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17話

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外気は夏の様相を色濃く主張し始め、昼間の気温は高い

今は空気が暑いのか体から発する熱が熱いのかもうわからない

額を伝う汗は頬から顎に伝わり、背中を浮かせ身をくねらせる秋人の胸に落ちていく


「ハァ…あーっあっ…ハッ……あっあん……」

「声………大きいって……」

「司が悪い!あ……ハァ…うぅん…」

「…隣の人………昨日顔を合わせたら前は微笑んでくれたのに…………ぅ……あ…I will fuck you up Gay!って小声で言われたぞ」

「知ら……あああ!んあ」

何故か秋人とのセックスは何かしらの言い合いになる

酔い潰れ二日酔いに苦しんだ日さえも夜になるとお互いが欲しくなった、毎日抱き合って毎回口喧嘩しながら体を繋いだ

流石に後半になると変な事も考えられなくなってくる

激しく突き上げると秋人の軽い体が腕の中で踊る、ゆさゆさ揺れて開いたままの秋人の口から出る声が短くなってくるとそれが合図のように二人の終息に向かって動きが早くなっていく

「あっ!あっ!あーっっ……んあっ!駄目!もうイク」

「ハァ…ハァ……俺もイクから……飛ぶなよ」

「う……ハァ…ああ!」
「ああ……ハッ……ハァ……あああ!」

持ち挙げた腰を引き寄せ、パンパンと入り口から一気に奥まで腰を打ち付け、背中を反り返らせた秋人の悲鳴を聞きながら欲の塊を吐き出した

「うぅぅ…ハァ……今日は………シャワー行こうな………」

「シーツ………用意OKです………でももうちょっと……待って」

「賛成………寝るなよ」

「秋人もな………」

封印した筈のスピリタスは結局毎日少しずつ消費され、減ってはいるがまだ八割方残っている

今日は最初に目論んだビールとジンジャーエールを混ぜたシャンディーガフに垂らして飲んでいた

二人共家事に疎く、洗い物を減らす為にソフトドリンクでも酒でもグラスはいつも一つ、スピリタスの量で毎日揉めた



「これ最高………」

「司の濃いんだよ、かえって喉が乾くだろ」

「今日は大丈夫だったな」

「何が……」

「毎日白目剥かれたら怖くて出来なくなるだろ」

「な……」

パッと顔を赤くした秋人に口に含んだシャンディーガフを口移しすると上を向いて上がった喉がこくんと動いた

「う……濃い、また明日知らないぞ」
「もう量の目安はついた、秋人も風呂場でイケないって泣くなよ」

「馬鹿!」



秋人を見つけてからもう二週間………


仕事したり遊んだり24時間常に隣に並んでいる

春人とは一緒にいる事が、話すことがうれしくて信じられなくて……ずっと浮かれっぱなしだったのか何をするにも常軌を逸していたような気がする

秋人には……もしかしたら裏に隠した本当の顔で上手く操られているのかもしれないが素が出せる

一緒にいたい、ずっと寄り添いたい
こんな風に思える相手がまた現われるなんて思わなかった

もう二度と無いと思っていたが…


…………週末がやって来る




土曜の朝早く、気怠い体を投げ出してバケットを噛じっていると携帯を見ていた秋人が突然出かけると言い出した

「何だよ、またバスケか?それともダンス?、あ、エロダンスは禁止な」

「違うし、それにエロダンスは売りだからやめないよ、そうじゃなくてブルックリンのレッドフックに行って絵を搬送する手伝いしなきゃならないみたい」

「一人で?無理でしょう、辿り着けませんよ、ついて行っていいですか?」

「勿論そのつもり、手伝えよ」

「いいけど今すぐ?」

「今日中だってさ」


レッドフックは荒れた昔から一変して、今はアンダーグランドなアーティストのギャラリーが軒を連ねている

秋人は要らないと頑固に拒否していたが携帯を無理矢理持たせた、散々言い聞かせ家族に連絡を取らせると毎日怒涛の心配メールが秋人の母親から、しかも殆ど真夜中に届くので秋人は電源を切ってしまっていた

朝早くに電源を入れると大量の未読メールの中に珍しく父親からの連絡があり、レッドフックのギャラリーで個展を開いているアーティストの作品を根こそぎ買い付け、日本に送れと言う事だった

FedEx………出来ればヤマトがいいが搬送の手配がどう出来るかは分からない、サイズは聞いていないが航空便だと恐らく高額になる

船便で送るなら厳重な梱包が必要だろう、朝早くに洗濯だけ済ませてアパートを出た



「しっかりしてるように見えて司も相当頼りないな」

「速水さんが色々やらかすからですよ」

一度ブルックリンのIKEAまで往復しているのに話している間にやっぱり電車を乗り過ごし引き返していた

「あのババァが悪い」
「白人にボーイって言われても仕方ないでしょう、日本にいたって速水さんは見た目も中身もボーイですよ」

秋人は電車に乗る時に肩が当たった老婦人にボーイと呼ばれ閉まるドアの隙間から指を立てた
映画でよく見るがこっちでそんな事をするととんでもない反応が返ってきた
 
閉まった電車の硝子に、振り上げられたバッグの金具がぶち当たり割れてしまったのではないかと身を伏せたくらいだ、電車が走り出しても追いかけてきて早口の英語で怒鳴っていた



「ハハッ怖かったな」

「気を付けてくださいよ、ここは日本じゃないって何回言ったら分かるんです」

「腹減った」

「話を聞け」

ボソボソ言い合いをしながら、ニューヨークで一番チープな食事が取れるIKEAのフードコートで朝食を兼ねた昼を食べて、言われたギャラリーに向かった

レッドフックはマンハッタンとはまるで違う、古く低い建物が並び立ち、一見何もない倉庫街にも見える
前衛アーティストが集まると聞いていたが指定されたギャラリーは外観からは分かりにくく探すのに苦労した

潰れたカフェ……と言うより喫茶店の様な閉鎖された小さなドアを潜ると床に敷物を敷いて座禅を組んだ40半ばくらいの日本人女性が目を閉じていた

何故日本人と分かったかと言うと日本語の張り紙があちこちに貼ってあったからだが中に入っても動こうとしなかった


「あの………速水画廊から連絡もらって来たんですけど作品を日本に送りたいのですが………」

声をかけると鬱陶しそうに目を開けた中年女性は、苦労が顔に滲み出てはいるが綺麗な人だった

どこか忘れてしまった郷愁を思いだすような深い目の色をしている


「…………聞いてるわ、物好きね、助かるけど」

「何点あるかも聞いてないんだけど、どれを送ればいいですか?」

「それよ………纏めてあるけど梱包はしてない、材料は集めたから勝手にやって」

女は何故か必要以上に無愛想でそれ以上話す事はないと腕を組んで壁にもたれた

「じゃあ……勝手にやらせて貰います、速水さん、新聞丸めていって」

「うん………」

「速水?あんた速水画廊のなに?まさか息子?」

「だったら何?」

「別に?お金持ちのお坊っちゃんなんだなと思っただけよ」

女は変な匂いのする紙巻きタバコに火を付け、手伝う気もないのだろう、邪魔にならないよう端に避けてはくれたが興味無さそうに座り込んで紫煙を燻らした

作品は速水画廊が扱う程の物には見えなかった
ラフな風景画が殆どで言っては何だがそう目を引くものではない

立体だと難儀するだろうと覚悟していたがそう大きくもなくパネルに貼り付けた紙ベースの水彩画で助かった

二枚を内向きに重ねてお互いが擦れないようにクッションを挟み、厳重に防水梱包をしていく、これが速水画廊の手にかかるといくらに化けるかも分からないし、何故すべてを買い上げるのか背景も知らない、何かあれば弁償などできるはずも無く慎重になった

黙々と作業する秋人は一応仕事だと思っているのか、やけに真面目で気持ち悪い

作品は20点余り、全てにプチプチを巻きつけてガムテープでぐるぐる巻にするだけで2時間くらいかかった



「持ってろよ………」

「気を付けてくださいよ……怖いな……あっ!」

梱包して纏めた作品に木枠を付けて釘を打ち込むと、金槌のひと振りで木が砕けてしまった

秋人に金槌を持たせたのがそもそもの間違い

「馬鹿!力加減考えろよ」

「アハハッ、司の指にまたマーキング付けるとこだったな、割れたのが木で良かったじゃないか」

「良かったじゃない!もう!……あの材料の予備あります…………か?」

振り返って問いかけるとずっと知らん顔だった女が、笑う秋人の声が気になったのか顔を上げていた
 
「その辺にあるわよ、さっさと終わって早く帰って、ここにはお茶もないし出す気も無いからね、宅配の集荷は私がやっとくわ、着払いでいいんでしょ?」

まるで盗み見していた所を見つかったみたいに気不味そうに眉をしかめ、プイッと顔を背けてプラプラ手を振った

「はあ、それでいいと思いますけど」

「じゃあさっさと片付けなさいよ」

どうしてそこまでつっけんどんなのか不思議だが、大手の画廊に媚びるつもりはないらしい、速水画廊の見えない巨体の事も全く知らないのかもしれない

成りようでは明日にもマンハッタンにマンションが買える運命が待っているかもしれないと言うのにアーティストを気取る人種は気難しい
神崎も秋人も美術関係ではあるが商業デザインとアートでは大きく違う

梱包が終わり発送先の住所を手渡すと追い出されるように扉を閉められた



「………速水さん珍しく大人しかったな、あんまりにも無愛想で怖かった?」

「いいや…ちょっとな…親父の気苦労が切なかっただけ………」

「え?仕事をやって欲しいのに速水さんが無視してるから手を回したって事?」

「俺の親父はそんな姑息な事しないよ、仕事を手伝わせる気があるなら今頃監禁されてでも色々教え込まれてる」 

「じゃあどういう事?」

「…うん……多分……あれ俺の母親」

「ええ?!!」

言われれば似ていた、凄く似ていた
気付かなかったのが不思議なくらいだ

どこか懐かしく思ったのは間違いでも思い過ごしでもなかった、秋人と…………どちらかと言えば春人の方が似ていた

「あっちも気付いていたな………」

「戻ろう!ちゃんと………」

「いいよ、俺もあっちも望んでない、俺は速水の息子なんだ…………それでいいよ、恨みも愛情も懐かしさもあるわけ無いだろ、この間まで知らなかったんだから」

「でも…………」

「いいんだよ………本当に………」

さっさと歩き出した秋人の背中が少し寂しそうに見えたのは勝手な同情をしているからだと思うが……秋人の心の内は見えにくい

上手に隠してしまい本当はどう思ってるかなんて推し量れない

秋人の母親も………名乗れるわけもないだろう、無愛想を装い、笑う秋人をこっそり見つめていた


「…………肩を抱いていい?」

「歩きにくいじゃん、くすぐったいからやだし」

「手を繋ぐのは?」

「キモイ………」

じゃあ………と肩を並べて寄り添うだけにしたが歩く度にぶつかった、それでも二人は離れなかった



帰りはフェリーに乗ることにした、ちょっとだけ観光っぽいし、IKEAのウォータータクシーがマンハッタンまで運んでくれる

いつも何かしら話は尽きないのに、海風が気持ちよくて何となくどちらも口を開かなかった

神崎は多分、母親の事を過分に同情している、何も思わないのかと言われれば聞いてみたい事も話したい事もあったが、やはり他人としか思えない

余りに不幸せそうだと気になるかもしれないが海外で好きに暮らしているのだからそれでいい

多分親父は母親を見て来いと仕組んだのではなくあの女性に預かった子供の成長を報告する為に行かせたのだろう

多分もう会うことも無い


「司………腹減った…」

「それしか言いませんね」

「何か食べて帰ろう」

「いや………今日は駄目………アパートに帰ります」

携帯に目を落とし、沈んでいるように見えた神崎に話しかけるといつもの笑顔が返ってきた


レッドフックをぶらつきフェリーに乗ったりしたせいでアパートに帰り着く頃には帳が落ちて来ていた

まだ暗くはないがポツポツと建物には照明が点灯し始めている

アパートの古い壁面を走る非常用の梯子を辿って部屋を見上げると3階の窓が明るい

「司見て、消し忘れたのかな、部屋に明かりが点いてる」

「うん………分かってる」

「何?その変な答え」

口籠る神崎はピタリと足を止め、どうしようか迷うように腕を組んで口に手を当てた

「なんだよ気持ち悪いな、はっきり言えよ」

「…うん……今……部屋に仁が来てる……」
 
「は?………で?!どうすんの?どうしたいの?俺が二三日消えてればいい訳?」

神崎の中の仁が大きいのは重々分かっている、隠すのも隠されるのも嫌だがもし困るなら隠れるくらい何ともない

「いや………言う………言う為に帰ってきたんだ、ちゃんと仁に言って分かって貰う……けど、仁は何も知らないから何言われても我慢しろよ、口出すなよ、手も出すな、変な質問はやめろよ、仁を煽るな、絶対に黙ってろよ、俺が話す!」
 
「注意事項多すぎ………」

「前みたいにもし仁が…………キス………とかしてきても噛み付くなよ」

「嫌ならやだって言えばいいのに」

「なんでか分からないけど俺は仁に逆らえないの!」

「…………らしいね、よく知ってるよ、それ」

仁に話すといってくれて物凄く嬉しかった 
何故ビクビクしながら付き合いたいですなんて報告をしなきゃならないのか不思議だが、仁は神崎の恋人兼友人兼保護者と言えるラスボスなのだ

仁の内から出る迫力は口で言っても伝わらない
普通の人ならそのオーラに触れるだけで冷や汗をかいて腰を抜かす

「行くぞ」

「うん……」

こんな時に限ってエレベーターは1階で待ち受けてる、待った無しで3階まで運ばれてしまった


部屋の前に立って深呼吸………オーバーで馬鹿らしいが神崎の気持ちは分かる、鍵は持っているがわざわざドアチャイムを押した

仁特有のドカドカと騒がしい足音が部屋の中から近付いてくる

「……………あ………わっっ!!!」

ドアが開いた…………と思ったら出て来た手が神崎を突き飛ばし、ビックリする間もなく細長い巨人に胸ぐらを掴まれ部屋に引っ張り込まれた

「おい!!仁!!何!!……あ!こら!」

慌てる神崎の鼻先でドアは叩き閉められ、鍵とチェーンがかけられた、体が浮くほどの力で部屋の中に投げ出されたが、何が何でも仁の前でみっともなくすっ転ぶのだけは嫌だ、ざぁっと床を滑り膝を付いて踏ん張った

ヌウっと高い位置から見下《みお》ろした綺麗な顔が感情を隠したまま笑うと本当に怖い

「……括り殺されたりするのかな、俺……」

「言った筈だ、神崎の周りをチョロチョロすんなってな、警告は何回もした、文句も言えないだろ」

「なんで俺がニューヨークにいる事を知って………」

言いかけて部屋のソファから半分立ち上がったままビックリしているサラが目に入った、どうやら言う前に伝わっていたらしい


「あの……仁さん…子供に手荒な真似は…」

「こいつは神崎を刺してるんだ、それに子どもじゃ無い、口出しすんな」

「え?………まさかあの手の?」


神崎の腕に走った長く新しい傷痕………刺したと言うより刃物で付けたなら切り裂いてる

「思い通りにならないと刃物を持ち出す奴が俺達の周りをウロウロしてるなんて放っておけないだろ」

「自分だって刺すって脅してきたじゃん」

「刺すよ、今すぐ消えるかどっちか選べ」

「消えないし刺されるのもゴメンだね」

仁の言葉は英語と日本語が混じっている、秋人は相変わらず日本語しか話さないが何を言っているのか全部分かる

「ちょっとちょっと二人共やめて」

刺すと言うワードは二人の口から出ると力を持って今にも具現化しそうだった、比喩には思えない


諦めてどこかに時間を潰しに行ってしまったのかドアの外で騒いでいた神崎の声はもうしない、止められるのはこの密室で自分だけらしい


「二人共一回座りなさい!!コーヒーでもお酒でもいいから何か口にして落ち着いて!じゃないと警察呼ぶわよ」

「………だってさ仁、どうする?………サラ言っとくけど俺は冷静だから心配しないでいい、仁は知らないけどね、見た目だけじゃわかんないよ」

「お前が座る場所を作る気はない、出て行かないなら窓から捨てる」

「ずっと冷静を装っていたくせにやっと正体現したな、正直な分今の方が俺は好き………わっ!」

もう何も答えるつもりもないらしい、仁の上背から襟首を掴まれ本当に窓から捨てるつもりなのかグイッと持ち上げられて足が浮いた

「ちょっと!!やめなさいってば!何を…あ………」

暗くなってきた窓の外側からドンッと音が聞こえ振り向いて…………二度見した

いなくなったと思っていた神崎が窓の硝子を叩いていた

確かこの部屋は3階………宙に浮いているように見えて目を擦りたくなった

防音のきいた分厚い二枚ガラスは音を上手く遮断して声は聞こえるが何を言っているのかはわからない

それに………なぜだか窓は針金でぐるぐる巻になって固定されていた


「あの………お二人………お取り込み中ですが外に………」

ジタバタ格闘していた二人が同時に三角にしていた目を見開いた

「あ…………司………」

こんな時なのに………修羅場と言っていい場面で外から必死になって窓を叩く神崎に笑ってしまう

「何やってんだ神崎………馬鹿じゃないか」

ビックリ顔の仁も、発していた冷たいオーラが緩み、固くしていた顔にやっと表情が見えた

「窓を開けた方がいいと思うんだけど針金が巻き付いてるの、ペンチあるかしら」

「放っておけ、そのうち諦めてどっか行くだろ」

「あれ?仁は知らないの?」

「何が!」

「司はもう自分で降りれないよ、放っておけば泣き出すか最悪白目剥いて墜落すると思う」

「は?なんで?」

「へぇ…………知らないんだな……司もよく仁にまで隠し通せたもんだ」

「何の事だ、さっさと言え」

「司は高い所が駄目なんだ、すぐに中に入れてやらないと今頃震えだしてるよ」

「何でもいいから早くペンチ出して!!!」



サラの叫び声で一気に頭が冷えたのか仁がペンチを出してきた、何故そこにしまってある事を知ってるのか…………舌打ちをしながらブチン、ブチンと針金を切っていった

救出は大変だった、窓が開いた神崎の第一声は「助けろ」………もう既に手に震えが来ていて梯子から手が離せなくなっていた、壁の横に張り付いたまま動けない

「何やってんだ!!登ったんなら降りれるだろう、嫌ならさっさと手を出せ!!」

「無理!!!………どっちも無理」

「じゃあそこで一晩中震えてろ!」

「無理!!」

秋人と並んで仁と神崎の冗談みたいなやり取りを見ていたが笑いがこみ上げて困る、神崎の叫び声は幼児化して言葉になっていない、珍しく真面目な顔をして黙り込んだ秋人は考え込んだように底の見えない目をして怒鳴り合う二人をじっと見ていた

「あんたも手伝いなさいよ」

「手伝えたらそうしてる、俺には司を抱っこして支える事は出来ないよ」

「それでも手伝える事が何かあるでしょ」

秋人はやれやれと関節を伸ばしながら、何も進みそうにない状況に溜息をついて仁の横に並んだ

「俺が仁の足を抑えてるから乗り出して捕まえてやれよ、マジで気を失って落ちていくぞ、俺は司の体重を支えられないから仁にしか出来ないよ、サラも笑ってないで手伝って、俺一人じゃ仁諸共《もろとも》持って行かれちゃうよ」

「え?う………うん、いいけど」

笑っていた事がバレてる、顔に出したつもりはなかったがこの小僧…結構鋭い、顔を整え慌てて神崎救出劇に加わった

体が細くすばしっこい秋人とは違い、神崎と仁には窓は小さい、仁が身を乗り出して神崎を引きずり込むのは大変だった
半分体が部屋に入ると力が抜いてしまった神崎は棒のように固まって足を引っこ抜くと仁の上に倒れ込んで動かなくなった


「ホントに冗談じゃないな、情けない………大丈夫か?」

「………無理………」

「まだ無理しか言わない気か」

仁は寝転んだまま神崎を胸に抱き、荒くなった息を整えてから、しがみついて動かない神崎の頭に優しくキスをした

「ちょっ………」 

もういいけど遠慮して欲しい……と言葉を出しかけると横からスっと足を出した秋人が神崎をグイッと引っ張って仁から取り戻すように背中から羽交い締めにした

「触んなよ!!」

「秋……人………」

「ごめん司俺もう我慢出来ない、約束破る」

「何だよ役立たず、触るなはこっちの台詞だ、貸せよ、そいつに何か飲ませてやらないとまともに口もきけなくなってるだろう」

「知らなかったくせに!!」
「何がだ、相変わらずやかましい小僧だな、近所迷惑だろう」

「司が高いとこが駄目だって知らなかった、へっぴり腰になって動けなくる事も恥も外聞もなく助けてって半泣きになる事も………」
「秋人!!!!」
「うるさい!司は黙って震えてろ!」

………もう駄目だった、我慢に我慢を重ねたがもう無理、プッと息が口から洩れたと思ったら破裂した

「…駄目………ツカサ………情けない……」
笑えて笑えて止まらなくなった
涙が出てきてアイラインとマスカラが心配だがどうしようもない

空気を読むどころかぶち壊したがそれが功を奏したのか険悪だった雰囲気が角を落として幾分か和らいだ

「ちょっと待ってろ」

「どうせ司は腰が抜けて立てないから動けないよ」

「……うるさい……秋人…」

落ち着きを取り戻した仁が溜息を付きながらも秋人に神崎を任せ、ビールを取ってきて………

何なのだと言いたい

神崎はされるがまま差し出されたビールを飲ませて貰っている

差し出されたからと言ってもいい大人が何で素直に口を出してる、それを何も言えないでイライラ眺めているなんて馬鹿みたいだ


やっと話せるようになって来た神崎が身体を起こし自分でビールを飲み始めた、おちついた声はいつもの神崎だったが立ち上がった足が生まれたての子鹿のようにプルプル震えている

「話を聞いてくれよ仁」

「まず飯を食え、嫌だがそっちの小僧にもくれてやる」

仁は話の内容がわかっているのか引き伸ばすように二人の返事を待たずキッチンで食事の用意を始めた
この部屋を訊ねて来た時から既にシチューのいい匂いがしている

「おい……仁」

「もういいよ司………言わなくていい」

「でも」

「こっち向いて…………」

「秋…………」



…………ブチューッと音がした

目の前で見せられた男同士のディープキス………
しかも相手は二週間同居してあわよくばこのままパートナーになれるかもと目論んだ相手…

秋人がやってきてから待っても待っても連絡が来ない、仕事もいつもなら事務所まで持って来ていたくせにメールで送りつけられ音沙汰がない、とうとう我慢できずに訪ねてくると部屋から顔を出したのは陶器のように綺麗な顔だった


何故か仁は神崎のスケジュールを把握しているらしい

もうすぐ帰ってくるから待っていろと部屋に入れてくれたのはいいが、あまり機嫌が良くないのか前のように意地悪さえ言わず、接する手触りが冷たかった
話す事も無いのでひとしきり共通の話題………神崎の事と地下鉄であった事で話を繋いだ

その時仁は話を聞いても表情を変えなかったのに秋人が帰ってきた途端豹変した


………まさか二人で神崎を取り合ってる?

まさかまさかそこに傍観者として自分はここにいるのだろうか

まさかまさかまさか……参戦すらさせて貰えないなんてあんまりだ

神崎と小僧の長いキス……紡ぎ合っている舌が見え隠れして口腔内のまぐわりが見えるようだ、何だか吐き気がしてきた

仁は全くの無表情でキッチンに立ったまま何も言わずにそれを眺めている、本当に胃の中身をぶち撒けてやろうか

……何を食べたっけ?………変な物だと恥ずかしい

もう!!どうでもいい!

「ちょっと!!遠慮しなさいよ!!あんた達!何よ!結局ゲイなんじゃない!馬鹿!!」

本当は何も言うつもりもなかったし馬鹿って自分に言いたかった
最初に見た日から秋人は神崎のバリアの内側にいた、それは見えていたのに………情けなくて涙も出て来ない


「ごめん………サラ……変な事にばっかり巻き込んで、仁もごめん、嫌なのは分かるけど……俺は秋人と生きていく、なるべく目に入らないようにするから……だから…」

「だから何?!仁じゃなくて私にもっと言う事があるでしょう!」

「………仁?」

鼻息荒くまくし立てても神崎の視線は素通りしていく…………見ている相手は……

仁はじっと考え込み、他には誰もいないかのように神崎だけを見つめ無表情のまま動かなかった

タバコには火がついていたがただ口に咥えているだけで吸ってない

「仁…………わかって………」


声のない言葉………仁の唇が何か言ったが音は出ていない、土禁だと言ったくせに履いたままの革靴がコトッと床を鳴らし、フラッと足を踏み出した

「怒るなよ………おい?」

「わっ」

神崎から目を離さないまま、仁の腕が秋人の肩を抱きよせ耳に口を付け………また唇が動いた

!!

「ああ!!!待って!!やめて!!仁さん!!」


仁の手に握られた小さな小瓶が下を向いていた、足元とパンツの裾にトプトプ零れ落ち………笑ったと思ったら…………

咥えた煙草が口を離れていった

スピリタスのアルコール度数は96%、その揮発性は精製アルコールと同じ…………




「キャアアアアア!!!」 


ボンっと凶悪な音を立てて青い炎が天井まで立ち上がった

サラの悲鳴がシンとした部屋に響き渡り、熱の圧で資料のコピーがバラっと巻き上がった



「!!仁っっ!!」

破裂したような炎が仁と抱かれた秋人を包んだと思ったら、ブワッと空気を割く音と共に仁の頭を守る様に抱きかかえた秋人が炎の中から飛び出てきた

いち早く事態に気づいたのだろう
煙草が仁の口を離れた途端秋人が思いっきりタックルして仁を押し倒していた

「司!水!!!」

秋人は自分の足に着いた火には構わず、仁の体を這い登る炎に身体を押し付け、押さえ込もうと手足を振り回した

「水!水?!」
「早く!!!」

神崎が慌ててボウルに張られた水をぶち撒けたがチラチラ燃え広がった火は燃料を補給しながらその力を保ちカバーできない

「水じゃ駄目よ毛布!!毛布掛けて!!」

「シーツが洗濯機の中にある!まだ濡れてる」

仁の上に覆いかぶさった秋人にクッションを叩きつけても火は横に逃げるだけで中々消えない、仁に張り付いた火を消し終わった途端秋人が足を抱えて転がり回った

「秋人!じっとしろ!今消してやる!!秋人!!」

「無理!熱い!!ああ!!」

暴れる秋人を濡れたシーツで捕まえ火を叩き消すと叫び声が上がった

二人の体に燃え移った火を消すとブランケット、上着、シーツ手に付くものを全部総動員して漏れたスピリタスと空気を遮断した

「仁!仁っっ?!」

最後の火の気を始末した途端、神崎が部屋の端で倒れ込んだままの仁と秋人の元に走っていった
秋人は呆けて仁の側に座り込んでいるが仁はピクリとも動かない

「秋人は大丈夫か?」

「俺は大丈夫……」

火傷は時間との勝負だ、時間が経つほど皮膚の奥を焦がしていく、悠長に話している場合じゃない

「司!今すぐバスムームに二人を連れて行って水をかけ続けて!私は氷を買ってくるから頼んだわよ!落ち着きなさい!いいわね!!」

仁!仁!と神崎が叫び続けているが構っていられない、火傷をした二人を神崎に任せて氷を買いにデリまで走った



店に置いてあるありったけの氷をブロンド娘と睨み合いながら買い込み、部屋に帰るとアルコールの燃えた匂いと新たに揮発したスピリタスの匂いが充満して目が滲みた

放置されたままの布類は二次被害があるかもしれない、水音がしているシャワールームに持ち込み水で薄めて流してしまう方がいい、下手にビニール袋に入れればまたそれが凶器になりかねない

「司?どう?」

「分からない………仁が動かない………」

水浸しの床に頭を伏せ長い足を投げ出している仁は意識が在るのかどうかも分からない、神崎が水のシャワーをかけながら真っ青になっていた

「見せて、司は病院に運ぶ準備をして頂戴、救急車を呼びなさい、小僧あなたも氷を火傷した所に当てて!」

秋人はバスタブの中に水を張って火傷した向こう脛を冷やしている、取り敢えずはそれでいい、今できる事は徹底的に冷やすことだけだ

「…………俺は……大丈夫…」

「この世で一番痛い怪我が火傷よ、覚悟しなさい」

「サラ………仁が……」

万国共通こんな時男はオロオロして役に立たない、救急車を呼べと言ったのにまだ神崎は二人の側を離れないでいる
目を閉じて項垂れていた仁は病院と聞くとピクリと反応して顔を上げ頭を振った
 
「え?何?」

「………ぁ…かは……」

声を上げようと短い音を発したが喉を抑えてシャワールームの壁からズルズルと横向きに倒れていった

「仁?!」

「喉を火傷したのね?火を吸い込んだんだわ」

見た所体の火傷は仁より秋人の方が酷い、仁はブーツを履いていたし瞬時に体を投げ出した秋人に守られ、炙られた程度で済んでいる、何より商売道具の顔は前髪が焦げたくらいで被害はない

一方秋人は服に火がついたまま仁の体で燃える火を消し止め、特に酒が付いた足は皮がめくり上がっている


「事故を知られたく無いんだろ、病院には行かないって言ってる」

「事故?!何言ってるのこれは自………」
「サラ!!ストップ!!」

秋人がビックリする程大きな声を出した
もっとビックリしたのはまさかの英語………

「ストップ………プリーズ」

「でも………」

「プリーズ」

秋人の深い目の色がそれ以上喋るな、と懇願していた

秋人は本当に分からない、考えてみれば違う言葉でこんなにも意思疎通が出来ているのもおかしい、もしかしたら話せないにしても全部聞き取っているのかもしれない


確かに「見えた」のだ、言葉にはしなかった仁の唇の動き

com together………


………………一緒に来い

死のうとした訳じゃないにしても自傷行為に間違いない、仁は秋人を道連れに自分で火をつけた

秋人はそれを分かっている、分かっていても神崎の為に、仁の為に話すなと目で言った

「何?二人して……」

この幸せな馬鹿男は何もわかってない

スプリンクラーは備え付けられているが全く反応せず、今回に限っては助かったが下手したら多くの犠牲者を出す大惨事になっていたかもしれない

事故の割には軽症で済んでいるが仁の火傷は設備無しでは無理だろう

「何でもないわ、ただ病院は必要よ、火傷した喉と気道が腫れて呼吸困難になるわ、嚥下障害も出ると窒息してしまう、今すぐ救急車を呼んで」

救急車は有料で300$はかかる、しかし仁はもう呼吸に異常を来し猶予はない、神崎と女手では動けない仁と秋人を運ぶには無理があった

秋人は自分の火傷を隠し、神崎と共に仁をバスルームまで運んだと言う、恐らくもう激痛に襲われていた筈


救急車で運ばれたERは待合室に溢れた大量の待機患者を置いて緊急度の高い二人を優先して診てくれた、幸い二人共命に別状はなく、深い火傷にも関わらず自宅療養が可能な秋人は帰る事になったが仁は入院が必要だった

「俺は暫く仁の様子を見ていく、サラ悪いけど秋人をアパートまで………」
「送っていくわ、何なら私のアパートで預かるけど」

「秋人はどうしたい?」

「俺は一人で帰れるし一人で寝るよ」

「夜は帰るよ待ってて」

もう遠慮の文字はどこにもない、顔先50センチの距離で神崎と秋人のキスを見てしまった

知らないわよ馬鹿………そんな事を言ってみたい
こんな事になっても当事者でいたいなんてお人好しで愚かだとわかっている

平気で甘えてくる神崎の背中を追っていると眉を下げた秋人に切ない視線を向けられていた

「何よ……」

「ごめんね、司は鈍感なんだ、常にモテるからサラの気持ちはわかんないんだよ」

「気持ち悪い小僧ね、何でもお見通しなのね」

「知りたいよね、何が何だかわからないまま司に振り回されてる」

「そうね…………教えてくれるの?」

「サラは知る権利あると思うからね」



それから長い長い物語を聞いた

神崎のアパートは水浸しだったが、酷い匂いは和らぎ二人で瓶に残った因縁のスピリタスをオレンジジュースに足して飲んだ

早くに逝ってしまった秋人の兄が仁の義弟であり、度を越して溺愛していた事

その人は、神崎が子供の頃から思い続け、今でも心の大半をそこに残したまま動けない程の恋人だった事
自分がなくなった兄にそっくりでお互いの存在をあまり知らないままなのに会った途端強い磁石に引かれたように離れられなくなった事…………


「それじゃあどうして仁はあんな事を……」

「それは………誰にも分からないよ、仁にすら分からないかもしれない………」

「まさかツカサをあんたに盗られたから……とか…」

「どうだろうね………」

憂いのある色っぽい顔をして微笑んだ秋人への見方が変わった、含んだ話し方は言葉以上に何か別の側面が見えているのだろう、それを話してくれる程には心を開いてくれていない

結局………参戦どころか口出す事も出来ない場所にいるらしい………


「小僧…………あんたはどうすんの?」

「俺?………俺は変わらないよこれからもずっと司が好きな事は変わらない………多分だけどさ………だって俺は人を好きになったのなんて初めてで途中で飽きたりするかもしんない」

……酒に酔ったのか目の周りを赤くして笑う秋人は清々しい程真っ直ぐで羨ましい

秋人のように好きなんだと一直線で進み、外国まで追いかけるなんて30にもなるとドライに現実が見えてとても出来ない

「そうね、生活していけば嫌な所も見えてくるわ、特にツカサは最初カッコつけてるから今日みたいに情けない所見せられると萎えていくかもね」

「俺は情けない司が始まりだけどね」

「………そうなんだ……あんた今日どうすんの?私ここに泊まろうか?」

「俺は大丈夫だよ、忘れてない?俺だって司と同い年の男だよ」

「生意気ねKit!」

「うるさい、小僧って言うな!」

子供っぽい、雑で無邪気だと思っていた秋人の内面は随分奥深くて印象が違った

止まることのない地下鉄は、24時間いつでも運んでくれるがあまり遅くなる訳にも行かない

神崎の帰りを待たずにアパートを出なければならなかった、恐らく今夜は………多分もう既に痛みに襲われている、神崎の帰りを待つ秋人は今何を考えているのだろうと明かりのついた窓を見上げた



ズクン、ズクン、と鼓動する激しい痛みは歯を喰い縛り、声が漏れるほど大きくなって来た
病院で処置した際に打ってもらった痛み止めが切れてきたのだろう、処方された飲み薬は何の効果もないように感じる

手足がダルく発熱した体は熱い、多分もう体温はかなり高い

「うぅぅぅぅ……痛い……痛い痛い痛い……どこもかしこも全部痛い」

ベッドに寝転んでガブッと枕に食い付き歯を食いしばった、引き千切ってやろうかと引っ張ったが中々枕も強い

深夜12時を過ぎでも神崎はまだ帰って来ない、帰ってこられるとあまり痛いと言えなくなる、心配してオロオロするに決まってる、平気な顔が出来る範疇は超えていた

「帰ってくんな……………」

さっき飲んだばかりだがもう一錠薬を足して逆効果かなと思うがスピリタス入りのオレンジジュースで流し込んだ

混ぜていなかったせいか底に溜まったキツイ刺激が舌を焼き咳き込んでしまった、血流が増して痛みは殺意を持ってるかの如く体を襲い、カクンと膝が折れて座り込んだ、それがまた火傷した傷口の皮膚を引き伸ばしテーブルの下に倒れ込んだ

「クソ………あ?……わっっ!」

諦めてそこで転がっていようと力を抜くと体が床を離れ………一気に持ち上がった


「大丈夫ですか?」

「つっ司!………いつ帰って来たんだ…ちょっ離せよ」

「暴れないでください、落とす……わっ…」

抱っこされるなんてあり得ない、下半身の秘部までさらけ出し深淵まで舐められた相手でも男同士でやっていい限界を超えている

死ぬかもと思うくらい痛くて苦しかったがそれなら足を捨てて自分で這う

手足を振り上げ抵抗したが、抱き上がった勢いと反動のまま狭い部屋を移動してベッドの上に神崎ごと倒れ込んだ


「痛ってぇな!変な抱き方すんな女子供じゃあるまいし!」

「動けなかったくせに何を言ってるんですか、ここが日本だったら秋人も入院してる筈だ」

「俺は大丈………」
神崎の指がペタッと唇を覆って言葉を塞がれた

「大丈夫じゃ無い事は分かってる、そんなに何回も大丈夫って言わなくていい」

「司………ホントに俺は…」

「体が熱い、熱が出てますね、仁も発熱してた………冷やすから横になって大人しくしててください」

神崎はサラが買ってきた氷の残りをボウルに移し、砕きながら深呼吸をしていた、疲れているのかまだ事故が飲み込めていないのか目に力がない


「仁は?どうだった?」

「速水さん……今話せる状態じゃないのは仁と同じでしょう?、無理ばかりしないで今はおとなしく寝てください」

「うん………」

言われなくてももう気力は現界に来ている、飲みすぎた薬とアルコールのせいか痛みは我慢出来る程度まで薄らいできたが思考能力もついでに奪われてきている

病院で見てきたのか濡れタオルに氷を挟んだ氷嚢を首と脇下を冷やせるように3つ作って体に当てられると冷たくて気持ちいい、体に含んだ熱と気力が冷たい氷嚢に吸い取られるように意識が薄れていった



………暑い………熱い…………

「あ………う………」

そこに自分の足がくっっいてるんだなと実感するくらい存在感が増してきて目が覚めた

普段薬を口にしてもいつ効力を発揮しているのかよくわらないが、今ほど薬剤の力がどれ程凄いか思い知らさた事はない、痛み止めが切れた途端足が疼き出した

少しでも眠れたのは良かったがまだ外は真っ暗だった、枕元に置いた携帯を見ると夜中の3時を過ぎている

いつもそこにいた……隣にいる事が当たり前になっている神崎が隣にいない

閉められたドアの隙間から柔らかい照明の灯りが漏れている

また酒でも飲み過ごし居眠りをしているのかもしれない、起き上がるには渾身の力が必要だったが痛みは増していくばかりでどうせ眠る事など出来ない

そっとドアを開けると神崎はポツンとソファに座って頭を伏せていた、テーブルには手をつけていないのか冷えたコーヒーが置かれている

ドアが開く気配を感じたのか腕の中に落としていた頭がのっそり上がって振り向いた

「秋人………辛いの?眠れない?」

一瞬泣いているように見えたが憂いを含んだ瞳は濡れてはいなかった


「………司が隣にいないから……」

フッと優しく笑った顔は優しくて………やっぱり泣きそうだった

神崎の弱さは散々見ている、透明な膜で覆い尽くし守りたい……、そっと背中に抱きつくとそのまま体が持ち上がった


「体が熱い、寝てなきゃ駄目だ、一緒にいるからベッドに行きましょう」

「司は寝ないの?」

「……秋人が眠ったら俺も寝ますよ」

ベッドには上がらず床に座り込んだ神崎は、体の温度を測るように首の後ろに手を回した、親指で撫でられる頬が気持ちいい

「頬が熱いな……辛い?…」

「仁も熱出したんだろ?」

「うん………俺が知ってる中で仁が体調崩した所見せるなんて初めてだった……体調管理には気を付けていたから…」

「うん………」

「あ………心配しなくていいですよ、あいつがぐったりしてたのは知らない間にスピリタスを瓶から直接ガブ飲みして酔っ払っていたらしいんです、血液検査見て医者が呆れてた、いくら仁が酒に強いからってそりゃ酔うよ……な……」

「司?…………」

口籠り目を泳がせた神崎は言いたい事を後回しにする様に優しく笑った

「仁を………守ってくれてありがとう、速水さんの機転と反射神経が無ければ今頃もっと酷いことになってた」

「スピリタスが燃える事知ってたからな、悪さもたまには役に立つだろ?」


「なあ…………」

目を反らして下を向いた神崎の表情にギクリと体が揺れた、次の言葉を聞いてはいけない………答えてはいけない……

「……仁は……あの時…秋人に何て……」

「え?今何て言った?」

……………ベッドの側に座り込み頭を寄せた口元は耳のすぐ横だ、勿論神崎の言葉は聞こえていた


知られてはいけない
絶対に………

「………いや………いいよ、ごめん」

「仁はスピリタスの事知らなかったんだね、じゃなきゃ直にガブ飲みなんてしないよな、まさか火が付くなんて思わないし、見た目はわからなかったけど手に瓶を持ってるとさえ忘れるくらいベロベロだったのかもな」

「そうですね………あんなもの旨い筈もないしな、ほらもう目を閉じてください………熱が高い」

「明日になったら治ってるさ、司の好きなエロダンス踊ってやるよ」

「馬鹿ばっかり言って………」

側に…いてくれるのは嬉しいが眠りに落ちるのは難しい


目を閉じて眠ったふりをしなくてはならなかった


覗いてしまった仁の心の深淵……

春人をなくした後、忙しさと義務感の中に身を置いて強靭な精神力で体裁を保っていたのだろう、駄目になりそうな神崎を支えて守って来たように見えるけど、それに依存していたのは………

多分仁の方………


二人はそうやって支え合いながら生きてきた…

死にたいとすら思ってない……
もうとっくに空っぽだった心があの一瞬で弾け………ただ………

ただ全部無くなってしまえと衝動的になっただけ……
怪我が回復すると恐らくいつもの仁に戻る

仁の口を読んでしまったサラを止めたのは自分の欲の為………

神崎には知って欲しくない………


空が明るくなってきた頃ようやくウツラウツラと間髪的ではあるが眠る事が出来たらしい

目を覚ますと神崎はやはり隣にはいなかった

スピリタスが拭き上げた炎は燃えるというより爆発に近く、一瞬でアルコール成分を燃やし尽くし残りの力で目に見えにくい青い火をチラチラと残しただけだった

低く這い回った火は液体を型取るように床に焦げ跡を残していたが部屋の中はいつもと変わりなく見えた

神崎がいつから動き出したのか分からないが事故の跡始末を済ませ、今は春哉と長い電話をしている、神崎の肩に手を置くと電話をかけたまま顔を上げニッコリ微笑んだ

「うん…………分かった………迎えに行くよ………うん、じゃあ後でな」

「春哉さんニューヨークに来るの?」

「秋人………起きたんですか、具合はどう?」

「もう治ったよ」

「ハハッ…馬鹿言うな何か食べれる?オートミール買ってあるけど食べれますか?嫌なら何か……」
「今はいい、なあ日本に帰るの?」

ベッドルームの隅に置いてあったトランクが入り口に出ている、その横に置いてあるのは多分仁の小さめのボストンバック……

「仁と速水さんが動けるようになってからですけどね……」

「俺は大丈夫だって、仁は春哉さんに任せればいいだろう、何も司が行くことない」
「速水さんも一度日本に帰ってちゃんと病院で診てもらったほうがいい」

「病院はもういい……それなら俺はここで司が帰ってくるのを待ってる」
「駄目です、ここはもう契約を解除します、どうせ家賃が高すぎて引っ越すつもりだったから丁度良かったんです」

「またすぐ戻るだろう?」

「朝飯………フルーツなら食べれますか?俺は仁を見に行ってくるからついでに買ってきます」

「司!!」

「…………こっちの……サラのいる会社に社員にならないかと誘われてる、戻るよ…」

ポンッと頭に乗った手がクシャリと髪を掴み、優しく笑った神崎に飛びかかって抱きつきたくなった


足が痛くなかったら強姦してる………

「行ってくる、大人しく待っていて下さい」

「司……キスしてよ」

すぐに帰るよと財布と仁の着替えが入った紙袋を持った背中に張り付くと額にプチュっと唇がついた

「そんなんじゃなくてもっとちゃんとした………」

「速水さんの体が治ったらね、嫌でもたくさんあげますよ」


またクシャっと髪を混ぜ、すぐに帰ると言って出ていったが昼を過ぎても連絡はなかった


エアコンの冷えはあまり好きではない、風通しの悪い部屋は蒸し暑いが小さな窓を全開にしてベットの上に転がっていた

発熱は微熱まで下がったものの体が怠く、何も食べる気にならない、胃は空っぽだったが痛み止めを切らす訳には行かない、水で薬を流し込み、スカスカする隣に落ち着かないままゴロゴロしていると建物の外から神崎の声が聞こえてきた

「待てって!!そんなに早足で歩くなよ!倒れるぞ」

「おい!仁!!」

仁、と聞こえた神崎の呼びかけに心臓がドキンと跳ねた

退院して来たのか、脱走してきたのかどうやら仁が一緒らしい、ドカドカと廊下に響く足音は今どこにいるのか面白いくらいに実況してくれる

「…………だからそれは無理だって!!」

バンっとドアが開く音がするとくぐもって聞こえていた神崎の大声が部屋に響いた


「わ…………」  

半分体を起こし横になっていたベッドに仁が部屋に入ってきた勢いのまま一直線にやってきて、抱きつかれたと思ったらベッドへのダイブに巻き込まれた

「あ!おい仁!何やってんだよ、秋人も怪我してるんだから!ごめん秋人、今ちょっと薬で朦朧としてるんだ……」

「うぅぅ……重い……」

半目の仁が殆ど顔がくっつきそうな距離でパクパク話をする様に唇を動かしたが声は出ていない

「今引っ張り出してやるから待って、仁は多分暫く動けないから」

「何でそんな状態で歩いて来れたんだよ、うぅクソ」

体は半分仁の下に挟まれ、腕が首に巻き付いたままで動けない、神崎に腕を引っ張ってもらってようやくマットレスに押し付けられていた体を引き抜いた

「仕事があるから帰るって自分で点滴抜いたんだよ、病院も眠気の出る薬だから駄目だって止めたんだけど帰ってきちゃってさ」

「話せないの?」

「声を出すのは滅茶苦茶痛いらしい、口パクと筆談しか今は出来ない」
仁の首には湿布を止める為か包帯が巻かれていた


「ああもう………靴も履いたまま……」

神崎が靴を脱がせていると仁が両手を上に挙げた

何してんだ思うと、そのジェスチャーだけで分かったらしい、仁のシャツを捲り上げて頭から引き抜いた

無言で進む二人のやり取りを見つめていると視線に気付いた神崎が仁は寝る時裸になるんだと苦笑いを浮かべた


……………痛い………

色んな所が痛い………足の火傷なんかどうでもいいくらい痛い

神崎にも仁にも………自分にも腹が立つ

分かってる、こっちはついこの間、ベッタリ一緒にいたのは二週間だけ………二人は数年………

確実なアドバンテージが仁にはある
二人だけの習慣、二人だけの合図、セックス………

そんな事を考えてる自分の矮小さに腹が立つが気持ちだけはどうにもならない、神崎にぶら下がりたい、抱きつきたい、触るなと引き離したい

顔に出さないようにするだけで精一杯だ

「司…………フルーツは?」

「あ、ごめん買うの忘れてた、食べたいなら今からデリまで行ってくるよ」

「…………ごめん、いいよどうせあんまり食欲ないから………」


神崎は自分で気付いていない………
気付かせたくない………

言うな………言わなくていい………

そのまま眠ってしまった仁にベットを占領されてしまい、神崎がソファに横になれるように枕やブランケットを用意してくれた、アメリカで処方された薬はよく効くがすぐに眠くなる



気が付けばいつの間に移動したのかベッドで眠っていた

ドアからベッドルームを出て行くと仁は小さな窓辺に立って移ろな瞳を外に向けてぼうっとしていた

神崎はソファに座ってその仁を見つめている

「秋人………熱も下ったな良かった、リンゴとグレープフルーツ買ってあるから食べるだろ?」

「うん………」  

仁が話声にピクリと反応してチラリと振り返ったが何を見ているのかまた視線を外に戻してしまった
風景を見ているのではないと分かる

キッチンに入った神崎は仁から目を離さず何度も目をやり気にしていた

探る目付きを読まれたのか神崎は弁解する様に苦笑いを浮かべた
  
「俺………仁が何もしないでぼうっとしている所なんて始めて見るんだ、いつも座ってても本を読んでたりしてあんな風に………」

「いつもせっかちで忙しい人だからね」

「心配ないよ、痛み止めが効いていてダルいんだろ、さっきも2時間もくらい寝たら起き出してきて秋人をベッドに運んだのは仁なんだ、すぐに元に戻るよ」

そう言いつつも神崎は心配そうにまた仁に目を向けた




仁をいつも覆っていた眩しいばかりのオーラが今はない、どこか儚く見える仁の様子は一回り体が小さくなった様に見えた

「春人さんが………疲れた時とかによくあんな風に浮世離れしてぼうっと風に当たったりしてたんだ………まるでそのまま消えてしまいそうに……」


そして消えてしまった………


「仁は消えたりしないよ」

「分かってる………ただ………姿も性格もまるで違うのにやる事なす事似てるなって………」


誰にも必要とされない………その空虚で恐ろしい、体が消えてしまいそうな感覚は………もう会えないと一度神崎を諦めた時に嫌というほど味わった

多分仁も今同じなのかもしれない

春人のいた場所に他の誰でも良くても「秋人」だけは取って変わる事が出来ないのは痛い程分かる、神崎とは違う、仁に取っては「春人の代わり」でしかない



「春哉さんは?」

「夜になったら着くよ、それなんだけどそのまま春哉と合流して日本に行くから秋人も用意しろよ………って言っても秋人は荷物ないけどな」

「え?!今日?」

「仕事があるから日本に帰るって聞かないんだ、タクシーで空港まで行けば後は座ってるだけだからどこでも同じだって」  

そう言った神崎からは………香水じゃない……仁の匂いがした、唇が濡れているように見えるのは気のせいだと思いたい


部屋は多少の私物が残るものの殆どすべて元々の備え付けられていたものだ、iMacだけサラに預かって貰う事になっていた


タクシーに乗り込み空港に着くと春哉と榊弁護士がロビーで待っていた、せっかくニューヨークまで来たのに空港から出る事すら出来ずにまた…12時間飛行機に揺られてトンボ帰りなんて………と春哉がムッツリ膨れていた

日本に向かうトランジット無しの直行便はもうディパーチャーアナウンスが流れていた、既に搭乗手続きを済ませてあり後は出国するだけ

仁は手荷物を春哉に投げ渡し先に行けとプラプラ手を振った、大きなマスクをして首にはストールを巻いているがいつものオーラがもう戻りつつある

仁は春哉と榊弁護士が離れた事を確認して行く手を阻むように立ち塞がった


「仁?何してんの?」

話せないのにマスクを顎まで下げトンっと指先で神崎の胸を押した

「何だよ?」
 
言葉のない仁はゆっくり首を振った

「何?、もう時間無いんだから急がなきゃ乗り遅れるぞ」

言う事を聞け………仁のいつもの声が聞こえてきそうだった

神崎の頬にキスを落とし、とびきり綺麗な微笑みを浮かべた仁は今度は力を入れて神崎の胸を突いた

残れ……と

「仁…………」

バイバイと手を振って先行している春哉と榊弁護士に追い付いて行った背中を、神崎はそこに縫い止められて締まったように動かす事ができなくなった足で見送っている



ドキン、ドキン…と一際大きく心臓が波打つ


……………これでいい


何も言うな……何も言わなくていい

仁が大丈夫なのは分かってる
別に二人は恋人でもなんでもない、強靭な絆があろうとも愛し合っているわけでもない

前みたいに週末………来れる時に仁が尋ねてくる…………それでいい



何も言うな


何も言うな

握りしめた拳は汗を含みじっとりしている

真綿に包まれたような暖かくて甘い鳥籠……
黙っていればそのまま手に入る


搭乗口に消えていく仁の背中を見つめる神崎の顔を見ると

………力が抜けた

何故分かってしまうんだろう
なぜ見える

神崎に惹かれたのは、心の声が聞こえたから……
どんなに否定されても遠ざけられても脅してでも……求められている事が手に取るようにわかったから無茶が出来た

見えてしまった仁の絶望

感じてしまった神崎の声………


神崎には春人から続く道が繋がっていても仁には続きようもない



何かがそっと背中を押した



「…………行けよ………」

「え?」

「司は仁と一緒に日本に帰れ、俺はここに残る」

「何を言ってる、駄目に決まってるだろう」

「実は俺母ちゃんのとこに用があってどっちみち一緒に帰るつもりはなかったんだ、税関の所でトンズラしてビックリさせてやろうと思ってたのに仁の奴余計な事してくれる」

「馬鹿な事を言うな、一人で置いとけるわけ無い」

「今日はもうサラの所に泊めてもらう約束してある、アキがオーディションの二次でもうすぐマンハッタンに来るからその時一緒に帰るよ、親父が航空券用意してくれるし俺には例の100$もあるしな」

「秋人!」

「司ヤラせてくれないし……もういいんだ俺」



神崎が気付いてない?

そんな事あるわけ無い、自分を誤魔化して見ないようにしていただけだ



………………仁には神崎が必要だ


「もう、時間がない最終便は待ってくれないから早く行かないと飛行機飛んじゃうよ」


行けないよ…………

そう言って笑うのをまだ期待している、神崎の答えがもう出ている事は………


わかっているのに



出発の最終アナウンスが流れている

「行けよ!!俺は大丈夫だ!!」

もう猶予はない、出発ゲートでは締め切りの看板が置かれようとしていた

「あ……あ……」

神崎の視線が迷う様に動き…………


「………………ごめん」

視線を振り切るように神崎の足が動くとドクンっと体が揺れ、視界がぶれた

その足に………背中に……飛び付いて引き倒しキスをする……今のは嘘だ…と言えば……それだけで取り戻せる…………

………息を詰めて空気を摂り込むのを忘れていた
もう殆どの最終便が離発着を終えていると言うのにロビーには人が多すぎて………空気が薄い


搭乗口に消えていく神崎の姿が見えなくなる………


一言仁に声を掛けてから、また戻ってくるんじゃないか?……ちょっと怒りながら……

優しく笑って………

…………耳元で囁く色っぽい声

何を言っても困った顔をしながら結局言う事を聞いてくれる

弱い癖にいつでも守ろうとしてくれた

吐息と一緒に落ちてくる優しいキス………


「もう心も……体も司まみれだよ………」


何かに毟り取られたように胸にポッカリ穴が開いた



出発ゲートからひょいと戻って来るかもしれない


神崎の姿を探して……期待してずっとずっと動けなかった


飛行機はもうとっくに離陸していた



大丈夫か?………


隣に立っていた春人が気遣わしげに顔を傾けた

そっくりだと何度も何度も言われたが横に並ぶとと春人の方が少し背が高い

「これくらいどうって事はない」

譲ってくれてありがとう……

「譲ってない………少しの間……貸してやるだけだ」

うん………

「俺達は大丈夫………司は俺の事好きだし、春人じゃないと駄目なんだ……知ってるだろう?」

別にいい人ぶってる訳じゃないし仁に同情してるわけでもない………俺達は……大丈夫だから

そうだな…………




悲しくなんかない、食べずに水ばかり飲んでいたせいで体からオーバーフローして溢れているだけだ

トン………トトン……と頬を伝って顎からピカピカに光った床に水滴が落ちていく


泣くなよ………

「泣いてない……ちょっと隣が………」

スカスカしていて寒いだけだ


大丈夫……

二人は運命なんだから………



何度でも出会う………

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