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1日目
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一日目(木曜日)
『おはようございます!』
カーテンの隙間から差し込む陽光が眩しくて目を覚ました……かった。残念ながら僕を夢の世界から現実に引き戻したのはニュースキャスターの快活な朝の挨拶だった。
部屋のテレビは、本来の用途の他に八時になると自動で点くようにタイマーを設定して目覚まし代わりとして使用している。今までは携帯電話のアラーム機能を利用していたが、無意識のうちに自分で消しているらしく、全く役に立たなかった。その点、テレビはなぜか目が覚める。やっぱり人の声を求めているのだろうか――一人暮らしだし。寂しいし。
大きく伸びをすることにより自分の空っぽな頭のスイッチをオンにして、ベッドから降りる。洗面台に向かい、歯ブラシの隣に置いてある目薬を手に取る。コンタクトレンズを装着しているわけではないのだが、目の渇きを潤すために、いつだったからか朝起きると、目薬を差すようにしている。
居間に戻ると、木製の円卓に置いてある携帯電話を取り、あいつに電話を掛ける。
まぁ、僕の数少ない日課ってやつなのだが。
プルルルル……プルルルル……プルルルル……プルルルル……プルルルル……。
『ただいま電話に出ることができません』
……あやうく地面に携帯電話を叩きつけそうになった。落ち着け、僕。こんなのはいつものことだろ。怒ったら負けだ。
というわけで、リダイヤル。
プルルルル……プルルルル…ガチャ。
『……ん』
「おい、朝だぞー」
『………』
「おーい」
寝てしまったのだろうか。
『……あなた……だれ?』
衝撃の展開! になるわけもなく、
「お前、そのネタ二週間前に使ったばっかだぞ?」
『ネタ? 何のこと?』
まだ粘るか。
『あなた……名前は?』
「名前? 見境航(みさかい わたる)だ。忘れたのかよ」
『……ごめんなさい。えっと、私の名前は……あれ?』
「おいおい、記憶喪失さんよぉ、自分の名前も忘れちまったのかよ。五十嵐怜(いがらし れい)だろ。苗字がゴテゴテしていて嫌いってよく嘆いてるじゃねえか。そんなテンプレ展開はご勘弁願いたいね」
『それくらい知ってるよ。人を馬鹿にするのもいい加減にしてよね』
「ちょ……お前!」
せっかく人がくだらんネタに付き合ってやったっていうのに。
『ふふっ、メンゴメンゴ! 毎日ありがとう、起こしてくれて。おかげでもうバッチリ、お目々パッチリだよ』
なにがバッチリでパッチリなんだか。
『じゃ、おやすみー』
「おい!」
――以上が平日の朝、僕に課された使命である。怜の両親は共働きで、いつもあいつが起きる前に家を出てしまっているらしい。おまけに朝が弱く、それを見かねた母親が学校でそれなりの仲の僕に助けを求めてきたってわけだ。まったく、なんで引き受けてしまったのか。あの時の僕はどうかしていたのかもしれないな。
こんな経緯があって、先ほどのようなやりとりを五日連続で交わしている。ポジションがまったく違うゴールキーパーとフォワードの能力を比べるくらい意味のないことをやっているという自覚はあるんだけど。
自覚があるならやめろって?
それくらいすぐに僕だって思いついたさ。だから、一度モーニングコールをしなかった日があったんだ。そしたら、もう………凄かった。あいつのあんな顔を見たのは初めてだったね。鬼の形相どころじゃなかった。その顔で僕に迫って――これ以上は言いたくない。
そんな怖い顔を持つ怜に「じゃ、学校で」と言い、電話を切った。
さて、僕も学校へ行く準備を始めるとするか。
「はあっ…はあっ…はあっ…はあっ…はあっ…」
少し時間に余裕があるからといって制服姿でのんびりコーヒーなぞ飲んでいたのが間違いだった。朝のひと時を優雅に過ごしている自分に酔っていたせいで時計を見ることすら忘れていた。気づいたときには遅刻ぎりぎりの時間で、慌てて鞄に教科書を詰めて家を飛び出し、ただいま絶賛登校中である。
桜もとっくに散りきってしまい、ぽかぽか陽気で春本番! のピークも少し過ぎてしまった今日この頃であるが、周囲の状況を感じとる余裕もないほど、ただ走っていた。
まあ、いつも通っている道なので大した感慨もないが。
全力疾走したおかげで何とか間に合いそうだ。すっかり散ってしまった桜の樹を両脇に携えている正門を通過して、グラウンドを横断し、昇降口に突入する。進級して1ヶ月も経っていないので自分の下駄箱を見つけるのに多少の苦労。急いで上履きに履き替え、愛用のスニーカーを下駄箱にイン。そしてまたダッシュ。下駄箱を右に出て廊下を突き進む。
突き当たりを左に曲がったところが僕の、いや、僕たちの教室、二年八組だ。
よかった間に合う、と内心ほっとしながら角を左折した瞬間、女の子が教室のドアから出てきた。
だが、いまさら気付いたところでもう遅い。彼女がちょうど廊下に出たところで勢いよくぶつかった。僕とその女の子は廊下で盛大に尻餅をつく。
「いててて…ごめん! 大丈夫?」
立ち上がり、謝罪と心配の言葉を口にすると、彼女は僕の顔を見上げて一瞬ひどく驚いた顔をした――ような気がしたが、すぐに俯いてしまった。
僕がさらに謝罪の言葉を紡ごうとしたとき、
「おーい、航。なにそんなとこで座ってんだよ。お前、そんなに床が好きならリノリウムと結婚でもしろよ。その時は俺が神父さんやってやるからさ」
教室の中からやかましい声が聞こえる。おそらくもなにもこんな風に俺を茶化してくる奴はあいつしかいない。
波流春人(はる はると)。
容姿普通、成績普通、身体能力普通。
非の打ち所が、ある意味ない。変わっているのは姓名くらいか。
どうやら春人からは僕しか見えていないらしく、僕が女の子とぶつかったことに気づいていないらしい。これは一安心。女の子と激突したことを知ったら、さらに色々言ってくるからな。
そんなことより――だ。
ちゃんと謝らないと。前方不注意の僕が悪いんだから。
彼女のほうに向き直ると、彼女はプリーツスカートの裾を直しながら立ち上がり、
「……ごめん…なさい」
とだけ言ってトイレの方向に小走りで行ってしまった。
ちょっと、と彼女を呼び止めようとしたものの、その声は無機質なチャイムの音に掻き消されてしまう。
ああ、行ってしまった。こういうのは後になればなるほど謝りにくくなるんだよな。どこのクラスの子かも分からないし。というか、まず同じ学年なのか? 先輩には見えなかったから後輩だろうか。さすがにうちの学校の制服を着ていたからこの学校に在籍している生徒だとは思うけれど。
それにしても、あまりよくは見えなかったが、なかなかきれいな顔立ちをしていた。
なかなか、だ。
特に際立った魅力があるわけではなかったけれど、僕には彼女が美しく見えた。
一目惚れ――とも違う。何だろう、この感覚。今まで数多くの異性を見てきて(こういう言い方をするとさぞ女好きみたいに捉えてしまう人もいるかもしれないが、断じて違う)、可愛らしい、きれいだ、などと思うことはもちろんあったが、そういう感覚ともまた違う。
うーむ、この気持ちをなんと表現すればいいのだろうか。
自分の語彙の貧困さに辟易とする。しかしながら、たとえ僕が生き字引並のボキャブラリーを有していたとしても彼女の魅力を言葉で表すことはできないだろう。
それほどに彼女の登場は僕にとって衝撃――いや、そこまでじゃないな――小撃だった。
出欠の確認しか行わなかった朝のホームルームが終わり、授業が始まるまでの休み時間。
特にすることがなかったので、一時間目の数学の教科書を机の上に出し、ぼーっと窓外の景色を眺めていると、突然、後頭部に鈍い痛みが走った。
「痛っ!?」
振り返ると、丸めた国語便覧を手に怜が仁王立ちしている。なんだかお怒りのようだ。
「なにすんだ! 死んだらどうすんだよ!」
抗議の声をあげると、怜はふん、と鼻を鳴らした。
「こんな打撃じゃ蚊一匹も死なないわよ! 頭蓋骨の強度を見くびらないでよね!」
「たぶん、いや絶対に、蚊を退治するくらいの威力はあったぞ……」
「ごちゃごちゃうるさいわねえ。丸めた教科書でフルスイングしたくらいで頭蓋骨が陥没するわけないでしょ。そもそも、こんな些細なことで怒るなんてどんだけ器量の小さい男なわけ?」
「まあ、確かにそうだけど……」
むう、正論っぽいことを言っているからむやみに反論できない。まさか、殴ってきた奴に説教されるとは。僕は何も悪いことしていないのに。
「そんなことより、さ」
国語便覧を机の上に置くと、怜は溜め息交じりにそう言った。なんだなんだ? もうこれ以上男としてのプライドを傷つけないでくれよ。
「あんた、伊吹ちゃんとぶつかったんでしょ?」
「? ……ああ、あの子の名前、伊吹っていうのか」
「そうよ。渡瀬伊吹。知ってるでしょ?」
僕はかぶりを振った。
「いや、初耳だな。てかお前、あの子と知り合いなんだな。それなら、ちょうどよかった。彼女にちゃんと謝りたいから、何組の子か教えてくれるか?」
「え、何言ってるの?」
きょとんとしている怜。僕、何か変なこと言ったか?
すると、怜は呆れたように人差し指を廊下側に向けた。
何やってんだ、と思いつつ、その指の先を目で追うと――そこには廊下でぶつかった女の子がいた。
一番廊下側の後ろから二番目の席――教室を縦折りしたらちょうど僕の席とくっつく位置―に座っている。
「同じクラスでしょ。あんた気づいていなかったの? まあ、伊吹は物静かだから気づかないのも無理ないか」
うんうん、と怜は得心がいったのか、ご自慢のポニーテイルを揺らしながら頷いている。
物静かだから気づかなかった?
そんなわけがない。もうクラス替えをして一ヵ月近くが経とうとしているのに、名前はおろか同じクラスの生徒の顔も覚えていないなんてあり得ない。
どうした僕の海馬? ちゃんと働け。
まあ、よく考えてみれば、チャイムが鳴るギリギリで教室を飛び出してトイレの方向に駆けていったのだから、お花を摘みに行ったと考えるのが妥当か。まったく、同じ教室で過ごすクラスメイトの顔も分からないとは。
でも、三十日近くも同じクラスで過ごしていれば、さっきぶつかった時に少しでも何かが過ぎる気がするんだけどなあ。
と、僕が脳内議論に夢中になっているところに怜が割り込んできた。
「ねえ、航」
「なんだよ。今、僕は脳内で高尚な議論を交わしているところなんだ。邪魔しないでくれるかな」
「………」
「……すいません。何でしょうか?」
ボケを無視されることほど辛いものはない。
「ちゃんと伊吹に謝りなさい」
なんでお前に指図されなきゃいけないんだよ。さっき、ぶつかった時に謝ったんだからもう――
「はい」
席を立ち、被害者(渡瀬伊吹)の席へ向かう加害者(見境航)。
べつに怜の目が怖かったから従ったわけじゃないからな。
渡瀬は熱心に教科書を見ているので、僕が接近していることに気づいていない。やっぱり物静かな人は真面目であると相場が決まっているのだろうか。
……うーん、なんか話しかけづらいな。
もう一時間目が始まっちゃうし、昼休みにでも改めて。
……うわ、怜がめっさこっち睨んでる……。しょうがない、覚悟を決めるか。
「あの、渡瀬さん」
「……えっ!?」
ビクッとする渡瀬。いやいや、驚き過ぎでしょ。
「そんなに驚かれると、さすがにちょっと傷つくんだけど」
「あ、ごめんなさい……」
と言って、スーハーと深呼吸をする渡瀬。
「落ち着いた?」
「うん……それで、私に何か用ですか?」
さっきとは打って変わって真面目な顔つきになる。
「いや、ほら、さっきのこと……」
「あれは前を見てなかった私が悪いんです。すいませんでした」
僕の方を向いて頭を下げてくる。謝るはずが謝られてしまった。
「そ、そんなことないよ! 廊下を走ってた僕が悪いんだから。渡瀬は何も悪くないよ」
僕が慌てて言葉を紡ぐと、渡瀬は一つ頷いてこう言った。
「分かりました。それなら、お互いに不注意だったってことにしましょう」
「……そうだね」
なんだか謝ったのかよく分かんないや。
「もう授業が始まりますよ」
渡瀬が黒板の上の壁掛け時計を指差す。
「ああ、そうだな。それじゃ」
「はい」
と、渡瀬はまた教科書を読み始める。もう話は済んだと言わんばかりだ。
勉強の邪魔をしては悪いと思いつつ、どうしても一つだけ彼女に言いたいことがあった。
「なあ、渡瀬」
「何ですか?」
「お前、敬語はやめろよ。同級生なんだからさ、もっとフレンドリーにいこう」
「分かりました」
「だからそれがもう敬語だろ」
「……わか……った」
恥ずかしいのか、目を伏せがちにぽつりと呟く。
「おう。そんじゃ、これからよろしくな!」
言いつつ、僕は右手を差し出す。
「よろ……しく」と言いながら、彼女がぎこちなく僕の手を握り返してきたところで教室にチャイムが鳴り響いた。
じゃ、と言って僕は自分の席に戻る。
握手を交わした瞬間、彼女の表情が少し緩んだ気がした。
「えー、このように左辺の数を右辺に移項することによって計算を楽に行うことができる。さらに……」
年老いた数学教師のしわがれ声が静かな教室に響き渡るなか、僕は文字式で埋め尽くされた黒板ではなく、渡瀬伊吹の横顔を眺めていた。彼女の視線は黒板、ノート、教科書の順にまるで三角食べをするように一定のリズムで順序良く注がれている。
いくらなんでも真面目が過ぎる。こんな爺さんの退屈な授業を真剣に聞いているのは彼女を含め数人だろう。なんたってクラスの半分は机に突っ伏しているし、残りの半分にしたって携帯をいじっていたり、文庫本を読んでいたり、クラスメイトの横面を凝視していたり、とまるで授業を聞いていない。一時間目ということを考慮してもこの状況はあまりにもひどい。
このような惨状を目の当たりにしても一切注意をせず淡々と授業を進めるこの老いぼれ教師の心境はどのようなものなのだろうか?
おそらく呆れているのだろう。本当なら授業を投げ出したいのかもしれない。しかし、全員が全員授業を聞いていないわけではない。僅かながらいるのだ――渡瀬伊吹のような生徒が。
渡瀬を見つめながらそんなことを考えていると、後ろの席の怜が背中を小突いてきた。
「なんだよ」
振り返りつつ、そう訊ねると、怜は唇を尖らせた。
「なんだよ、じゃないわよ。あんたさっきから伊吹のことじろじろ見てるでしょ。授業中なんだから前向きなさいよ」
「べ、べつにジロジロは……チラチラ見てただけ…だよ」
「変態、痴漢」
「痴漢は関係ないだろっ!」
「視姦」
「う……」
間違っちゃいないな……。
「ちょ、ちょっと……航」
突然、怜が慌てたような声を出した。
「うん、どうしたんだ? ……あ」
どうやら僕は興奮して思わず立ち上がってしまっていたらしく、クラス中の視線を浴びていた。寝ていた奴らまで起きてニヤニヤしながらこちらを見てくる。大人しく寝とけよ。
「すいません……」どすっと椅子に落ちる僕。
後ろから怜のクスクスという笑い声が聞こえてくる。この野郎、覚えていろ。
と、僕のおかげ(?)でクラスの空気が多少緩んだところを好機と思ったのか、先生が、
「じゃあ練習問題でもやろうか。何人か当てるから前に出て問題を解いて」
なんて言い出して、黒板に問題を書き始めた。途端にクラスの雰囲気がまた沈んでしまう。 おそらくほとんどの奴らは自分に当てないでくれと願っているだろう。まあ基本問題だと思うからそこまで構える必要はないと思うけど。
すると、また怜が肩を叩いてきた。
「今度はなんだよ」
「ねえ、いつものアレやらない?」
「別にいいけど、いいのか? また負けるぞ?」
「ううん、大丈夫。今日はなんか勝てる気がするの」
親指を立てそう主張する怜。この前も同じこと言ってたぞ。
「じゃあ何賭ける?」
「購買のメロンパン二個!」
「了解」
「よーし、今日こそ勝ってやる!」
やる気満々なのは構わないのだが、怜のやることは何もない。
いつものアレというのは、先生が誰に問題を当てるのかを『僕が当てる』というものだ。
黒板を見るとちょうど先生が問題を書き終えたところだった。今回は全五問。つまり五人全てを言い当てることができたら僕の勝ち、一人でも間違えてしまったら怜の勝ち。
「でも、あんた今回はかなり分が悪いわよ? いつもは二、三問だからたまたま当てられたかもしれないけど、今回は五問よ? いくらなんでも……」
申し訳なさそうな様子の怜。僕は怜の心配を鼻で笑う。
「そんなのやってみなきゃ分からないだろ。第一、これから戦う相手のことを心配するやつがどこにいるんだよ。あ、お前まさか、情けは人の為ならずを狙っているのか? メロンパンはやらないからな! 二個とも僕が食べちゃうからな!」
ふう、危うく怜の策略に嵌ってしまうところだった。
別に戦うわけじゃないでしょ、とかなんとか怜が呟いているような気がするが聞こえない、聞こえない。
そして先生が生徒を指名し始める。
「じゃあ問一を」
――川本。
「川本。問二を」
――長谷川。
「じゃあ長谷川。問三を」
――柴田。
「柴田。問四を」
――波流。
「波流」
「えー、勘弁してくださいよー。分かりません」
春人が文句を垂れている。
「ぐだぐだ言ってないで早く前に出て」
「はーい」
しぶしぶ腰を上げ黒板に向かう春人。よし次を当てられれば僕の勝ちだ。メロンパンはもらったぜ!
「じゃあ最後の問五を」
――……ん? 誰だ? チ・カン?
「痴漢君。君がやりたまえ」
そう言って嘲笑いながら、数学教師は僕を指差した。クラス中の目がまた僕へと向けられる。 そして、失笑。
「やった! 初めて勝ったあ! メロンパン、メロンパン!」
後ろで怜が立ち上がって全身で喜びを表現している。
「どうした五十嵐? そうか、お前もやりたいのか! 分かった、お前のために特別にもう一問作ってやろう。とっておきのやつをな」
先生は嬉しそうに黒板に向き直ってチョークを手にし、問題を書き始めてしまった。心なしか字が躍っているように見える。
「ちょっと待ってよー!?」
怜の叫びはぼすっと床に落ちてしまい、先生に届くことはなかった。
昼休み。僕が購買戦争の戦利品であるメロンパン二個を手に意気揚々と教室に帰還してくると、怜と春人はすでに弁当を平らげてしまっていた……僕の弁当まで。
「おい、なに勝手に僕の弁当食ってるんだよ! 自分で作るのがどれだけ重労働か知らないだろお前ら!」
「あんたの弁当を食べるなんていつものことじゃない。今さらなに怒ってるのよ」
「そうだそうだ。てか、今まで俺たちの為に弁当を作ってきてくれたんじゃなかったのか」
こいつら……。
「そんなことより。例のブツは買ってきた?」
誤解を招くような言い方をするな。ああ、なるほど。「怜」と「例」を掛けてるのか。うまくないけど。
「ほらよ」メロンパンが入った袋を怜に投げる。
「はい、確かに」
ビニル袋の中身を確認する怜。借金の取り立て屋か。
そんな僕たちのやりとりをぼーっと眺めていた春人が、怜から袋を奪い取り、中を覗き込む。
「なになに、また賭けやったのか……あれ、航負けたのかよ。こりゃ珍しい、上手の手から水が漏れることもあるんだな」
「うるさいな。あれは怜が……」
「なによ、私のせいにするわけ? 元はと言えば、あんたが伊吹をジロジロ見ていたのがいけないんじゃない」
「だからジロジロは見ていないって言ってるだろ! チラチラだよ!」
「むっつり」
「変態扱いするなよ!」
睨みあう僕と怜。
「まあまあお二人さん、痴話喧嘩はそれくらいに――」
「痴漢じゃないよ!」「痴女じゃないわよ!」
「痴しか合ってないし……意味が分からないよ……」
そう言い残すと春人はメロンパンを一つ持って教室を出て行ってしまった。
その後も僕が怜と変態議論を交わしていると、教室の前のドアが開いた。入ってきたのはうちのクラスの担任、来栖(くるす)アキ先生だ。肩まで伸びた栗色の髪に、大きな瞳。服装は、白のブラウスにロングスカートで新任の先生らしく、清潔感が溢れている。しかしながら、その童顔のせいで、高校生が無理して大人っぽい服をチョイスしているように見えてしまう。それに、とても気が弱くいつもオドオドしている。よくこんな感じで先生が務まっているな、と思っているのは僕だけではないだろう。
「あ、あの、お、お休みしているところ悪いんだけど、せ、席に着いてもらえるかな……」
顔を真っ赤にしながらひどく申し訳なさそうに言って教壇の前に立つアキ先生。
「アキちゃん、どうしたの?」
クラスのみんなが席に着いたのを見計らって、女子生徒の一人が訊ねる。
僕は年上にため口をきくのは憚られるので敬語を使うけれど、他の生徒たちが敬語を使うようなことはほとんどない。先生というより友達という感覚に近いのかもしれない。
先を生きている、とはまったく感じられない。
「え、えっと」
アキ先生はそこで一度言葉を切り、大きく深呼吸してから続ける。
「じ、実は、先日委員決めをしたと思うんですけど、まだ一つだけ決まっていない委員があって、そ、それをこの時間を使って決めたいなって……」
ああ、そういえば一昨日くらいのロングホームルームで委員決めしていたっけ。僕は寝ていたからよく知らないけれど。
「だ、だから、誰かやってくれる人はいませんかあ?」
瞳を潤ませながら訊ねてくる。かわいい(小動物的な意味で)。
「アキちゃん、どの委員が決まってないか言ってないじゃん」
さっきとは別の女子が柔らかく突っ込む。
「あ、ご、ごめんなさい! もうっ、どうしてあたしってこんなにダメなんだろう……」
そう言って自分の頭をぽかぽか殴るアキ先生。かわいい(もちろん小動物的な意味で)。
そんなアキ先生を生徒たちも温かく見守っている。これじゃどっちが先生かわかったもんじゃない。
「え、えっと、確かクラス委員だったはずです」
アキ先生は少し考えてから答えた。
「ふーん。なるほど」
さっきの女子が、その言葉にやる気無さげに返した。
「じ、じゃあ訊きます。や、やりたい人ー?」
…………。
やっぱり。クラス委員なんて、クラスをまとめなくちゃならないし、細々とした雑用もやらなければならないから、誰もやりたがらないよな。
「あ、あれ? そんなに大変じゃないですよ。なるべく、あ、あたしも手伝うから……」
……………。
「うぅ……だ、だれかぁ……お、お願いしますう……」
瞳いっぱいに涙を浮かべて嘆願してくる。
そんな彼女の姿を見ていると、クラス委員をやってもいいかなと思うのだけれど、思うのに止まって、なかなか手を挙げるところまではいかない。
どれほど長い沈黙が教室を支配していたのだろう。
突然、アキ先生が教壇をバンバン叩いた。
「もうっ! 誰もやってくれないなら、あ、あたしが勝手にき、決めちゃいますからねっ」
そう僕らに告げると教壇の中を探り、授業で余ったプリントを何枚か取り出した。次いで、取り出したプリントを細かく千切り、その小さくなった紙一枚一枚に何やら書き込んでいく。いったい何をするつもりなんだろう。
作業を終えたアキ先生は、大きく息を吸い、ほとんど叫ぶように言った。
「い、今からくじ引きをやりますっ。この紙切れの山から引いて、か、書かれている数字が出席番号の人に、や、やってもらいますっ。ち、ちなみに引くのは、あ、あたしでする!」
それ、くじ引きっていわないだろ。なんか語尾もおかしくなっているし。ま、かわいいからいいけれど。
「クラス委員は二人必要なので、二回引きますっ。で、では、まず一枚ひ、ひきます……」
アキ先生が三角に折られた紙の山から一枚引き、そこに書かれている数字を読み上げる。
――けっこう後ろの番号だな。
「ひ、一人目は、さ、三十五です。だ、だから出席番号が三十五番の人にやってもらいますっ。え、えっと三十五番の人はちょっと立ってもらえるかな……」
にわかに教室がざわつくなか、僕の視界の右端で誰かが立ち上がった。
「あ、渡瀬さん。そ、それじゃ、やってくれるかな?」
アキ先生が食べ物を乞う子犬のような目で渡瀬を見つめる。
「……はい、頑張ります」
少しの沈黙の後、渡瀬は答えた。
あれ、やるんだ。絶対断ると思ったのに。
「わ、渡瀬さんっ、ありがとう! じ、じゃあ、もう一枚引きますっ」
クラス委員を引き受けてもらったことが余程嬉しかったのか、その場で陽気なステップを踏みながら山の中に手を突っ込み、一枚引く。
「そ、それでは発表しますっ。二人目は――」
――マジかよ。
「え、えっと、二十九です。で、ではっ、出席番号二十九番の人は立ってもらえますか?」
僕はのっそりと腰を上げる。
「み、見境くんっ、やってくれるかな……」
僕は少しの逡巡の後、答えた。
「……は、はい……喜んで」
あんな愛らしい顔でお願いされてしまっては拒否できない。。
「あ、ありがとっ! それじゃみんな、渡瀬さんと見境くんに拍手ぅ!」
拍手の雨に降られながら、ちらと渡瀬に目を向けると彼女も僕のことを見ていた。
その時彼女が何か言葉を発したような気がしたが、その言葉は拍手にかき消されてしまい、僕の鼓膜を震わせることはなかった。
「じ、じゃあ、さっそくで悪いんだけど、放課後にやってもらいたいことがあるので、二人は教室に残っていてもらえるかな」
僕らはほぼ同時に頷いた。
ここで、一時間目の数学の時間に行われた賭けにおいて使用した僕の「特殊能力」について説明したいと思う。
僕の特殊能力(このように表現するのは少々大袈裟だが)は、意識を集中することで、ほんの少し先の相手の行動が「視える」というものだ(たまに、意識を集中しなくてもちらっと視えてしまうこともあるが)。端的に言うなら、予知。ただ、予知することができると言っても、その相手の十年後の未来が視えたり、一見しただけでその人の寿命が分かったりするものではない。
ほんの少し、なのだ。常人よりもワンテンポ早く視えるだけ。だから、大して役に立たない。たとえば、授業中にいつ自分が当てられるかがわかると言っても、ほとんど一秒前に分かるだけなので、「次の次の問題だな」などと予めその問題を解いておくといったような対策を練ることができない。あえて役立つ場面を挙げるとすれば、さっきのような賭けのときとジャンケンのときくらいだ。また、この力を使うときはなかなか体力を消費するので、あまり長時間使用することができない。以前、限界まで使ってみたら、十分程度経過したところで倒れてしまった。また、これも実験してみたのだが、二人までなら相手の行動を視ることができた。なかなか使い勝手が悪い力だ。
ちなみに、この能力のことはまだ誰にも教えていない。教えたところで誰も信じないのが関の山だろう。
前述の通り、一寸先の相手の行動しか視えないので、後々起こる出来事を紙に記しておくこともできない。だから、先程の賭けの際は先生が生徒を指名する直前、怜に聞こえるくらいの小声で生徒の名を伝えていたのだ。まさか僕のことを痴漢呼ばわりするとは思っていなかったけれど。
まあ正直、こんなものは能力でもなんでもなくて、たまたま第六感的なものが、たまたま少し鋭くなってしまっただけなのだろう。
「特殊能力」なんていう御大層なものではない。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室の前後のドアからクラスメイトたちが次々と吐き出されていく。彼らはこれから部活動に励んだり、友達と遊んだり、塾に行ったり、とそれぞれのアフタースクールを過ごすのだろう。
そして、それは教室に取り残された僕らも同様である。
夕暮れ。放課後の教室。女の子と二人きり。
シチュエーションだけを考えると、なにか淡い期待を抱いてしまう。
シチュエーションだけを考えると、だ。
なんたって相手は渡瀬伊吹。今日、初めてその存在を認識したクラスメイトだ。そんな彼女と楽しくお喋りできるわけがない。
会話のきっかけも掴めないまま、ただただ時間だけが流れていく。僕が机に突っ伏し、勝手にどぎまぎしているのに対して、渡瀬の目は手元の文庫本の物語を追っている。
「なにを読んでいるの?」なんていう至極簡単な質問もできない息苦しい空間を、文庫本のページを捲る音と窓から注がれる西日だけが優しく包み込んでいる。
アキ先生がプリントを抱えて教室に飛び込んできたのは、放課後が開始してから約一時間後のことだった。
アキ先生は入ってくるや否や、もうほとんど泣きながら何度も何度も僕と渡瀬に頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ! 書類が見つからなくて……。ほかの先生方にも探してもらって、書類はすぐに見つかったんだけど、そのお礼をしてたら、こ、こんな時間に……ほ、ほんとうにごめんなさいっ」
お礼って……一体どんなお礼をしたらこんなに遅くなるんだよ、なんて文句も吐けるわけもなく、
「アキ先生、そんなに謝らないでくださいよ。それほど待っていませんから」
僕の言葉に、アキ先生は狐につままれたような顔をしている。
「えっ?」
「実を言うと、僕はお腹の調子が良くなくてさっきまでトイレに籠もっていたんですよ。それに、渡瀬はずっと夢中になって本を読んでいましたから、そんなに退屈じゃなかったと思いますよ。ね、渡瀬?」
水を向けると、渡瀬は少しピクッとして、
「は……う、うん」とだけ答えた。
おお。敬語を使うなって言ったことは憶えているんだな。
アキ先生は僕のでまかせを信じたのか、少し表情が明るくなった。
「よかった。じ、じゃあ、お仕事を始めましょう。これ、お願いできるかな」
抱えていた書類の束を僕に渡してくる。
「これ、なんですか?」
「この前、みんなに答えてもらったアンケート用紙。それを二人で集計してもらいたいの」
僕は頷いた。渡瀬はというと、いまだ読書を継続中。先生の話は彼女の耳に届いているのだろうか。
「了解です。先生はこれから職員会議ですよね。集計が終わったら職員室に持っていけばいいですか」
アキ先生は僕の言葉を聞いて目をぱちくりさせた。
「え……う、うん。よく分かったね、これから職員会議だって。今、そのことを言おうと思ったのに」
「ああ……なんとなく。そんな気がしたので」
「僕は未来が少しだけ視えるので、先生のこれからの予定なんてお見通しです」なんて言ったところで信じてもらえるわけもないだろう。
「そう。そ、それじゃあ、あたしは行くから、ふ、二人とも頑張ってね」
そう言い残すと、ひらひらと手を振ってアキ先生は教室を後にした。
ひとまず渡されたプリントを手近な机に置く。
さて、どうしよう。また二人っきりだ。てっきり、アキ先生と渡瀬と僕の三人で手分けして作業するものだと思っていたのに。
僕が頭を抱えて唸っていると、渡瀬が読書を中断して近づいてきた。
プリントの小山を挟んで向かい合う僕ら。そして沈黙。
だが、今回の沈黙時間はあまり長くなかった。渡瀬が話しかけてきたからだ。
「あ、あのっ」
「な、なに?」
「……私が、半分……やるから」
「え? ああ……わかった」
うなずいて、プリントの山に手を伸ばす僕。
「ちょ、ちょっと待って!」
突然、渡瀬が叫んで、僕の両手をつかんできた。
「ど、どうしたの」
「あ、いや……私が先に半分取るから、あなたはそのあと」
意味の分からないことを言い出す渡瀬。順番など関係あるのだろうか。
「べつにどっちが先だって変わらないだろ」
「い、いいからっ」
僕はこのとき初めて、感情的になった彼女を見た。
「わ、わかったよ」
そんな初めて感情を露わにした渡瀬に気圧されて、僕はプリントの山から手を放す。
「ご、ごめんなさい。急に大声出してしまって……」
「い、いやそれは構わないんだけど。……それより、さ」
僕は視線を下に向ける。彼女の柔らかな白い手が、僕の手首をがっちり掴んでいる。
「……あっ! ごめんなさいっ」
渡瀬は慌てて僕から手を離した。彼女の小さな耳がムレータのように赤く染まっている。たぶん、僕の顔も同じことになっているだろう。……女の子の手って、柔らかいんだな。
渡瀬は一つ息を吐き、落ち着きを取り戻すと、今度はプリントの束を漁り始めた。一枚一枚、丁寧にチェックしている。まるで何かを探しているかのようだ。たまらず訊いた。
「なにをしているんだ?」
「な、なんでもない」
ぶんぶん首を横に振る渡瀬。その間もプリントを漁る手は止めない。
「もしかして自分が書いたやつを僕に見られたくない、とか?」
何の気はなしに思いついたことを言うと、渡瀬のプリントを持つ手がピタッと止まった。
「ち、ちが――」
渡瀬は肩口で切り揃えられているみどりの黒髪をふるふると振って否定する。
「大丈夫だよ。だってそのアンケート、名前書く欄ないでしょ?」
「あ……」
「だから、渡瀬が書いたアンケートがどれかなんてわからないよ」
「そ、そっか……よかった」
僕の言葉に安心したのか、渡瀬はほっと息を吐く。
「やっぱり自分のアンケート用紙を探していたんだね」
「えっ!? い、いや……」
両手をバタバタ振って否定する渡瀬。
「わかった、わかった。じゃあ今度こそ始めようか」
そう言うと、渡瀬は上目遣いで僕を見つめて、こくりとうなずいた。
「よし、終わった。渡瀬は?」
ペンから手を離して、訊ねる。
「私も……終わった」
アンケートの集計は三十分程度で終了した。まあ一クラス分のみだったので大して苦労しなかった。作業時間よりも教室で待機している時間のほうが長かったというのも可笑しな話だけれど。
「あとは、このアンケート用紙と集計結果を書いた紙をアキ先生に返すだけか」
向かい席に腰かけている渡瀬が首肯する。
「それじゃ、お疲れさま。僕はこれを職員室に届けにいくから」
渡瀬に別れの挨拶をし、プリントを持ち上げ、ドアに向かってニ、三歩踏み出したとき、
「ま、待って」と呼び止められた。
「ん、なに?」
渡瀬はしばらくもじもじしていたが、やがてぼそっと言った。
「……私も、行く」
「いいよこれくらい。一人で大丈夫」
正直言って少し重いけれど、一人で運べないほどの重さでもない。
「で、でもっ」
「本当に大丈夫だから。僕、こう見えて実は力持ちなんだ。だから平気」
そう言ってプリントを持ち上げてみせるが、渡瀬は不満顔だ。僕は付け加えた。
「それに、こういうのは男の見せ場だからさ。かっこつけさせてよ」
「……わかった」
渡瀬はしぶしぶ納得したようだった。
「気持ちだけ受け取っておくよ。それじゃ、お疲れ。また明日」
僕は、背中に渡瀬の視線を感じながら歩き始めた。
鞄を教室に置きっぱなしだということに気づいたのは、アキ先生にプリント類を渡して職員室を出たときだった。そのときは、女の子に良いところを見せることで頭がいっぱいだったから、鞄まで考えが至らなかった。実際、教室を出て職員室に向かうまでの間は、「さっきの僕、ちょっと格好良かったんじゃね?」などと軽く自己陶酔に浸っていた。
そんな調子でアキ先生のもとに行ったからか、
「随分と機嫌が良いなあ見境くん、何か良いことでもあったの?」
と、どこぞの怪異譚収集家の口癖めいたことを言われてしまった。
苦笑いして先生にプリントを渡すと、アキ先生は
「お疲れさま。はい、これ」と言って僕の手に飴玉を二個握らせてきた。
飴玉って……。今のご時世、小学生でも喜ばなそうだけれど。
「……あの、もう高校生なんですけど」
「あ、ごめんなさいっ。う、うれしくなかった?」
「いえ、そんなことは……。ありがたくいただきます」
「うんっ。渡瀬さんにもちゃんとあげてねっ」
うきうきしているアキ先生に水を差すようで悪いが、嘘を言うわけにもいかないので、僕は正直に言った。
「えっと、渡瀬はたぶん帰ったと思います。渡瀬も手伝うって言ってくれたんですけど、プリントは一人で持っていける量だったので、僕一人でここまで運んできました」
僕の言葉を聞くと、アキ先生は絶句し、その大きな瞳をさらに見開いた。
「先生、どうなさったんですか? 僕、なにか変なこと言いました?」
「なんで!?」
「えっ。なにがですか?」
「なにがじゃないよ! ど、どうして渡瀬さんと一緒にプリントを運んでこなかったの!?」
怒鳴られた。
「え、いや、今言ったように、あまり量が多くなかったので……」
「なにやってるの!」
また怒鳴られた。そして、アキ先生は僕に鋭い視線を向けて言った。いや、叫んだ。
「せ、せっかく渡瀬さんが勇気を振り絞って手伝うって言ったのに……人の厚意は気持ちだけじゃなくて、その行動もありがたく受け取らなきゃダメでしょ! 二人でクラス委員やっているんだから、最初から最後まで共同作業でいかなくちゃ! ああ、きっと渡瀬さん、今ごろ教室で泣いてるよ。わたしって役に立ってないな……クラス委員失格だ、って」
「それはいくらなんでも……」
僕の突っ込みはアキ先生の怒声に遮られた。
「い、いいから早く教室に戻りなさいっ! まだ渡瀬さん居るかもしれないでしょ。ちゃんと謝るのよ!」
「は、はい。でも先生、僕そんなに悪いこと――」
「ごちゃごちゃうるさい! ほら早く!」
何故か激昂しているアキ先生に背中をぐいぐい押されて職員室から追い出された。アキ先生って、怒鳴ることできたんだな。弱々しいイメージだったのに。今度からはもう少し気をつけて接しないと。肝に銘じておこう。
それにしても、なんであんなにアキ先生は怒っていたんだろう。僕は悪いことをしたというよりは、むしろ良い(格好良い)ことをしたと自負していたのに。
これが女心ってやつなのか? なるほど、わからん。
――そんなつい先程までのやり取りを思い返しながら、教室のドアの前まで戻ってきた。ちゃんと飴玉も渡すのよ、ってアキ先生が最後に言っていたけれど、もう帰っていたら渡せない。 明日になって、飴玉渡しながら、「昨日はごめん」と言ったとしても、渡瀬は困惑して、気まずい空気になるに決まっている。そこまで引っ張るようなことでもない。だから、まだ教室に残っていてくれればいいんだけれど。でも、普通に考えたらもう帰ってしまっているよな……。
期待半分、諦め半分の気持ちでドアを引いて教室に入ると、渡瀬はまだ教室に残っていてくれていた。相も変わらず、自分の席に着いて文庫本に目を落としている。
「よかった。まだ帰ってなかったんだ」
渡瀬の傍まで行き、話しかける。彼女は文庫本に目を落としたまま、答えた。
「……う、うん。もう少しここで本を読んでいたかったから。それに……」
そこで一度言葉を切り、僕の席へ目を向ける。
「鞄が……あったから」
「もしかして、僕の鞄が誰かに盗まれないように見張っていてくれたの?」
「……う、うん」
こくりと頷く女の頬には少し赤みが差している。
「ありがとう。あ、そうだ、これ」
ポケットから飴玉を取り出し、渡瀬に差し出す。
「えっ、なに」
「アキ先生が仕事をしたご褒美にくれたんだ。これは渡瀬の分」
「あ、ありがとう」
渡瀬は、コンビニの店員から釣銭を受け取るような仕草で、僕の手に触れないように飴玉をさっと取った。少しの沈黙の後、僕は言った。
「さっきはごめんね」
しまった。どう切り出していいかわからず、唐突になってしまった。
「き、急にどうしたの?」
案の定、渡瀬が訊き返してくる。僕は鼻の頭を掻くと言った。
「あっ、いや……さっき渡瀬が、プリントを一緒に運んでくれる、って言ってくれたのに僕、断ったでしょ? そのことをアキ先生に言ったら、人の厚意は気持ちだけでなく、その行動もありがたく受け取りなさい、って目茶苦茶怒られてさ」
「そ、そう……」
「だから、渡瀬には悪いことしたなって思って。これからは最後まで二人でやっていこう」
僕の提案に渡瀬は小さく頷いた。
よし、謝ったぞ。これで、この気まずい空気も和らぐだろう――
「…………」
「…………」
考えが甘かった。そううまい具合に事は運ばない。僕は沈黙に耐えきれなくなって自分の鞄がある位置まで退却する。渡瀬はまた読書を再開してしまった。文字の世界に逃げ込むとは卑怯な。
うう……この空気には耐えられない。どうすれば。
……そうか。家に帰ればいいんだ。春人のやつに、尻尾を巻いて逃げやがって、と思われるかもしれないが知ったことではない。もうここにいる意味もないわけだし。
そう思い至り、鞄を持ってドアに向かう。一応、渡瀬に訊いてみる。
「僕はもう帰るけど、渡瀬は帰らないの?」
「……も、もう少し読んでから」
それだけ言って、文庫本を少し持ち上げる。
「わかった。それじゃ、また明日」
「……またあした」
渡瀬は、僕の語尾だけを抜き取って繰り返すと、また小説の世界に戻ってしまった。
まあ一緒に帰れるなどとはこちらとしても期待していなかったので、さして落胆することもなく、僕は教室から出ていった。
下駄箱で上履きからスニーカーに履き替えていると、上着の内ポケットに入っている携帯電話が震えた。バイブのパターンからしてメールのようだ。開いてメールの内容を確認してみると、差出人は春人だった。
『ちょっと渡したいものがあるから俺の家に来い』
と書いてある。少々気味が悪いが、行ってやることにするか。どうせ暇だし。
春人の家は学校の正門を左に出て、十分ほど直進したところにある、ごく普通の二階建ての一軒家だ。ちなみに僕の住んでいるマンションは正門を出て右にいったところに位置しているため帰るのが少し面倒だが、たかが二十分程度遅くなるだけだ。問題ない。
夕暮れに染まった道を歩きながら、それとなくこれから会う人物について考えてみる。
波流春人という人物を一言で言い表すならば、「凡庸」だ。やつの人となりを表すのにこれ以上適切なワードはないだろう。
別段頭がいいわけでもない。さりとて、赤点頻発の落ちこぼれというわけでもない。定期テストの点数は、どの教科も常に平均点付近をうろついている。また、その面構えに関しても同様のことがいえる。顔の良し悪しなど、個々人によって異なるのは当然のことだけれど、僕の価値観で判断させてもらうとするならば、確かに目鼻立ちはすっきりとしてるが、それをハンサムと呼ぶには少し物足りなさを感じざるを得ない。そして、何故かいつもその顔はニヤついており、それは人によっては不快に感じるかもしれない。初めは僕もその微笑みというより、嘲笑うような春人の表情に嫌悪感を覚える一人だった。けれども、さすがに二年以上関わっていると慣れてくるというものだ。今ではニヤつきを帯びた表情がいつもの顔なのだと思うことにしている。
特筆すべきところは見当たらないが、これといった欠点も見当たらない。
波流春人とは、そういった男なのである。
そんな我が友の人物像について考えを巡らせているうちに春人の家に到着した。
「波流」と達筆で書かれた表札の隣にあるインターホンを押す。
あれ? 以前、訪れたときの表札とは形も字も異なっている。どうやら表札を新しいものに取り換えたようだ。ほどなくして、横開きの玄関が開き、春人の母親が姿を現した。ごく普通の優しそうなお母さんで、夕飯を作っている最中だったのか、腰にエプロンを巻いている。
「いらっしゃい航くん。春人なら上で待っているわよ」
「あ、はい」
僕が碌な挨拶もせずに表札を眺めていることに気づいた春人の母親が言った。
「ああ、これね。実は春人に書いてもらったのよ」
表札を撫でながら微笑むお母さん。
「へえ、そうなんですか」
「あの子、字だけは昔から上手いのよね。さ、入って入って」
促されるままに僕は靴を脱ぎ、お母さんが用意してくれたスリッパを履いて、春人の部屋がある二階に向かった。
とんとん、と二回ノックしてドアノブを回す。
「おーい、来てやったぞ」
「おう、いらっシャイア・ラブーフ」
春人は制服姿のままでベッドに腰掛け、雑誌を読んでいた。まことに面白くない、洒落かどうかも分からない戯言を無視してもよかったのだが、友達のよしみで一応突っ込む。
「僕は日本人だ。ちなみに、俳優でもない」
「あれ? お前、トランスフォームできなかったっけ?」
「できるわけないだろ。しかも、あれは人間じゃなくて車が変形するんだ」
「知ってるよ。お前、人間じゃないだろ?」
「人間だよ!」
僕の突っ込みに春人は苦笑すると机に向かった。苦笑いしたいのはこっちの方だ。
春人の部屋は、入って正面にテレビ、その前に四角いローテーブル、左側にベッド、右側に勉強机、漫画でいっぱいの本棚といかにも普通だ。唯一、変わっていることと言えば床にくしゃくしゃに丸めた紙がたくさん落ちていることくらいだろう。僕はローテーブルの前に腰を下ろすと、手近の丸まった紙に手を伸ばし広げてみる。
『設定……銃で撃たれて傷を負った男(主人公)が浜辺で発見される。男は記憶を失っており、手がかりとなるのは皮膚の下に埋め込まれていたある銀行口座を示すマイクロカプセルだけだった。男はそこへ向かうが……』
「――ってこれ、『ボーン・アイデンティティー』の設定丸パクリじゃねえか!」
「あ、バレた? 漁船に助けられるところを浜辺で発見されるに変えてみたんだけど」
「そういう問題じゃねえよ! しかも、浜辺で発見されるって映画より前に作られたテレビドラマシリーズの冒頭と一緒だぞ」
「え、マジで? ていうか、お前詳しいな」
「まあな。実は僕、マット・デイモンが大好きなんだ。『ボーンシリーズ』や『オーシャンズシリーズ』はもちろんのこと、『インビクタス』や『ディパーテッド』、おまけに『崖の上のポニョ』の英語版だって観たことある」
胸を張る僕。
「どんだけ好きなんだよ……」
春人はあきれたようにかぶりを振る。
「それはさておき。渡したいものがあるってメールに書いてあったけど」
「ああ、そうだった」
と言って、春人は机の上に置いてあったDVDを手に取った。
「これをお前に貸してやろうと思ってさ」
春人から差し出されたDVDを受け取る。
「ジャンルは?」
「ホラーだ。洋画だけど結構よくできてる。どうやら邦画のリメイク版らしい」
パッケージには、長い黒髪で顔の隠れた女性の幽霊らしきものが描かれている。なるほど、日本の映画らしいな。
「サンキュー、一応借りておく。暇ができたら観てみるよ。というか、用ってこれのことなのか? まさか、これだけのために呼んだんじゃないよな」
こんなものを渡すだけだったら学校でもできる。わざわざ僕を自宅に呼びつけたということは、他に理由があるのだろう。電話で済ますことのできないことが。
「さすがに鋭いな。本当の用は別にあったんだけど……」
そこで何故か口ごもる。春人にしては珍しい。
「なんだよ、白々しいな」
僕が少し茶化すように言っても、春人は何も言い返さず、これまた何故か真面目な顔で僕を見据えた。しかしそんな表情を見せたのは一瞬で、すぐにいつものヘラヘラしたような顔に戻って言った。
「本当にもういいんだ。悪いな、これだけのために呼び出しちまって」
「いや、別に構わないよ。また話したくなったときに呼んでくれ。じゃあ借りていくぞ」
「ああ」
やはり今日の春人はどこかおかしい。どこがいつもと違うのか、具体的にはわからないけれど、覇気がないというか、元気がないというか。とにかく、いつもの春人らしくない。
「おい、春人」
「うん?」
「何か悩み事でもあるのか? もしかして、小説のネタで詰まっているとかか? いくら小説家になりたいからって、あんまり無理はするなよ。どうせ、あんまり寝てないんだろ」
僕は床に転がっている紙屑たちに目を向けた。
春人は小説家を目指しており、毎日毎日、物語の設定やらプロットやらを考えているらしい。さっき読んだ紙きれもその一部だったのだろう。
「大丈夫、大丈夫。俺、意外と頑丈だから」
白い歯を見せながら明るく振る舞う春人。
「そうか、ならいいんだ。それじゃあな」
「おう、また明日」
踵を返して部屋を出ようとすると、背中に声をかけられた。
「なあ、航」
「ん? なんだ」
体ごと春人の方へ向き直る。春人は振り返った僕をちらっと見た。しかしすぐに目を逸らし、机に置かれている教科書を見ながら言った。
「お前の将来の夢って何?」
「将来の夢? うーん、そうだなあ」
僕は思わず唸ってしまう。将来の夢なんておぼろげにはあるけれど、真剣に考えたことなどこれまで一度もなかった。
僕が腕を組んで考え込んでいると、春人が机の端をトントンと指で叩いた。
「俺の将来の夢はだな……」
「知ってるよ。小説家だろ?」
僕は即答する。この部屋の状態を見ればそれは明らかだ。しかし春人は首を横に振った。
「もちろん、それもある」
「それも? まさか、他にもなりたいものがあるっていうんじゃないだろうな。やめとけやめとけ。ほら、よくいうだろ。二兎追うものは一兎も得ず、って」
見境航のありがたいお言葉を聞いて、春人は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をした。
「すごいな航! お前がそんな諺を使うなんて」
こいつ、馬鹿にしてくれる。
「別段、褒めそやすほどのことでもないだろ。こんな諺、今日日小学生だって知っている」
「いいや、それは違うね」
春人は眼鏡を掛けてもいないのに、ずり落ちた眼鏡を上げるような仕草をした。
「その言葉を実際に使用するのと、ただ知っているだけとでは天と地ほどの差がある。言葉っていうのはね、実際に使って初めて価値のあるものになると俺は思うんだ。知っているだけじゃ意味がない」
「ほお」
まあ言わんとしていることは分かる。インプットするだけで満足せず、アウトプットしていくべきだということだろう。
「そう! だから!」
春人は突然立ち上がった。そして両手を高く掲げ、大きく広げた。さながら民衆に演説をするヒトラーのようだ。
「私はこう考えている! 世の学生諸君たちは只々言葉を憶えるのではなく――」
「ちょっと待った」
目の前の将軍様の御高説を僕は手で制した。水を差された本人はいたく不満そうだ。
「なんだね君は。庶民の分際で我に物申そうというのか!」
「そういう寸劇はまた今度相手してやるから。それより話を戻そう」
しょうがない、と言って春人は頬を膨らませた。そういう仕草は女の子がやるから可愛いのであって、男がやると不愉快この上ない。
「で、お前のもう一つの夢ってのは?」
そう僕が問うと、春人は恥ずかしそうに目を伏せた。
「誰にも言うなよ?」
「言わない言わない」
僕が否定の意味を込めて手をひらひらと振ると、春人は僕を見据えて言った。
「俺のもう一つの夢はな、お婿さんになることなんだ」
予想外の答えに僕は面食らってしまう。
「お、お婿さんってお前……嫁さんを貰うとかじゃないのか?」
「違う。俺が奥さんの家に嫁ぎたいんだ」
はっきりと言い切る春人。
「これまたどうして? 意味がわからない」
言いながらかぶりを振る僕を見て、春人は物憂げな表情を浮かべた。
「なあ、ワタルよ。俺の名字を言ってみろ」
戸惑いながらも僕は答える。
「はる、だろ。波に流れると書いて、はる」
「その通り。付き合いの長いお前は間違えることなく俺の名字を口にすることができる。だが、初対面の人間が俺の名字をみたときに、はる、と読めると思うか?」
僕は即答する。
「絶対に読めない」
「だろ? それが理由だ」
「え? それだけ」
「ああ、それだけだ」
そう言うと、春人はぼすっと椅子に腰を下ろした。もっと御大層な理由があるのかと思ったのだが。まさか、そんなことだけのために自分の名字を捨てるなんて。僕自身も珍しい名字ではあるが、それを不満に思ったことは一度もない。むしろ少し誇らしいくらいだ。
どうやらもう言いたいことはすべて言ったらしい。僕はお暇することにした。
「じ、じゃあそろそろ帰るわ」
「おう、また明日学校でな」
春人が片手を挙げたので、僕も片手を挙げて応え、部屋を後にした。
波流家を出ると、あたりはもう暗くなり始めていた。春といっても四月下旬なので、まだ肌寒い。空いている手をポケットに突っ込みながら歩を進めていく。
学校の正門を超えて、さらに数分歩いた場所に豊丘(とよおか)公園という古びた公園がある。遊具はほとんど設置されておらず、あるのは小さな砂場と公衆便所だけで、ある意味すっきりとしている。一年ほど前までは、ブランコがあったらしいのだが、小学生の男の子が遊んでいる際に鎖が千切れてしまい、大怪我を負ったとかで撤去されてしまったらしい。見る限りあまり古そうではなかったが、鎖が錆びていたのだろうか。
そんな公園と呼ぶのにはあまりふさわしくない場所に、僕は毎日通っている。通っているというと、遊んでいると思われるかもしれないが、そうではなく、ただ近道として、ショートカットとして利用しているだけだ。
だから、今日もいつもと同じように豊丘公園を横切って帰ろうとした。いつも通りに。
しかし、僕は公園の入り口で立ちつくしてしまった。普段なら人がたむろするような場所ではないのだけれど、今日は三人の人間が公園の中心で、なにかを囲むように立っていた。
――うわ、ヤンキーだ。
赤、黄、青と信号機のような髪色をした三人組で、腰までずり下ろしたズボン、学ランといった出で立ちだ。学ランということはうちの生徒ではないのか。
あんな時代遅れのヤンキーがまだ存在しているとは(流行のヤンキーがどのようなものかは僕にはよく分からないが)。
ああ、怖い、怖い。ああいうやつらと関わり合いになるとロクなことにならないからな。仕方ない、ショートカットはあきらめよう。少し帰るのが遅くなるだけだ。ヤンキーに目を付けられるのに比べたら、その程度の時間の浪費など少しも惜しくはない。
そう結論付けて、公園には入らずに通り過ぎようとしたとき、幸か不幸か、僕に対して背中を向けている黄髪ヤンキーと青髪ヤンキーの脚の間から、誰かが蹲っているのが見えた。よく見ると、それは女の子だった。ブレザーは剥ぎ取られ、白のワイシャツ一枚になっている。おいおい、いくらなんでもやりすぎだろ。男ならまだしも女の子に手を出すなんて。今どきのヤンキーは節操がないのか。
うーむ、どうしよう。このまま見逃したら、確実に後で罪悪感に苛まれる。ああ、いっそのこと女の子の姿なんて見えなければよかったのに。なんで見えちまったんだよ。なんで見ちまったんだよ、僕。さっさと通り過ぎればよかったのに。
行くべきか行かざるべきか悩んでいると、ヤンキーの一人が蹲っている女の子の肩を蹴りあげた。彼女は無理やり上半身を起こされ、正座をしているような体勢になる。それにより、今まで黒髪で隠れていた顔が僕の位置からはっきりと見てとれた。
「おい、やめろ!」
僕は先ほどまでの悩みなど吹き飛んで、肩にかけていた鞄も吹き飛ばして、思わず叫んでいた。
なぜなら、蹴られてうずくまっている女の子が――渡瀬伊吹だったからだ。
「あ? なンだよ」
赤髪ヤンキーが即座に反応し、残りの二人も振り返って僕を睨みつけてくる。
渡瀬は僕の登場に唖然としていた。なぜ僕がここに来たのか理解できないといった様子だ。それは僕だって同じだ。どうして彼女がここにいて、彼らに嬲られているのか理解できない。
でも、そんなことはどうだっていい。今は彼女を助けることに集中しないと。
「お前ら、恥ずかしくないのか? 寄ってたかってか弱い女の子をいじめて」
僕はなるべく相手を挑発するように言った。
「いじめてなんかねぇよ。可愛がってやってんだよ」そう言って渡瀬の髪をつかむ黄髪。
「ていうか、お前こそなんだよ、ヒーロー気取りか?」赤髪が嘲りの含んだ声で言う。
「気取りじゃない。ヒーローだ」僕は、最大限格好つけて言い放つ。
僕の言葉を聞いた三人は爆笑した。
「なにほざいちゃってんのコイツ。頭イカれてるんじゃないですかあ」
「イカれてるのはそっちだろ」
声が震えないように気をつけながらセリフを吐き出す。
「第一なんだ、その髪色は? お前らは信号機にでもなりたいのか?」
「なんだと、テメエ!」案の定、赤髪がこちらに向かってきた。
「おいおい、赤は停止の信号だろうが。お前は止まってなくちゃダメだろ?」
「テメエ、人をおちょくるのもいい加減にしろよ!」
ついに赤髪はブチ切れて突進してきた。よし、予想通りだ。落ち着け、落ち着け……。
赤髪がついに目の前にまで迫ってきて、右の拳が僕の顔面に飛んでくる。僕にはその光景がほんの少し前に視えていたので、難なくそれをかわす。そして、つんのめった赤髪の股間に膝蹴りをお見舞いしてやった。崩れ落ちる赤髪。
「ひ、卑怯だぞ……」赤髪はそう呻きながら悶絶している。
「喧嘩にルールなんてないだろ」僕はそう言ってニヤリと笑う。
よし。まずは一人仕留めたぞ。残るは二人か。
「「うおおおおおっ」」
勝利の余韻に浸る間もなく、今度は青髪と黄髪が同時に襲ってきた。一人ならなんとかなるけれど、さすがに二人同時に対処するのは少しきついな。
ろくな対策も練れないままでいると、青髪が先に仕掛けてきた。僕は、先ほどと同じように膝蹴りを食らわせてやろうと思いパンチを避けたが、青髪のすぐ後ろに黄髪が迫ってきていたので、膝蹴りを繰り出すことができなかった。青髪はそのまま僕の後方に流れていく。続いて来るであろう黄髪の攻撃に備えた僕であったが、意外なことに黄髪は僕に攻撃を繰り出すことはせず、バックステップを踏んで後ろに下がった。結果的に、僕は二人に挟まれてしまう。
思わず手を膝についてしまう。汗が頬を伝って足元に落ちていくのがわかる。
「なんだ、もう疲れちまったのかァ? さっきまでの威勢はどこに行っちゃったのかな? ヒーローさんよぉ」
そんな様子を見ていた黄髪が勝ち誇ったように笑う。僕は顔を上げ、黄髪の顔をじっとにらみつけながら言った。
「少し有利な状況になったからって、調子に乗るなよ」
「なンだと」
「僕はお前らにハンデをあげたんだよ。一方的な勝利じゃつまらないからね」
「なに言ってんだ? 調子乗ってるのはテメエのほうじゃねえか」
「調子に乗っているわけじゃない。自信があるだけだ。お前らは僕より弱い。これは決定事項だ」
「いい加減にしろよ!」
黄髪の目が血走っている。よし、もう一押しだな。
「もうお前らみたいな低脳な連中と会話するのも時間の無駄だから、さっさとかかってこいよ。面倒だから二人いっぺんに――」
僕が最後のセリフを紡ぎ終えるのを待たずして黄髪が突進してきた。それとほとんど同じタイミングで後ろの青髪も突撃を開始。黄髪と僕の距離がどんどん縮まっていく。おそらく、青髪と僕の距離も同様だろう。僕は目を閉じて意識を集中させる――そして、視えた。黄髪と青髪が同時に僕の顔面に向かって拳を突き出すところが。
目を開けると、黄髪のいかつい握り拳が顔の目の前まで迫ってきていた。僕は屈むことによってそれをかわす。同時にそれは青髪のパンチもかわすことになる。そして、一度スピードをつけて放たれたパンチは、緊急停止する列車と同じく、すぐに止めることはできない。よって、二人はお互いの顔へお互いの拳をぶつけることになり――
勝手にきれいなクロスカウンターが決まってくれた。
二人が崩れ落ち、覆いかぶさってくる前に彼らの身体の隙間から這い出る。
気絶には至っていないようだが、だいぶ意識が朦朧としているみたいだ。声にならない声を上げている。
僕は、急いで渡瀬のもとへ駆けつけた。彼女は、地面にへたりこんだままヤンキーたちを見つめている。何が起こったのかわからない、といった様子だ。
「さあ、立って!」
「……え、え? なに」
「なに、って逃げるんだよ! ほら、早く!」
僕は、茫然としている彼女の手をとり、空いている手で落ちていた彼女の鞄とブレザーをつかんで走り出した。ひとまず、入ってきたのとは反対にある出口に向かう。
公園を出たあたりで後ろを振り返ると、黄髪と青髪がちょうど立ち上がったところだった。赤髪はいまだ悶絶中。僕は渡瀬の手を強く握りしめ、訊いた。
「行くよ?」
彼女はぎゅっと僕の手を握り返してきた。それを肯定の印と受け取って、駆けだした。
とにかくここから離れよう――ただそれだけを考えて走り続けた。まわりの風景や音などはほとんど認識できなかったが、右手に伝わる渡瀬の体温だけは、しっかりと感じ取ることができた。
どのくらい走ったのだろう。
気がつくと、僕らはとあるマンションの前に立っていた。栗の実のような色をしている外壁にはペンキが剥がれている箇所が見受けられるが、現代的なデザインのせいかあまり古さは感じられない。ロビーを入ってすぐの所にエレベーターと自動販売機があり、奥に行くと階段がある。間取りは全部屋1Kで、バス・トイレは別となっている。そのため、家族で住んでいる人はほとんどおらず、住人の大半を占めているのは一人暮らしの人たちだ。ちなみに、左隣にはこのマンションと同タイプのものがもう一つ建っている。
何故こんなにもこの建物について詳しいかというと、僕もここの住人だからである。
「なんで……」
思わず声が洩れてしまった。どうして自分の住処に帰ってきてしまったのだろうか。
僕と渡瀬は公園を脱出した後、無我夢中に走り回った。行き先なんかは考えずに、その場から離れることを第一に走り続けた。何度か後ろを振り返ったが、ヤンキーたちの姿を見ることは一度もなかった。それでも、止まりはしなかった。いや、止まれなかった。もしかしたら追ってきているかもしれない、という強迫観念にかられて足を止めることができなかったのだ。
結果、たどり着いたのがここだ。記憶が飛ぶまで酔っぱらった人が朝起きるといつの間にか自分の家に帰っていた、とはよく聞くが、これもその一種なのだろうか。犬や猫のように人間にも帰巣本能があるのかもしれない。だとしたら、とんだ迷惑だ。もしずっとヤンキーたちに追われていたら、自分の住処を教えてしまうことになりかねなかった。
さて、これからどうしようか。さすがにあのヤンキーたちも諦めたと思うから、渡瀬を家まで送っていこうか。でも、かなり走った後で彼女も相当疲れているようで、路傍に座り込んでしまっている。少し僕の家で休ませたほうがいいかな。僕もできればそうしたい。
「渡瀬」
しゃがみこんでいる渡瀬に話しかける。
「……え、なに?」
「家はどこ?」
「……なんで知りたいの?」
渡瀬は少し怯えた表情を見せる。僕は慌てて付け加えた。
「あ、いや、もしかしたらまだあいつらが捜しているかもしれないから、家まで送っていこうと思って……」
「あ、ありがとう……でも、だいじょうぶ」
ふるふると首を振る渡瀬。
「いや、大丈夫じゃないだろ。腕から血出てるし、服もビリビリで……」
「い、いや、本当にだいじょうぶだから……」
「無理に決まってるだろ! そんなにボロボロになって。これから、自分の家まで歩いて帰らなくちゃならないんだぞ?」
「……うん、わかってる」
「と、とにかく今の身体じゃ無理だろ? ひとまず、僕の部屋で少し休んでから……」
「で、でも……」
「でも、じゃない。疲れたら休む。当たり前のことだろ」
「いや、だから……」
痺れを切らしたように渡瀬は顔を隣のマンションに向けた。
「わ、私の家……ここだから」
「…………え?」
「ど、どうぞ……」
「お、お邪魔します……」
僕は、生まれて初めて「女の子の部屋」というものに足を踏み入れた。この場合、マンションの一室なので、「家」といったほうがいいのか「部屋」といったほうがいいのか、迷うところである。実は怜の家には何回か入ったことがあるのだが、怜の部屋には一度も入ったことがないので、今回は「部屋」ということにしようと思う。
渡瀬の部屋は、玄関を入ると右手に流し台、その奥に冷蔵庫、左手にトイレ、浴室があり、奥に進むと十畳ほどの洋室があるといった感じで僕の住んでいる部屋と全く一緒だ。洋室は、廊下と厚めのカーテンで仕切られていて、ベッド、ローテーブル、テレビ、本棚といった一般的な家具が揃っていて、これまた僕の部屋と同じだった。
「あんまり見ないで。恥ずかしいから……」
「あっ、ごめん……」
「こ、ここに座って」
渡瀬に薦められるままに、ローテーブルの前に座る。
「ちょっと待ってて。お茶入れてくるから」
「いいよ、それくらい。自分でやるよ」
「だ、だめ!」
立ち上がって流し台に向かおうとすると、渡瀬に両肩を掴まれて無理やり座らされた。
「な、なんで」
「あなたは、お客さんなんだから。じ、じっとしてて」
「でも、お前、怪我してるし、あぶ――」
「いいから!」
ピシャっとカーテンを閉められてしまった。そんなに怒ることもないだろうに。
あらためて、部屋を見回してみる。本棚には漫画の類は一切入っておらず、ほとんどのスペースを文庫本が占領しており、残りの少ないスペースを教科書やハードカバーの小説、辞典などが占めている。テーブルにはリモコンとティッシュしか置いておらず、部屋にはゴミ一つ落ちていない。きれいに片付いているというよりも、あまり使われていないといった印象を受ける。まるでモデルルームみたいだ。
それにしても、なぜ渡瀬は一人暮らしなのだろうか。まさか、この狭さで両親と暮らしているわけじゃないだろう。まあ、親の所有物らしき物が見当たらない時点で、その線はないと思ってはいたが。
しかし、考えてみると僕と渡瀬の共通点は意外と多い。
実は僕も早くに母親を亡くし、父親は海外赴任で一人暮らしなのだ。連絡を一度もよこしたことがないので、どこでなにをしているのかもわからない。長いこと父に会っていないから、顔なんてとっくの昔に忘れてしまった。たまに必死に思い出そうと頑張ってみるのだけれど、輪郭すら思い浮かべることができない。それほどに父親の印象が薄いのだ。
――あれ? そもそも僕は自分の父親に会ったことがあっただろうか。
そんな僕のささやかな疑念はカーテンの開く音によって振り払われた。
「……はい、どうぞ」
渡瀬が湯呑の二つ乗ったお盆をテーブルに置いて、そのうちの一つを僕の前に置いた。
「ありがと」
「う、うん……」
僕の言葉に、なぜか渡瀬は頬を染めてうつむいてしまう。
「どうしたの?」
「なっ、なんでもないっ」
恥ずかしそうに呟くと、クローゼットに向かい、中から小さな箱を取り出した。それを持ってまた台所のほうへと行き、カーテンを閉めてしまう。
今度はなにをするつもりなんだろう。カーテンを開けて、なにをしているのか確かめてやろうとも思ったが、「鶴の恩返し」を思い出して覗くことをやめた。彼女がまさか人間じゃなくて鶴だった、なんていうオチだったら最悪だからな。僕は人間の女性が大好きだ。
なにもすることがないのでテレビでも点けようと思ったけれど、家主の許可なく見るのもどうかと思ったので自重。
仕方なく、渡瀬が淹れてくれた番茶を啜る。お茶の味の違いなんてわからないし、わかろうと思ったこともないが、人に淹れてもらったお茶は自分で淹れたときよりも明らかにおいしく感じる。単に、僕のお茶の淹れ方が下手なだけかもしれないが。
番茶も飲み干してしまい、本当にやることがなくなってしまった。ふと、湯呑の底がどうなっているか気になり、持ち上げて見てみるとなにか書いてある。それはほとんど消えかけていたのだが、アルファベットで「HW」だということはかろうじてわかった。
なんだろう。ホームワーク? もしくは、この湯呑を作った人のイニシャルだろうか。
などと、意味のない推測を巡らせていると、突然、カーテンの向こうから絹を裂くような悲鳴が聞こえた。僕は急いで立ち上がりカーテンを開ける。
「ど、どうしたの!?」
「……えっ?」渡瀬は目をぱちくりさせている。
時が止まっているかのようだった。渡瀬は、ワイシャツを脱いでおり、白のブラジャーが露わになっていた。おまけに、玄関のほうに背中を向けていたので僕と向き合うかたちになってしまっている。
それにより、彼女の大きくはないが、ブラジャーによって持ち上げられた形の良い胸が眼前に広がっており、僕はそれから目が離せなくなってしまう。さらに長い黒髪が胸の谷間に流れ込んでいることが、一層艶めかしさを際立たせており――おっと、そんなじっくり鑑賞している場合じゃない。急いで謝らなくては。
「え、いや、あの、そ、そういうわけじゃなくてですね……。こ、これは、その、叫び声が聞こえてですね、なにが、あったのかと……」
「……な、なんでも……ないから。き、気にしないで」
そう言うと、渡瀬は軟膏を少し手にとって背中に塗ろうと試みる。しかしながら、手が患部にまで届かないらしく、かなり苦戦している。
「さすがに一人じゃ無理だよ」
「じ、じゃあ手伝って」
「わかった、って……ええ!?」
「せ、背中の真ん中あたりだと思うから……」
「い、いや、でも……」
「手伝ってくれないの?」
「……わ、わかった。やるよ」
「ありがとう」
渡瀬はクスッと笑うと、僕に軟膏を渡した。
さすがに直接肌に触れて塗るのは、渡瀬の身体にも僕の精神衛生上にもよろしくないと思い、救急箱の中に綿棒を見つけたのでそれを使って塗り始めた。
背中にはかなりの擦り傷がみられた。ヤンキーたちに足で踏まれたりしたのだろうか。でも切り傷にはなってなくてよかった。切り傷に軟膏を塗るのは逆効果だからな。
僕は慎重に、なるべく優しく綿棒で傷口を撫でていく。渡瀬が時折漏らす吐息にどぎまぎしつつも、なんとか一通り塗り終わったころには、汗をダラダラかいていて、僕は難手術を終えた外科医のような気分になっていた。
「お、終わったよ」
「あ、ありがと……」
渡瀬は感謝の言葉を口にすると、横に置いてあったTシャツに着替え始めたので、僕は慌てて洋室に戻った。
数分後、渡瀬はTシャツに短パンというラフな服装になって戻ってきた。今は僕の向かいに座って、すっかりぬるくなったであろう番茶を啜っている。
「ねえ、渡瀬。ちょっと質問してもいいかな」
「べ、べつにいいけど」
「どうしてヤンキーたちに絡まれていたの?」
その問いに渡瀬はふるふると首を振った。
「わからない……。私も、近道をするためにいつもあの公園を横切っているんだけど、今日に限ってあの人たちがあそこにいて。こ、怖かったけど、なるべく気づかれないように通り過ぎようとしたら……急に近寄ってきて……」
そこで渡瀬は黙り込んでしまった。あまり思い出したくないのだろう。
「なんか盗られたりはしなかった?」
「……う、うん、大丈夫。財布の中身見られたけど、そのまま返された。大した額が入ってなかったからかも」
まあ、高校生が持っているお金なんて微々たるものだろう。それより僕は、渡瀬の話のある部分に疑問を抱いたので訊いてみた。
「それはよかった。でも、なんで僕があの公園をショートカットとして利用していること知ってるの? 教えたことあったっけ?」
「え? い、いや、それは……その……見境くん、隣のマンションに住んでいるでしょ?
だ、だから私と同じようなことしているだろうと思って……」
「ああ、そういうことか」
じゃあ僕以外にもあの公園を「利用」している人は多そうだな。
「あの、もうひとつ訊いてもいいかな?」
渡瀬はためらいながらもこくりと頷いた。
「一人暮らしだよね?」
「う、うん、そうだけど。それがどうかしたの?」
「え、いや……どうしてかなって。社会経験だ、とか言って男に一人暮らしさせるのは理解できるんだけど、女の子を一人で暮らさせるのはどうなのかな、って思ってさ」
「ああ……それは……」
渡瀬はここで一度言葉を切り、番茶を一口飲んでから続けた。
「実は、私の両親、私が小学生のころに交通事故で死んじゃったんだ」
「えっ」
声が漏れてしまう。渡瀬は驚いている僕にかまわず話を続ける。
「その日は家族で旅行に行く予定だったんだけど、前日に私が風邪をひいて寝込んじゃったの。次の日になっても熱が下がらないから、旅行を中止にしようかって話になってね。でも両親はすごくその旅行を楽しみにしていたんだ。だから、私は平気だから二人で楽しんできて、って言ったら両親はしぶしぶ納得してくれて、看病には近くに住んでいた母親の友達が来てくれることになったの。
それで、次の日二人は出かけていって……。行きの高速道路で事故に遭ったらしいの。逆走してきた乗用車と正面衝突して、二人とも即死だったみたい」
「そ、そうだったんだ……」
「うん。それから私は、中学まで親戚の家に預けられて暮らしてきたんだけど、なかなかその家の人たちと折が合わなくて……。なんか私のことを面倒に感じていたらしいの。私もそれは気づいていたから、高校生になるのを機に一人暮らしをしてみたい、って提案したの。その家は裕福だったし、喜んで賛成してくれた」
「それで今に至るっていうわけか……」
「そう。ごめんね、なんか湿っぽい話しちゃって……」
そう言って笑う渡瀬。その顔にはどこか翳りが見える。
「僕のほうこそごめん。嫌なこと思い出させちゃって」
「そ、そんなことないよ。もう慣れたから」
そのように話す渡瀬の目には何の感情もこもっていないようにみえた。一般的に考えると、思い出を話すときには――たとえその思い出が楽しかったにしろ、悲しかったにしろ――なにかしらの感情がつきまとうはずだ。事実、ヤンキーたちの話をしているときの渡瀬からは怯えのような感情が見てとれた。それなのに、家族について話すときの彼女の口ぶりは、思い出を「話す」というよりもむしろ「説明する」ようなものだった。それに、普段は言葉に詰まったり、しどろもどろになったりと、うまく会話のこなせない印象が強い彼女が、噛むことなくすらすらと喋っていたことにも違和感を感じた。まるで予め用意してあったセリフを読み上げているような――そんな話しぶりだった。
ただ、これまでこのような話を何度も人に話しているせいで、感情がなくなってしまっているのかもしれない。それに繰り返し同じことを喋っていると、どうしても事務的な口調になってしまう。
どちらにせよ、これ以上このことについて深く突っ込むべきではないな。人の過去を深く抉るのはあまり好きじゃない。
「そ、それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ。もう結構遅い時間だし」
テレビの上にある壁掛け時計を見ると、時刻は午後九時を回ったところだった。
「わ、わかった……気をつけて……」
「いやいや。気をつけるもなにも、隣のマンションだし」
「い、いや……そうじゃなくて……」
「ん?」
「あ、あのとき……か、かばん……」
「なに? 鞄がどうしたって?」
僕が理解できないでいると、渡瀬は目をぎゅっと瞑って言った。
「こ、公園に、かばんを、お、置きっぱなしに、してるから……」
「…………あ」
どうやら僕は、また鞄を忘れてきてしまったみたいだ。
鞄を取りに行く前に、一度自宅に戻った。
冷蔵庫の中身を確認してみると、やはり空っぽだった。
僕は、現代の男子高校生としては珍しく、できる限り自炊することを心がけている。まあ所謂、「自炊男子」ってやつだ。昨日、すでに食料が尽きることには気づいていたので、学校の帰りにスーパーに寄ろうと考えていた。
が、いろんなことがあったせいですっかり忘れていた。近所のスーパーは午後八時には閉まってしまうので、今から食材を買いに行くことは不可能。もし、まだ買いに行けたとしても、もう料理を作る体力、気力ともにゼロ。仕方ない、自炊男子としての名に傷をつけることになるけれど、今日はコンビニ弁当で我慢するか。
申し訳程度の星ときれいな三日月に遥か彼方から見守られながら、自転車を漕いでいく。
唐突で申し訳ないが、僕は自転車に乗ることが大好きだ。
なんといっても、風を全身に受けながら進むときの爽快感と歩行者を追い抜くときの優越感がたまらない。この気分を登下校時にも味わいたいのだけれど、誠に残念ながらうちの高校は自転車通学が禁止となっている。昔は自転車で通ってもよかったらしいのだが、自転車で登校する生徒のマナーが悪いと、近隣住民から苦情があったとかなんとかで当時の校長が禁止として以来、その規則が続いている。
しかし、マナーが悪いとは具体的にどういったものだったのだろう。
手放し運転とか? 子どもじゃあるまいし……いや、まだ子どもか。
そんなわけで、登下校の際に自転車が使えないため、ふいに夜自転車に乗りたい衝動に駆られてサイクリングに出かけたりもしている。だからこれも日課の一つといえる。
だが、今日はいつものサイクリングと違う。なぜなら、目的地が決まっているからだ。いつもはただフラフラと走って満足したら帰る、という調子だから、今回はちょっと嬉しい。何事も目的を持ってやらないと楽しくない。
五分ほどペダルを漕ぐと、第一の目的地である豊丘公園に着いた。少しばかり後ろめたい思いを抱きつつ、自転車に乗ったまま公園を横切った。そして、向かい側の出入口――僕がヤンキーたちに襲われている渡瀬を見つけた――に行くと、入り口近くの植木に挟まっている鞄を発見した。
よかった、と思わず言葉が洩れてしまう。
正直、ヤンキーたちに持っていかれているか、ズタズタにされているだろうなと覚悟していたので、無傷の状態で手元に帰ってきたのが驚きだった。あいつらも相当頭に血が上っていただろうから、鞄などどうでもよかったのかな。それともただ気づかなかっただけかも。何はともあれ、無事でよかった。鞄を前かごに入れ、また自転車を走らせる。
第二の目的地はコンビニエンスストア。場所は鞄を見つけたこの位置から学校とは反対方向に進んだところにある。
わかりやすくいうと、学校とコンビニのちょうど中間に豊丘公園が位置している。
道なりに進み、コンビニには二、三分ほどで到着した。駐輪場に自転車を停め、店内に入る。まっすぐ惣菜コーナーに向かい、弁当を選ぶ。あまり考えずに、なんとなく目についた牛焼肉弁当を手にレジへ。
店内には店員が一人しかおらず、レジを担当していた。
まあ、その店員っていうのが……。
「いらっしゃいませ、お待たせしました」
「すいません。あと、肉まんを一つ」
「かしこまりました。ご一緒にジューシー肉まんはいかがですか?」「いえ、結構です」
「では、ご一緒にジューシーアツアツ唐揚げはいかがですか?」「結構です」
「では、ご一緒にチキンマックナゲットはいかがですか?」
「じゃあ、それひとつ下さい」
「誠に申し訳ございません、お客様。そちらはマクドナルドの商品ですので当店では販売しておりません」
「お前が薦めてきたんだろ!」
「そんなに全力で突っ込まなくたっていいじゃない……」
「ごめん、怜。つい、いつもの癖で」
「まあいいわ。はい、これサービス」
そう言うと、怜はアメリカンドッグを一つレジ袋に入れた。
「おいおい、勝手にそんなことやって大丈夫なのかよ」
「平気平気。一本くらいちょろまかしたってバレやしないわよ」
「そ、そうか……じゃあもらっとくよ。ありがとな」
「いえいえ。お客様にはいつも当店をご贔屓にしていただいているので、日ごろの感謝の気持ちをこのホットスナックに込めさせていただきました」
「はいはい」
怜はこのコンビニで週三日働いているらしい。高校入学時に始めたらしく、もう一年近くになる。元々、人と話すのが好きなやつだし人当たりもいいので、怜にはもってこいのバイトだ。実は何度か、ここで働かないかとお誘いを受けているのだけれど、僕は人と話すのが得意なほうではないので断っている。
でも、なぜ怜はバイトなんかやっているのだろうか。あまり経済的に苦労しているようには見えないのだけれど。なにか欲しいものでもあるのだろうか。女子はいろいろお金がかかるっていうしな。
無駄話もほどほどに会計を済ませて帰ろうとすると、怜が呼び止めてきた。
「ねえ航。あんた、ここまでどうやって来たの」
「え? 自転車だけど」
「なら外で待っててくれない? もうすぐバイト終わるから」
「ああ、べつにいいけど。何か用か?」
「ちょっとね……それは後で」
「わかった。それじゃ」
従業員用入口の近くのベンチに座ってしばらく待っていると、ほどなくして怜が出てきた。学校帰りにそのままバイト先に来たからなのか、制服姿だ。
「お待たせー」
「お疲れ。いつもこんな遅くまでやってるのか」
「遅いってまだ十時じゃん。なに? あたしのことが心配なわけ?」
鼻先がくっつくほど顔を近づけながら問いかけてくる。
「そういうわけじゃないよ。ただ、お前の両親は心配するだろ。仮にも女の子なんだから」
「仮にも、とはなんだ! あたしは歴とした女の子だぞ!」
そう高らかに宣言して平板な胸を張る。その態度に僕は思わず苦笑した。
「お父さんとかお母さんになにか言われたりしないのか?」
「なんにも。それに、二人ともまだ帰ってきてないと思う。いつも帰ってくるの十一時くらいだから」
「随分とまた忙しいんだな。それだと、あまり家族と会話する機会もないんじゃないか?」
怜は小さく頷いた。
「しかも、あたしが起きる前には出かけちゃうから平日はほとんど話さない。土日だって、なんか部屋に籠もって仕事してるし。会話なんて全然しないよ」
努めて明るく話す怜の表情からは、どこか寂寥感めいたものが滲み出ていた。
「そうだったのか……」
悪いこと訊いてしまったな……。さっき人のプライベートには深く関わらないようにしようって決めたのに。怜を傷つけてしまったかもしれない。
「なーに、しょぼくれちゃってんのよ」
落ち込む僕を見て、彼女はバシバシ背中を叩いてきた。
「あたしのことを可哀想だなあ、みじめだなあ、とか思ってるわけ? もし、そう思ってるなら、そんな哀れなあたしのお願いを聞いてくれない?」
「そ、そんな風には思ってないけど……。お願いって?」
「ふっふっふ……あれよ!」
びしっと自分で効果音をつけながら指差した先には――僕の愛用のママチャリがあった。
「あたしを家まで送りなさい」
女の子を後ろに乗せて自転車を漕ぐ、などという素敵イベントは僕には一生縁のないものだろうと悲観していた。しかしながら、まさかこのようなかたちで青少年の夢の一つである女子との二人乗りが実現しようとは。
状況を説明すると、ペダルを漕いでいるのはもちろん僕で、怜は荷台に横向きに座り手を僕の腰に回している。
この乗り方は通称「耳すま乗り」といわれるものだ。名付け親は僕であるが。
意外にもペダルを漕ぐ力は、一人で乗っているときとあまり変わらなかった。女子の身体は男が想像しているよりもずっと軽いだなんて迷信だと思っていたが、実際に体験してみると、さもありなんといったかんじだ。
コンビニから怜の家まではさほど遠くなかったのですぐに到着した。怜の家も春人の家と同じく一戸建て住宅だったが、コンクリートの打ちっぱなしなので、僕は彼女の家を訪れる度にどこか無機質な印象を受ける。
ありがと、と言いながら荷台から降りる怜。
僕はどうしても彼女に訊いておきたいことがあった。
「なあ、怜」
「うん? なに」
「どうしてバイトをやってるんだ? お金にそこまで困ってるわけじゃないだろ」
「まあね」
「なにか欲しいものがあるからやってるとか?」
「それもあるけど、それがメインの理由じゃない」
「じゃあなんで?」
僕が再度問うと、怜は木の温もりを一切感じられない混凝土の城を見上げながら答えた。
「居場所が欲しかったんだよね」
「居場所?」
僕が首を傾げていると、怜はふっと一つ笑った。
「うん。さっきも言ったけどさ、両親が帰ってくるのは夜中だから、学校から帰ってきても一人なわけ。小さい頃は別になんとも思ってなかったんだけど、ある日ふと気づいたんだ。あたしの居場所ってどこだろう? って。もちろん、この家があるし自分の部屋もあるから、物理的な居場所はあったんだけどね。こうなんていうのかな……ここに居てもいい理由みたいなものがないなって。そんなの家族だから居ていいに決まってるだろ、って思うかもしれないけど、いつも一人だったからそういうものが実感できなくてさ。それで高校一年の春に、たまたまあのコンビニに立ち寄ったら『バイト募集』って書かれてる紙を見かけて、そのときに、はっと思いついたんだ」
僕は怜が次に言う言葉がわかった。
「居場所がないなら新しく自分で居場所を開拓すればいい……」
「そう。それであそこで働きだしたの。初めてのバイトだから勝手がわからなくて最初のうちは大変だったんだけど、店長さんや先輩たちが優しく丁寧に教えてくれたおかげで、仕事はすぐに覚えられた。そうしたら、働いていくうちにどんどん楽しくなってきちゃって……。あたしはここに居ていいんだ、って思えるようになったの。言葉じゃ言い表しづらいんだけど、こんなかんじかな」
「なるほどな……」
「なに考え込んでんの? あ、もしかしてあたしと一緒にバイトしたくなってきちゃった?」
顔を寄せてくる怜。
「いや、それは遠慮しておく。接客は苦手だし」
丁重にお断りすると、怜は頬を膨らませた。
「なんだよお。でも気が変わったら教えてね。いつでも大歓迎だから!」
「気が変わったらな」
「うん!」
大きく頷く怜の顔には、満面の笑みが広がっていた。
「じゃあそろそろ帰るよ。もう夜遅いし」
「そうだね。じゃあまた明日」
「また明日」
怜がコンクリートの塊の中に消えていくのを見届けてから、僕はサドルに跨った。
家までの帰り道。僕は先ほどの怜との会話を反芻していた。
まさかバイトをしている理由があれほどしっかりしたものだとは思わなかった。正直、
小遣い稼ぎが目的だろうと予想していたから、少しあいつのことを見直した。
怜は、「新しい居場所を見つけるためにバイトを始めた」と言っていた。
もちろんそれも理由の一つ――彼女が嘘をついていなければ――なのだろう。
しかし彼女と話しているうちに、それよりももっと大きな理由があることに気がづいた。
きっとあいつは寂しかったのだ。無意識のうちに人を求めていたのだ。一人で多くの時間を過ごすということに耐えられなかったのだろう。多くの人は、一人の時間が長ければ長いほど、人恋しさも増すものだ。あいつも、そのように感じる一人だったのだろう。もちろん僕も。部活にでも入ればまた違っていたのかもしれないが、怜はどの部にも所属していなかった。気に入った部活がなかったのだという。
コンビニでのバイトは、人と話せるという点においては非常に有益なものだ。一日に数十人もの人々と会話をすることができる。それは僕みたいな、家でぼんやりテレビを見ているようなやつには決して経験できないものだ。
僕にも怜の一人ぼっちの寂しい気持ちをよく理解できる。やっぱり一人は寂しい。僕の場合は帰ってくる両親もいないので、その思いは一層大きい。
「一人暮らしは親の監視の目もないからやりたい放題だろ」と春人に羨ましがられているけれど、実際はそんなに楽しいものではない。
頼れる相手がいないということは、すべてを一人で抱え込まなければいけないということになる。
相談できる相手がいないということは、すべてを一人で解決しなければいけないということになる。
だから、春人や怜が羨ましい。僕は「家庭」というものを経験したことがないので、それがどういうものなのか具体的にはよくわからないのだけれど、自分が困ったときには相談に乗ってくれるだろうし、力になってくれるだろう。
このようなことは親しい友だちでもよいのかもしれない。
しかし、どれだけ仲が良くても他人なのだ。血の繋がりはない。たとえ、普段ほとんど会話をしない怜の両親でさえ、もし娘が学校でいじめを受けていたら、それを阻止するために全力を尽くすだろう。
家族とは、親とは、そういうものだと思う。そうであってほしい。
まあ結局のところ、僕はただの寂しがり屋なのかもしれない。一人暮らしを始めて約二年経つが、寂しさを感じなかった日は一日たりともない。たまに、まるで世界から切り離されたような孤独感に苛まれることさえある。
小学生や中学生のときには、いつも家族がいたのでそのようなことを感じたことは――
ってあれ? 僕、ここに引っ越してくる以前はどうしてたっけ? なんていう中学校に通っていたんだ? 小学校は? 幼稚園は?
……あ、そうだ。中学三年になったとき、父親が海外へ転勤することになり、それを機にここへ引っ越してきたんだった。ということはそれ以前は父親と二人暮らしだったのか。
ったく、自分の過去を類推しなくてはならないとは。人間の記憶力ってやつはまったくあてにならないな。
そんな記憶力のなさを嘆き悲しみながら歩いていると、もうマンションの目の前まで来ていた。駐輪場に自転車を停めて、階段を上がり、二階へ向かう。
このときの僕は、朝から女の子とぶつかったり、ヤンキーに追いかけられたり、女の子の部屋に行ったり、女の子と二人乗りをしたりと生まれて初めての経験をたくさんしたおかげで心も体もくたくたになり、眠気が限界にきていた。
そのため、初めは自分の部屋のドアの前に段ボールが置いてあるのかと思った。
あれ、通販でなにか頼んだっけ? それとも父親からの贈り物? はたまた捨て猫?
しかしだんだん近づいていくにつれて、それが段ボールではないことに気づいた。というか全然違った。
それは、人だったのだ。焦げ茶色のローブをまとった人らしきものがドアの前で体育座りをしている。フードをすっぽりかぶって俯いているので顔はよく見えないが、体型からして中学生、下手したら小学生かもしれない。かすかに寝息が聞こえる。
どうしてこんなところで寝ているんだ? なんでよりによって僕の部屋の前に?
お母さんと喧嘩でもして家を追い出されたのかな。でも、そうだとして、なぜ僕のところなんだ。第一、このマンションは一人暮らし用だ。家出をした人間がわざわざこんなところに来るだろうか。
もしかしたら、このマンションにこの子の知り合いが住んでいてそこに逃げ込もうとしたのかもしれない。それで、部屋番号を間違えて僕の部屋の前に来てしまったのかも。
兎にも角にもこの子に事情を訊いてみないと。
そう思い、その人間の肩のあたりを叩こうと手を伸ばすと、急にむくっと顔を上げた。 僕は驚いて後ずさる。
その顔つきは、非常に幼く、性別の判別が難しいものであった。まだ眠たいのか、ローブの袖で目をごしごしこすっている。やがて僕の存在に気づいたのか、ゆっくりと目線を上げていく。そして僕と目が合うと、その容姿からは想像できないような妖艶な笑みをこぼしながらこう言った。
「来ちゃった」
これは厄介なことになった。
どうやら、この小さな子は僕を知り合いの誰かと勘違いしているようだ。
どうしよう。もうこんな時間だし、ここで、「僕は君のことなんて知らない」なんて言ったらこの子は夜の町を彷徨うことになっちゃうよな……。
しょうがない。ここは話を合わせよう。と思っていると、話しかけられた。
「久しぶりだね」
「……え? あ、ああ、そうだね……はは」
「ボクのことおぼえてる?」
「も、もちろん! そ、それにしても前に会った時よりずいぶん大きくなったね」
ボク? あれ、その体つきから、どちらかというと女の子だと思っていたのだけれど、もしかして男の子なのか。
「そ、そうかなあ。あんまり実感はわかないんだけど……もみもみ」
「いやいや、そこじゃなくて! 身長が高くなったってこと!」
「ああ……なあんだ。胸のことかと思ったよ」
胸の大きさを気にするってことはやっぱり女の子なのか?
「ところで、……えーっと、なんて……」
「もしかしてボクの名前忘れちゃった?」
「……ごめん。久しぶりすぎて」
「ふうん。まあ人間は忘れっぽい生き物だからね」
苦しい言い訳だったが、どうやら納得してもらえたようだった。
「はい、これがボクの名前」
そう言って、ぐいっと自らの右肩を近づけてくる。そこには赤い糸で「ROZE」と横書きに刺繍が施されていた。
「ああ、思い出した! ローズだ」
「違うよ。ロゼだよ。ローズだったら〟Z〝じゃなくて〟S〝でしょ」
「あ……」
しまった! 大事なところでミスを犯してしまった。怒られるか、泣き出すかと思い身構えたが、このロゼという名の少女(?)は柔らかく笑っただけだった。
「まったく……本当、外国語に弱いなあ、ワタルは。ねえ、もう寒いから中に入ろうよ」
「そうだな。早く入ろう…………って、え?」
「どうしたの?」
「あ、いや……なんでもない。ほら、入って」
僕の反応に首を傾げながらも、ロゼはドアノブに手をかける。当然のようにドアノブは回らない。僕は慌ててポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差して回す。そのままドアを開けてもよかったのだけれど、なんとなくそれをするのは憚られたのでドアを開ける役目はロゼに譲った。
「お邪魔しまーす」
勢いよくドアを開いたロゼの後に続き、後ろ手でドアを閉める。
腑に落ちないことが一つ。
たぶん、いや確実にロゼは僕の名を口にした。どうしてこいつが僕の名前を知っているのだろう。本当に僕の知り合いなのか? だとしたらこの子は、僕とは一体どういった間柄なんだ?
僕の部屋は、渡瀬の部屋の造りとほとんど同じで(同タイプのマンションに住んでいるから当たり前なのだが)、入ってすぐに短い廊下が続いており、カーテンで仕切られた先に洋室がある。ロゼは興味津々といった様子で左手にある浴室やトイレ、右手の流し台などをひと通り見てから、
「意外ときれいにしているんだね。もっと汚いかと思ってたよ」
と、ニヤつきながら褒めてきた。室内に入ったからなのか、フードを脱いでおり、きめ細やかな赤褐色の髪が露わになっている。髪型は少し長めのボブカットだ。さらに、外にいたときはわからなかったが、グリーンに少しグレーを混ぜたような瞳の色をしている。僕は赤毛の人はみんな碧眼だろうと勝手に思っていたのでこれは意外だった。
髪の色と眼の色から察するに、おそらく日本人ではないのだろう。しかしこれだけ流暢な日本語を話すということは、ハーフなのかもしれない。
「きれいで悪かったな」
少しむっとしながらも言い返すと、ロゼは小首を傾げた。
「ワタルはあまり片付けるのが得意じゃなかった気がするんだけどな。こっちに来るとそういうのも変化するんだ……」
「え、なんのこと?」
「ううん、なんでもない。それより奥に行ってもいいかな? 立ち話もなんだからさ」
確かにそうだ。こんな狭いところで話していてもしょうがない。僕は一つ頷くと、仕切りの役割をしているカーテンを開けた。
「どうぞ。適当に座って」
はあい、とロゼは言い、僕のわきを通過して円卓の前に腰を下ろす。
僕は食器棚からコップを二つ取り出し麦茶を注いで部屋に運ぶと、ロゼの向かいに座った。
「はい、麦茶」
「ありがと」
ロゼは麦茶を受け取ると一口で飲み干してしまった。それからぐるりと部屋を見回して一言。
「本当にきれいだなあ。ゴミ一つ落ちてないね」
ロゼは部屋の奇麗さにいささか感銘を受けているようだ。僕は心もち胸を張って言った。
「まあ狭いからね。掃除が楽なんだよ」
「実は、彼女がときどき掃除しに来てるとか?」
「だったらいいんだけどね。残念ながら自分で掃除してます」
「本当かなあ」
ロゼは疑いの目を僕に向けてくる。
「本当だよ」
「ど忘れしてるんじゃないの? ボクの名前も忘れてたし」
「いないもんはいない! これ以上は空しくなるからやめてくれ……」
「ごめん、ごめん」
謝罪の言葉を口にしてはいるが、顔が笑っていたので全く謝られている気がしなかった。
なんか調子狂うなあ。顔は幼いのに言葉遣いや仕草が年不相応なんだよな。そのせいで
会話の主導権を握られてしまっている。
よし、今度はこっちから質問してやろう。そしたら僕のペースで話を進められるはずだ。まずは一番気になっていることを訊こう。
「ねえ、ロゼ。なんで僕のとこに来たの?」
「お腹すいた」
「は?」
「お腹すいたって言ったの。こっちに来てからまだ何も食べてないんだよね」
そう言いながら胃のあたりを押さえている。今にも腹の音が鳴りそうだ。
「そうなんだ……じゃなくて、僕の質問に答えてよ!」
「食べもの、食べもの…………あっ! あれなに?」
ロゼは鞄の上のコンビニ袋を指差した。
「ん? あれは弁当だよ。さっきコンビニで買ってきたんだ」
「弁当!?」
ロゼの灰緑色の瞳が輝いた。
しまった! と思ったときにはすでにコンビニ弁当はロゼの手に。
「いっただっきまーす」
ちょっと待て! という制止の言葉も聞かず、むしゃこら食べ始めてしまった。
僕はしかたなく怜からもらったアメリカンドックを頬張った。だいぶ時間が経っていたので冷たく、生地はしなしなであまりおいしくない。これではホットスナックというよりクールスナックだ。
弁当もすっかり冷えていているはずなのに、ロゼは「おいしい!」と感嘆の声を洩らしながらどんどん口に運んでいく。そして、三分も経たないうちに完食してしまった。しまいには麦茶のおかわりを要求してくる始末。麦茶に砂糖でも入れてやろうかと思ったが、さすがに可哀想なので代わりに塩をひとつまみ入れた。
コップを渡すと、さっきと同じように一気に飲み干した。味の違いには気づいていないようだ。くそったれ。ロゼはコップをテーブルに置くと、言った。
「で、さっきはなんて言ったの?」
「ああ、そうだった。えっと、どうしてここに来たんだ?」
「……知りたい?」
「知りたいから質問してるんだろ」
「それもそうだね。実は、ある噂を調べるために来たんだ」
「うわさ?」
「うん。その噂の真偽を確かめるためにボクはここまでやってきたというわけ。調査員といったところかな」
まったく言っている意味がわからない。
「へえ……。で、その噂っていうのはなんなの?」
「それは秘密。守秘義務があるからね」
「……あっそ」
「教えてあげられなくてごめんね。決まりは守らないといけないから」
「……うん」
「でも、後日教えてあげることができるようになるかもしれない。まあ、それも今回の調査の進展次第だけどね」
「…………」
「どうしたの?」
「いや、べつに……。なんかすごいなって思って」
妄想が。
「そんなことないよ。ボクは与えられた仕事をこなすだけだよ」
さぞそれが当たり前のことのように宣うロゼ。
「だって仕事っていうのは大人になってから始めるもんだろ。そういえば、お前はいくつになったんだっけ?」
「十六」
僕は思わず吹き出しそうになる。
「冗談はよせよ」
「冗談じゃないよ」
「いやいや、無理があるだろ。そんな容姿じゃあ、中学生だって厳しい――」
突然、視界が真っ暗になり、星がちらついた。
ビンタされたのだと認識するまでに数秒を要した。右頬がズキズキ痛む。叩かれるとこんなに痛いものなのか。
とういうか、何故ぶたれたんだ? いったい何がこの子の琴線に触れたんだ?
ロゼはしばらく憤怒の表情を浮かべていたが、やがて少し落ち込んだような表情で口を開いた。
「やはりボクの読みは正しかったようだ。今ので確信したよ。キミはそんなことを言うような人じゃなかった」
「え? どういうこと?」
ロゼは僕の問いには答えず、目を伏せてじっと考え込んでいたが、やがて意を決したように僕の目をまっすぐ見つめ、こう告げた。
「端的に言おう。ワタル、キミは記憶喪失だ」
「は?」
声が洩れてしまうのも無理はない。
見知らぬ、性別も分からない子どもが、突然自分の家に来て「君は記憶喪失だ」と宣告されるなんて考えられない。突拍子がないにもほどがあるだろ。妄想は自分の頭の中だけでやってろよ。他人を巻き込まないでくれ。
「キミがそんな顔をしてしまうのも無理はない。信じられないだろうが、これは事実なんだ。ワタル、キミは記憶を失っているんだよ」
「……おまえ、頭大丈夫か?」
「いたって正常だよ。そうじゃなきゃ、調査員としてここに派遣されないでしょ?」
「……………」
もうなにを言っても無駄なようだ。
「うーん、どうやったらキミに信じてもらえるだろうか……」
腕を組んで考え込むロゼ。
「そもそも、僕が記憶喪失だと思う根拠はあるのかよ?」
「あるにはある」
「なんだよ?」
曖昧な返答だな。
「それは、キミがボクのことを忘れているということだ。それに、以前のキミだったら、決してこのボクの年齢にそぐわない容姿を馬鹿にしたりしはない。ボクがそういうことを言われるのを嫌っている、ということを知っているはずだからね」
「……ごめん」
「いや、いいんだ。ボクのほうこそ悪かった。つい感情的になってしまって……」
そう言うと、ロゼはうなだれてしまった。僕もなんと返したらいいのかわからず、黙りこくってしまう。
沈黙を破ったのはロゼだった。
「しかし、この理由だとボクは納得できても、キミは納得できないだろう?」
「あ、ああ。お前が嘘をついているだけかもしれないからな。実際、僕はそう思ってるし」
「そうだよね。さすがにこれだけでは信じてもらえないか」
はは、と自嘲気味に笑うロゼ。僕は麦茶を一口飲むと、言った。
「あまりに根拠として薄すぎるからな」
「なるほど……ちょっと質問してもいいかな?」
僕は頷く。
「高校に入学する以前はなにをしていたの?」
「中学校に通っていたけど」
当たり前のことを訊いてくるな。
「この近くの中学校に通ってたの?」
「いいや。中学三年の初めに、父親が海外に転勤になったから、それで僕もこっちに引っ越しってきたんだ。だから、それまではこの近くの中学校には通っていなかった」
「なるほどね。こちらにやってくる前まではどこに住んでいたの?」
「どこってそりゃあ…………あれ、どこだっけ?」
ここからは結構離れていた気がするんだけれど。てか、どんな家だったっけ? 一軒家? それともアパート?
僕が悩んでいると、ロゼは続けて質問してきた。
「両親と三人で暮らしていたの?」
僕は首を横に振った。
「母親は物心つく前に亡くなったから、ずっと父親と二人で暮らしてきた」
「お父さんはどんな人だったの?」
「………………」
「どんな人だったの?」
「……わからない」
愕然とした。
父親の面影はおろか、名前さえ思い出すことができない。
「転校する前の学校のクラスメイトの顔は覚えてる? 担任の先生は?」
「…………」
「家の近所にはなにがあった? ご近所さんはどんな人?」
「…………」
「お父さんの職業は? どこで働いて――」
「もうやめてくれ!」
頭の中が混乱してしまい、つい声を荒げてしまう。
「……ごめん。怒鳴ったりして」
「ううん。ボクのほうこそ問い詰めるようなことをして悪かったよ。でも、これで自分が記憶喪失だってことがわかったでしょ?」
頷くしかなかった。
よく考えてみると、十年以上一緒に過ごしてきた父親の顔や、つい数年前まで暮らしていた家の形も思い出せないなんてさすがにおかしい。
そう、おかしいのだ。
でも、一番問題なのは「忘れていることがおかしい」ということに、今の今まで気づかなかったことだ。
まるで僕の脳が、そういう考えに至るのを避けているような――。
「なあ、ロゼ」
「なに?」
「お前と僕はどういった間柄なんだ?」
こんなに親しく話しているのだから、僕が記憶を失っているだけで、おそらくロゼとは知り合いなのだろう。
「小学校三年からの友達だよ。中学二年まで、ボクらはほとんど同じクラスだったんだよ。憶えてる?」
僕はかぶりを振った。
「……ごめん。まったく心当たりがない」
「それはそうだよね。わかってたことだけど、こうはっきり言われると、ちょっとショックかな……」
ロゼの表情が一気に沈んでしまった。
この落ち込み様を見る限り、僕とこの子がクラスメイトだったということは事実なのかもしれない。けれど、ロゼが嘘をついていて、落ち込んでいるふりをしている可能性も否定できない。まあここで僕に対して嘘をつくことが、ロゼにとって意味のあることとは思えないけれど。
「もしかして、ボクのこと疑ってる?」
と、ロゼが訊ねてきた。
「え、なんでそう思うの?」
「そんな疑いのこもった目で見られたら、誰だってそう思うよ」
思っていることが顔に出やすいタイプなのかな、僕。それとも、ロゼの洞察力が優れているのか。僕は素直な心情を吐露した。
「正直、信じられないんだ」
「うーん、やっぱそうなるよねえ。あっ、そうだ!」
なにか思いついたのか、ロゼはローブのなかに手を突っ込んだ。そして、中から一枚の写真を取り出した。
「これを見たら、信じてもらえるかな」
そう言って、僕に写真を渡す。写真には、私服姿の小学生らしき子どもたちが、紅葉を背景に横三列に並んで映っていた。どの子も無邪気に笑っている。
「これは?」
僕の問いに、ロゼは昔を懐かしむように答えた。
「あれは、小学校五年のときだったかな。みんなで近くの山へハイキングに行ったんだよ。これは、そのときに山頂で撮ったうちのクラスの集合写真。ほら、ここ見て」
ロゼが人差し指を向けたところには、今よりも幼いロゼと僕らしき子ども(小学生時代の自分の顔を覚えていないので断言できない)が並んで映っている。
「…………信じられない」
僕のつぶやきにロゼは何度も頷く。
「だろうね。でも、これは事実なんだよ。もちろん、合成写真なんかじゃない。キミはボクと友達だった……いや、友達なんだよ」
「…………下手したら幼稚園生に見えるぞ、これ」
「うん、確かに――って、どういうこと!?」
「ほんとに小さくてかわいいなあ…………フヒヒ」
「ワタル!? なんでボクの写真見てニヤニヤしてるの!?」
「えっと、ハサミはどこに閉まったっけ……」
「ちょ、なにするつもり!?」
チョキ、チョキ、チョキ、チョキ…………。
「なんでボクのところだけ切り抜いてるの!?」
「…………よし、できた! 大切に保管しておこうっと」
「――って自分のところだけかい!」
「当たり前だろ。貴重な僕の小学生時代の姿なんだから」
「よかった、そういう理由か。ボクはてっきりロリコンだと」
「そんなわけあるか……ふふ、それにしても本当にかわいいなあ、小学生の僕……フヒヒ」
「ロリコンよりやばいかも……」
僕はもう少し自分の可愛らしい写真を眺めていたかったが、ロゼが軽蔑の眼で睨んでくるので、仕方なく切り抜いた写真を机の引き出しに閉まった。ロゼは僕にとっては何の価値もない切り取られた写真を手に取ると、それをローブのなかに戻した。
「で、納得してもらえた?」
僕は頷いた。
「自分が記憶喪失だということを認めるよ」
「それだけ?」
「あと、お前が僕の友達だということも」
「よかった」
ロゼは微笑んだ。
よくよく考えると、僕は人見知りなので、初対面の人間とこんなに打ち解けて話せるはずがない。そのことにもっと早い段階で気がづくべきだった。
ロゼと友達だった、という記憶を失ったとしても、僕の心、または身体が憶えていたから、テンポ良く会話をすることができているのかもしれない。
こうしたいくつかの根拠から、自分が記憶喪失であることは理解できた。
でも――
「どうして、僕は記憶喪失になったんだろう?」
「ボクもそれはさっきから気になっていたんだ。記憶を失ってしまったのには、何か理由があるはずなんだけど……」
ロゼの言うとおりだ。朝起きたら、記憶喪失になっていたなんていう馬鹿げた話があるはずがない。物事には必ず理由があるはずだ。
「繰り返しになるけど、高校に入る以前のことはまったく憶えていないんだよね?」
腕を組んで考えに耽っていたロゼが訊ねてきた。
「うん。でも……」
「なにか気になることがあるの?」
身を乗り出して訊いてくる。
「あるにはあるんだけど。……なんて言えばいいのかな」
「まとめようとしなくていいから、思っていることをそのまま言ってみて」
ロゼにそう促され、僕は考えていることをそのまま口に出した。
「確かに僕は高校入学以前のことを憶えていない。忘れてしまっているんだ。けれど、さっき言ったように、父親と二人で長い間一緒に住んでいたことや、母親が早くに亡くなっていることは僕の中に記憶として残っているんだ。それなのに、両親の顔はまったく憶えていない。これっておかしくないか?」
「父親と住んでいた」という文字としての記憶は頭の中に存在している。が、それに関する記憶(どんな家に住んでいたか、家の中には何があったか)を思い出すことができない。というより、初めから存在していないかのようだ。
僕の話を聞いてロゼは少し考え込んでいたが、やがてなにか思いついたのか、はっと顔を上げた。
「なにか分かったのか?」
ロゼは首を横に振って頷いた。分かったような、分かっていないような様子だ。
「ワタル。キミは高校に入るまでのことは憶えていない――いや、忘れているんだよね?」
「うん。何度もそう言ってるじゃん」
「じゃあ、高校に入ってから今までのことは憶えてる?」
僕は即答した。
「もちろん」
「具体的に憶えてることは? 行事とか」
「えーと、体育祭は小雨のなか行われて、百メートル走で八人中三位になった。文化祭では劇で悪役を演じたよ。僕たちの劇は投票で一位になったんだ。あとは……」
あれ、なにか大事なことを忘れているような気がする。体育祭、文化祭に限らず、どの記憶もどこか一ヵ所だけぽっかりと抜け落ちているような……。まるで、そこだけマジックで黒く塗り潰されているみたいな……。
「やっぱり高校のことはしっかり憶えているんだね。ということは、やはり……」
「思い当たることでもあるのか?」
「……うーん、なんとも言えないな。ところで、クラスで仲が良い友達はいる?」
「唐突だな。まあ、それなりにいるよ」
「その友達の名前は?」
「言ったってわからないと思うけど」
「いいから教えて」
有無を言わさぬロゼの問いに、僕は首を傾げながらも答えた。
「特に仲が良いのは、五十嵐怜と波流春人ってやつかな。いつも一緒に昼飯を食べてるよ」
「……それだけ?」
「親しいのはこの二人くらいかな。他の連中とはたまに話すくらいだ」
「なるほど……」
ロゼは僕の答えに何度も頷いた。何か掴んだみたいだ。もしかしたら、記憶喪失の原因がわかったのかもしれない。やがてロゼは真剣な顔で話し始めた。
「これはあくまで推論だけど、二つわかったことがある」
ロゼは人差し指を立てた。
「一つ。高校入学以前のことは忘れてしまっていて、それ以降から現在までのことは憶えている。つまり、高校に入る直前の時期に記憶を失うような出来事があったはず」
なるほど。ということは一年前の春休みに、僕の身に何かが起こったということか。
「もう一つは?」
「二つ目だけど、おそらく……」
今度は中指を立てたが、なぜかそこで口ごもってしまう。
「どうした?」
「……おそらく、キミはその時、誰かによって偽の記憶を植え付けられたんだ」
「…………は?」
また訳のわからないことを言い始めたぞ。つまり、誰かが僕の記憶を操作したってことか? 馬鹿馬鹿しい。そんなことできるわけないだろ。
「急に何を言い出すんだこいつは、とでもキミは思っているのだろう」
「当たり前だ。記憶を失っているらしいことは理解できたとしても、偽の記憶を植え付けられたなんてことはさすがに信じられない。第一、そんなことが可能なのか?」
他人の記憶を書き換えることのできる人間がこの世界に存在しているとは考えられない。
「まあそう思うのも無理はない。だってボクは、まだ大事なことをキミに伝えてないから」
そう言ってロゼは微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「大事なこと?」
「キミの過去を語る上でとても重要なことだ。これを知ったら、キミの人生が大きく変わってしまうだろう。いや、変わるというよりはむしろ――」
「もったいぶらずに早く教えてくれよ」
こいつは一体なにを知っているっていうんだ。まだ僕には秘密があるのか。だとしたら、どれだけ僕は今まで自分自身を理解していなかったんだ。
しかし、ロゼは首を横に振った。
「これを言ったらキミはさらに混乱し、動揺してしまうだろう。ただでさえ、今日は今まで知らなかったことをたくさん知ったはずだ。これ以上、キミの心に負担をかけるのはよくない。それにもうこんな時間だし、この話はまた明日にしよう」
「……そうだな」
正直、ロゼが握っている僕に関する秘密はとても気になる。今すぐにでも訊きたい。
でもロゼの言うとおり、疲れているのも事実。明日教えてくれるのならそれでもいいか。
「うん。じゃあ、おやすみー」
僕が同意するや否や、ロゼはベッドに潜り込んでしまった。すでに寝息を立てている。
「……ったく、なんなんだよこいつは」
本当に、今日は朝からいろいろなことがあった。こんなに忙しかった一日は生まれて初めてかもしれない。記憶を失っている――ロゼが言うには書き換えられている――ので、ここ一年間での話になってしまうが。
ロゼの寝顔を眺める。とても僕と同い年には見えない。子ども用切符で改札を通り抜けても誰も疑問に思わないだろう。そのくらい幼い顔立ちだ。
そういえば、ロゼは調査員としてここに派遣されたと言っていた。
調査とは何のことなのだろう? あまりに当たり前に言うものだから、深くは追及しなかったけれど。
まあ気にはなるが、こんなにすやすや眠っている子を起こすのも気が引けるし、また明日訊いてみるか。
あまり見つめていると変な気分になりそうだったので、浴室に向かい、シャワーを浴びた。浴室から戻り、クローゼットから以前来客用に購入しておいた寝袋を引っ張り出して、それにくるまった。
なかなか寝つけないかと思っていたが、疲れ切っていたのですぐに眠りに落ちた。
『おはようございます!』
カーテンの隙間から差し込む陽光が眩しくて目を覚ました……かった。残念ながら僕を夢の世界から現実に引き戻したのはニュースキャスターの快活な朝の挨拶だった。
部屋のテレビは、本来の用途の他に八時になると自動で点くようにタイマーを設定して目覚まし代わりとして使用している。今までは携帯電話のアラーム機能を利用していたが、無意識のうちに自分で消しているらしく、全く役に立たなかった。その点、テレビはなぜか目が覚める。やっぱり人の声を求めているのだろうか――一人暮らしだし。寂しいし。
大きく伸びをすることにより自分の空っぽな頭のスイッチをオンにして、ベッドから降りる。洗面台に向かい、歯ブラシの隣に置いてある目薬を手に取る。コンタクトレンズを装着しているわけではないのだが、目の渇きを潤すために、いつだったからか朝起きると、目薬を差すようにしている。
居間に戻ると、木製の円卓に置いてある携帯電話を取り、あいつに電話を掛ける。
まぁ、僕の数少ない日課ってやつなのだが。
プルルルル……プルルルル……プルルルル……プルルルル……プルルルル……。
『ただいま電話に出ることができません』
……あやうく地面に携帯電話を叩きつけそうになった。落ち着け、僕。こんなのはいつものことだろ。怒ったら負けだ。
というわけで、リダイヤル。
プルルルル……プルルルル…ガチャ。
『……ん』
「おい、朝だぞー」
『………』
「おーい」
寝てしまったのだろうか。
『……あなた……だれ?』
衝撃の展開! になるわけもなく、
「お前、そのネタ二週間前に使ったばっかだぞ?」
『ネタ? 何のこと?』
まだ粘るか。
『あなた……名前は?』
「名前? 見境航(みさかい わたる)だ。忘れたのかよ」
『……ごめんなさい。えっと、私の名前は……あれ?』
「おいおい、記憶喪失さんよぉ、自分の名前も忘れちまったのかよ。五十嵐怜(いがらし れい)だろ。苗字がゴテゴテしていて嫌いってよく嘆いてるじゃねえか。そんなテンプレ展開はご勘弁願いたいね」
『それくらい知ってるよ。人を馬鹿にするのもいい加減にしてよね』
「ちょ……お前!」
せっかく人がくだらんネタに付き合ってやったっていうのに。
『ふふっ、メンゴメンゴ! 毎日ありがとう、起こしてくれて。おかげでもうバッチリ、お目々パッチリだよ』
なにがバッチリでパッチリなんだか。
『じゃ、おやすみー』
「おい!」
――以上が平日の朝、僕に課された使命である。怜の両親は共働きで、いつもあいつが起きる前に家を出てしまっているらしい。おまけに朝が弱く、それを見かねた母親が学校でそれなりの仲の僕に助けを求めてきたってわけだ。まったく、なんで引き受けてしまったのか。あの時の僕はどうかしていたのかもしれないな。
こんな経緯があって、先ほどのようなやりとりを五日連続で交わしている。ポジションがまったく違うゴールキーパーとフォワードの能力を比べるくらい意味のないことをやっているという自覚はあるんだけど。
自覚があるならやめろって?
それくらいすぐに僕だって思いついたさ。だから、一度モーニングコールをしなかった日があったんだ。そしたら、もう………凄かった。あいつのあんな顔を見たのは初めてだったね。鬼の形相どころじゃなかった。その顔で僕に迫って――これ以上は言いたくない。
そんな怖い顔を持つ怜に「じゃ、学校で」と言い、電話を切った。
さて、僕も学校へ行く準備を始めるとするか。
「はあっ…はあっ…はあっ…はあっ…はあっ…」
少し時間に余裕があるからといって制服姿でのんびりコーヒーなぞ飲んでいたのが間違いだった。朝のひと時を優雅に過ごしている自分に酔っていたせいで時計を見ることすら忘れていた。気づいたときには遅刻ぎりぎりの時間で、慌てて鞄に教科書を詰めて家を飛び出し、ただいま絶賛登校中である。
桜もとっくに散りきってしまい、ぽかぽか陽気で春本番! のピークも少し過ぎてしまった今日この頃であるが、周囲の状況を感じとる余裕もないほど、ただ走っていた。
まあ、いつも通っている道なので大した感慨もないが。
全力疾走したおかげで何とか間に合いそうだ。すっかり散ってしまった桜の樹を両脇に携えている正門を通過して、グラウンドを横断し、昇降口に突入する。進級して1ヶ月も経っていないので自分の下駄箱を見つけるのに多少の苦労。急いで上履きに履き替え、愛用のスニーカーを下駄箱にイン。そしてまたダッシュ。下駄箱を右に出て廊下を突き進む。
突き当たりを左に曲がったところが僕の、いや、僕たちの教室、二年八組だ。
よかった間に合う、と内心ほっとしながら角を左折した瞬間、女の子が教室のドアから出てきた。
だが、いまさら気付いたところでもう遅い。彼女がちょうど廊下に出たところで勢いよくぶつかった。僕とその女の子は廊下で盛大に尻餅をつく。
「いててて…ごめん! 大丈夫?」
立ち上がり、謝罪と心配の言葉を口にすると、彼女は僕の顔を見上げて一瞬ひどく驚いた顔をした――ような気がしたが、すぐに俯いてしまった。
僕がさらに謝罪の言葉を紡ごうとしたとき、
「おーい、航。なにそんなとこで座ってんだよ。お前、そんなに床が好きならリノリウムと結婚でもしろよ。その時は俺が神父さんやってやるからさ」
教室の中からやかましい声が聞こえる。おそらくもなにもこんな風に俺を茶化してくる奴はあいつしかいない。
波流春人(はる はると)。
容姿普通、成績普通、身体能力普通。
非の打ち所が、ある意味ない。変わっているのは姓名くらいか。
どうやら春人からは僕しか見えていないらしく、僕が女の子とぶつかったことに気づいていないらしい。これは一安心。女の子と激突したことを知ったら、さらに色々言ってくるからな。
そんなことより――だ。
ちゃんと謝らないと。前方不注意の僕が悪いんだから。
彼女のほうに向き直ると、彼女はプリーツスカートの裾を直しながら立ち上がり、
「……ごめん…なさい」
とだけ言ってトイレの方向に小走りで行ってしまった。
ちょっと、と彼女を呼び止めようとしたものの、その声は無機質なチャイムの音に掻き消されてしまう。
ああ、行ってしまった。こういうのは後になればなるほど謝りにくくなるんだよな。どこのクラスの子かも分からないし。というか、まず同じ学年なのか? 先輩には見えなかったから後輩だろうか。さすがにうちの学校の制服を着ていたからこの学校に在籍している生徒だとは思うけれど。
それにしても、あまりよくは見えなかったが、なかなかきれいな顔立ちをしていた。
なかなか、だ。
特に際立った魅力があるわけではなかったけれど、僕には彼女が美しく見えた。
一目惚れ――とも違う。何だろう、この感覚。今まで数多くの異性を見てきて(こういう言い方をするとさぞ女好きみたいに捉えてしまう人もいるかもしれないが、断じて違う)、可愛らしい、きれいだ、などと思うことはもちろんあったが、そういう感覚ともまた違う。
うーむ、この気持ちをなんと表現すればいいのだろうか。
自分の語彙の貧困さに辟易とする。しかしながら、たとえ僕が生き字引並のボキャブラリーを有していたとしても彼女の魅力を言葉で表すことはできないだろう。
それほどに彼女の登場は僕にとって衝撃――いや、そこまでじゃないな――小撃だった。
出欠の確認しか行わなかった朝のホームルームが終わり、授業が始まるまでの休み時間。
特にすることがなかったので、一時間目の数学の教科書を机の上に出し、ぼーっと窓外の景色を眺めていると、突然、後頭部に鈍い痛みが走った。
「痛っ!?」
振り返ると、丸めた国語便覧を手に怜が仁王立ちしている。なんだかお怒りのようだ。
「なにすんだ! 死んだらどうすんだよ!」
抗議の声をあげると、怜はふん、と鼻を鳴らした。
「こんな打撃じゃ蚊一匹も死なないわよ! 頭蓋骨の強度を見くびらないでよね!」
「たぶん、いや絶対に、蚊を退治するくらいの威力はあったぞ……」
「ごちゃごちゃうるさいわねえ。丸めた教科書でフルスイングしたくらいで頭蓋骨が陥没するわけないでしょ。そもそも、こんな些細なことで怒るなんてどんだけ器量の小さい男なわけ?」
「まあ、確かにそうだけど……」
むう、正論っぽいことを言っているからむやみに反論できない。まさか、殴ってきた奴に説教されるとは。僕は何も悪いことしていないのに。
「そんなことより、さ」
国語便覧を机の上に置くと、怜は溜め息交じりにそう言った。なんだなんだ? もうこれ以上男としてのプライドを傷つけないでくれよ。
「あんた、伊吹ちゃんとぶつかったんでしょ?」
「? ……ああ、あの子の名前、伊吹っていうのか」
「そうよ。渡瀬伊吹。知ってるでしょ?」
僕はかぶりを振った。
「いや、初耳だな。てかお前、あの子と知り合いなんだな。それなら、ちょうどよかった。彼女にちゃんと謝りたいから、何組の子か教えてくれるか?」
「え、何言ってるの?」
きょとんとしている怜。僕、何か変なこと言ったか?
すると、怜は呆れたように人差し指を廊下側に向けた。
何やってんだ、と思いつつ、その指の先を目で追うと――そこには廊下でぶつかった女の子がいた。
一番廊下側の後ろから二番目の席――教室を縦折りしたらちょうど僕の席とくっつく位置―に座っている。
「同じクラスでしょ。あんた気づいていなかったの? まあ、伊吹は物静かだから気づかないのも無理ないか」
うんうん、と怜は得心がいったのか、ご自慢のポニーテイルを揺らしながら頷いている。
物静かだから気づかなかった?
そんなわけがない。もうクラス替えをして一ヵ月近くが経とうとしているのに、名前はおろか同じクラスの生徒の顔も覚えていないなんてあり得ない。
どうした僕の海馬? ちゃんと働け。
まあ、よく考えてみれば、チャイムが鳴るギリギリで教室を飛び出してトイレの方向に駆けていったのだから、お花を摘みに行ったと考えるのが妥当か。まったく、同じ教室で過ごすクラスメイトの顔も分からないとは。
でも、三十日近くも同じクラスで過ごしていれば、さっきぶつかった時に少しでも何かが過ぎる気がするんだけどなあ。
と、僕が脳内議論に夢中になっているところに怜が割り込んできた。
「ねえ、航」
「なんだよ。今、僕は脳内で高尚な議論を交わしているところなんだ。邪魔しないでくれるかな」
「………」
「……すいません。何でしょうか?」
ボケを無視されることほど辛いものはない。
「ちゃんと伊吹に謝りなさい」
なんでお前に指図されなきゃいけないんだよ。さっき、ぶつかった時に謝ったんだからもう――
「はい」
席を立ち、被害者(渡瀬伊吹)の席へ向かう加害者(見境航)。
べつに怜の目が怖かったから従ったわけじゃないからな。
渡瀬は熱心に教科書を見ているので、僕が接近していることに気づいていない。やっぱり物静かな人は真面目であると相場が決まっているのだろうか。
……うーん、なんか話しかけづらいな。
もう一時間目が始まっちゃうし、昼休みにでも改めて。
……うわ、怜がめっさこっち睨んでる……。しょうがない、覚悟を決めるか。
「あの、渡瀬さん」
「……えっ!?」
ビクッとする渡瀬。いやいや、驚き過ぎでしょ。
「そんなに驚かれると、さすがにちょっと傷つくんだけど」
「あ、ごめんなさい……」
と言って、スーハーと深呼吸をする渡瀬。
「落ち着いた?」
「うん……それで、私に何か用ですか?」
さっきとは打って変わって真面目な顔つきになる。
「いや、ほら、さっきのこと……」
「あれは前を見てなかった私が悪いんです。すいませんでした」
僕の方を向いて頭を下げてくる。謝るはずが謝られてしまった。
「そ、そんなことないよ! 廊下を走ってた僕が悪いんだから。渡瀬は何も悪くないよ」
僕が慌てて言葉を紡ぐと、渡瀬は一つ頷いてこう言った。
「分かりました。それなら、お互いに不注意だったってことにしましょう」
「……そうだね」
なんだか謝ったのかよく分かんないや。
「もう授業が始まりますよ」
渡瀬が黒板の上の壁掛け時計を指差す。
「ああ、そうだな。それじゃ」
「はい」
と、渡瀬はまた教科書を読み始める。もう話は済んだと言わんばかりだ。
勉強の邪魔をしては悪いと思いつつ、どうしても一つだけ彼女に言いたいことがあった。
「なあ、渡瀬」
「何ですか?」
「お前、敬語はやめろよ。同級生なんだからさ、もっとフレンドリーにいこう」
「分かりました」
「だからそれがもう敬語だろ」
「……わか……った」
恥ずかしいのか、目を伏せがちにぽつりと呟く。
「おう。そんじゃ、これからよろしくな!」
言いつつ、僕は右手を差し出す。
「よろ……しく」と言いながら、彼女がぎこちなく僕の手を握り返してきたところで教室にチャイムが鳴り響いた。
じゃ、と言って僕は自分の席に戻る。
握手を交わした瞬間、彼女の表情が少し緩んだ気がした。
「えー、このように左辺の数を右辺に移項することによって計算を楽に行うことができる。さらに……」
年老いた数学教師のしわがれ声が静かな教室に響き渡るなか、僕は文字式で埋め尽くされた黒板ではなく、渡瀬伊吹の横顔を眺めていた。彼女の視線は黒板、ノート、教科書の順にまるで三角食べをするように一定のリズムで順序良く注がれている。
いくらなんでも真面目が過ぎる。こんな爺さんの退屈な授業を真剣に聞いているのは彼女を含め数人だろう。なんたってクラスの半分は机に突っ伏しているし、残りの半分にしたって携帯をいじっていたり、文庫本を読んでいたり、クラスメイトの横面を凝視していたり、とまるで授業を聞いていない。一時間目ということを考慮してもこの状況はあまりにもひどい。
このような惨状を目の当たりにしても一切注意をせず淡々と授業を進めるこの老いぼれ教師の心境はどのようなものなのだろうか?
おそらく呆れているのだろう。本当なら授業を投げ出したいのかもしれない。しかし、全員が全員授業を聞いていないわけではない。僅かながらいるのだ――渡瀬伊吹のような生徒が。
渡瀬を見つめながらそんなことを考えていると、後ろの席の怜が背中を小突いてきた。
「なんだよ」
振り返りつつ、そう訊ねると、怜は唇を尖らせた。
「なんだよ、じゃないわよ。あんたさっきから伊吹のことじろじろ見てるでしょ。授業中なんだから前向きなさいよ」
「べ、べつにジロジロは……チラチラ見てただけ…だよ」
「変態、痴漢」
「痴漢は関係ないだろっ!」
「視姦」
「う……」
間違っちゃいないな……。
「ちょ、ちょっと……航」
突然、怜が慌てたような声を出した。
「うん、どうしたんだ? ……あ」
どうやら僕は興奮して思わず立ち上がってしまっていたらしく、クラス中の視線を浴びていた。寝ていた奴らまで起きてニヤニヤしながらこちらを見てくる。大人しく寝とけよ。
「すいません……」どすっと椅子に落ちる僕。
後ろから怜のクスクスという笑い声が聞こえてくる。この野郎、覚えていろ。
と、僕のおかげ(?)でクラスの空気が多少緩んだところを好機と思ったのか、先生が、
「じゃあ練習問題でもやろうか。何人か当てるから前に出て問題を解いて」
なんて言い出して、黒板に問題を書き始めた。途端にクラスの雰囲気がまた沈んでしまう。 おそらくほとんどの奴らは自分に当てないでくれと願っているだろう。まあ基本問題だと思うからそこまで構える必要はないと思うけど。
すると、また怜が肩を叩いてきた。
「今度はなんだよ」
「ねえ、いつものアレやらない?」
「別にいいけど、いいのか? また負けるぞ?」
「ううん、大丈夫。今日はなんか勝てる気がするの」
親指を立てそう主張する怜。この前も同じこと言ってたぞ。
「じゃあ何賭ける?」
「購買のメロンパン二個!」
「了解」
「よーし、今日こそ勝ってやる!」
やる気満々なのは構わないのだが、怜のやることは何もない。
いつものアレというのは、先生が誰に問題を当てるのかを『僕が当てる』というものだ。
黒板を見るとちょうど先生が問題を書き終えたところだった。今回は全五問。つまり五人全てを言い当てることができたら僕の勝ち、一人でも間違えてしまったら怜の勝ち。
「でも、あんた今回はかなり分が悪いわよ? いつもは二、三問だからたまたま当てられたかもしれないけど、今回は五問よ? いくらなんでも……」
申し訳なさそうな様子の怜。僕は怜の心配を鼻で笑う。
「そんなのやってみなきゃ分からないだろ。第一、これから戦う相手のことを心配するやつがどこにいるんだよ。あ、お前まさか、情けは人の為ならずを狙っているのか? メロンパンはやらないからな! 二個とも僕が食べちゃうからな!」
ふう、危うく怜の策略に嵌ってしまうところだった。
別に戦うわけじゃないでしょ、とかなんとか怜が呟いているような気がするが聞こえない、聞こえない。
そして先生が生徒を指名し始める。
「じゃあ問一を」
――川本。
「川本。問二を」
――長谷川。
「じゃあ長谷川。問三を」
――柴田。
「柴田。問四を」
――波流。
「波流」
「えー、勘弁してくださいよー。分かりません」
春人が文句を垂れている。
「ぐだぐだ言ってないで早く前に出て」
「はーい」
しぶしぶ腰を上げ黒板に向かう春人。よし次を当てられれば僕の勝ちだ。メロンパンはもらったぜ!
「じゃあ最後の問五を」
――……ん? 誰だ? チ・カン?
「痴漢君。君がやりたまえ」
そう言って嘲笑いながら、数学教師は僕を指差した。クラス中の目がまた僕へと向けられる。 そして、失笑。
「やった! 初めて勝ったあ! メロンパン、メロンパン!」
後ろで怜が立ち上がって全身で喜びを表現している。
「どうした五十嵐? そうか、お前もやりたいのか! 分かった、お前のために特別にもう一問作ってやろう。とっておきのやつをな」
先生は嬉しそうに黒板に向き直ってチョークを手にし、問題を書き始めてしまった。心なしか字が躍っているように見える。
「ちょっと待ってよー!?」
怜の叫びはぼすっと床に落ちてしまい、先生に届くことはなかった。
昼休み。僕が購買戦争の戦利品であるメロンパン二個を手に意気揚々と教室に帰還してくると、怜と春人はすでに弁当を平らげてしまっていた……僕の弁当まで。
「おい、なに勝手に僕の弁当食ってるんだよ! 自分で作るのがどれだけ重労働か知らないだろお前ら!」
「あんたの弁当を食べるなんていつものことじゃない。今さらなに怒ってるのよ」
「そうだそうだ。てか、今まで俺たちの為に弁当を作ってきてくれたんじゃなかったのか」
こいつら……。
「そんなことより。例のブツは買ってきた?」
誤解を招くような言い方をするな。ああ、なるほど。「怜」と「例」を掛けてるのか。うまくないけど。
「ほらよ」メロンパンが入った袋を怜に投げる。
「はい、確かに」
ビニル袋の中身を確認する怜。借金の取り立て屋か。
そんな僕たちのやりとりをぼーっと眺めていた春人が、怜から袋を奪い取り、中を覗き込む。
「なになに、また賭けやったのか……あれ、航負けたのかよ。こりゃ珍しい、上手の手から水が漏れることもあるんだな」
「うるさいな。あれは怜が……」
「なによ、私のせいにするわけ? 元はと言えば、あんたが伊吹をジロジロ見ていたのがいけないんじゃない」
「だからジロジロは見ていないって言ってるだろ! チラチラだよ!」
「むっつり」
「変態扱いするなよ!」
睨みあう僕と怜。
「まあまあお二人さん、痴話喧嘩はそれくらいに――」
「痴漢じゃないよ!」「痴女じゃないわよ!」
「痴しか合ってないし……意味が分からないよ……」
そう言い残すと春人はメロンパンを一つ持って教室を出て行ってしまった。
その後も僕が怜と変態議論を交わしていると、教室の前のドアが開いた。入ってきたのはうちのクラスの担任、来栖(くるす)アキ先生だ。肩まで伸びた栗色の髪に、大きな瞳。服装は、白のブラウスにロングスカートで新任の先生らしく、清潔感が溢れている。しかしながら、その童顔のせいで、高校生が無理して大人っぽい服をチョイスしているように見えてしまう。それに、とても気が弱くいつもオドオドしている。よくこんな感じで先生が務まっているな、と思っているのは僕だけではないだろう。
「あ、あの、お、お休みしているところ悪いんだけど、せ、席に着いてもらえるかな……」
顔を真っ赤にしながらひどく申し訳なさそうに言って教壇の前に立つアキ先生。
「アキちゃん、どうしたの?」
クラスのみんなが席に着いたのを見計らって、女子生徒の一人が訊ねる。
僕は年上にため口をきくのは憚られるので敬語を使うけれど、他の生徒たちが敬語を使うようなことはほとんどない。先生というより友達という感覚に近いのかもしれない。
先を生きている、とはまったく感じられない。
「え、えっと」
アキ先生はそこで一度言葉を切り、大きく深呼吸してから続ける。
「じ、実は、先日委員決めをしたと思うんですけど、まだ一つだけ決まっていない委員があって、そ、それをこの時間を使って決めたいなって……」
ああ、そういえば一昨日くらいのロングホームルームで委員決めしていたっけ。僕は寝ていたからよく知らないけれど。
「だ、だから、誰かやってくれる人はいませんかあ?」
瞳を潤ませながら訊ねてくる。かわいい(小動物的な意味で)。
「アキちゃん、どの委員が決まってないか言ってないじゃん」
さっきとは別の女子が柔らかく突っ込む。
「あ、ご、ごめんなさい! もうっ、どうしてあたしってこんなにダメなんだろう……」
そう言って自分の頭をぽかぽか殴るアキ先生。かわいい(もちろん小動物的な意味で)。
そんなアキ先生を生徒たちも温かく見守っている。これじゃどっちが先生かわかったもんじゃない。
「え、えっと、確かクラス委員だったはずです」
アキ先生は少し考えてから答えた。
「ふーん。なるほど」
さっきの女子が、その言葉にやる気無さげに返した。
「じ、じゃあ訊きます。や、やりたい人ー?」
…………。
やっぱり。クラス委員なんて、クラスをまとめなくちゃならないし、細々とした雑用もやらなければならないから、誰もやりたがらないよな。
「あ、あれ? そんなに大変じゃないですよ。なるべく、あ、あたしも手伝うから……」
……………。
「うぅ……だ、だれかぁ……お、お願いしますう……」
瞳いっぱいに涙を浮かべて嘆願してくる。
そんな彼女の姿を見ていると、クラス委員をやってもいいかなと思うのだけれど、思うのに止まって、なかなか手を挙げるところまではいかない。
どれほど長い沈黙が教室を支配していたのだろう。
突然、アキ先生が教壇をバンバン叩いた。
「もうっ! 誰もやってくれないなら、あ、あたしが勝手にき、決めちゃいますからねっ」
そう僕らに告げると教壇の中を探り、授業で余ったプリントを何枚か取り出した。次いで、取り出したプリントを細かく千切り、その小さくなった紙一枚一枚に何やら書き込んでいく。いったい何をするつもりなんだろう。
作業を終えたアキ先生は、大きく息を吸い、ほとんど叫ぶように言った。
「い、今からくじ引きをやりますっ。この紙切れの山から引いて、か、書かれている数字が出席番号の人に、や、やってもらいますっ。ち、ちなみに引くのは、あ、あたしでする!」
それ、くじ引きっていわないだろ。なんか語尾もおかしくなっているし。ま、かわいいからいいけれど。
「クラス委員は二人必要なので、二回引きますっ。で、では、まず一枚ひ、ひきます……」
アキ先生が三角に折られた紙の山から一枚引き、そこに書かれている数字を読み上げる。
――けっこう後ろの番号だな。
「ひ、一人目は、さ、三十五です。だ、だから出席番号が三十五番の人にやってもらいますっ。え、えっと三十五番の人はちょっと立ってもらえるかな……」
にわかに教室がざわつくなか、僕の視界の右端で誰かが立ち上がった。
「あ、渡瀬さん。そ、それじゃ、やってくれるかな?」
アキ先生が食べ物を乞う子犬のような目で渡瀬を見つめる。
「……はい、頑張ります」
少しの沈黙の後、渡瀬は答えた。
あれ、やるんだ。絶対断ると思ったのに。
「わ、渡瀬さんっ、ありがとう! じ、じゃあ、もう一枚引きますっ」
クラス委員を引き受けてもらったことが余程嬉しかったのか、その場で陽気なステップを踏みながら山の中に手を突っ込み、一枚引く。
「そ、それでは発表しますっ。二人目は――」
――マジかよ。
「え、えっと、二十九です。で、ではっ、出席番号二十九番の人は立ってもらえますか?」
僕はのっそりと腰を上げる。
「み、見境くんっ、やってくれるかな……」
僕は少しの逡巡の後、答えた。
「……は、はい……喜んで」
あんな愛らしい顔でお願いされてしまっては拒否できない。。
「あ、ありがとっ! それじゃみんな、渡瀬さんと見境くんに拍手ぅ!」
拍手の雨に降られながら、ちらと渡瀬に目を向けると彼女も僕のことを見ていた。
その時彼女が何か言葉を発したような気がしたが、その言葉は拍手にかき消されてしまい、僕の鼓膜を震わせることはなかった。
「じ、じゃあ、さっそくで悪いんだけど、放課後にやってもらいたいことがあるので、二人は教室に残っていてもらえるかな」
僕らはほぼ同時に頷いた。
ここで、一時間目の数学の時間に行われた賭けにおいて使用した僕の「特殊能力」について説明したいと思う。
僕の特殊能力(このように表現するのは少々大袈裟だが)は、意識を集中することで、ほんの少し先の相手の行動が「視える」というものだ(たまに、意識を集中しなくてもちらっと視えてしまうこともあるが)。端的に言うなら、予知。ただ、予知することができると言っても、その相手の十年後の未来が視えたり、一見しただけでその人の寿命が分かったりするものではない。
ほんの少し、なのだ。常人よりもワンテンポ早く視えるだけ。だから、大して役に立たない。たとえば、授業中にいつ自分が当てられるかがわかると言っても、ほとんど一秒前に分かるだけなので、「次の次の問題だな」などと予めその問題を解いておくといったような対策を練ることができない。あえて役立つ場面を挙げるとすれば、さっきのような賭けのときとジャンケンのときくらいだ。また、この力を使うときはなかなか体力を消費するので、あまり長時間使用することができない。以前、限界まで使ってみたら、十分程度経過したところで倒れてしまった。また、これも実験してみたのだが、二人までなら相手の行動を視ることができた。なかなか使い勝手が悪い力だ。
ちなみに、この能力のことはまだ誰にも教えていない。教えたところで誰も信じないのが関の山だろう。
前述の通り、一寸先の相手の行動しか視えないので、後々起こる出来事を紙に記しておくこともできない。だから、先程の賭けの際は先生が生徒を指名する直前、怜に聞こえるくらいの小声で生徒の名を伝えていたのだ。まさか僕のことを痴漢呼ばわりするとは思っていなかったけれど。
まあ正直、こんなものは能力でもなんでもなくて、たまたま第六感的なものが、たまたま少し鋭くなってしまっただけなのだろう。
「特殊能力」なんていう御大層なものではない。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、教室の前後のドアからクラスメイトたちが次々と吐き出されていく。彼らはこれから部活動に励んだり、友達と遊んだり、塾に行ったり、とそれぞれのアフタースクールを過ごすのだろう。
そして、それは教室に取り残された僕らも同様である。
夕暮れ。放課後の教室。女の子と二人きり。
シチュエーションだけを考えると、なにか淡い期待を抱いてしまう。
シチュエーションだけを考えると、だ。
なんたって相手は渡瀬伊吹。今日、初めてその存在を認識したクラスメイトだ。そんな彼女と楽しくお喋りできるわけがない。
会話のきっかけも掴めないまま、ただただ時間だけが流れていく。僕が机に突っ伏し、勝手にどぎまぎしているのに対して、渡瀬の目は手元の文庫本の物語を追っている。
「なにを読んでいるの?」なんていう至極簡単な質問もできない息苦しい空間を、文庫本のページを捲る音と窓から注がれる西日だけが優しく包み込んでいる。
アキ先生がプリントを抱えて教室に飛び込んできたのは、放課後が開始してから約一時間後のことだった。
アキ先生は入ってくるや否や、もうほとんど泣きながら何度も何度も僕と渡瀬に頭を下げた。
「ご、ごめんなさいっ! 書類が見つからなくて……。ほかの先生方にも探してもらって、書類はすぐに見つかったんだけど、そのお礼をしてたら、こ、こんな時間に……ほ、ほんとうにごめんなさいっ」
お礼って……一体どんなお礼をしたらこんなに遅くなるんだよ、なんて文句も吐けるわけもなく、
「アキ先生、そんなに謝らないでくださいよ。それほど待っていませんから」
僕の言葉に、アキ先生は狐につままれたような顔をしている。
「えっ?」
「実を言うと、僕はお腹の調子が良くなくてさっきまでトイレに籠もっていたんですよ。それに、渡瀬はずっと夢中になって本を読んでいましたから、そんなに退屈じゃなかったと思いますよ。ね、渡瀬?」
水を向けると、渡瀬は少しピクッとして、
「は……う、うん」とだけ答えた。
おお。敬語を使うなって言ったことは憶えているんだな。
アキ先生は僕のでまかせを信じたのか、少し表情が明るくなった。
「よかった。じ、じゃあ、お仕事を始めましょう。これ、お願いできるかな」
抱えていた書類の束を僕に渡してくる。
「これ、なんですか?」
「この前、みんなに答えてもらったアンケート用紙。それを二人で集計してもらいたいの」
僕は頷いた。渡瀬はというと、いまだ読書を継続中。先生の話は彼女の耳に届いているのだろうか。
「了解です。先生はこれから職員会議ですよね。集計が終わったら職員室に持っていけばいいですか」
アキ先生は僕の言葉を聞いて目をぱちくりさせた。
「え……う、うん。よく分かったね、これから職員会議だって。今、そのことを言おうと思ったのに」
「ああ……なんとなく。そんな気がしたので」
「僕は未来が少しだけ視えるので、先生のこれからの予定なんてお見通しです」なんて言ったところで信じてもらえるわけもないだろう。
「そう。そ、それじゃあ、あたしは行くから、ふ、二人とも頑張ってね」
そう言い残すと、ひらひらと手を振ってアキ先生は教室を後にした。
ひとまず渡されたプリントを手近な机に置く。
さて、どうしよう。また二人っきりだ。てっきり、アキ先生と渡瀬と僕の三人で手分けして作業するものだと思っていたのに。
僕が頭を抱えて唸っていると、渡瀬が読書を中断して近づいてきた。
プリントの小山を挟んで向かい合う僕ら。そして沈黙。
だが、今回の沈黙時間はあまり長くなかった。渡瀬が話しかけてきたからだ。
「あ、あのっ」
「な、なに?」
「……私が、半分……やるから」
「え? ああ……わかった」
うなずいて、プリントの山に手を伸ばす僕。
「ちょ、ちょっと待って!」
突然、渡瀬が叫んで、僕の両手をつかんできた。
「ど、どうしたの」
「あ、いや……私が先に半分取るから、あなたはそのあと」
意味の分からないことを言い出す渡瀬。順番など関係あるのだろうか。
「べつにどっちが先だって変わらないだろ」
「い、いいからっ」
僕はこのとき初めて、感情的になった彼女を見た。
「わ、わかったよ」
そんな初めて感情を露わにした渡瀬に気圧されて、僕はプリントの山から手を放す。
「ご、ごめんなさい。急に大声出してしまって……」
「い、いやそれは構わないんだけど。……それより、さ」
僕は視線を下に向ける。彼女の柔らかな白い手が、僕の手首をがっちり掴んでいる。
「……あっ! ごめんなさいっ」
渡瀬は慌てて僕から手を離した。彼女の小さな耳がムレータのように赤く染まっている。たぶん、僕の顔も同じことになっているだろう。……女の子の手って、柔らかいんだな。
渡瀬は一つ息を吐き、落ち着きを取り戻すと、今度はプリントの束を漁り始めた。一枚一枚、丁寧にチェックしている。まるで何かを探しているかのようだ。たまらず訊いた。
「なにをしているんだ?」
「な、なんでもない」
ぶんぶん首を横に振る渡瀬。その間もプリントを漁る手は止めない。
「もしかして自分が書いたやつを僕に見られたくない、とか?」
何の気はなしに思いついたことを言うと、渡瀬のプリントを持つ手がピタッと止まった。
「ち、ちが――」
渡瀬は肩口で切り揃えられているみどりの黒髪をふるふると振って否定する。
「大丈夫だよ。だってそのアンケート、名前書く欄ないでしょ?」
「あ……」
「だから、渡瀬が書いたアンケートがどれかなんてわからないよ」
「そ、そっか……よかった」
僕の言葉に安心したのか、渡瀬はほっと息を吐く。
「やっぱり自分のアンケート用紙を探していたんだね」
「えっ!? い、いや……」
両手をバタバタ振って否定する渡瀬。
「わかった、わかった。じゃあ今度こそ始めようか」
そう言うと、渡瀬は上目遣いで僕を見つめて、こくりとうなずいた。
「よし、終わった。渡瀬は?」
ペンから手を離して、訊ねる。
「私も……終わった」
アンケートの集計は三十分程度で終了した。まあ一クラス分のみだったので大して苦労しなかった。作業時間よりも教室で待機している時間のほうが長かったというのも可笑しな話だけれど。
「あとは、このアンケート用紙と集計結果を書いた紙をアキ先生に返すだけか」
向かい席に腰かけている渡瀬が首肯する。
「それじゃ、お疲れさま。僕はこれを職員室に届けにいくから」
渡瀬に別れの挨拶をし、プリントを持ち上げ、ドアに向かってニ、三歩踏み出したとき、
「ま、待って」と呼び止められた。
「ん、なに?」
渡瀬はしばらくもじもじしていたが、やがてぼそっと言った。
「……私も、行く」
「いいよこれくらい。一人で大丈夫」
正直言って少し重いけれど、一人で運べないほどの重さでもない。
「で、でもっ」
「本当に大丈夫だから。僕、こう見えて実は力持ちなんだ。だから平気」
そう言ってプリントを持ち上げてみせるが、渡瀬は不満顔だ。僕は付け加えた。
「それに、こういうのは男の見せ場だからさ。かっこつけさせてよ」
「……わかった」
渡瀬はしぶしぶ納得したようだった。
「気持ちだけ受け取っておくよ。それじゃ、お疲れ。また明日」
僕は、背中に渡瀬の視線を感じながら歩き始めた。
鞄を教室に置きっぱなしだということに気づいたのは、アキ先生にプリント類を渡して職員室を出たときだった。そのときは、女の子に良いところを見せることで頭がいっぱいだったから、鞄まで考えが至らなかった。実際、教室を出て職員室に向かうまでの間は、「さっきの僕、ちょっと格好良かったんじゃね?」などと軽く自己陶酔に浸っていた。
そんな調子でアキ先生のもとに行ったからか、
「随分と機嫌が良いなあ見境くん、何か良いことでもあったの?」
と、どこぞの怪異譚収集家の口癖めいたことを言われてしまった。
苦笑いして先生にプリントを渡すと、アキ先生は
「お疲れさま。はい、これ」と言って僕の手に飴玉を二個握らせてきた。
飴玉って……。今のご時世、小学生でも喜ばなそうだけれど。
「……あの、もう高校生なんですけど」
「あ、ごめんなさいっ。う、うれしくなかった?」
「いえ、そんなことは……。ありがたくいただきます」
「うんっ。渡瀬さんにもちゃんとあげてねっ」
うきうきしているアキ先生に水を差すようで悪いが、嘘を言うわけにもいかないので、僕は正直に言った。
「えっと、渡瀬はたぶん帰ったと思います。渡瀬も手伝うって言ってくれたんですけど、プリントは一人で持っていける量だったので、僕一人でここまで運んできました」
僕の言葉を聞くと、アキ先生は絶句し、その大きな瞳をさらに見開いた。
「先生、どうなさったんですか? 僕、なにか変なこと言いました?」
「なんで!?」
「えっ。なにがですか?」
「なにがじゃないよ! ど、どうして渡瀬さんと一緒にプリントを運んでこなかったの!?」
怒鳴られた。
「え、いや、今言ったように、あまり量が多くなかったので……」
「なにやってるの!」
また怒鳴られた。そして、アキ先生は僕に鋭い視線を向けて言った。いや、叫んだ。
「せ、せっかく渡瀬さんが勇気を振り絞って手伝うって言ったのに……人の厚意は気持ちだけじゃなくて、その行動もありがたく受け取らなきゃダメでしょ! 二人でクラス委員やっているんだから、最初から最後まで共同作業でいかなくちゃ! ああ、きっと渡瀬さん、今ごろ教室で泣いてるよ。わたしって役に立ってないな……クラス委員失格だ、って」
「それはいくらなんでも……」
僕の突っ込みはアキ先生の怒声に遮られた。
「い、いいから早く教室に戻りなさいっ! まだ渡瀬さん居るかもしれないでしょ。ちゃんと謝るのよ!」
「は、はい。でも先生、僕そんなに悪いこと――」
「ごちゃごちゃうるさい! ほら早く!」
何故か激昂しているアキ先生に背中をぐいぐい押されて職員室から追い出された。アキ先生って、怒鳴ることできたんだな。弱々しいイメージだったのに。今度からはもう少し気をつけて接しないと。肝に銘じておこう。
それにしても、なんであんなにアキ先生は怒っていたんだろう。僕は悪いことをしたというよりは、むしろ良い(格好良い)ことをしたと自負していたのに。
これが女心ってやつなのか? なるほど、わからん。
――そんなつい先程までのやり取りを思い返しながら、教室のドアの前まで戻ってきた。ちゃんと飴玉も渡すのよ、ってアキ先生が最後に言っていたけれど、もう帰っていたら渡せない。 明日になって、飴玉渡しながら、「昨日はごめん」と言ったとしても、渡瀬は困惑して、気まずい空気になるに決まっている。そこまで引っ張るようなことでもない。だから、まだ教室に残っていてくれればいいんだけれど。でも、普通に考えたらもう帰ってしまっているよな……。
期待半分、諦め半分の気持ちでドアを引いて教室に入ると、渡瀬はまだ教室に残っていてくれていた。相も変わらず、自分の席に着いて文庫本に目を落としている。
「よかった。まだ帰ってなかったんだ」
渡瀬の傍まで行き、話しかける。彼女は文庫本に目を落としたまま、答えた。
「……う、うん。もう少しここで本を読んでいたかったから。それに……」
そこで一度言葉を切り、僕の席へ目を向ける。
「鞄が……あったから」
「もしかして、僕の鞄が誰かに盗まれないように見張っていてくれたの?」
「……う、うん」
こくりと頷く女の頬には少し赤みが差している。
「ありがとう。あ、そうだ、これ」
ポケットから飴玉を取り出し、渡瀬に差し出す。
「えっ、なに」
「アキ先生が仕事をしたご褒美にくれたんだ。これは渡瀬の分」
「あ、ありがとう」
渡瀬は、コンビニの店員から釣銭を受け取るような仕草で、僕の手に触れないように飴玉をさっと取った。少しの沈黙の後、僕は言った。
「さっきはごめんね」
しまった。どう切り出していいかわからず、唐突になってしまった。
「き、急にどうしたの?」
案の定、渡瀬が訊き返してくる。僕は鼻の頭を掻くと言った。
「あっ、いや……さっき渡瀬が、プリントを一緒に運んでくれる、って言ってくれたのに僕、断ったでしょ? そのことをアキ先生に言ったら、人の厚意は気持ちだけでなく、その行動もありがたく受け取りなさい、って目茶苦茶怒られてさ」
「そ、そう……」
「だから、渡瀬には悪いことしたなって思って。これからは最後まで二人でやっていこう」
僕の提案に渡瀬は小さく頷いた。
よし、謝ったぞ。これで、この気まずい空気も和らぐだろう――
「…………」
「…………」
考えが甘かった。そううまい具合に事は運ばない。僕は沈黙に耐えきれなくなって自分の鞄がある位置まで退却する。渡瀬はまた読書を再開してしまった。文字の世界に逃げ込むとは卑怯な。
うう……この空気には耐えられない。どうすれば。
……そうか。家に帰ればいいんだ。春人のやつに、尻尾を巻いて逃げやがって、と思われるかもしれないが知ったことではない。もうここにいる意味もないわけだし。
そう思い至り、鞄を持ってドアに向かう。一応、渡瀬に訊いてみる。
「僕はもう帰るけど、渡瀬は帰らないの?」
「……も、もう少し読んでから」
それだけ言って、文庫本を少し持ち上げる。
「わかった。それじゃ、また明日」
「……またあした」
渡瀬は、僕の語尾だけを抜き取って繰り返すと、また小説の世界に戻ってしまった。
まあ一緒に帰れるなどとはこちらとしても期待していなかったので、さして落胆することもなく、僕は教室から出ていった。
下駄箱で上履きからスニーカーに履き替えていると、上着の内ポケットに入っている携帯電話が震えた。バイブのパターンからしてメールのようだ。開いてメールの内容を確認してみると、差出人は春人だった。
『ちょっと渡したいものがあるから俺の家に来い』
と書いてある。少々気味が悪いが、行ってやることにするか。どうせ暇だし。
春人の家は学校の正門を左に出て、十分ほど直進したところにある、ごく普通の二階建ての一軒家だ。ちなみに僕の住んでいるマンションは正門を出て右にいったところに位置しているため帰るのが少し面倒だが、たかが二十分程度遅くなるだけだ。問題ない。
夕暮れに染まった道を歩きながら、それとなくこれから会う人物について考えてみる。
波流春人という人物を一言で言い表すならば、「凡庸」だ。やつの人となりを表すのにこれ以上適切なワードはないだろう。
別段頭がいいわけでもない。さりとて、赤点頻発の落ちこぼれというわけでもない。定期テストの点数は、どの教科も常に平均点付近をうろついている。また、その面構えに関しても同様のことがいえる。顔の良し悪しなど、個々人によって異なるのは当然のことだけれど、僕の価値観で判断させてもらうとするならば、確かに目鼻立ちはすっきりとしてるが、それをハンサムと呼ぶには少し物足りなさを感じざるを得ない。そして、何故かいつもその顔はニヤついており、それは人によっては不快に感じるかもしれない。初めは僕もその微笑みというより、嘲笑うような春人の表情に嫌悪感を覚える一人だった。けれども、さすがに二年以上関わっていると慣れてくるというものだ。今ではニヤつきを帯びた表情がいつもの顔なのだと思うことにしている。
特筆すべきところは見当たらないが、これといった欠点も見当たらない。
波流春人とは、そういった男なのである。
そんな我が友の人物像について考えを巡らせているうちに春人の家に到着した。
「波流」と達筆で書かれた表札の隣にあるインターホンを押す。
あれ? 以前、訪れたときの表札とは形も字も異なっている。どうやら表札を新しいものに取り換えたようだ。ほどなくして、横開きの玄関が開き、春人の母親が姿を現した。ごく普通の優しそうなお母さんで、夕飯を作っている最中だったのか、腰にエプロンを巻いている。
「いらっしゃい航くん。春人なら上で待っているわよ」
「あ、はい」
僕が碌な挨拶もせずに表札を眺めていることに気づいた春人の母親が言った。
「ああ、これね。実は春人に書いてもらったのよ」
表札を撫でながら微笑むお母さん。
「へえ、そうなんですか」
「あの子、字だけは昔から上手いのよね。さ、入って入って」
促されるままに僕は靴を脱ぎ、お母さんが用意してくれたスリッパを履いて、春人の部屋がある二階に向かった。
とんとん、と二回ノックしてドアノブを回す。
「おーい、来てやったぞ」
「おう、いらっシャイア・ラブーフ」
春人は制服姿のままでベッドに腰掛け、雑誌を読んでいた。まことに面白くない、洒落かどうかも分からない戯言を無視してもよかったのだが、友達のよしみで一応突っ込む。
「僕は日本人だ。ちなみに、俳優でもない」
「あれ? お前、トランスフォームできなかったっけ?」
「できるわけないだろ。しかも、あれは人間じゃなくて車が変形するんだ」
「知ってるよ。お前、人間じゃないだろ?」
「人間だよ!」
僕の突っ込みに春人は苦笑すると机に向かった。苦笑いしたいのはこっちの方だ。
春人の部屋は、入って正面にテレビ、その前に四角いローテーブル、左側にベッド、右側に勉強机、漫画でいっぱいの本棚といかにも普通だ。唯一、変わっていることと言えば床にくしゃくしゃに丸めた紙がたくさん落ちていることくらいだろう。僕はローテーブルの前に腰を下ろすと、手近の丸まった紙に手を伸ばし広げてみる。
『設定……銃で撃たれて傷を負った男(主人公)が浜辺で発見される。男は記憶を失っており、手がかりとなるのは皮膚の下に埋め込まれていたある銀行口座を示すマイクロカプセルだけだった。男はそこへ向かうが……』
「――ってこれ、『ボーン・アイデンティティー』の設定丸パクリじゃねえか!」
「あ、バレた? 漁船に助けられるところを浜辺で発見されるに変えてみたんだけど」
「そういう問題じゃねえよ! しかも、浜辺で発見されるって映画より前に作られたテレビドラマシリーズの冒頭と一緒だぞ」
「え、マジで? ていうか、お前詳しいな」
「まあな。実は僕、マット・デイモンが大好きなんだ。『ボーンシリーズ』や『オーシャンズシリーズ』はもちろんのこと、『インビクタス』や『ディパーテッド』、おまけに『崖の上のポニョ』の英語版だって観たことある」
胸を張る僕。
「どんだけ好きなんだよ……」
春人はあきれたようにかぶりを振る。
「それはさておき。渡したいものがあるってメールに書いてあったけど」
「ああ、そうだった」
と言って、春人は机の上に置いてあったDVDを手に取った。
「これをお前に貸してやろうと思ってさ」
春人から差し出されたDVDを受け取る。
「ジャンルは?」
「ホラーだ。洋画だけど結構よくできてる。どうやら邦画のリメイク版らしい」
パッケージには、長い黒髪で顔の隠れた女性の幽霊らしきものが描かれている。なるほど、日本の映画らしいな。
「サンキュー、一応借りておく。暇ができたら観てみるよ。というか、用ってこれのことなのか? まさか、これだけのために呼んだんじゃないよな」
こんなものを渡すだけだったら学校でもできる。わざわざ僕を自宅に呼びつけたということは、他に理由があるのだろう。電話で済ますことのできないことが。
「さすがに鋭いな。本当の用は別にあったんだけど……」
そこで何故か口ごもる。春人にしては珍しい。
「なんだよ、白々しいな」
僕が少し茶化すように言っても、春人は何も言い返さず、これまた何故か真面目な顔で僕を見据えた。しかしそんな表情を見せたのは一瞬で、すぐにいつものヘラヘラしたような顔に戻って言った。
「本当にもういいんだ。悪いな、これだけのために呼び出しちまって」
「いや、別に構わないよ。また話したくなったときに呼んでくれ。じゃあ借りていくぞ」
「ああ」
やはり今日の春人はどこかおかしい。どこがいつもと違うのか、具体的にはわからないけれど、覇気がないというか、元気がないというか。とにかく、いつもの春人らしくない。
「おい、春人」
「うん?」
「何か悩み事でもあるのか? もしかして、小説のネタで詰まっているとかか? いくら小説家になりたいからって、あんまり無理はするなよ。どうせ、あんまり寝てないんだろ」
僕は床に転がっている紙屑たちに目を向けた。
春人は小説家を目指しており、毎日毎日、物語の設定やらプロットやらを考えているらしい。さっき読んだ紙きれもその一部だったのだろう。
「大丈夫、大丈夫。俺、意外と頑丈だから」
白い歯を見せながら明るく振る舞う春人。
「そうか、ならいいんだ。それじゃあな」
「おう、また明日」
踵を返して部屋を出ようとすると、背中に声をかけられた。
「なあ、航」
「ん? なんだ」
体ごと春人の方へ向き直る。春人は振り返った僕をちらっと見た。しかしすぐに目を逸らし、机に置かれている教科書を見ながら言った。
「お前の将来の夢って何?」
「将来の夢? うーん、そうだなあ」
僕は思わず唸ってしまう。将来の夢なんておぼろげにはあるけれど、真剣に考えたことなどこれまで一度もなかった。
僕が腕を組んで考え込んでいると、春人が机の端をトントンと指で叩いた。
「俺の将来の夢はだな……」
「知ってるよ。小説家だろ?」
僕は即答する。この部屋の状態を見ればそれは明らかだ。しかし春人は首を横に振った。
「もちろん、それもある」
「それも? まさか、他にもなりたいものがあるっていうんじゃないだろうな。やめとけやめとけ。ほら、よくいうだろ。二兎追うものは一兎も得ず、って」
見境航のありがたいお言葉を聞いて、春人は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をした。
「すごいな航! お前がそんな諺を使うなんて」
こいつ、馬鹿にしてくれる。
「別段、褒めそやすほどのことでもないだろ。こんな諺、今日日小学生だって知っている」
「いいや、それは違うね」
春人は眼鏡を掛けてもいないのに、ずり落ちた眼鏡を上げるような仕草をした。
「その言葉を実際に使用するのと、ただ知っているだけとでは天と地ほどの差がある。言葉っていうのはね、実際に使って初めて価値のあるものになると俺は思うんだ。知っているだけじゃ意味がない」
「ほお」
まあ言わんとしていることは分かる。インプットするだけで満足せず、アウトプットしていくべきだということだろう。
「そう! だから!」
春人は突然立ち上がった。そして両手を高く掲げ、大きく広げた。さながら民衆に演説をするヒトラーのようだ。
「私はこう考えている! 世の学生諸君たちは只々言葉を憶えるのではなく――」
「ちょっと待った」
目の前の将軍様の御高説を僕は手で制した。水を差された本人はいたく不満そうだ。
「なんだね君は。庶民の分際で我に物申そうというのか!」
「そういう寸劇はまた今度相手してやるから。それより話を戻そう」
しょうがない、と言って春人は頬を膨らませた。そういう仕草は女の子がやるから可愛いのであって、男がやると不愉快この上ない。
「で、お前のもう一つの夢ってのは?」
そう僕が問うと、春人は恥ずかしそうに目を伏せた。
「誰にも言うなよ?」
「言わない言わない」
僕が否定の意味を込めて手をひらひらと振ると、春人は僕を見据えて言った。
「俺のもう一つの夢はな、お婿さんになることなんだ」
予想外の答えに僕は面食らってしまう。
「お、お婿さんってお前……嫁さんを貰うとかじゃないのか?」
「違う。俺が奥さんの家に嫁ぎたいんだ」
はっきりと言い切る春人。
「これまたどうして? 意味がわからない」
言いながらかぶりを振る僕を見て、春人は物憂げな表情を浮かべた。
「なあ、ワタルよ。俺の名字を言ってみろ」
戸惑いながらも僕は答える。
「はる、だろ。波に流れると書いて、はる」
「その通り。付き合いの長いお前は間違えることなく俺の名字を口にすることができる。だが、初対面の人間が俺の名字をみたときに、はる、と読めると思うか?」
僕は即答する。
「絶対に読めない」
「だろ? それが理由だ」
「え? それだけ」
「ああ、それだけだ」
そう言うと、春人はぼすっと椅子に腰を下ろした。もっと御大層な理由があるのかと思ったのだが。まさか、そんなことだけのために自分の名字を捨てるなんて。僕自身も珍しい名字ではあるが、それを不満に思ったことは一度もない。むしろ少し誇らしいくらいだ。
どうやらもう言いたいことはすべて言ったらしい。僕はお暇することにした。
「じ、じゃあそろそろ帰るわ」
「おう、また明日学校でな」
春人が片手を挙げたので、僕も片手を挙げて応え、部屋を後にした。
波流家を出ると、あたりはもう暗くなり始めていた。春といっても四月下旬なので、まだ肌寒い。空いている手をポケットに突っ込みながら歩を進めていく。
学校の正門を超えて、さらに数分歩いた場所に豊丘(とよおか)公園という古びた公園がある。遊具はほとんど設置されておらず、あるのは小さな砂場と公衆便所だけで、ある意味すっきりとしている。一年ほど前までは、ブランコがあったらしいのだが、小学生の男の子が遊んでいる際に鎖が千切れてしまい、大怪我を負ったとかで撤去されてしまったらしい。見る限りあまり古そうではなかったが、鎖が錆びていたのだろうか。
そんな公園と呼ぶのにはあまりふさわしくない場所に、僕は毎日通っている。通っているというと、遊んでいると思われるかもしれないが、そうではなく、ただ近道として、ショートカットとして利用しているだけだ。
だから、今日もいつもと同じように豊丘公園を横切って帰ろうとした。いつも通りに。
しかし、僕は公園の入り口で立ちつくしてしまった。普段なら人がたむろするような場所ではないのだけれど、今日は三人の人間が公園の中心で、なにかを囲むように立っていた。
――うわ、ヤンキーだ。
赤、黄、青と信号機のような髪色をした三人組で、腰までずり下ろしたズボン、学ランといった出で立ちだ。学ランということはうちの生徒ではないのか。
あんな時代遅れのヤンキーがまだ存在しているとは(流行のヤンキーがどのようなものかは僕にはよく分からないが)。
ああ、怖い、怖い。ああいうやつらと関わり合いになるとロクなことにならないからな。仕方ない、ショートカットはあきらめよう。少し帰るのが遅くなるだけだ。ヤンキーに目を付けられるのに比べたら、その程度の時間の浪費など少しも惜しくはない。
そう結論付けて、公園には入らずに通り過ぎようとしたとき、幸か不幸か、僕に対して背中を向けている黄髪ヤンキーと青髪ヤンキーの脚の間から、誰かが蹲っているのが見えた。よく見ると、それは女の子だった。ブレザーは剥ぎ取られ、白のワイシャツ一枚になっている。おいおい、いくらなんでもやりすぎだろ。男ならまだしも女の子に手を出すなんて。今どきのヤンキーは節操がないのか。
うーむ、どうしよう。このまま見逃したら、確実に後で罪悪感に苛まれる。ああ、いっそのこと女の子の姿なんて見えなければよかったのに。なんで見えちまったんだよ。なんで見ちまったんだよ、僕。さっさと通り過ぎればよかったのに。
行くべきか行かざるべきか悩んでいると、ヤンキーの一人が蹲っている女の子の肩を蹴りあげた。彼女は無理やり上半身を起こされ、正座をしているような体勢になる。それにより、今まで黒髪で隠れていた顔が僕の位置からはっきりと見てとれた。
「おい、やめろ!」
僕は先ほどまでの悩みなど吹き飛んで、肩にかけていた鞄も吹き飛ばして、思わず叫んでいた。
なぜなら、蹴られてうずくまっている女の子が――渡瀬伊吹だったからだ。
「あ? なンだよ」
赤髪ヤンキーが即座に反応し、残りの二人も振り返って僕を睨みつけてくる。
渡瀬は僕の登場に唖然としていた。なぜ僕がここに来たのか理解できないといった様子だ。それは僕だって同じだ。どうして彼女がここにいて、彼らに嬲られているのか理解できない。
でも、そんなことはどうだっていい。今は彼女を助けることに集中しないと。
「お前ら、恥ずかしくないのか? 寄ってたかってか弱い女の子をいじめて」
僕はなるべく相手を挑発するように言った。
「いじめてなんかねぇよ。可愛がってやってんだよ」そう言って渡瀬の髪をつかむ黄髪。
「ていうか、お前こそなんだよ、ヒーロー気取りか?」赤髪が嘲りの含んだ声で言う。
「気取りじゃない。ヒーローだ」僕は、最大限格好つけて言い放つ。
僕の言葉を聞いた三人は爆笑した。
「なにほざいちゃってんのコイツ。頭イカれてるんじゃないですかあ」
「イカれてるのはそっちだろ」
声が震えないように気をつけながらセリフを吐き出す。
「第一なんだ、その髪色は? お前らは信号機にでもなりたいのか?」
「なんだと、テメエ!」案の定、赤髪がこちらに向かってきた。
「おいおい、赤は停止の信号だろうが。お前は止まってなくちゃダメだろ?」
「テメエ、人をおちょくるのもいい加減にしろよ!」
ついに赤髪はブチ切れて突進してきた。よし、予想通りだ。落ち着け、落ち着け……。
赤髪がついに目の前にまで迫ってきて、右の拳が僕の顔面に飛んでくる。僕にはその光景がほんの少し前に視えていたので、難なくそれをかわす。そして、つんのめった赤髪の股間に膝蹴りをお見舞いしてやった。崩れ落ちる赤髪。
「ひ、卑怯だぞ……」赤髪はそう呻きながら悶絶している。
「喧嘩にルールなんてないだろ」僕はそう言ってニヤリと笑う。
よし。まずは一人仕留めたぞ。残るは二人か。
「「うおおおおおっ」」
勝利の余韻に浸る間もなく、今度は青髪と黄髪が同時に襲ってきた。一人ならなんとかなるけれど、さすがに二人同時に対処するのは少しきついな。
ろくな対策も練れないままでいると、青髪が先に仕掛けてきた。僕は、先ほどと同じように膝蹴りを食らわせてやろうと思いパンチを避けたが、青髪のすぐ後ろに黄髪が迫ってきていたので、膝蹴りを繰り出すことができなかった。青髪はそのまま僕の後方に流れていく。続いて来るであろう黄髪の攻撃に備えた僕であったが、意外なことに黄髪は僕に攻撃を繰り出すことはせず、バックステップを踏んで後ろに下がった。結果的に、僕は二人に挟まれてしまう。
思わず手を膝についてしまう。汗が頬を伝って足元に落ちていくのがわかる。
「なんだ、もう疲れちまったのかァ? さっきまでの威勢はどこに行っちゃったのかな? ヒーローさんよぉ」
そんな様子を見ていた黄髪が勝ち誇ったように笑う。僕は顔を上げ、黄髪の顔をじっとにらみつけながら言った。
「少し有利な状況になったからって、調子に乗るなよ」
「なンだと」
「僕はお前らにハンデをあげたんだよ。一方的な勝利じゃつまらないからね」
「なに言ってんだ? 調子乗ってるのはテメエのほうじゃねえか」
「調子に乗っているわけじゃない。自信があるだけだ。お前らは僕より弱い。これは決定事項だ」
「いい加減にしろよ!」
黄髪の目が血走っている。よし、もう一押しだな。
「もうお前らみたいな低脳な連中と会話するのも時間の無駄だから、さっさとかかってこいよ。面倒だから二人いっぺんに――」
僕が最後のセリフを紡ぎ終えるのを待たずして黄髪が突進してきた。それとほとんど同じタイミングで後ろの青髪も突撃を開始。黄髪と僕の距離がどんどん縮まっていく。おそらく、青髪と僕の距離も同様だろう。僕は目を閉じて意識を集中させる――そして、視えた。黄髪と青髪が同時に僕の顔面に向かって拳を突き出すところが。
目を開けると、黄髪のいかつい握り拳が顔の目の前まで迫ってきていた。僕は屈むことによってそれをかわす。同時にそれは青髪のパンチもかわすことになる。そして、一度スピードをつけて放たれたパンチは、緊急停止する列車と同じく、すぐに止めることはできない。よって、二人はお互いの顔へお互いの拳をぶつけることになり――
勝手にきれいなクロスカウンターが決まってくれた。
二人が崩れ落ち、覆いかぶさってくる前に彼らの身体の隙間から這い出る。
気絶には至っていないようだが、だいぶ意識が朦朧としているみたいだ。声にならない声を上げている。
僕は、急いで渡瀬のもとへ駆けつけた。彼女は、地面にへたりこんだままヤンキーたちを見つめている。何が起こったのかわからない、といった様子だ。
「さあ、立って!」
「……え、え? なに」
「なに、って逃げるんだよ! ほら、早く!」
僕は、茫然としている彼女の手をとり、空いている手で落ちていた彼女の鞄とブレザーをつかんで走り出した。ひとまず、入ってきたのとは反対にある出口に向かう。
公園を出たあたりで後ろを振り返ると、黄髪と青髪がちょうど立ち上がったところだった。赤髪はいまだ悶絶中。僕は渡瀬の手を強く握りしめ、訊いた。
「行くよ?」
彼女はぎゅっと僕の手を握り返してきた。それを肯定の印と受け取って、駆けだした。
とにかくここから離れよう――ただそれだけを考えて走り続けた。まわりの風景や音などはほとんど認識できなかったが、右手に伝わる渡瀬の体温だけは、しっかりと感じ取ることができた。
どのくらい走ったのだろう。
気がつくと、僕らはとあるマンションの前に立っていた。栗の実のような色をしている外壁にはペンキが剥がれている箇所が見受けられるが、現代的なデザインのせいかあまり古さは感じられない。ロビーを入ってすぐの所にエレベーターと自動販売機があり、奥に行くと階段がある。間取りは全部屋1Kで、バス・トイレは別となっている。そのため、家族で住んでいる人はほとんどおらず、住人の大半を占めているのは一人暮らしの人たちだ。ちなみに、左隣にはこのマンションと同タイプのものがもう一つ建っている。
何故こんなにもこの建物について詳しいかというと、僕もここの住人だからである。
「なんで……」
思わず声が洩れてしまった。どうして自分の住処に帰ってきてしまったのだろうか。
僕と渡瀬は公園を脱出した後、無我夢中に走り回った。行き先なんかは考えずに、その場から離れることを第一に走り続けた。何度か後ろを振り返ったが、ヤンキーたちの姿を見ることは一度もなかった。それでも、止まりはしなかった。いや、止まれなかった。もしかしたら追ってきているかもしれない、という強迫観念にかられて足を止めることができなかったのだ。
結果、たどり着いたのがここだ。記憶が飛ぶまで酔っぱらった人が朝起きるといつの間にか自分の家に帰っていた、とはよく聞くが、これもその一種なのだろうか。犬や猫のように人間にも帰巣本能があるのかもしれない。だとしたら、とんだ迷惑だ。もしずっとヤンキーたちに追われていたら、自分の住処を教えてしまうことになりかねなかった。
さて、これからどうしようか。さすがにあのヤンキーたちも諦めたと思うから、渡瀬を家まで送っていこうか。でも、かなり走った後で彼女も相当疲れているようで、路傍に座り込んでしまっている。少し僕の家で休ませたほうがいいかな。僕もできればそうしたい。
「渡瀬」
しゃがみこんでいる渡瀬に話しかける。
「……え、なに?」
「家はどこ?」
「……なんで知りたいの?」
渡瀬は少し怯えた表情を見せる。僕は慌てて付け加えた。
「あ、いや、もしかしたらまだあいつらが捜しているかもしれないから、家まで送っていこうと思って……」
「あ、ありがとう……でも、だいじょうぶ」
ふるふると首を振る渡瀬。
「いや、大丈夫じゃないだろ。腕から血出てるし、服もビリビリで……」
「い、いや、本当にだいじょうぶだから……」
「無理に決まってるだろ! そんなにボロボロになって。これから、自分の家まで歩いて帰らなくちゃならないんだぞ?」
「……うん、わかってる」
「と、とにかく今の身体じゃ無理だろ? ひとまず、僕の部屋で少し休んでから……」
「で、でも……」
「でも、じゃない。疲れたら休む。当たり前のことだろ」
「いや、だから……」
痺れを切らしたように渡瀬は顔を隣のマンションに向けた。
「わ、私の家……ここだから」
「…………え?」
「ど、どうぞ……」
「お、お邪魔します……」
僕は、生まれて初めて「女の子の部屋」というものに足を踏み入れた。この場合、マンションの一室なので、「家」といったほうがいいのか「部屋」といったほうがいいのか、迷うところである。実は怜の家には何回か入ったことがあるのだが、怜の部屋には一度も入ったことがないので、今回は「部屋」ということにしようと思う。
渡瀬の部屋は、玄関を入ると右手に流し台、その奥に冷蔵庫、左手にトイレ、浴室があり、奥に進むと十畳ほどの洋室があるといった感じで僕の住んでいる部屋と全く一緒だ。洋室は、廊下と厚めのカーテンで仕切られていて、ベッド、ローテーブル、テレビ、本棚といった一般的な家具が揃っていて、これまた僕の部屋と同じだった。
「あんまり見ないで。恥ずかしいから……」
「あっ、ごめん……」
「こ、ここに座って」
渡瀬に薦められるままに、ローテーブルの前に座る。
「ちょっと待ってて。お茶入れてくるから」
「いいよ、それくらい。自分でやるよ」
「だ、だめ!」
立ち上がって流し台に向かおうとすると、渡瀬に両肩を掴まれて無理やり座らされた。
「な、なんで」
「あなたは、お客さんなんだから。じ、じっとしてて」
「でも、お前、怪我してるし、あぶ――」
「いいから!」
ピシャっとカーテンを閉められてしまった。そんなに怒ることもないだろうに。
あらためて、部屋を見回してみる。本棚には漫画の類は一切入っておらず、ほとんどのスペースを文庫本が占領しており、残りの少ないスペースを教科書やハードカバーの小説、辞典などが占めている。テーブルにはリモコンとティッシュしか置いておらず、部屋にはゴミ一つ落ちていない。きれいに片付いているというよりも、あまり使われていないといった印象を受ける。まるでモデルルームみたいだ。
それにしても、なぜ渡瀬は一人暮らしなのだろうか。まさか、この狭さで両親と暮らしているわけじゃないだろう。まあ、親の所有物らしき物が見当たらない時点で、その線はないと思ってはいたが。
しかし、考えてみると僕と渡瀬の共通点は意外と多い。
実は僕も早くに母親を亡くし、父親は海外赴任で一人暮らしなのだ。連絡を一度もよこしたことがないので、どこでなにをしているのかもわからない。長いこと父に会っていないから、顔なんてとっくの昔に忘れてしまった。たまに必死に思い出そうと頑張ってみるのだけれど、輪郭すら思い浮かべることができない。それほどに父親の印象が薄いのだ。
――あれ? そもそも僕は自分の父親に会ったことがあっただろうか。
そんな僕のささやかな疑念はカーテンの開く音によって振り払われた。
「……はい、どうぞ」
渡瀬が湯呑の二つ乗ったお盆をテーブルに置いて、そのうちの一つを僕の前に置いた。
「ありがと」
「う、うん……」
僕の言葉に、なぜか渡瀬は頬を染めてうつむいてしまう。
「どうしたの?」
「なっ、なんでもないっ」
恥ずかしそうに呟くと、クローゼットに向かい、中から小さな箱を取り出した。それを持ってまた台所のほうへと行き、カーテンを閉めてしまう。
今度はなにをするつもりなんだろう。カーテンを開けて、なにをしているのか確かめてやろうとも思ったが、「鶴の恩返し」を思い出して覗くことをやめた。彼女がまさか人間じゃなくて鶴だった、なんていうオチだったら最悪だからな。僕は人間の女性が大好きだ。
なにもすることがないのでテレビでも点けようと思ったけれど、家主の許可なく見るのもどうかと思ったので自重。
仕方なく、渡瀬が淹れてくれた番茶を啜る。お茶の味の違いなんてわからないし、わかろうと思ったこともないが、人に淹れてもらったお茶は自分で淹れたときよりも明らかにおいしく感じる。単に、僕のお茶の淹れ方が下手なだけかもしれないが。
番茶も飲み干してしまい、本当にやることがなくなってしまった。ふと、湯呑の底がどうなっているか気になり、持ち上げて見てみるとなにか書いてある。それはほとんど消えかけていたのだが、アルファベットで「HW」だということはかろうじてわかった。
なんだろう。ホームワーク? もしくは、この湯呑を作った人のイニシャルだろうか。
などと、意味のない推測を巡らせていると、突然、カーテンの向こうから絹を裂くような悲鳴が聞こえた。僕は急いで立ち上がりカーテンを開ける。
「ど、どうしたの!?」
「……えっ?」渡瀬は目をぱちくりさせている。
時が止まっているかのようだった。渡瀬は、ワイシャツを脱いでおり、白のブラジャーが露わになっていた。おまけに、玄関のほうに背中を向けていたので僕と向き合うかたちになってしまっている。
それにより、彼女の大きくはないが、ブラジャーによって持ち上げられた形の良い胸が眼前に広がっており、僕はそれから目が離せなくなってしまう。さらに長い黒髪が胸の谷間に流れ込んでいることが、一層艶めかしさを際立たせており――おっと、そんなじっくり鑑賞している場合じゃない。急いで謝らなくては。
「え、いや、あの、そ、そういうわけじゃなくてですね……。こ、これは、その、叫び声が聞こえてですね、なにが、あったのかと……」
「……な、なんでも……ないから。き、気にしないで」
そう言うと、渡瀬は軟膏を少し手にとって背中に塗ろうと試みる。しかしながら、手が患部にまで届かないらしく、かなり苦戦している。
「さすがに一人じゃ無理だよ」
「じ、じゃあ手伝って」
「わかった、って……ええ!?」
「せ、背中の真ん中あたりだと思うから……」
「い、いや、でも……」
「手伝ってくれないの?」
「……わ、わかった。やるよ」
「ありがとう」
渡瀬はクスッと笑うと、僕に軟膏を渡した。
さすがに直接肌に触れて塗るのは、渡瀬の身体にも僕の精神衛生上にもよろしくないと思い、救急箱の中に綿棒を見つけたのでそれを使って塗り始めた。
背中にはかなりの擦り傷がみられた。ヤンキーたちに足で踏まれたりしたのだろうか。でも切り傷にはなってなくてよかった。切り傷に軟膏を塗るのは逆効果だからな。
僕は慎重に、なるべく優しく綿棒で傷口を撫でていく。渡瀬が時折漏らす吐息にどぎまぎしつつも、なんとか一通り塗り終わったころには、汗をダラダラかいていて、僕は難手術を終えた外科医のような気分になっていた。
「お、終わったよ」
「あ、ありがと……」
渡瀬は感謝の言葉を口にすると、横に置いてあったTシャツに着替え始めたので、僕は慌てて洋室に戻った。
数分後、渡瀬はTシャツに短パンというラフな服装になって戻ってきた。今は僕の向かいに座って、すっかりぬるくなったであろう番茶を啜っている。
「ねえ、渡瀬。ちょっと質問してもいいかな」
「べ、べつにいいけど」
「どうしてヤンキーたちに絡まれていたの?」
その問いに渡瀬はふるふると首を振った。
「わからない……。私も、近道をするためにいつもあの公園を横切っているんだけど、今日に限ってあの人たちがあそこにいて。こ、怖かったけど、なるべく気づかれないように通り過ぎようとしたら……急に近寄ってきて……」
そこで渡瀬は黙り込んでしまった。あまり思い出したくないのだろう。
「なんか盗られたりはしなかった?」
「……う、うん、大丈夫。財布の中身見られたけど、そのまま返された。大した額が入ってなかったからかも」
まあ、高校生が持っているお金なんて微々たるものだろう。それより僕は、渡瀬の話のある部分に疑問を抱いたので訊いてみた。
「それはよかった。でも、なんで僕があの公園をショートカットとして利用していること知ってるの? 教えたことあったっけ?」
「え? い、いや、それは……その……見境くん、隣のマンションに住んでいるでしょ?
だ、だから私と同じようなことしているだろうと思って……」
「ああ、そういうことか」
じゃあ僕以外にもあの公園を「利用」している人は多そうだな。
「あの、もうひとつ訊いてもいいかな?」
渡瀬はためらいながらもこくりと頷いた。
「一人暮らしだよね?」
「う、うん、そうだけど。それがどうかしたの?」
「え、いや……どうしてかなって。社会経験だ、とか言って男に一人暮らしさせるのは理解できるんだけど、女の子を一人で暮らさせるのはどうなのかな、って思ってさ」
「ああ……それは……」
渡瀬はここで一度言葉を切り、番茶を一口飲んでから続けた。
「実は、私の両親、私が小学生のころに交通事故で死んじゃったんだ」
「えっ」
声が漏れてしまう。渡瀬は驚いている僕にかまわず話を続ける。
「その日は家族で旅行に行く予定だったんだけど、前日に私が風邪をひいて寝込んじゃったの。次の日になっても熱が下がらないから、旅行を中止にしようかって話になってね。でも両親はすごくその旅行を楽しみにしていたんだ。だから、私は平気だから二人で楽しんできて、って言ったら両親はしぶしぶ納得してくれて、看病には近くに住んでいた母親の友達が来てくれることになったの。
それで、次の日二人は出かけていって……。行きの高速道路で事故に遭ったらしいの。逆走してきた乗用車と正面衝突して、二人とも即死だったみたい」
「そ、そうだったんだ……」
「うん。それから私は、中学まで親戚の家に預けられて暮らしてきたんだけど、なかなかその家の人たちと折が合わなくて……。なんか私のことを面倒に感じていたらしいの。私もそれは気づいていたから、高校生になるのを機に一人暮らしをしてみたい、って提案したの。その家は裕福だったし、喜んで賛成してくれた」
「それで今に至るっていうわけか……」
「そう。ごめんね、なんか湿っぽい話しちゃって……」
そう言って笑う渡瀬。その顔にはどこか翳りが見える。
「僕のほうこそごめん。嫌なこと思い出させちゃって」
「そ、そんなことないよ。もう慣れたから」
そのように話す渡瀬の目には何の感情もこもっていないようにみえた。一般的に考えると、思い出を話すときには――たとえその思い出が楽しかったにしろ、悲しかったにしろ――なにかしらの感情がつきまとうはずだ。事実、ヤンキーたちの話をしているときの渡瀬からは怯えのような感情が見てとれた。それなのに、家族について話すときの彼女の口ぶりは、思い出を「話す」というよりもむしろ「説明する」ようなものだった。それに、普段は言葉に詰まったり、しどろもどろになったりと、うまく会話のこなせない印象が強い彼女が、噛むことなくすらすらと喋っていたことにも違和感を感じた。まるで予め用意してあったセリフを読み上げているような――そんな話しぶりだった。
ただ、これまでこのような話を何度も人に話しているせいで、感情がなくなってしまっているのかもしれない。それに繰り返し同じことを喋っていると、どうしても事務的な口調になってしまう。
どちらにせよ、これ以上このことについて深く突っ込むべきではないな。人の過去を深く抉るのはあまり好きじゃない。
「そ、それじゃあ、僕はそろそろ帰るよ。もう結構遅い時間だし」
テレビの上にある壁掛け時計を見ると、時刻は午後九時を回ったところだった。
「わ、わかった……気をつけて……」
「いやいや。気をつけるもなにも、隣のマンションだし」
「い、いや……そうじゃなくて……」
「ん?」
「あ、あのとき……か、かばん……」
「なに? 鞄がどうしたって?」
僕が理解できないでいると、渡瀬は目をぎゅっと瞑って言った。
「こ、公園に、かばんを、お、置きっぱなしに、してるから……」
「…………あ」
どうやら僕は、また鞄を忘れてきてしまったみたいだ。
鞄を取りに行く前に、一度自宅に戻った。
冷蔵庫の中身を確認してみると、やはり空っぽだった。
僕は、現代の男子高校生としては珍しく、できる限り自炊することを心がけている。まあ所謂、「自炊男子」ってやつだ。昨日、すでに食料が尽きることには気づいていたので、学校の帰りにスーパーに寄ろうと考えていた。
が、いろんなことがあったせいですっかり忘れていた。近所のスーパーは午後八時には閉まってしまうので、今から食材を買いに行くことは不可能。もし、まだ買いに行けたとしても、もう料理を作る体力、気力ともにゼロ。仕方ない、自炊男子としての名に傷をつけることになるけれど、今日はコンビニ弁当で我慢するか。
申し訳程度の星ときれいな三日月に遥か彼方から見守られながら、自転車を漕いでいく。
唐突で申し訳ないが、僕は自転車に乗ることが大好きだ。
なんといっても、風を全身に受けながら進むときの爽快感と歩行者を追い抜くときの優越感がたまらない。この気分を登下校時にも味わいたいのだけれど、誠に残念ながらうちの高校は自転車通学が禁止となっている。昔は自転車で通ってもよかったらしいのだが、自転車で登校する生徒のマナーが悪いと、近隣住民から苦情があったとかなんとかで当時の校長が禁止として以来、その規則が続いている。
しかし、マナーが悪いとは具体的にどういったものだったのだろう。
手放し運転とか? 子どもじゃあるまいし……いや、まだ子どもか。
そんなわけで、登下校の際に自転車が使えないため、ふいに夜自転車に乗りたい衝動に駆られてサイクリングに出かけたりもしている。だからこれも日課の一つといえる。
だが、今日はいつものサイクリングと違う。なぜなら、目的地が決まっているからだ。いつもはただフラフラと走って満足したら帰る、という調子だから、今回はちょっと嬉しい。何事も目的を持ってやらないと楽しくない。
五分ほどペダルを漕ぐと、第一の目的地である豊丘公園に着いた。少しばかり後ろめたい思いを抱きつつ、自転車に乗ったまま公園を横切った。そして、向かい側の出入口――僕がヤンキーたちに襲われている渡瀬を見つけた――に行くと、入り口近くの植木に挟まっている鞄を発見した。
よかった、と思わず言葉が洩れてしまう。
正直、ヤンキーたちに持っていかれているか、ズタズタにされているだろうなと覚悟していたので、無傷の状態で手元に帰ってきたのが驚きだった。あいつらも相当頭に血が上っていただろうから、鞄などどうでもよかったのかな。それともただ気づかなかっただけかも。何はともあれ、無事でよかった。鞄を前かごに入れ、また自転車を走らせる。
第二の目的地はコンビニエンスストア。場所は鞄を見つけたこの位置から学校とは反対方向に進んだところにある。
わかりやすくいうと、学校とコンビニのちょうど中間に豊丘公園が位置している。
道なりに進み、コンビニには二、三分ほどで到着した。駐輪場に自転車を停め、店内に入る。まっすぐ惣菜コーナーに向かい、弁当を選ぶ。あまり考えずに、なんとなく目についた牛焼肉弁当を手にレジへ。
店内には店員が一人しかおらず、レジを担当していた。
まあ、その店員っていうのが……。
「いらっしゃいませ、お待たせしました」
「すいません。あと、肉まんを一つ」
「かしこまりました。ご一緒にジューシー肉まんはいかがですか?」「いえ、結構です」
「では、ご一緒にジューシーアツアツ唐揚げはいかがですか?」「結構です」
「では、ご一緒にチキンマックナゲットはいかがですか?」
「じゃあ、それひとつ下さい」
「誠に申し訳ございません、お客様。そちらはマクドナルドの商品ですので当店では販売しておりません」
「お前が薦めてきたんだろ!」
「そんなに全力で突っ込まなくたっていいじゃない……」
「ごめん、怜。つい、いつもの癖で」
「まあいいわ。はい、これサービス」
そう言うと、怜はアメリカンドッグを一つレジ袋に入れた。
「おいおい、勝手にそんなことやって大丈夫なのかよ」
「平気平気。一本くらいちょろまかしたってバレやしないわよ」
「そ、そうか……じゃあもらっとくよ。ありがとな」
「いえいえ。お客様にはいつも当店をご贔屓にしていただいているので、日ごろの感謝の気持ちをこのホットスナックに込めさせていただきました」
「はいはい」
怜はこのコンビニで週三日働いているらしい。高校入学時に始めたらしく、もう一年近くになる。元々、人と話すのが好きなやつだし人当たりもいいので、怜にはもってこいのバイトだ。実は何度か、ここで働かないかとお誘いを受けているのだけれど、僕は人と話すのが得意なほうではないので断っている。
でも、なぜ怜はバイトなんかやっているのだろうか。あまり経済的に苦労しているようには見えないのだけれど。なにか欲しいものでもあるのだろうか。女子はいろいろお金がかかるっていうしな。
無駄話もほどほどに会計を済ませて帰ろうとすると、怜が呼び止めてきた。
「ねえ航。あんた、ここまでどうやって来たの」
「え? 自転車だけど」
「なら外で待っててくれない? もうすぐバイト終わるから」
「ああ、べつにいいけど。何か用か?」
「ちょっとね……それは後で」
「わかった。それじゃ」
従業員用入口の近くのベンチに座ってしばらく待っていると、ほどなくして怜が出てきた。学校帰りにそのままバイト先に来たからなのか、制服姿だ。
「お待たせー」
「お疲れ。いつもこんな遅くまでやってるのか」
「遅いってまだ十時じゃん。なに? あたしのことが心配なわけ?」
鼻先がくっつくほど顔を近づけながら問いかけてくる。
「そういうわけじゃないよ。ただ、お前の両親は心配するだろ。仮にも女の子なんだから」
「仮にも、とはなんだ! あたしは歴とした女の子だぞ!」
そう高らかに宣言して平板な胸を張る。その態度に僕は思わず苦笑した。
「お父さんとかお母さんになにか言われたりしないのか?」
「なんにも。それに、二人ともまだ帰ってきてないと思う。いつも帰ってくるの十一時くらいだから」
「随分とまた忙しいんだな。それだと、あまり家族と会話する機会もないんじゃないか?」
怜は小さく頷いた。
「しかも、あたしが起きる前には出かけちゃうから平日はほとんど話さない。土日だって、なんか部屋に籠もって仕事してるし。会話なんて全然しないよ」
努めて明るく話す怜の表情からは、どこか寂寥感めいたものが滲み出ていた。
「そうだったのか……」
悪いこと訊いてしまったな……。さっき人のプライベートには深く関わらないようにしようって決めたのに。怜を傷つけてしまったかもしれない。
「なーに、しょぼくれちゃってんのよ」
落ち込む僕を見て、彼女はバシバシ背中を叩いてきた。
「あたしのことを可哀想だなあ、みじめだなあ、とか思ってるわけ? もし、そう思ってるなら、そんな哀れなあたしのお願いを聞いてくれない?」
「そ、そんな風には思ってないけど……。お願いって?」
「ふっふっふ……あれよ!」
びしっと自分で効果音をつけながら指差した先には――僕の愛用のママチャリがあった。
「あたしを家まで送りなさい」
女の子を後ろに乗せて自転車を漕ぐ、などという素敵イベントは僕には一生縁のないものだろうと悲観していた。しかしながら、まさかこのようなかたちで青少年の夢の一つである女子との二人乗りが実現しようとは。
状況を説明すると、ペダルを漕いでいるのはもちろん僕で、怜は荷台に横向きに座り手を僕の腰に回している。
この乗り方は通称「耳すま乗り」といわれるものだ。名付け親は僕であるが。
意外にもペダルを漕ぐ力は、一人で乗っているときとあまり変わらなかった。女子の身体は男が想像しているよりもずっと軽いだなんて迷信だと思っていたが、実際に体験してみると、さもありなんといったかんじだ。
コンビニから怜の家まではさほど遠くなかったのですぐに到着した。怜の家も春人の家と同じく一戸建て住宅だったが、コンクリートの打ちっぱなしなので、僕は彼女の家を訪れる度にどこか無機質な印象を受ける。
ありがと、と言いながら荷台から降りる怜。
僕はどうしても彼女に訊いておきたいことがあった。
「なあ、怜」
「うん? なに」
「どうしてバイトをやってるんだ? お金にそこまで困ってるわけじゃないだろ」
「まあね」
「なにか欲しいものがあるからやってるとか?」
「それもあるけど、それがメインの理由じゃない」
「じゃあなんで?」
僕が再度問うと、怜は木の温もりを一切感じられない混凝土の城を見上げながら答えた。
「居場所が欲しかったんだよね」
「居場所?」
僕が首を傾げていると、怜はふっと一つ笑った。
「うん。さっきも言ったけどさ、両親が帰ってくるのは夜中だから、学校から帰ってきても一人なわけ。小さい頃は別になんとも思ってなかったんだけど、ある日ふと気づいたんだ。あたしの居場所ってどこだろう? って。もちろん、この家があるし自分の部屋もあるから、物理的な居場所はあったんだけどね。こうなんていうのかな……ここに居てもいい理由みたいなものがないなって。そんなの家族だから居ていいに決まってるだろ、って思うかもしれないけど、いつも一人だったからそういうものが実感できなくてさ。それで高校一年の春に、たまたまあのコンビニに立ち寄ったら『バイト募集』って書かれてる紙を見かけて、そのときに、はっと思いついたんだ」
僕は怜が次に言う言葉がわかった。
「居場所がないなら新しく自分で居場所を開拓すればいい……」
「そう。それであそこで働きだしたの。初めてのバイトだから勝手がわからなくて最初のうちは大変だったんだけど、店長さんや先輩たちが優しく丁寧に教えてくれたおかげで、仕事はすぐに覚えられた。そうしたら、働いていくうちにどんどん楽しくなってきちゃって……。あたしはここに居ていいんだ、って思えるようになったの。言葉じゃ言い表しづらいんだけど、こんなかんじかな」
「なるほどな……」
「なに考え込んでんの? あ、もしかしてあたしと一緒にバイトしたくなってきちゃった?」
顔を寄せてくる怜。
「いや、それは遠慮しておく。接客は苦手だし」
丁重にお断りすると、怜は頬を膨らませた。
「なんだよお。でも気が変わったら教えてね。いつでも大歓迎だから!」
「気が変わったらな」
「うん!」
大きく頷く怜の顔には、満面の笑みが広がっていた。
「じゃあそろそろ帰るよ。もう夜遅いし」
「そうだね。じゃあまた明日」
「また明日」
怜がコンクリートの塊の中に消えていくのを見届けてから、僕はサドルに跨った。
家までの帰り道。僕は先ほどの怜との会話を反芻していた。
まさかバイトをしている理由があれほどしっかりしたものだとは思わなかった。正直、
小遣い稼ぎが目的だろうと予想していたから、少しあいつのことを見直した。
怜は、「新しい居場所を見つけるためにバイトを始めた」と言っていた。
もちろんそれも理由の一つ――彼女が嘘をついていなければ――なのだろう。
しかし彼女と話しているうちに、それよりももっと大きな理由があることに気がづいた。
きっとあいつは寂しかったのだ。無意識のうちに人を求めていたのだ。一人で多くの時間を過ごすということに耐えられなかったのだろう。多くの人は、一人の時間が長ければ長いほど、人恋しさも増すものだ。あいつも、そのように感じる一人だったのだろう。もちろん僕も。部活にでも入ればまた違っていたのかもしれないが、怜はどの部にも所属していなかった。気に入った部活がなかったのだという。
コンビニでのバイトは、人と話せるという点においては非常に有益なものだ。一日に数十人もの人々と会話をすることができる。それは僕みたいな、家でぼんやりテレビを見ているようなやつには決して経験できないものだ。
僕にも怜の一人ぼっちの寂しい気持ちをよく理解できる。やっぱり一人は寂しい。僕の場合は帰ってくる両親もいないので、その思いは一層大きい。
「一人暮らしは親の監視の目もないからやりたい放題だろ」と春人に羨ましがられているけれど、実際はそんなに楽しいものではない。
頼れる相手がいないということは、すべてを一人で抱え込まなければいけないということになる。
相談できる相手がいないということは、すべてを一人で解決しなければいけないということになる。
だから、春人や怜が羨ましい。僕は「家庭」というものを経験したことがないので、それがどういうものなのか具体的にはよくわからないのだけれど、自分が困ったときには相談に乗ってくれるだろうし、力になってくれるだろう。
このようなことは親しい友だちでもよいのかもしれない。
しかし、どれだけ仲が良くても他人なのだ。血の繋がりはない。たとえ、普段ほとんど会話をしない怜の両親でさえ、もし娘が学校でいじめを受けていたら、それを阻止するために全力を尽くすだろう。
家族とは、親とは、そういうものだと思う。そうであってほしい。
まあ結局のところ、僕はただの寂しがり屋なのかもしれない。一人暮らしを始めて約二年経つが、寂しさを感じなかった日は一日たりともない。たまに、まるで世界から切り離されたような孤独感に苛まれることさえある。
小学生や中学生のときには、いつも家族がいたのでそのようなことを感じたことは――
ってあれ? 僕、ここに引っ越してくる以前はどうしてたっけ? なんていう中学校に通っていたんだ? 小学校は? 幼稚園は?
……あ、そうだ。中学三年になったとき、父親が海外へ転勤することになり、それを機にここへ引っ越してきたんだった。ということはそれ以前は父親と二人暮らしだったのか。
ったく、自分の過去を類推しなくてはならないとは。人間の記憶力ってやつはまったくあてにならないな。
そんな記憶力のなさを嘆き悲しみながら歩いていると、もうマンションの目の前まで来ていた。駐輪場に自転車を停めて、階段を上がり、二階へ向かう。
このときの僕は、朝から女の子とぶつかったり、ヤンキーに追いかけられたり、女の子の部屋に行ったり、女の子と二人乗りをしたりと生まれて初めての経験をたくさんしたおかげで心も体もくたくたになり、眠気が限界にきていた。
そのため、初めは自分の部屋のドアの前に段ボールが置いてあるのかと思った。
あれ、通販でなにか頼んだっけ? それとも父親からの贈り物? はたまた捨て猫?
しかしだんだん近づいていくにつれて、それが段ボールではないことに気づいた。というか全然違った。
それは、人だったのだ。焦げ茶色のローブをまとった人らしきものがドアの前で体育座りをしている。フードをすっぽりかぶって俯いているので顔はよく見えないが、体型からして中学生、下手したら小学生かもしれない。かすかに寝息が聞こえる。
どうしてこんなところで寝ているんだ? なんでよりによって僕の部屋の前に?
お母さんと喧嘩でもして家を追い出されたのかな。でも、そうだとして、なぜ僕のところなんだ。第一、このマンションは一人暮らし用だ。家出をした人間がわざわざこんなところに来るだろうか。
もしかしたら、このマンションにこの子の知り合いが住んでいてそこに逃げ込もうとしたのかもしれない。それで、部屋番号を間違えて僕の部屋の前に来てしまったのかも。
兎にも角にもこの子に事情を訊いてみないと。
そう思い、その人間の肩のあたりを叩こうと手を伸ばすと、急にむくっと顔を上げた。 僕は驚いて後ずさる。
その顔つきは、非常に幼く、性別の判別が難しいものであった。まだ眠たいのか、ローブの袖で目をごしごしこすっている。やがて僕の存在に気づいたのか、ゆっくりと目線を上げていく。そして僕と目が合うと、その容姿からは想像できないような妖艶な笑みをこぼしながらこう言った。
「来ちゃった」
これは厄介なことになった。
どうやら、この小さな子は僕を知り合いの誰かと勘違いしているようだ。
どうしよう。もうこんな時間だし、ここで、「僕は君のことなんて知らない」なんて言ったらこの子は夜の町を彷徨うことになっちゃうよな……。
しょうがない。ここは話を合わせよう。と思っていると、話しかけられた。
「久しぶりだね」
「……え? あ、ああ、そうだね……はは」
「ボクのことおぼえてる?」
「も、もちろん! そ、それにしても前に会った時よりずいぶん大きくなったね」
ボク? あれ、その体つきから、どちらかというと女の子だと思っていたのだけれど、もしかして男の子なのか。
「そ、そうかなあ。あんまり実感はわかないんだけど……もみもみ」
「いやいや、そこじゃなくて! 身長が高くなったってこと!」
「ああ……なあんだ。胸のことかと思ったよ」
胸の大きさを気にするってことはやっぱり女の子なのか?
「ところで、……えーっと、なんて……」
「もしかしてボクの名前忘れちゃった?」
「……ごめん。久しぶりすぎて」
「ふうん。まあ人間は忘れっぽい生き物だからね」
苦しい言い訳だったが、どうやら納得してもらえたようだった。
「はい、これがボクの名前」
そう言って、ぐいっと自らの右肩を近づけてくる。そこには赤い糸で「ROZE」と横書きに刺繍が施されていた。
「ああ、思い出した! ローズだ」
「違うよ。ロゼだよ。ローズだったら〟Z〝じゃなくて〟S〝でしょ」
「あ……」
しまった! 大事なところでミスを犯してしまった。怒られるか、泣き出すかと思い身構えたが、このロゼという名の少女(?)は柔らかく笑っただけだった。
「まったく……本当、外国語に弱いなあ、ワタルは。ねえ、もう寒いから中に入ろうよ」
「そうだな。早く入ろう…………って、え?」
「どうしたの?」
「あ、いや……なんでもない。ほら、入って」
僕の反応に首を傾げながらも、ロゼはドアノブに手をかける。当然のようにドアノブは回らない。僕は慌ててポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差して回す。そのままドアを開けてもよかったのだけれど、なんとなくそれをするのは憚られたのでドアを開ける役目はロゼに譲った。
「お邪魔しまーす」
勢いよくドアを開いたロゼの後に続き、後ろ手でドアを閉める。
腑に落ちないことが一つ。
たぶん、いや確実にロゼは僕の名を口にした。どうしてこいつが僕の名前を知っているのだろう。本当に僕の知り合いなのか? だとしたらこの子は、僕とは一体どういった間柄なんだ?
僕の部屋は、渡瀬の部屋の造りとほとんど同じで(同タイプのマンションに住んでいるから当たり前なのだが)、入ってすぐに短い廊下が続いており、カーテンで仕切られた先に洋室がある。ロゼは興味津々といった様子で左手にある浴室やトイレ、右手の流し台などをひと通り見てから、
「意外ときれいにしているんだね。もっと汚いかと思ってたよ」
と、ニヤつきながら褒めてきた。室内に入ったからなのか、フードを脱いでおり、きめ細やかな赤褐色の髪が露わになっている。髪型は少し長めのボブカットだ。さらに、外にいたときはわからなかったが、グリーンに少しグレーを混ぜたような瞳の色をしている。僕は赤毛の人はみんな碧眼だろうと勝手に思っていたのでこれは意外だった。
髪の色と眼の色から察するに、おそらく日本人ではないのだろう。しかしこれだけ流暢な日本語を話すということは、ハーフなのかもしれない。
「きれいで悪かったな」
少しむっとしながらも言い返すと、ロゼは小首を傾げた。
「ワタルはあまり片付けるのが得意じゃなかった気がするんだけどな。こっちに来るとそういうのも変化するんだ……」
「え、なんのこと?」
「ううん、なんでもない。それより奥に行ってもいいかな? 立ち話もなんだからさ」
確かにそうだ。こんな狭いところで話していてもしょうがない。僕は一つ頷くと、仕切りの役割をしているカーテンを開けた。
「どうぞ。適当に座って」
はあい、とロゼは言い、僕のわきを通過して円卓の前に腰を下ろす。
僕は食器棚からコップを二つ取り出し麦茶を注いで部屋に運ぶと、ロゼの向かいに座った。
「はい、麦茶」
「ありがと」
ロゼは麦茶を受け取ると一口で飲み干してしまった。それからぐるりと部屋を見回して一言。
「本当にきれいだなあ。ゴミ一つ落ちてないね」
ロゼは部屋の奇麗さにいささか感銘を受けているようだ。僕は心もち胸を張って言った。
「まあ狭いからね。掃除が楽なんだよ」
「実は、彼女がときどき掃除しに来てるとか?」
「だったらいいんだけどね。残念ながら自分で掃除してます」
「本当かなあ」
ロゼは疑いの目を僕に向けてくる。
「本当だよ」
「ど忘れしてるんじゃないの? ボクの名前も忘れてたし」
「いないもんはいない! これ以上は空しくなるからやめてくれ……」
「ごめん、ごめん」
謝罪の言葉を口にしてはいるが、顔が笑っていたので全く謝られている気がしなかった。
なんか調子狂うなあ。顔は幼いのに言葉遣いや仕草が年不相応なんだよな。そのせいで
会話の主導権を握られてしまっている。
よし、今度はこっちから質問してやろう。そしたら僕のペースで話を進められるはずだ。まずは一番気になっていることを訊こう。
「ねえ、ロゼ。なんで僕のとこに来たの?」
「お腹すいた」
「は?」
「お腹すいたって言ったの。こっちに来てからまだ何も食べてないんだよね」
そう言いながら胃のあたりを押さえている。今にも腹の音が鳴りそうだ。
「そうなんだ……じゃなくて、僕の質問に答えてよ!」
「食べもの、食べもの…………あっ! あれなに?」
ロゼは鞄の上のコンビニ袋を指差した。
「ん? あれは弁当だよ。さっきコンビニで買ってきたんだ」
「弁当!?」
ロゼの灰緑色の瞳が輝いた。
しまった! と思ったときにはすでにコンビニ弁当はロゼの手に。
「いっただっきまーす」
ちょっと待て! という制止の言葉も聞かず、むしゃこら食べ始めてしまった。
僕はしかたなく怜からもらったアメリカンドックを頬張った。だいぶ時間が経っていたので冷たく、生地はしなしなであまりおいしくない。これではホットスナックというよりクールスナックだ。
弁当もすっかり冷えていているはずなのに、ロゼは「おいしい!」と感嘆の声を洩らしながらどんどん口に運んでいく。そして、三分も経たないうちに完食してしまった。しまいには麦茶のおかわりを要求してくる始末。麦茶に砂糖でも入れてやろうかと思ったが、さすがに可哀想なので代わりに塩をひとつまみ入れた。
コップを渡すと、さっきと同じように一気に飲み干した。味の違いには気づいていないようだ。くそったれ。ロゼはコップをテーブルに置くと、言った。
「で、さっきはなんて言ったの?」
「ああ、そうだった。えっと、どうしてここに来たんだ?」
「……知りたい?」
「知りたいから質問してるんだろ」
「それもそうだね。実は、ある噂を調べるために来たんだ」
「うわさ?」
「うん。その噂の真偽を確かめるためにボクはここまでやってきたというわけ。調査員といったところかな」
まったく言っている意味がわからない。
「へえ……。で、その噂っていうのはなんなの?」
「それは秘密。守秘義務があるからね」
「……あっそ」
「教えてあげられなくてごめんね。決まりは守らないといけないから」
「……うん」
「でも、後日教えてあげることができるようになるかもしれない。まあ、それも今回の調査の進展次第だけどね」
「…………」
「どうしたの?」
「いや、べつに……。なんかすごいなって思って」
妄想が。
「そんなことないよ。ボクは与えられた仕事をこなすだけだよ」
さぞそれが当たり前のことのように宣うロゼ。
「だって仕事っていうのは大人になってから始めるもんだろ。そういえば、お前はいくつになったんだっけ?」
「十六」
僕は思わず吹き出しそうになる。
「冗談はよせよ」
「冗談じゃないよ」
「いやいや、無理があるだろ。そんな容姿じゃあ、中学生だって厳しい――」
突然、視界が真っ暗になり、星がちらついた。
ビンタされたのだと認識するまでに数秒を要した。右頬がズキズキ痛む。叩かれるとこんなに痛いものなのか。
とういうか、何故ぶたれたんだ? いったい何がこの子の琴線に触れたんだ?
ロゼはしばらく憤怒の表情を浮かべていたが、やがて少し落ち込んだような表情で口を開いた。
「やはりボクの読みは正しかったようだ。今ので確信したよ。キミはそんなことを言うような人じゃなかった」
「え? どういうこと?」
ロゼは僕の問いには答えず、目を伏せてじっと考え込んでいたが、やがて意を決したように僕の目をまっすぐ見つめ、こう告げた。
「端的に言おう。ワタル、キミは記憶喪失だ」
「は?」
声が洩れてしまうのも無理はない。
見知らぬ、性別も分からない子どもが、突然自分の家に来て「君は記憶喪失だ」と宣告されるなんて考えられない。突拍子がないにもほどがあるだろ。妄想は自分の頭の中だけでやってろよ。他人を巻き込まないでくれ。
「キミがそんな顔をしてしまうのも無理はない。信じられないだろうが、これは事実なんだ。ワタル、キミは記憶を失っているんだよ」
「……おまえ、頭大丈夫か?」
「いたって正常だよ。そうじゃなきゃ、調査員としてここに派遣されないでしょ?」
「……………」
もうなにを言っても無駄なようだ。
「うーん、どうやったらキミに信じてもらえるだろうか……」
腕を組んで考え込むロゼ。
「そもそも、僕が記憶喪失だと思う根拠はあるのかよ?」
「あるにはある」
「なんだよ?」
曖昧な返答だな。
「それは、キミがボクのことを忘れているということだ。それに、以前のキミだったら、決してこのボクの年齢にそぐわない容姿を馬鹿にしたりしはない。ボクがそういうことを言われるのを嫌っている、ということを知っているはずだからね」
「……ごめん」
「いや、いいんだ。ボクのほうこそ悪かった。つい感情的になってしまって……」
そう言うと、ロゼはうなだれてしまった。僕もなんと返したらいいのかわからず、黙りこくってしまう。
沈黙を破ったのはロゼだった。
「しかし、この理由だとボクは納得できても、キミは納得できないだろう?」
「あ、ああ。お前が嘘をついているだけかもしれないからな。実際、僕はそう思ってるし」
「そうだよね。さすがにこれだけでは信じてもらえないか」
はは、と自嘲気味に笑うロゼ。僕は麦茶を一口飲むと、言った。
「あまりに根拠として薄すぎるからな」
「なるほど……ちょっと質問してもいいかな?」
僕は頷く。
「高校に入学する以前はなにをしていたの?」
「中学校に通っていたけど」
当たり前のことを訊いてくるな。
「この近くの中学校に通ってたの?」
「いいや。中学三年の初めに、父親が海外に転勤になったから、それで僕もこっちに引っ越しってきたんだ。だから、それまではこの近くの中学校には通っていなかった」
「なるほどね。こちらにやってくる前まではどこに住んでいたの?」
「どこってそりゃあ…………あれ、どこだっけ?」
ここからは結構離れていた気がするんだけれど。てか、どんな家だったっけ? 一軒家? それともアパート?
僕が悩んでいると、ロゼは続けて質問してきた。
「両親と三人で暮らしていたの?」
僕は首を横に振った。
「母親は物心つく前に亡くなったから、ずっと父親と二人で暮らしてきた」
「お父さんはどんな人だったの?」
「………………」
「どんな人だったの?」
「……わからない」
愕然とした。
父親の面影はおろか、名前さえ思い出すことができない。
「転校する前の学校のクラスメイトの顔は覚えてる? 担任の先生は?」
「…………」
「家の近所にはなにがあった? ご近所さんはどんな人?」
「…………」
「お父さんの職業は? どこで働いて――」
「もうやめてくれ!」
頭の中が混乱してしまい、つい声を荒げてしまう。
「……ごめん。怒鳴ったりして」
「ううん。ボクのほうこそ問い詰めるようなことをして悪かったよ。でも、これで自分が記憶喪失だってことがわかったでしょ?」
頷くしかなかった。
よく考えてみると、十年以上一緒に過ごしてきた父親の顔や、つい数年前まで暮らしていた家の形も思い出せないなんてさすがにおかしい。
そう、おかしいのだ。
でも、一番問題なのは「忘れていることがおかしい」ということに、今の今まで気づかなかったことだ。
まるで僕の脳が、そういう考えに至るのを避けているような――。
「なあ、ロゼ」
「なに?」
「お前と僕はどういった間柄なんだ?」
こんなに親しく話しているのだから、僕が記憶を失っているだけで、おそらくロゼとは知り合いなのだろう。
「小学校三年からの友達だよ。中学二年まで、ボクらはほとんど同じクラスだったんだよ。憶えてる?」
僕はかぶりを振った。
「……ごめん。まったく心当たりがない」
「それはそうだよね。わかってたことだけど、こうはっきり言われると、ちょっとショックかな……」
ロゼの表情が一気に沈んでしまった。
この落ち込み様を見る限り、僕とこの子がクラスメイトだったということは事実なのかもしれない。けれど、ロゼが嘘をついていて、落ち込んでいるふりをしている可能性も否定できない。まあここで僕に対して嘘をつくことが、ロゼにとって意味のあることとは思えないけれど。
「もしかして、ボクのこと疑ってる?」
と、ロゼが訊ねてきた。
「え、なんでそう思うの?」
「そんな疑いのこもった目で見られたら、誰だってそう思うよ」
思っていることが顔に出やすいタイプなのかな、僕。それとも、ロゼの洞察力が優れているのか。僕は素直な心情を吐露した。
「正直、信じられないんだ」
「うーん、やっぱそうなるよねえ。あっ、そうだ!」
なにか思いついたのか、ロゼはローブのなかに手を突っ込んだ。そして、中から一枚の写真を取り出した。
「これを見たら、信じてもらえるかな」
そう言って、僕に写真を渡す。写真には、私服姿の小学生らしき子どもたちが、紅葉を背景に横三列に並んで映っていた。どの子も無邪気に笑っている。
「これは?」
僕の問いに、ロゼは昔を懐かしむように答えた。
「あれは、小学校五年のときだったかな。みんなで近くの山へハイキングに行ったんだよ。これは、そのときに山頂で撮ったうちのクラスの集合写真。ほら、ここ見て」
ロゼが人差し指を向けたところには、今よりも幼いロゼと僕らしき子ども(小学生時代の自分の顔を覚えていないので断言できない)が並んで映っている。
「…………信じられない」
僕のつぶやきにロゼは何度も頷く。
「だろうね。でも、これは事実なんだよ。もちろん、合成写真なんかじゃない。キミはボクと友達だった……いや、友達なんだよ」
「…………下手したら幼稚園生に見えるぞ、これ」
「うん、確かに――って、どういうこと!?」
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「そんなわけあるか……ふふ、それにしても本当にかわいいなあ、小学生の僕……フヒヒ」
「ロリコンよりやばいかも……」
僕はもう少し自分の可愛らしい写真を眺めていたかったが、ロゼが軽蔑の眼で睨んでくるので、仕方なく切り抜いた写真を机の引き出しに閉まった。ロゼは僕にとっては何の価値もない切り取られた写真を手に取ると、それをローブのなかに戻した。
「で、納得してもらえた?」
僕は頷いた。
「自分が記憶喪失だということを認めるよ」
「それだけ?」
「あと、お前が僕の友達だということも」
「よかった」
ロゼは微笑んだ。
よくよく考えると、僕は人見知りなので、初対面の人間とこんなに打ち解けて話せるはずがない。そのことにもっと早い段階で気がづくべきだった。
ロゼと友達だった、という記憶を失ったとしても、僕の心、または身体が憶えていたから、テンポ良く会話をすることができているのかもしれない。
こうしたいくつかの根拠から、自分が記憶喪失であることは理解できた。
でも――
「どうして、僕は記憶喪失になったんだろう?」
「ボクもそれはさっきから気になっていたんだ。記憶を失ってしまったのには、何か理由があるはずなんだけど……」
ロゼの言うとおりだ。朝起きたら、記憶喪失になっていたなんていう馬鹿げた話があるはずがない。物事には必ず理由があるはずだ。
「繰り返しになるけど、高校に入る以前のことはまったく憶えていないんだよね?」
腕を組んで考えに耽っていたロゼが訊ねてきた。
「うん。でも……」
「なにか気になることがあるの?」
身を乗り出して訊いてくる。
「あるにはあるんだけど。……なんて言えばいいのかな」
「まとめようとしなくていいから、思っていることをそのまま言ってみて」
ロゼにそう促され、僕は考えていることをそのまま口に出した。
「確かに僕は高校入学以前のことを憶えていない。忘れてしまっているんだ。けれど、さっき言ったように、父親と二人で長い間一緒に住んでいたことや、母親が早くに亡くなっていることは僕の中に記憶として残っているんだ。それなのに、両親の顔はまったく憶えていない。これっておかしくないか?」
「父親と住んでいた」という文字としての記憶は頭の中に存在している。が、それに関する記憶(どんな家に住んでいたか、家の中には何があったか)を思い出すことができない。というより、初めから存在していないかのようだ。
僕の話を聞いてロゼは少し考え込んでいたが、やがてなにか思いついたのか、はっと顔を上げた。
「なにか分かったのか?」
ロゼは首を横に振って頷いた。分かったような、分かっていないような様子だ。
「ワタル。キミは高校に入るまでのことは憶えていない――いや、忘れているんだよね?」
「うん。何度もそう言ってるじゃん」
「じゃあ、高校に入ってから今までのことは憶えてる?」
僕は即答した。
「もちろん」
「具体的に憶えてることは? 行事とか」
「えーと、体育祭は小雨のなか行われて、百メートル走で八人中三位になった。文化祭では劇で悪役を演じたよ。僕たちの劇は投票で一位になったんだ。あとは……」
あれ、なにか大事なことを忘れているような気がする。体育祭、文化祭に限らず、どの記憶もどこか一ヵ所だけぽっかりと抜け落ちているような……。まるで、そこだけマジックで黒く塗り潰されているみたいな……。
「やっぱり高校のことはしっかり憶えているんだね。ということは、やはり……」
「思い当たることでもあるのか?」
「……うーん、なんとも言えないな。ところで、クラスで仲が良い友達はいる?」
「唐突だな。まあ、それなりにいるよ」
「その友達の名前は?」
「言ったってわからないと思うけど」
「いいから教えて」
有無を言わさぬロゼの問いに、僕は首を傾げながらも答えた。
「特に仲が良いのは、五十嵐怜と波流春人ってやつかな。いつも一緒に昼飯を食べてるよ」
「……それだけ?」
「親しいのはこの二人くらいかな。他の連中とはたまに話すくらいだ」
「なるほど……」
ロゼは僕の答えに何度も頷いた。何か掴んだみたいだ。もしかしたら、記憶喪失の原因がわかったのかもしれない。やがてロゼは真剣な顔で話し始めた。
「これはあくまで推論だけど、二つわかったことがある」
ロゼは人差し指を立てた。
「一つ。高校入学以前のことは忘れてしまっていて、それ以降から現在までのことは憶えている。つまり、高校に入る直前の時期に記憶を失うような出来事があったはず」
なるほど。ということは一年前の春休みに、僕の身に何かが起こったということか。
「もう一つは?」
「二つ目だけど、おそらく……」
今度は中指を立てたが、なぜかそこで口ごもってしまう。
「どうした?」
「……おそらく、キミはその時、誰かによって偽の記憶を植え付けられたんだ」
「…………は?」
また訳のわからないことを言い始めたぞ。つまり、誰かが僕の記憶を操作したってことか? 馬鹿馬鹿しい。そんなことできるわけないだろ。
「急に何を言い出すんだこいつは、とでもキミは思っているのだろう」
「当たり前だ。記憶を失っているらしいことは理解できたとしても、偽の記憶を植え付けられたなんてことはさすがに信じられない。第一、そんなことが可能なのか?」
他人の記憶を書き換えることのできる人間がこの世界に存在しているとは考えられない。
「まあそう思うのも無理はない。だってボクは、まだ大事なことをキミに伝えてないから」
そう言ってロゼは微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「大事なこと?」
「キミの過去を語る上でとても重要なことだ。これを知ったら、キミの人生が大きく変わってしまうだろう。いや、変わるというよりはむしろ――」
「もったいぶらずに早く教えてくれよ」
こいつは一体なにを知っているっていうんだ。まだ僕には秘密があるのか。だとしたら、どれだけ僕は今まで自分自身を理解していなかったんだ。
しかし、ロゼは首を横に振った。
「これを言ったらキミはさらに混乱し、動揺してしまうだろう。ただでさえ、今日は今まで知らなかったことをたくさん知ったはずだ。これ以上、キミの心に負担をかけるのはよくない。それにもうこんな時間だし、この話はまた明日にしよう」
「……そうだな」
正直、ロゼが握っている僕に関する秘密はとても気になる。今すぐにでも訊きたい。
でもロゼの言うとおり、疲れているのも事実。明日教えてくれるのならそれでもいいか。
「うん。じゃあ、おやすみー」
僕が同意するや否や、ロゼはベッドに潜り込んでしまった。すでに寝息を立てている。
「……ったく、なんなんだよこいつは」
本当に、今日は朝からいろいろなことがあった。こんなに忙しかった一日は生まれて初めてかもしれない。記憶を失っている――ロゼが言うには書き換えられている――ので、ここ一年間での話になってしまうが。
ロゼの寝顔を眺める。とても僕と同い年には見えない。子ども用切符で改札を通り抜けても誰も疑問に思わないだろう。そのくらい幼い顔立ちだ。
そういえば、ロゼは調査員としてここに派遣されたと言っていた。
調査とは何のことなのだろう? あまりに当たり前に言うものだから、深くは追及しなかったけれど。
まあ気にはなるが、こんなにすやすや眠っている子を起こすのも気が引けるし、また明日訊いてみるか。
あまり見つめていると変な気分になりそうだったので、浴室に向かい、シャワーを浴びた。浴室から戻り、クローゼットから以前来客用に購入しておいた寝袋を引っ張り出して、それにくるまった。
なかなか寝つけないかと思っていたが、疲れ切っていたのですぐに眠りに落ちた。
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