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第八章
48.見逃していたエスマーク
しおりを挟むーー午後18時35分。
場所は紗南の部屋で、一橋から英語を教わっている最中。
英文をノートに書き綴る紗南だが、今日はペンの進みが悪くて時たま深いため息を漏らしている。
「少し疲れてるように見えるけど平気?」
「あ、はい。平気です」
紗南はセイが夜便で出国するのがわかっている分、気が気ではいられない。
最低でも2年間顔は見れない。
関係を断ってしまったけど、想う気持ちは平行線だ。
こんなに悩むなら、遠目からでもいいから空港に見送りに行けばよかった。
でも、冴木さんに遭遇してしまったらと思うと……。
紗南は傷心するあまりセイへの諦めがつかない。
「そう言えば、KGKって今日留学するんだよね」
一橋はそう言うと椅子の背中に深くもたれかかった。
紗南への心配は、収まり始めた気持ちに波風を立てていく。
「もしかして元気がないのはそれが原因? 今後はテレビで観れなくなっちゃうからね」
ーーそう。
学校で会えなくても、テレビでは毎日会えていた。
CM、音楽番組、芸能ニュース、バラエティ番組。
テレビで彼を見ない日はないくらいに。
「KGKが留学している間、他の歌手はチャンスを狙って足を引っ張り合うだろうね。これを機に音楽業界は衣替えをしてしまうかもしれない」
「それって、どーゆー意味ですか?」
「新しい時代が生まれると共に新しい音楽が次々と生み出されていく。だから、トップが不在の間に空席争いが始まるんじゃないかな」
「じゃあ、KGKが日本に戻ってきた時は、もう別の時代が待ってるという可能性があるって事ですよね」
歌には時代に沿った流行りがある。
それを生み出していくのは、次世代を担う者。
KGKも同じように、次世代の先駆者として圧倒的なスピード感でトップまで上り詰めてきた。
「人様々な考え方があるかもしれないけど、KGKはそれを見越してたんじゃないかな」
「えっ……」
「人よりも1歩先を進み、1つでも多くの力を蓄えてプラス面を吸収して、過去の経験を踏み台にする。時代に飲み込まれない考えを持っているのかもしれない。だとしたら、予想以上に息の長い歌手になるだろうね」
彼の言葉は、まるでセイくんの気持ちの代弁しているかのよう。
「凄いな。私もKGKに負けないくらい勉強を頑張らないと」
「紗南ちゃんは医学部に進学して父親の病院を継ぐんだよね」
「はい。……でも、本当の夢は歌手でした。そこまで歌が上手くないから諦めたんですけど」
「そう? 紗南ちゃんは天使のような可愛い声の持ち主だからいい歌手になれると思うけど?」
一橋は歌手の夢に名残惜しさを見せる紗南に期待を持たせる。
以前、セイくんは私の歌声が好きだと言ってくれた。
天使が子守唄を歌うように心地がいいと。
それを聞いた頃はまだ幼かったから、彼の言葉を鵜呑みにしてがむしゃらに頑張っていたけど、よくよく考えてみればあの頃も今も私の気持ちは彼中心に回っている。
「お世辞なんて辞めてくださいよ~」
「いや、冗談じゃなくて。今の時代は二足の草鞋という手段もあるんだよ」
「歌手と医師ですか? 極端ですね」
「夢はいくつあったっていい。1つしか叶えちゃいけないルールなんてないんだよ」
「そうですけど……」
「勉強と歌。紗南ちゃんは二方向で成功するんだ。それで、テレビ出演するようになったら、モニターの向こうから指でエスマークを象って『紗南です』なんて、誰かさんの真似なんかして」
一橋は紗南の笑顔を作り出す為に指先でエスマークを象った。
それがまさか、紗南の気持ちにビッグウェーブをもたらしているという事も知らぬままに。
指先で象られたエスマークが紗南の瞳に映し出された瞬間。
ドクン……
心臓が低い音を立てた。
それは、まるで一刻でも早く目を覚ませと言わんばかりに。
「そのマーク……」
「これって、ローマ字表記の“SEI”の頭文字のエスだよね。ファンでもない僕でもこのエスマークは印象に残ったよ。視聴者に自分の記憶を植え付けるとは流石だね」
違う。
エスマークは視聴者に自分の記憶を植え付ける為じゃない。
私達2人だけの秘密だった。
『どんな時でも紗南の事を考えている』という、私1人に宛てられた特別なメッセージ。
「これをテレビで見れなくなっちゃうのは寂しいね。歌は音楽配信やCDで聴く事は出来ても、エスマークは映像でしか見る事が出来ないから、セイのファンは今回の記者会見でエスマークが見納めになってしまったね」
「えっ、今回の記者会見でエスマークが見納めってどういう事ですか?」
「記者会見を最後まで観てなかったの?」
「ちゃんと最後まで観てたつもりだけど……」
「じゃあ、記者会見終了後にセイが視聴者にエスマーク向けてから去って行く姿だけを観なかったって事? ホントに一瞬だったから見逃しちゃったのかな」
ううん、確かに記者会見の映像は最後まで見てた。
ちゃんと見ていたんだけど、今ふと思い返してみたら一瞬だけテレビから目を離した隙があった。
それは、母親に涙を指摘されて拭ってた時。
ほんの僅かな瞬間テレビから目を離した隙に、彼からの最後のメッセージを見逃してしまっていた。
ーーそう、私達は最後の瞬間ですらすれ違っていた。
留学が差し迫って厳しい現実に直面した私が、ギリギリの気持ちで『別れよっか』と伝えたら、彼から『好きだ』と言われた。
それでも彼の力にはなれないから、小指同士で繋がっている赤い糸をだけを信じて、日本で大人しく待とうと思っていたら……。
彼は見てるか見ていないかわからないモニター越しに、私に最後のメッセージを送っていた。
どうしよう⋯⋯。
私、まだセイくんに本心を伝えてない。
それどころか、偽物の気持ちを受け取ったままアメリカに出発してしまう。
本当にこれでいい?
本当に後悔しない?
本当にサヨナラ出来るの?
一橋は紗南を元気付けようとしてKGKの話題に触れていたが、紗南はセイが日本に戻ってくるまで封印しようと思っていた気持ちが再び呼び覚まされてしまう。
ガタッ……
「私……、行かなきゃ」
紗南は椅子から立ち上がって机に置いてあるスマホを鷲掴みにして身支度に取り掛かかった。
一橋は、だるま落としの積み木が木槌でスコンと叩き抜かれてしまったかのように拍子抜けする。
「え……、行くって何処に?」
セイの事で頭がいっぱいな紗南には一橋の声が届いていない。
クローゼットからバッグとコートを取り出して7秒程度で支度を終えると、部屋を出る間際にひと言告げた。
「以前KGKの歌が好きだと言いましたが、本当はセイくんが好きなんです。だから、今すぐに空港に行かなきゃ。授業中なのに投げ出してごめんなさい……」
紗南は深々と頭を下げると血相を変えて部屋から出て行った。
一橋は現況が飲み込めぬまま1人部屋に置き去りに。
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