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6話

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お粥を作った方がいい

スーパーに寄って卵を半パックカゴに放り込みついでに液体の胃薬を二本買った
どうせ神崎は二日酔いにドロドロ溶け液体のようになって机の上に潰れてる

春哉はもうあまり用はない大学に一応寄ってからFACTの事務所に「出勤」した



「司!写真が足りない」

「"速水さん"それは後でいいから名刺に20人分の名前とアドレス入れ替える方を先にして下さい」

「司がやれって言ったんだろ」

「速水さんの作業が思ったより時間がかかったんで予定が押したんです」 

「司が昨日酔いつぶれたから時間が押してるんだろ」


向かい合わせのデスクでお互いの顔が見えないままムキになったように神崎と秋人が不必要に「司」と「速水さん」を連呼していた
事務所に入っていってもどちらも挨拶もない

「あの………速水君……今日は来る日じゃないよな?」

「俺は午前中の授業が休講になったから昨日やり残した仕事をやりに来たんです」

「…じゃあ……司って?」

神崎は「黙れ」と黒いオーラをもわッと発散させて、春哉をギロリと睨んだ

「名前で呼べって頼まれたんだ」

「そんな事頼んでません」

「神崎って呼ぶなって言った」

パンっとエンターキイを思いっきり叩いてイラつきを露わにした神崎に秋人はビビる様子も見せないで平気な顔をしている、神崎が怒ったりイライラする事は滅多にないがどちらかと言えば黙るタイプでいつもならただ口をきかなくなる

普通に不機嫌な顔をして怒っているのは珍しかった

「…………速水さん、春哉が来たからパソコン交代して帰って下さい」

「今名刺やれって言っただろ」

「春哉がやるからそこどいて」

「神崎さん!俺はお粥作るからそれまでは……速水くんにやってもらったら………」

何があったのかは分からないがプチ喧嘩モードに慌てて割って入った、近頃神崎がやたら感情を見せて大人でスマートなイメージが吹っ飛んで来てる

「秋人もやりかけがあるみたいだし………俺はお粥作ります…」

声が萎んでしまったが秋人のデスクトップは散らかったままで保存出来ているかも怪しい、ファイル名が名称未設定のままだ



「春哉!何でお粥を作る必要がある、仁の真似事をするな」

「じゃあ聞きますけど何か食べました?」

「俺が知る限り食べてないよ」

秋人が口を出すとますます不機嫌が増して何故か全部春哉に飛んで来た

「速水さんは口を出さないでください、春哉!さっさと代われ!」

「うわ……はい…秋人、悪いけどそこどいて、俺がやるから」

「………じゃあ………お願いします」

秋人は思いっきり不満そうな声を出して覚えたばかりのショートカットキー、コマンドSを押して椅子を引いた

「画面そのままでいいよ、俺が引き継ぐから」

「…………はい」

秋人はプッと口を尖らせたが仕方なしにデスクを開けてブラブラとキッチンに入って行った


「春哉!写真はサーバーの"進行中"、か行、香久山に入ってる」
「え?名刺は?」
「後で速水さんにやってもらうから香久山進めて」

「………はい」

これ以上機嫌が悪くなっても困るし神崎もイライラをグッと抑えて必死で自制しているように見える、ここはなるべく早く仕事を進めて大人しくしている方が正解だ

「俺はちょっと司を見ていていい?」

「…………好きにして下さい」

「じゃあ好きにする」

秋人が三人分のコーヒーを入れて春哉と神崎の机に置いてから何故か神崎の後ろではなくパソコンの横に立ってコーヒーを飲みだした



「……………………」

「……………………….....」


「何で俺を見てるんですか!見るなら画面でしょう!」

「え?!」
突然上がった神崎の大声に体が跳ねて春哉は危うくマグカップを投げそうになった
タプンと揺れた中身がキーボードの上に飛び散り慌ててテッシュを取ろうと手を伸ばすと神崎と秋人が睨み合っていた


「好きにしろって言っただろ」

「邪魔をするなら帰って下さい」

「見ているだ……」

「ああっ秋人!!そこに乗るな!!!」

秋人が神崎のMacに肘をかけてもたれるとパキンッとパソコンの中から不吉な音がした

「ああ!」

「わっ…………何?」

秋人はどちらかと言うと神崎の声に驚いてもたれた腕を持ち上げたがもう遅い、神崎はばたんと腕を放り上げて机に突っ伏し呻き声を上げた

「クソ…………折れた………」

iMacの首は弱い、モニターを支え首の角度を可変するステイはリコールしてもいいんじゃないかと思うくらい脆くデザインと構造上の欠陥と言える、何もしなくても折れる事もあるのに体重をかければ一発だった



「………今の音って…………」

春哉が席を立ってパソコンのモニターを手で持ちあげてからそっと離すと元の位置にストンッと顎を下げ角度調節がきかなくなっていた

「モニターを支えるステイの中身が折れたんだよ」

「え?俺が壊したって事?」

「まあそうだな……」

「俺……………弁償とか出来ないけど………」

二人して机に突っ伏したままなにも言わない神崎の後頭部を見下ろした


「あの………」


「…………です……」

「え?」

「もういいです……多分動作に問題ないから………」  

伸ばした腕を枕にして見せた神崎の顔は笑いを堪えるように穏やかに緩んでいた



何のつもりか分からないが秋人は朝一番から事務所にやってきてずっと絡らんでくる
関係ない事は痛いほど分かっているのにチョコチョコいらぬ事をされるとどうしても怒る気になれない

「何かを挟んでおけばそんなに差し支えないですから気にしないで下さい」

「今、秋人って呼んだ」

「へ?」

「昨日もそうだったけど咄嗟の時に秋人って呼ぶって事は頭の中では秋人って呼んでるんだろ?」

図星だがまさか「秋人」とは呼べない
何故そこまで呼び方にこだわるのかも分からない


「もういいでしょう、何をお互いにムキになってるんですか、俺の事も春哉って呼んでるんだから秋人って呼べばいいでしょう」

ついでにオレも司って呼ぼうかな………と付け加えると穏やかな神崎に戻ったと思っていたが射殺す勢いで睨まれた



「何でそこまで名前で呼ばれたいわけ?神崎さんを困らせるのはやめろよ」

「逆にどうしてあそこまで拒否するかな………」

神崎は一人千円までで何とかしろ、と札を二枚置いてついて行こうとした秋人を逃げるように振り切って昼食に出て行ってしまった

この事務所は飯時になれば必ず食事が出てくる、仁がいれば作ってくれるしいなくても何らかの手段で用意されている、いつの間にかそれが当たり前になり神崎も必ず食事の面倒をみようとするが現金を渡されたのは初めてだった

「あんまり神崎さんを刺激すんなよ、普段あんなに感情見せる人じゃないんだ」

「だって…………」

「だってって何?」


ーーー確かに呼んだのだ

初めてこの事務所に入った時神崎は秋人と呼んだ
大学で会った時に名乗った事を覚えていたんだと思う

あの口が………唇が「アキト…………」と動いた


「何でもない……、俺の事速水って呼ぶ奴いないから慣れないだけ…飯買いに行こう…」

「コンビニでいいか?」

「うん………」



結局秋人は神崎がパソコンの電源を落とすまで何だかんだと言って帰ろうとはしなかった、春哉は5時頃に友達と約束があるからと帰ってしまい、秋人と二人きりで事務所にいるなんて気まずいを通り越して辛い

ここ暫くまともに家には帰れていない事もあり全部後回しにして事務所を閉めてしまった

「暇なんですか?学校がないなら別のバイトでも探したらどうです」

「学祭の練習もあるし暇じゃない」

「行ってないじゃないですか」

「俺の練習はいらないんだよ、出来るから」

「つまりは暇なんでしょう」


事務所の外に出ると今は一年で一番気候がいい季節で過ごしやすい、長くなってきた日も手伝ってもう七時近いというのにまだ空は明るさを残していた

いくらか柔らかくなってくれた神崎と2階の踊り場に立って下を見下ろすと熱くも寒くもない気持ちいい風が足元から吹いてくる

階段を一々一段づつ降りるなんて面倒くさい
数段とばして降りると勢いがついて誰かにぶつかりそうになっても止まれないことがよくある
飛び降りるのが一番早く安全(?)なのだ

滑り降りようとまた階段の手摺にヒョイと足を上げ、体を投げ出そうとすると腹の方からグイッと後ろに引かれた

「!」

「やめて下さい、昨日も飛び降りた後腕を庇っていたでしょう」

腹に回った腕一本で踊り場まで引き戻され階段の正面にトンっと優しく置かれたがパッと体が反射で避けてしまった

「ごめん、でも飛び降りるのは当分……いやもうやめた方がいい」

神崎はもう触らないから大丈夫だとアピールするように両手の掌を上げ、先に階段を降りていった

かぁっと顔が熱くなるのが分かった

触られるのを嫌な事が知られている……

神崎の前で接触をあからさまに避けた事はない……と思う、それはもしかしたから気を使われて神崎の方から触らないように注意されていたのかもしれないと思うと物凄く恥ずかしかった



「早く帰って下さい」

「そっちこそどうして駅に行かないんだよ」

「俺は………ちゃんと帰ったのを見てから店に寄ります、またチョロチョロされると困るんで」

「…………チョロチョロって何?俺だって色々あるし今だけ見てたって仕方ないだろ」

「俺の見てない所ではどうぞ好きに飛び降りたり落ちたりして下さい」

会社以外は俺には関係ない
そうキッパリ言われたようでムカついたが駅の方に歩き始めるまで神崎は動きそうもない、腕組みして早く行けと目で急かしてくる

「帰るよ、明日は何時に………」

「明日"も"必要ないです、春哉が来ますから」

「わかったよ、"明日"な、司!」

何か言われる前に駆け出し角を曲がった所で止まって神崎の姿を伺った
しつこくこっちを見ていたが納得したのか飽きたのか、駅とは反対方向に足を向け歩き出した
やはり二日酔いだったのだろう、神崎は昼食だと言って事務所を出たが賭けてもいい………絶対に何も食べてない




駅の方に行けばファミレスが一軒だけあるが食べたい物は多分何もない、FACTの事務所から住宅街の方へ路地に入ると、いかにもという感じの古い赤提灯を垂れ下げた大衆的な居酒屋がある

昼間は7ー800円で地味な料理を定食で出している地元に息づいた余所者には入りにくい店だったが時々足を運んでいた
ここには仁も来ない

店の中はカウンター席が三席と四人掛けのテーブル席が四つだけある、カウンターの隅に指で合図するとどうぞ、と親父と言いたい風貌の無口な店主が頷いた

「何か煮物とか食べやすい物適当にお願いします」

「飲まないのか?」

「昨日の酒が残ってて……」

「そんなの迎えるのが一番だろう、飲みたいって顔してるよ」

お絞りと先付けの小鉢と共に中ジョッキがドンッと問答無用で目の前に置かれた、この店のいいところでもあり面倒くさい所でもある、一旦店に馴染むと身内として扱われこっちの希望を半分くらいしか聞いてくれない


チビッと小鉢のほうれん草の和え物を摘むと………やはりビールに手が伸びてしまう

「ほら飲むだろう」

「仕方ないでしょう、目の前にあったら飲みますよ」

してやったりとニンマリ笑う店長は小芋の煮物とヒジキをカウンターに置いた



背中でカラカラと格子の引き戸が開く音がしたと思ったらよく知っている香りを身に纏い白い手が隣の席の椅子を引いた

「な!何をしてるんですか!」

「どこに行くのかなって思ってさ」

駅に向かった筈の秋人が隣の椅子に座ってカウンターに肘をつきヘラっと笑った

「何で座るんですか、同席するつもりはありませんよ」
「ここは空席だよねおっちゃん?」

「そうだな、お兄ちゃんもビールでいいか?」

「あ………俺お金持ってない」

「俺は出しませんよ、さっさと家に帰ってください」

「いいよ、これもらうから」

秋人がカウンターに置かれた神崎のジョッキを持ち上げて飲もうとするので慌てて取り上げた、反動でジョッキからタプンっと中身が踊り床にボタンっと大きな水滴を飛ばした

「俺の前で酒を飲むな」

「だって腹減ったし……」

「食べたいなら勝手に食べていいから………酒はやめてくれ」

「じゃあ食べる、司お箸取って」

神崎が秋人の言葉を無視していると店主からお箸とお絞りが秋人に手渡された
ここは使い捨ての割り箸ではなくて桂の木を手掘りしたオリジナルの箸を使っている


「どういうつもりですか……」

「何が?」

「どうして付き纏うんですか」

「そっちこそどうして目を合わせないの?」

肘から顔を落とし、カウンターから覗き込むように目を見られると言い訳出来なくなってきた
態度が不自然なのはわかっているが仕方ないだろと言ってしまいたい

「もういいですよ、さっきも言った通り同席する気はありません」

「勝手に食べろって言っといて……昼間もやれって言ったりやるなって言ったり、言う事変なんだから」

とても同い年には思えない、秋人は思った事をそのまま口にして行動する、まだ学生だからか無邪気で物凄く子供っぽく感じてしまう

暫く無視していると黙って小芋をつつきしょんぼりしている姿が可哀想に見えてきた


「………学祭って……何やるんですか?」

「あ…………やっと喋ってくれた」

「せっかくご飯食べてるのにそんな顔で横にずっといられるとビールがまずいんです」

「俺も小芋が美味しくない」

秋人の言葉が曲って伝わったのか店主の眉がピクッと釣り上がり一際大きな音を立ててモツ煮込みがカウンターの中からドンッと出てきた

「わ……これ美味い」

「ここの看板ですよ」

秋人は思ってる事を顔どころか口に出す
それから手をつけない小芋は比喩じゃなく本当にまずかったらしい

「ふうん…………来る?」

「え?どこに?」

「学祭、俺達チーム組んでバスケのショーやるんだ」


「………………そんな暇……無いですよ」

「何?そのタメ」

本当に来るとは思わず誘ってみたが神崎はちょっと困ったように笑って黙ってしまった



何も注文してない筈なのに鯵の刺し身が出てきた
小皿に醤油を入れようと手を伸ばすと神崎と肩から腕が触れた

「ごめん」

「え?」

嫌なのは意図的に尖った手を伸ばされる事、そこまで接触恐怖症という訳ではない
スッと腕を引かれて距離を取るように座り直した神崎にチクンッと胸が痛み………情けなくて泣きたくなって来た

「あっこら!!」

神崎の手からあまり進んでいないジョッキを取って一気に煽った

「美味い」

「ここから一時間もかかるのに…………」

「何が?」

「速水さんの家ですよ」

「かかるけど………何?」

「往復に二時間………せっかく早く仕事を切り上げたのに困った人ですね………」

「へ?何言ってんの?」

「一人で帰せないでしょう」

「はあ?」

あんぐり口が開いた
つまり家まで送ると言っている?

時間はまだ早いし何よりも神崎の目にはどんなに頼りなく映っているのかわからないがこっちは男でもう24なのだ、未成年の女子に酒を飲ませてしまったように扱われても困るし嫌だ

「例え昨日の司みたいに酔ってても自分で何とか出来るからそんな心配いらないし」

「酒に弱いくせに口だけ達者ですね」

「何で弱いって決めつけるんだよ」


「弱いよ………絶対」

「おっちゃんビールおかわり」

会話を聞いていたんだろう、いいのか?と神崎に目で聞いてきた店主にいいよ、とテレパシーで答えた
ここは無言が通じるから楽だ

どれだけ飲んで酔おうが寝てしまおうが家まで送らなければ気になって眠るどころではなくなる

結局二人でバッチリ飲み食いして不満に頬を膨らせた秋人の家まで二時間の工程を往復する羽目になった




チクッ…………と胸が痒い

ポリポリ掻いてもまたチクチクして痒い

木材の削りカスは服の繊維の奥に入り込み正体の見えないその尖った先で被害はほとんど無いが物凄く不快な攻撃を仕掛けてくる

どこに元凶があるかわからない所が辛い

シュウはそんな大小織り交ぜた削りカスが散らばる床に長く伸びてゴロゴロしている

「シュウ……チクチクがつくぞ」

「う……ん、チクチクするね」

「ならそんな所で寝てないで服を払えよ」

「うん………」

シュウは昨日一日顔を見せなかった
それとなく探したが学校にも来ていなかったらしくどこに行っていたのかは知らない

今日は朝からの講義にも出ず、アトリエにやって来て殆ど口をきかないでウダウダしているが、Tシャツ一枚着ただけの薄着でゴロゴロすると臍丸出しの白い腹が見えて目のやり場に困る

シュウが黙ってジッとしていると……申し訳ないが………痴漢の気持ちがちょっと分かる

「ちょっとだけだ………」

「え?何て言った?」

「何でもない……独り言………」

ゴロンと仰向けになり、顎を上げ上目で目を向けられると妙に生っぽい…………

ウグ……と生唾を飲んでしまった


木片で出来たシュウダビデの像は不用意なノミの一打ちで首から上がゴロンと落ちてしまい今木工用ボンドでくっつけて乾くまで抑えている

素材の丸太は高い、本当はもっと大きな素材を買いたいが身長120センチのシュウを彫るだけで精一杯だった

「ダビデじゃなくて考える人にすればよかった」

そうっと手を離すと……まだボンドが半透明な場所もあるが何とかくっついたけど………おかしい、疑問を抱えてるように首を傾けている

「………何か悩みでもあんの?」

ギュッと反対側に抑えてみたがダビデは相変わらず、ん?と首を傾けたまま固まっていた


「さっきから何一人でブツブツ言ってるんだよ」

「何でもない」

変な所を凝視してしまいそうであまりシュウの方を見たくない、ダビデに向かって返事をした


「なあ、アキ…………」

「あ………ホラ凄い木屑がついてる……」

コロンと起き上がったシュウのTシャツは思った通り削りカスだらけで払おうと手を伸ばしたが止めた
どうせ嫌がる

「何だよ……」

「触ると怒るだろ」

「………いいから手伝えよ」

パンパンと払うものの生地に刺さった木片は中々落ちようとしない、ビョーンと引っ張ってパッと離すと生地の上でゴミが跳ねる

「アキ…………ちょっとさ………」

「ん?これ面白いな」

Tシャツの袖を引っ張って離す
裾を引っ張って離す

「俺に触ってみてくれない?」

「え?」

衿を引っ張って………止まった



また?
何かの試し?

それとも…………

もしかして誘われているのだろうか………

この前も誘ったのに俺が馬鹿みたいに言われた事しかしないから業を煮やしたのかもしれない
もっと濃い事を望んで………

「早くしろよ……」

んな事ある訳無い…………

「触るって…………こう?」 
指を伸ばすとパンっと叩き落された

「何だよ……やっぱり駄目なんだろ」

「違うよ、いかにもくすぐるやり方するから」

「じゃあ………こう?」

手の甲で腹をポンッと叩くとウヒャッと跳ねてもう一回やろうとすると腹を引っ込めて避けた

「逃げんなよ」
「だって……ひゃはは」

ツンっと下顎をつつくと変な笑い声を立てるから面白くなってきた

シュウも自分で言い出したくせに笑いながらひょいひょい避けて………とうとう全然届かなくなった

シュウが本気で避け出すとすばしっこくて追いつけない

「ホラ………駄目だろ」

「お前が真面目にやらないからだろ」

「真面目に…………やっていいのか?」

「そう言ってるだろ」

「じゃあ………ジッとしてて」


肩にそっと手を置くと、ピクッと動きかけた体を我慢したのかシュウはふうっと息を吐いて目を閉じた

手を肩から腕に滑らせてもシュウはジッとしている

「まだ………大丈夫?」

「くすぐったい………けどゆっくりなら我慢できる」

もう片手も添えて背中に回してポンポンとあやすように叩くと硬くしていた肩の力が抜け気のせいだと思うが眉が下りトロンとして来た



え…………と…………

どうすればいい?
このままじゃ抱き寄せてしまう

違うぞ、違う………多分違う、絶対違う
勘違いするな俺………

シュウが黙ると別の何かに変身してしまう、悟られないように見下ろすと伸びた髪が項にかかり………首が白い、引っ張ったせいで衿が伸びる筋の先に綺麗な鎖骨が見える
また顔が近い

チュー……したい

背中に置いた手にそうっと力を入れて寄せると柔らかい背中がクイッと反った

シュウの頭の位置は丁度胸の中に収まる
触れないように上げていた肘を落としてキュウッと包むとシュウの瞼が半分開いた

「何してんの?」

「へ?」

「真面目に頼んでるのに……」

「いや………あの………」

こっちも大真面目です
大真面目に抱きしめようとしてました

「もういいから離せよ」


離したくない
逃したくない
一気に抱き寄せてしまうとどうなるんだ
きっと怒るか跳ね除けられる

自分の手首と戦い………スッと手を下ろした
拳を握ると手のひらはじっとり汗に濡れている

「いきなり何だよ」

「だって変だろ?ちょっと触れただけでも一々反応しちゃってさ」

「嫌なら仕方ないだろ」

「嫌じゃない時もあるんだよ…それなのに…」

「シュウは平気なの?」

「何が?」

「この前俺とチューしただろ、その………男とチューとかさ………」

「男とは嫌だけどアキなら別にいいだろ」

どっち?
どっちの意味なんだ

俺は特別って事?それとも男にも女にもカテゴリーされてないって事?

「………俺だって男だよ」

「アキは綺麗だからな」


やっぱりどっちの意味かわからない
どう言うつもりか聞きたいけど今はそれどころじゃなくなってる

「俺………ちょっとトイレ………」

「あ、俺も行く」

「え?駄目!」

「駄目もクソもないだろ」

「駄目!俺は飲みもん買ってから行くし」

連れションなんて今無理!
行くなら別のトイレに行ってくれ

「飲みもんなんてトイレの後で………おい!」 

女じゃあるまいし偶然じゃなければ男は一緒にトイレなんて普段は行かない、何か言ってるシュウに構っていられない、使われてない時は殆ど人の来ない講堂の隅にあるトイレまで早足で飛び込んで蓋の閉まった便座に座り込んだ


「もう………無理だよシュウ………」

この変な欲……………そんな目で見ればシュウは益々性欲の対象に見えてしまう

「俺って…………ホモなのかな………」

ムックリ膨らんだ下半身は言い訳のしようもない
キスよりも薄いTシャツの上から肌と体温を感じた手のひらの方が余程効いた

躍動するしなやかな躰………白い肌に赤い唇、表情豊かな眉が額に皺を刻み真ん中に寄るとあらぬ妄想が止まらない

「う…………っ………」

手を動かすと悪寒が体を震わせた
つうんっと背中を駆け上がる刺激に泣きそうになった



自己嫌悪に暫くトイレから出る事が出来なくなって気が付けば30分も籠もっていた

言い訳できるようにカップのコーヒーを学内のコンビニで一応二つ買い込み、アトリエに戻るとシュウはもういなかった
代わりに多分日本画だったと思う、シュウとよくバスケをしている山崎が戸口に立っていた

「秋山!シュウ知らないか?」

「さっきまでいたけど………」

「あいつ学祭の練習に全然顔出さないんだよ」

「え?昨日も?」

「ずっと来ない、まあシュウは練習しなくても出来るからいいんだけどな、リズムもあるし段取りだってあいつは何も知らないまんまなんだ」

山崎は校内では知らない学生はいないんじゃないかと思うくらい目立つ存在で学生自治会の委員長や学祭の実行委員をしている
どこまで顔が広いんだと感心するくらい社交的でシュウと一緒にいる所もよく見る

「何やるんだっけ?」
「五人で連続シュートとかトランポリンダンクとか、ガンガン音楽鳴らして女子がダンスもするから盛り上がるぜ」

ザ.大学生と言える華やかな世界はシュウには良く似合うが秋山にとって遠い、別の世界のべつの人種が関わるものだと思っている

「シュウは………得意そうだな」
「あいつは何やらしてもスポーツは抜群に上手いな、だから俺らみたいに普通の奴らと合わせる練習をして欲しいんだけど」
「ごめん、シュウが何してるかは俺は知らないんだ」
「一番仲がいい秋山が知らないんじゃ捕まえるのは難しいな」

一番仲がいい……と自分でも思っていたが近頃やけにミステリアス(?)で何を考えてるか全く分からない

元々わからないけど……

「じゃあ悪いけどシュウに会ったら言っといて、1回くらい練習に顔出せってさ」

「うん、分かった」

廊下を駆けていく山崎にはあちこちから声がかかる
一々立ち止まっては話をするので目的地に到達するまで随分暇がかかるだろうと見送った



撮影の予定が入ったと春哉から連絡が入っていた、FACTに入って三回目の仕事だ
最初は仁と一緒にやった雑誌GLAYの撮影、二回目は仁が海外に出たすぐ後に身長が似ている、とNGになった仁の代わりをやった

靴を借りる為と詳細を聞く為に事務所に向かう電車は、一時間もかかるが撮影スタジオに朝一番………8時入りだと聞いているので行き掛けに事務所に寄る事も出来ない


「秋山くん、結構いい感じに予定入ってきてるね」

「そうなんですか?」

個人スタジオは地図に乗っていない事が多い、特に芸能人の撮影も請け負うようなスタジオは住所検索ではたどり着けない事もあるので手書きの地図を春哉から貰った

「仁が随分拠って仕事を選んでいるみたいなんだけど今月はもう一回入ってるよ、また連絡する」

「色々すいません」

「それから………これ」

「何ですか?」

春哉が机から出した封筒をハイっと渡された

「GLAY撮影分のギャラ、普通は振り込みだけどタクシー事件の話したら先に払ってやれって仁に言われてさ」

「春哉さんマネージメントも手伝ってるんですね」

「仁がどうしても無理な時だけな、あの人全部自分でやりたがるから」

「うわ………助かります」

受け取った封筒はなんか………重い
オフィスカヤでのモデル料金は一日拘束で7万円、そこから事務所に引かれ源泉を引かれ数枚しか手元には来ない、何か税務署の冊子でも入っているのかと中身を見ると…………結構な枚数の札が入っていた



「春哉さん…………これ………」
「異様に多いよな………俺は仁が幾ら取ってるか知らないけど言われた額だから」

「俺こんなにお金持ったことないです………」

世界が違う…………

一回、それも3時間ちょっとでこの収入があるなんてちょっとびっくりする
まあ、多分GLAYは特別だったのだと思う、仁と一緒だったし服飾メーカーの力も入っていた

お金があるならこれだけは済ませたい………

封筒の中には細かい紙幣も混じってる
丁度いいのでこの前神崎に出してもらった五千円を返しておこうとデスクに近づくと、投げ出された見覚えのある足に気付いた

「シュウ?!」

神崎の足元に座り込みノートパソコンを膝に抱えて背中を丸めている、耳に伸びたラインはどうやらイヤホンをしている

「おい………」
頭のてっぺんをチョンっとつつかれると神崎の顔を見上げてからその視線を追ってやっと顔を向けた

「あれ?アキ来てたの?」

耳から外されたイヤホンからは驚くほど鮮明にガンガン音楽が聞こえてくる、その音量では外からの音は全く聞こえていなかったらしい

「来てたのじゃないよ、山崎がバスケの練習に来いって探してたぞ」

「別に練習なんかしなくても学祭には出るって言っといて」

「言っといてって山崎の連絡先も知らないし自分で言えよ」


「司!丁度いいからこれ見てよ」

シュウは大学の話には興味もないらしく聞こえてないようにサラッと秋山を無視してノートパソコンを神崎のデスクに置いて画面を向けた

「おい………シュウ………司って………」

「後で、今仕事中」


何だその呼び方、司ってなんだ………

「昨日からずっとこれなんだ」

春哉が肩を上げてフンっと鼻を鳴らした

「昨日?昨日もシュウの奴来てたんですか?」

紹介したのはいいが真面目に仕事をしなかったらどうしようと心配したがまさかこんな熱心に取り組むなんて驚いた

「朝一番からずっといたからな」

いつの間にか神崎を親しげに呼び捨て、小さなノートパソコンの画面を見ながら指示を受けているシュウを見ていると割って入りたくなる程の二人の近さにお尻がモゾモゾした



「けっこう集まっただろ?」

「違います、商業施設に出すならこれでいいけど、施工する工務店に見せるんだからどう作ってあるかわからない提案は無駄足になる、クライアントによって視点を変えなきゃ駄目なんです」

「どう言う意味?」

「だから………」

夏に行われるクリスマス展示のプレゼンテーションコンペ用に完成イメージを請け負っていた
発注元の百貨店側は完成形を見たがり、施工会社は工程を考える、どんな材料を使ってどう作るか考えるのは施工会社の仕事だ、今回は工務店からの依頼なのでコストが高そうだとか制作が困難なものにはOKが出るとは思えない

「単純にプロジェクションマッピングを使うなんて簡単に言われても工務店にそのスキルが無ければそれだけで跳ねられるでしょう、クライアントが食いつく案を持っていかないと修正とやり直しが増えて大変ですよ」

「じゃあこっちの鏡を使った反射演出は?」 
「それならミラーシールをプラ板にはりつけてできるからいいんじゃないですか?もうちょっとやってください、コストを考えたイメージ集めやり直し」

「分かった」

またペタンと神崎の足元に座ってネットのクリスマス画像をめくりだした



「何やっての?」
別に神崎に張り合う訳じゃないが、狭い場所に座り込むシュウの横に無理矢理体を折りたたんでパソコンを覗くと画面にはクリスマスのツリーや装飾で飾られた色んな風景写真が並んでいた

「イメージ写真を集めてる、デザインを起こす前の準備なんだって」

「勝手に来て仕事をくれって言うからやってもらってるんだ、秋山くんは靴?」

「はい、これお返しします、助かりました」

神崎に五千円札を渡すといいのにと笑ってデスクの引き出しを開けようとするとシュウがもたれていて邪魔になった

「どいてください、大体どうしてこんな所にいるんですか」

「いいだろ、別に……」

「良くないでしょう、それにTシャツはゴミだらけだし昼飯代も持ってないなんてやめてください」

「ハハッ帰りの電車代もない」

「じゃあこれ持っていっていいからそれが終わったら帰ってくださいね」

神崎が秋山から返された五千円札を渡すと春哉が止めた

「神崎さんややこしい事しないでください、交通費は事務所から出るしそこから前借りにします」

「それはそれで出していいよ、無一文でウロウロされると気になる」

「……………神崎さんが構わないならそれでいいですけどね」

何の遠慮もしないでラッキーと札をポケットに入れている秋人は21の春哉から見てもあまりに子供っぽい、

やけにベタベタ付き纏う秋人に神崎は何も言わなくなっていた、クリスマスのイメージ探しは先に頼まれていたのに秋人に取られてしまった

仕事が逆転してしまい名刺の名入れをやりながら秋人に向かって早く帰れと言いそうになっていた




山程積まれクローゼットに溢れた靴の箱は写真をプリントアウトして側面に貼り付けてある、それでも目的に合う靴を探し出すのは大変だった

「秋山くん、靴出すの手伝うよ、夏物だよね」

「はい、デッキシューズと革靴でいいですか?」

これも仕事だと、神崎に言い訳するような顔を向けてから春哉が手伝いに来てくれた

「サンダルは?」
「持っていった方がいいならそうします」

薄い生地の大きなカバンに靴を入れながらチラッと神崎を見ると机の横にシュウの方に低く屈んで何か言っている
あの位置だとまたシュウに………近くないか?

「シュウ!そんなにかかんないだろ?一緒に帰ろう」

「俺はもうちょっといるから」

手だけが見えて払うような仕草で揺れた
先に帰れと言われているらしい

「速水さんにはもう帰ってもらうから悪いけど秋山くん暫く待っててくれる?」

「司!俺はまだ……」 

「帰ってください、邪魔です」 

「やだよ………」

「何ですか………全く………」

ブルブル震えだした携帯の画面を見てすぐには出ずにキッチンに入っていった神崎は呆れた声を出している割に表情は穏やかだった

いつの間にか神崎と秋人の間で何か一つ関係が進んでいる、シュウの視線は今もパソコンを触る手を止めて電話している神崎を覗いている
 

「シュウ?何見てんの?」

「女だ」

「何が?」

「司の電話………女からだ」

コソコソとカウンターの下に移動して身を屈め、盗み聞きを決め込んだシュウに釣られて一緒に潜んでしまった、何?と春哉まで加わった



神崎が内容を聞かれたくない電話をするなんて珍しい、春哉が知っている限り痴話喧嘩でさえ隠したりしていない

「何で女からってわかるんだよ」

「話し方が優しいもん」

「新しい彼女でも出来たんじゃないの?神崎さんはある意味仁さんよりモテるから」 

「そう………だろうな………」

それには納得出来る、と三人で頷いた
丁度いいイケメン具合に人当たりが優しくて大人な雰囲気、仁はあまりに近寄り難くて特別な人種しか声をかける事も出来ない



池上は来なくていい…………ああ………俺が出るから
うん………分かった


「なんだ………池上さんじゃないか、どうして隠れてるんだろ」

「春哉さん知ってるの?」

「電報堂で働いてて時々仕事を持ってきてくれるんだけど神崎さんの元カノで元同僚だって言ってた」 

「復元?」

「さあ?いいじゃんその方が……あ………」

頭の方から影がさして顔を上げると神崎が白い目で見下ろしていた、格段春哉に向けられた目が怖い

「俺は今から出る、パソコンそのままにしておくけど先に帰ってろ」

いいな、と今度は秋人を睨んでついでに秋山には頼むぞと目を向けた



「あ!!シュウ駄目だぞ!!」

神崎が外出してすぐに出て行こうとしたシュウを慌てて止めた

「何が?」

「神崎さんに付いていくつもりだろ」
 
「何で決めつけるんだよ」

神崎が外出してすぐに出て行こうとしたシュウが後を付けるつもりなのだとすぐに分かった、思っている事は全部顔に出ているし行動も読みやすい

「だってそうだろ?」

「見たくないか?イケガミって人」

「そりゃ見たいけど駄目、神崎さんのプライベートなんだから」

神崎の彼女よりもシュウの行動の方が余程気になる
ここ数日FACTに通い詰め………つまり神崎と一緒にいた事になる

その上で外出先まで付いて行こうとするなんて何か別の目的があるとしか思えない
考えたくないが………初めて会った瞬間からスイッと吸い寄せられるように神崎に傾倒していってる……………ように見える

訳の分からない欲にまみれてシュウに寄る奴触る奴が全て敵に見えてきている自覚がある
真っ当な評価は無理だと思う

「もう帰ろ?」

「いや、俺はまだ仕事終わってないからアキは先に帰ってろよ、明日朝から仕事なんだろ?」

「そうだよ秋山はちゃんとしなきゃ仁さんの顔を潰すぞ、秋人も帰っていいよ、元は俺の仕事なんだから引き継ぐよ」

「………やだよ俺に任せてもらったんだから」


その日は頑固に動こうとしない秋人に付き合って事務所に残っていたが神崎は遅くなっても帰っては来なかった

夜7時を過ぎると用事があると言う春哉に事務所を締めるからと追い出された
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