってたにも関わらず雪斗の側で床に寝そべっている間にウトウトしていたらしい
気が付けば雪斗は胸に腕を投げ出して脇の下に丸まっていた
短くなった髪を指で鋤いて地肌に爪を立てると鬱陶しそうに手を払われた
眠っていても雪斗は雪斗だ
ギュッと頭を抱いて引き寄せ、朝までお互いの体温で暖めあった
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