上 下
8 / 101
第二章 | 江戸のストーカー、麦をくれる

江戸のストーカー、麦をくれる 其ノ弐

しおりを挟む
下の町の朝市といえば、近隣の商人たちもこぞって足を運ぶほどの活気溢れる市。

とれたての野菜や魚、日用品、そして仕事にでるものたちの腹を満たす屋台がずらりと並ぶ。

「まるで祭りみたいだな!」

なおは興奮した面持ちで、あちらこちらの軒先に顔を突っ込んでいた。

「なあ喜兵寿、これはなんだ?」「お、なんだこれ?ちょっと喜兵寿見てみろよ」

そんな風にして立ち止まるので、遅々として進まない。

それも「なんだ?!」とキラキラ顔を輝かせて指さすものが、ただの人参だったり、大根を干したものだったり、煮つけた豆だったりするので、喜兵寿はいい加減うんざりしていた。

「お前の国ではいったい何を食べているんだ?」

「なにって、大体ここと同じもんだよ。ちょっと料理法は変わったりしてるだろうけどさ」

そう答えたなおは、今度は甘酒の行商人の前で立ち止まり、物珍しそうに甘酒が入った樽を覗き込んでいる。

「喜兵寿、これは?」

「……なにって、甘酒だろ」

「甘酒を樽で持ち運んで売ってんのか!」

甘酒の行商人がよっぽど珍しいのか、なおは興味深げにお客とのやりとりを見ていた。

甘酒の樽には冷めないように大きな蓋がしてあり、その上には器が入った箱が乗っている。
行商人はその箱を肩に担いだまま甘酒を器に注ぐのだが、なおはその様子を食い入るように見つめていた。

「器用だな。でも甘酒って冬の飲み物だろ。こんな暑い時期に売れるのか?」

なおの言葉に喜兵寿は目を丸くした。

「いやいや、甘酒は夏の飲み物だろ。1日1杯飲めば医者いらずだ」

「あーなるほどな、夏場の栄養補給か……なるほどなあ!」

ふむふむと頷きながら歩きだしたなおに、喜兵寿は話しかけた。

「なあ、なお。お前の国の文化はずいぶんここと異なるようだが、一体どこから来たんだ?」

「確証はないんだけど……たぶん未来から来たんだと思うよ」

なおはぐうっと伸びをしながら答える。

「『未来』から来たということは、昨晩酔っぱらったお前から聞いている。だからその『未来』とはどこの国だと聞いておるのだ」

それに対し、なおは「うーん」と考え込んだ。

「どこって言われてもなあ……。未来は未来なんだよなあ。この時代のもっと先のさ、例えば喜兵寿が子を産んで、その子がまた子を産んで、そこ子がまた子を産んで、その子が生きてる時代から来ました、的な感じ?」

ちっとも理解できないなおの言葉に、喜兵寿は眉間の間を指で押さえた。

「ちょっと待て。それはつまりどういうことだ?」

「うーん……場所はここなんだけど、時代はここではなくて……。つまりどういうことなんだろうな?俺もよくわからないんだけど、とにかく未来からきたんだよ」

「だからその未来とは……」

会話を続けようとする喜兵寿の言葉を切り、なおは
「まあ細かいことは良しとしようぜ。どこから来たかは置いといて、まずは腹ごしらえだろ。喜兵寿が蕎麦って言ったから、蕎麦食いたくなっちまってさ~」
と腹を抑え、小走りに駆け出した。

どうにもこうにもあっけらかんとした、おかしな男だ。

どこの国から来たのかいまだ要領を得ないが、話を聞く限り自身の意思でここに来たわけではないのであろう。

にも関わらずそんなことはどうでもいい、と言わんばかりにこの状況を楽しんでいる。

大酒飲んで、騒いで、また飲んで。
散々、傾奇者を見てきたと思ってきたが、こんな男ははじめてだった。

「まったく……期日までに「びいる」を造らなければ、どのような目にあうかわからないというのに」

喜兵寿は口に出した自分の言葉に、ぶるりと身を震わせた。

小伝馬町の牢屋敷に入れられ、無事出てきたという話はいまだ聞いたことがない。

命あって出てこれたとしても両腕を失っていたり、声を失っていたり。心神喪失した状態から戻らず、そのまま社会に復帰できないものが多いと聞く。

それでも。

喜兵寿は自分が薄く笑っているのに気づき、きゅっと下唇を噛んだ。

それでも「びいる」を造ることができるかもしれない、という胸の高鳴りを抑えることができなかった。

いままで嗅いだことのないような香りに、口にいれた瞬間の跳ね回る感覚。

あの酒をどのように生み出すのかをこの男は知っていて、それをいまからこの目で見ることができるかもしれない。

その事実は喜兵寿をたまらなく興奮させていた。
死が身近に迫ってくるかもしれないというのに、それすらもびいる造りのいいきっかけと思ってしまうとは。

「あやつもおかしな奴だが、俺も俺だな」

喜兵寿はふふっと笑うと、「おい!蕎麦はこっちだぞ」となおを大きな声で呼んだ。
しおりを挟む

処理中です...