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第二章 | 江戸のストーカー、麦をくれる

江戸のストーカー、麦をくれる 其ノ壱

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下の町の朝は早く、日の出と共に人々は動き始める。

朝の澄んだ空気の中に上る、飯炊きの煙。
そして響きわたる豆腐売りや納豆売りなどといった物売りの声。

人々の活気は壁を抜けて伝わってくるようだったが、なおはいかんせん朝に弱かった。

ごそごそと布団を頭まで引き上げると、二度寝の体制に入る。

昨夜は結局遅くまで喜兵寿と飲み明かしてしまった。
というかお互いに飲まずにはいられなかった。

一体どれだけ飲んだのかは覚えていないが、酒は身体にたっぷりと染み込んでいて、脳みそはゆらゆらと重たい。

なおは水を飲みたい欲求と戦いながら、ゆっくりと眠りの中に沈み込んでいった。
しかしそんなまどろみをドシドシという大きな足音が破る。

「おい、なお!起きろ!朝市に行くんだろう?」

ガバっと掛け布団を剥がされる。

「ちょ……やめろよ」

光に目をしばたたかせながら見上げると、煙管を口にくわえたまま、ジトっとこちらを見下ろす喜兵寿がいた。

この男、身長がでかいだけではなく、力も強いらしい。

どうにか掛け布団を取り返そうと抵抗するも、あっけなく回収されてしまった。

「さっさと顔を洗ってこい。朝飯ついでに市を見に行くぞ」

「俺まだ酒残ってんだけど……」

「そんなもん蕎麦でも食えば治るだろ」

喜兵寿は呆れたような目でなおを睨むと、着物を放ってよこした。

「そのまま出かけたんじゃあ、目立ちすぎる。俺の着物を貸してやるから着替えな」

「お。わりいな。」

「じゃあ向こうで待ってるからな。早くしろよ」

喜兵寿が部屋を出ていくと、なおは大きくあくびをした。

そういえば昨日、朝市を見に行く約束をしたような気がしないでもない。

それにしても時間が早すぎないか?
時計がないからわからないが、絶対にこの眠さは早い時間だ。

絶対6時前に違いない。
6時前はまだ夜だろ……

なおは再びあくびをすると、ごろんと布団の上に横になった。

「いまさら行かないっていっても許してくれないだろうなあ」

動かなければと思いつつも、横になったことで身体が下に沈み込んでいくような気がする。

眠気がどんどん強くなる中で、なおはとりあえず身支度のことを考えてみた。

水場はたしか外にあったはずだ。

共用水場だと言っていたので、この様子だともう既にたくさんの人たちがいるに違いない。

だとしたら着物に着替えるのが先か。
って、待てよ?俺、着物着たことなくないか?

そうだ、夏祭りもスウェットかジャージだった。
昔の彼女に「浴衣デートね」っていわれて、断ったらフラれたことあったっけなあ。

なおはゆっくりと目をつぶると、手に持っていた着物を顔にかけた。

無理なもんはしょうがない。

とりあえずこの布は着れないけれど、顔にかけるにはちょうどいいな。

もうちょっとだけ、もうちょっとだけ眠れば……すっきりするはz……

「おい、だから起きろっていってるだろ!」

ごうごうと響くなおのいびきを聞きつけ、喜兵寿が再び部屋に駆け込んできた。

「お前は本当に寝てるか、酒飲んでるかだな」

そういってなおの首根っこを掴む。

「びいるの材料になりそうなものがあるか、市を見に行くのだろう?」

「ちょ、やめろよ!わかってるよ、わかってるんだけどよ。着物の着方がわかんないんだから仕方ないだろ!」

隙あらば布団の中に潜っていこうとするなおを、喜兵寿は驚いた目で見た。

「お前着物が着れないのか」

「今日着物の着方を練習するからさ、朝市は明日にしようぜ」

「ならば仕方ないな」

「そうそう、仕方ない……」

喜兵寿はなおの両脇に手を入れ立たせると、ぐいっと服に手をかけた。

「ちょ、なにすんだよ!」

「仕方ない、俺が着物の着方を教えてやる」

「いやいいって!そういうのいいから!」

「いいから黙って見ていろ」

小柄ななおが抵抗するもむなしく、喜兵寿はするすると服を脱がし、着物を着つけていった。

「その髪も結った方がいいな。長すぎる」

そういって今度はなおの髪を束ねていく。
喜兵寿の手のひらはゴツゴツと大きいにも関わらず、器用さがにじみ出ているような、長くて細い指だった。

「これでよし。さ、水場で顔を洗ってこい。さっさと出発するぞ」

帯を締め、髪を結ったからだろうか。
眠気はびっくりするほどきれいに消え去り、身体の中にしゃんと芯が通ったようだった。

「おう、なんだか急に腹が減ってきた気がする。朝飯食いにいこうぜ!」

なおは喜兵寿に大きく笑いかけた。
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