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第四話 五千年前から来た男
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店長のあさイチの猛攻撃がよみがえってきて、急にお腹がぐう! と鳴った。私の昼休憩まではあと三十分。この空腹を紛らわすためには、とにかく手を動かすしかなさそうだ。
書棚の前で私がやっとこさ本の補充作業をしていると、先ほどから、小さな男の子が、せわしなく行ったり来たりしている。小学二、三年生というところだろうか。ちょっと離れたところから、グレイヘアの優しげな女性が、心配そうに見守っていた。
少年の歩幅はだんだん小さくなっていき、やがて、問題の、歴史・社会コーナーのあたりに照準は定められたらしい。
——まさか、まさか。君、天下分け目の大戦とか、幕末の偉人伝とかについて、込み入った質問なんかしてこないよね? プロフェッショナルにはあるまじき不謹慎な思いでチラチラと盗み見ている私のところへ、彼はつかつかとやって来て、
「すいません! アイスマンの本はどこにありますか?」
ああ、これは、幸運にも歴史書ではなさそうだけれど、やっぱり私のあまり得意ではない、オンライン・ゲームの類か何かだろう。少年は、真剣な眼差しでこちらを見ている。
「ア、アイスマンですね? ちょっとお待ちくださいね」
膨大な古書の海を行く潜水艦の潜望鏡のように、キョロキョロと首を振って売り場中を見渡すと——良かった! 一番奥の壁際のあたりで、ゲーム好きの岡本君が加工作業をしているところだった。加工とは、お客様から買い取った品物に値段を付けたり、買い取りの日付を入れる仕事だ。ある程度の期間が過ぎても売れなければ、値札を付け替えることもある。とにかく、ここはもう、彼の手腕に期待するしかない。
岡本君を無理やり引っ張って来た私は、
「こちらのお客様が、アイスマンの本を探していらっしゃって……」
すがるように見つめる私の気持ちを、察してくれたものだかどうか、
「……ああ、アイスマンね。『ロックマン』に出てくるキャラでしょう? 口からマイナス二百度のアイス・スラッシャーをじゃんじゃん吐いて、何でも凍らせちゃうという」
小さなお客様は、微動だにしない。
「あっ、でも、アイスマン単体の攻略本なんてあったかな?」
——頼みの綱の岡本君が、そんな弱気じゃ困るんですけど。
自分の立場もころっと忘れて、ついつい厳しい表情になってしまう。
「あのー、『ロックマン』のアイスマンじゃないんですけど」
少年のあくまでも冷ややかな視線と、うろたえる私たちのそれとが空中でせめぎ合う。
「アルプスの氷河の中からよみがえった、五千年前の男だよ! 本屋さんなのに、知らないの?」
「えっ、スゲェーーー! そんなゲームあったっけ?」
「だからもう、違うんだってばーーー!」
男の子は、とうとうしびれをを切らしてしまったようだ。
「ゲームの本じゃないんだよ!」
「うーーーん」と、岡本くんは、思案中のコモドドラゴンのような低い唸り声を出した。
「……分かった! 確か『X-MEN』のオリジナル・メンバーの一人だよね? 体を氷に変えることができるっていうミュータント能力者だ!」
「違うよ! ミュータントなんかじゃない、アイスマンだ!」
地団駄を踏んで悔しがる様子に、売り場の雰囲気が少しずつ険しくなってきた。思い思いに本を選んでいた他のお客様達も、怪訝そうな顔つきでこちらをうかがっている。
岡本君はと見ると、いつの間にか身を翻し、何食わぬ顔で加工作業に復帰している。私の鋭い視線を感じたのか、右手で小さく拝むような仕草をしてから、コメツキバッタのように何回も頭を振ってみせた。
「……お客様、タイトルだけでも分かりましたら……」
「そんなの、僕には分かんないよ。おねぇさんが考えてよ」
男の子は、今にも泣き出しそうだ。
「すみません、わがままばかり言って……」
先ほどの女性が、あわてて駆け寄ってきた。
——どうしよう、こんなところを店長に見つかったらやっかいだ。彼の中ではなぜだか今は爆上がり中らしい書籍売り場への評価だって、急降下することは間違いない。それどころか、ちょっと大げさかもしれないけれど、私の一挙手一投足が、ブッカーズ・ブランド全体へのお客様の信頼を、一気に崩壊させないとも限らないのだ。どうしよう、どうしよう……。
その時だ。薄紫色の大きなリュックが、私の鼻先をゆっくりとかすめていく。 (続く)
書棚の前で私がやっとこさ本の補充作業をしていると、先ほどから、小さな男の子が、せわしなく行ったり来たりしている。小学二、三年生というところだろうか。ちょっと離れたところから、グレイヘアの優しげな女性が、心配そうに見守っていた。
少年の歩幅はだんだん小さくなっていき、やがて、問題の、歴史・社会コーナーのあたりに照準は定められたらしい。
——まさか、まさか。君、天下分け目の大戦とか、幕末の偉人伝とかについて、込み入った質問なんかしてこないよね? プロフェッショナルにはあるまじき不謹慎な思いでチラチラと盗み見ている私のところへ、彼はつかつかとやって来て、
「すいません! アイスマンの本はどこにありますか?」
ああ、これは、幸運にも歴史書ではなさそうだけれど、やっぱり私のあまり得意ではない、オンライン・ゲームの類か何かだろう。少年は、真剣な眼差しでこちらを見ている。
「ア、アイスマンですね? ちょっとお待ちくださいね」
膨大な古書の海を行く潜水艦の潜望鏡のように、キョロキョロと首を振って売り場中を見渡すと——良かった! 一番奥の壁際のあたりで、ゲーム好きの岡本君が加工作業をしているところだった。加工とは、お客様から買い取った品物に値段を付けたり、買い取りの日付を入れる仕事だ。ある程度の期間が過ぎても売れなければ、値札を付け替えることもある。とにかく、ここはもう、彼の手腕に期待するしかない。
岡本君を無理やり引っ張って来た私は、
「こちらのお客様が、アイスマンの本を探していらっしゃって……」
すがるように見つめる私の気持ちを、察してくれたものだかどうか、
「……ああ、アイスマンね。『ロックマン』に出てくるキャラでしょう? 口からマイナス二百度のアイス・スラッシャーをじゃんじゃん吐いて、何でも凍らせちゃうという」
小さなお客様は、微動だにしない。
「あっ、でも、アイスマン単体の攻略本なんてあったかな?」
——頼みの綱の岡本君が、そんな弱気じゃ困るんですけど。
自分の立場もころっと忘れて、ついつい厳しい表情になってしまう。
「あのー、『ロックマン』のアイスマンじゃないんですけど」
少年のあくまでも冷ややかな視線と、うろたえる私たちのそれとが空中でせめぎ合う。
「アルプスの氷河の中からよみがえった、五千年前の男だよ! 本屋さんなのに、知らないの?」
「えっ、スゲェーーー! そんなゲームあったっけ?」
「だからもう、違うんだってばーーー!」
男の子は、とうとうしびれをを切らしてしまったようだ。
「ゲームの本じゃないんだよ!」
「うーーーん」と、岡本くんは、思案中のコモドドラゴンのような低い唸り声を出した。
「……分かった! 確か『X-MEN』のオリジナル・メンバーの一人だよね? 体を氷に変えることができるっていうミュータント能力者だ!」
「違うよ! ミュータントなんかじゃない、アイスマンだ!」
地団駄を踏んで悔しがる様子に、売り場の雰囲気が少しずつ険しくなってきた。思い思いに本を選んでいた他のお客様達も、怪訝そうな顔つきでこちらをうかがっている。
岡本君はと見ると、いつの間にか身を翻し、何食わぬ顔で加工作業に復帰している。私の鋭い視線を感じたのか、右手で小さく拝むような仕草をしてから、コメツキバッタのように何回も頭を振ってみせた。
「……お客様、タイトルだけでも分かりましたら……」
「そんなの、僕には分かんないよ。おねぇさんが考えてよ」
男の子は、今にも泣き出しそうだ。
「すみません、わがままばかり言って……」
先ほどの女性が、あわてて駆け寄ってきた。
——どうしよう、こんなところを店長に見つかったらやっかいだ。彼の中ではなぜだか今は爆上がり中らしい書籍売り場への評価だって、急降下することは間違いない。それどころか、ちょっと大げさかもしれないけれど、私の一挙手一投足が、ブッカーズ・ブランド全体へのお客様の信頼を、一気に崩壊させないとも限らないのだ。どうしよう、どうしよう……。
その時だ。薄紫色の大きなリュックが、私の鼻先をゆっくりとかすめていく。 (続く)
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