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第1章

1-5 ほしい!

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 京急で横浜駅に向かった。電車の中では、クラスメートの噂話とか、どうでもいい話に終始した。美那と話すべき話題は電車内で話すには重いものばかりだ。
 立ち並ぶ集合住宅や商店街、切り開いた丘に密集する住宅たち。ずっとこの路線を使っているから、窓の外のこのごちゃごちゃした景色が俺にとっての当たり前の車窓の風景だ。今日みたいな夏至に近い強烈な太陽に焼かれたそいつらは、すごくおとなしく見える。
 考えてみると、美那とふたりだけでこうして並んで電車の席に座ったことなんてたぶん数えるほどしかない。幼稚園や小学校低学年頃は母親たちと一緒だったし、そのあとはふたりで遊ぶことなんてほとんどなかった。ふたりだけで会うのは、せいぜい、今日みたいに、美那になにか特別なことがあって、俺に話をしたいときくらいだし、それも近所だからわざわざ電車に乗ってでかけることはない。
 同じ中高一貫校に入って、同じ電車になることもあったが、大抵、美那は誰か友達と一緒だった。
 西口にある長谷部さんの住むマンションは、京急の横浜駅から歩いて7分程度だった。ブルーラインの駅からなら5分もかからないだろう。
 敷地の手前から見上げたそのマンションは高級そうだ。美那には少し離れた適当なところで待ってくれるよう頼んだ。
 京急を降りた時点で電話しておいたので、マンションの入り口から電話すると、長谷部さんはすぐに降りてきた。
 見た瞬間、うわ、やばい、と思った。とてもきれいな、大人の女性という感じの人だ。こんな人もバイクに乗るんだ、というのが第一印象。ゆったりとした白いTシャツにルーズなジーンズというラフな格好だけど、化粧はきちんとしてある。髪はブラウンで、トップスの長いショートヘア。大人っぽく感じていた美那が急に子供に思えてくる。もっとも俺はもっと子供なわけだが。
「リユ君ね?」
「あ、はい。はじめまして。よろしくおねがいします」
「いいのよ、そんな固くならなくて。あれ、彼女は? 松山さんのいとこ」
「近くまで一緒に来てはいるんですけど、ふたりで来たらご迷惑かと思って」
「え、ぜんぜん、そんなことないよ。呼んだら?」
「いや、でも。バイクを見せてもらったらすぐに帰りますし」
「見るだけでもいいけど、もし譲ることになるなら、いくつか話もしないといけないし。男の子ひとりだったら、そこのカフェで話をしようとおもったけど、松山さんのいとこも一緒なら、部屋で話せるから」
 俺みたく野獣性のまったくない男子とはいえ、初対面だし、そりゃ、部屋には入れたくないよな。電話をすると、美那はすぐ近くのコンビニから、小走りに出てきた。
「あら、すっごいキュートなカノジョ」と、長谷部さんがつぶやく。
 まあ、確かにあんなふうに可愛げのあるときはほんとに可愛い。俺の前ではほぼ可愛げはないけど。
 しかし、カノジョってただの代名詞なのか? この場合、〝彼女じゃありません!〟と否定しておいたほうがいいのだろうか?
 よくわからないので、ガールフレンドが褒められたことを謙遜する場合と、〝彼女〟ではないことを否定する場合の両方の意味に取れるよう、ちょっと照れながらあいまいに首を振っておいた。
「はじめまして。松山高志のいとこの、山下美那です」
 ほんと、眩しいくらいの外面そとづらの美しい笑顔だ。初対面の人にも物怖じしないハキハキした喋り方は大抵の人から好かれる。
「どうも。長谷部有里子です。よろしく」
 駐車場に案内される間、美那が耳元で「綺麗な人でよかったね」と意味のわからないことを言った。別にバイクと一緒に付いてくるわけじゃないんだから関係ないだろ、と俺は小声で怒ったように言い返した。
 屋根付きではあるが、オープンスペースのバイク駐車場だ。保管用カバーをかけたバイクが何台かあったけど、どれがZ250か、俺にはすぐにわかった。
 長谷部さんがカバーをはぐると、そこには宝石のようなZ250が!
 光るような濃いめのグリーンのタンクに黒いサイドカバー、それにゴールドのホイールは、スペシャル・エディションじゃないかっ。うわ、しかも、マフラーにアクロポビッチが着いてる‼︎
 もちろんすぐに心は決まった。あとは値段だ。これだけキレイだと、そう安くはないな。30万はしそうだ。個人売買で分割とかしてくれるかな……。
「どう? けっこうきれいにしてるでしょう? 距離は1万キロを超えちゃっているけどね」
 長谷部さんが美しく微笑む。
 ほ、ほしい。
「エンジン、かけてみようか?」
「お、おねがいします」
 音を聴いたら、もっと欲しくなるに決まっているが、念の為、エンジンのチェックも必要だ。とはいえ、よほどひどい音じゃなきゃ、聴いただけでコンディションがわかるほどの経験もないわけだが。
 キーを差し込むと、メーターが明るくなり、回転計が一度跳ね上がる。そしてセルモーターが回されると、ああ……。
 ノーマルのマフラーよりも低く、迫力のあるアイドリング音が響く。ちょっと不整脈っぽいリズムは、アクロポビッチの特徴だ。
「立ちゴケは2回したことがあるから、ちょっとだけ傷はあるけど、転倒はなし。オイルは3000キロくらいで交換してる」
 長谷部さんがコイツのいいところを説明してくれればしてくれるほど、どんどん遠ざかっていくような気がする。たぶん、そういうつもりはないんだろうけど。
 ダメ押しのように最後に2度ほどアクセルを煽ってから、長谷部さんはエンジンを切った。
「どう? この子のこと、気に入ってくれた?」
 静寂のはずの駐輪場にまだ排気音がコダマしている気がする。
 正直、もう抱きしめたい気分だ。
 優しく見つめる長谷部さんの瞳に向かって、俺は、小さく、でもはっきりと、うなずいた。言葉が出なかったのだ。俺の後ろで美那が嬉しそうにしている感じが伝わってくる。
 カバーをかけ直す長谷部さんを手伝った。

 入り口を入るとやっぱりかなり高級なマンションで、エントランスは驚くほど広く、ホテルみたいなカウンターもある。静かなエレベーターで11階に上がった。思わず美那と顔を見合わせた。俺たちの家はどちらも築15年ほどで、それなりに洒落てはいたが、ここを見ると、やはり庶民的なのだと思える。
 1LDKだから手狭なのよ、と案内された長谷部さんの部屋も、当然ながら我が家とは全然造りが違っている。美那も明るい石張りの玄関でおもわず「うわー」と声を上げる。
 まだできて2年ほどらしいから、新しいこともあるのだろうけど、高級感に溢れたセンスのいいシンプルな作りだ。もっとも、俺が知っているのは同級生の家の普通のマンションとかURの集合住宅とかだから、比べても無駄なのだろうけど。
「どうぞ、あがって」
「おじゃまします」と声が揃ってしまい、美那と視線が合う。〝すごいね〟と美那の唇が動く。
 長谷部さんの言葉の通り、たしかに中はさほど広くなかった。最新型っぽい長細いキッチンを通り抜けると、小さなダイニングセット、その奥にはソファとテーブル。壁の作り付けの棚には写真集のような本が多くあり、カメラをはじめとする写真の機材も置いてある。棚と一体化した作業用デスクには大きめのモニターが据えてある。写真関係の仕事をしているのだろうか。
「ソファに座って。麦茶でいいかしら」
「はい」「ハイ」と、またまた美那とタイミングが合ってしまう。
「仲がいいのね」と、長谷部さんが微笑む。
「幼馴染なもので」
 説明になっているような、なっていないような答えを美那が返す。
 苦笑いした長谷部さんは、麦茶のグラスをテーブルに置くと、いきなり本題に入ってきた。
「それで、値段はどうしようか?」
 値段の交渉は、低めに提示するのがいいのだろうか? だけどあんまり安く言っても、印象が悪いだろうしな。
「かなり程度はいいし、アクロポビッチも着けてあるし、30万はしますよね……」
 俺は恐る恐る聞いてみる。
「うーん、どうしよう」と、長谷部さんが渋い顔をする。
 30万でも安いよな、やっぱり。
「松山さんからは15万円くらいしか用意できないって聞いたけど」
「……はい、そうなんです。あと夏休みのバイトで5万くらいなら追加できます。足りない分は、個人売買ですけど、分割払いとかできないかなって」
「あー、そうね……それもちょっとね」
「そうですよね……」
 母親から借りるくらいしか、ほかに手は思いつけないけど、そもそもバイクの購入を認めてもらう説得もこれからだし、それも難しいよな。
「わたしも10万円くらいなら貸せるかも」と、美那が横で囁く。
 俺は美那のほうを見て、「おまえからは借りられない」とだけ、小声で言った。
 意地を張っているとでも思ったのか、美那はあきれたような感じで不満げに目と唇を動かす。そういうんじゃないんだよな。自分でもよくわからんけど。
 俺と美那を交互に見た長谷部さんが小さく笑った。
「リユ君、ちょっと誤解してるみたいけど、わたしとしては、大切にしてくれる人なら25万くらいでいいかな、って思ってたの」
 に、にじゅう・ご・まん?
「Z400を購入する条件でカワサキのショップで下取りに出せば、もうちょっと高いかもしれないけど、愛着もあるから、いい人に引き取ってもらいたいなぁ、って」
 と、長谷部さんが続ける。
「リユなら、絶対に大切にします。わたしが保証します。わたしがちゃんと大切にするように厳しくします」
 美那が、身を乗り出して、力強くサポートしてくれた。
 ありがとう、我が友よ!
 しかし、これでバスケは確定だ。でもこのZ250には変えられない。そのくらい、なんとか耐えよう。
「しっかりした彼女でよかったわね、リユ君」
「カノジョ? ち、ちがいます」
 と、美那が声を上げる。
 俺は無言で首を横に振る。
「あ、ちがうんだ」
 長谷部さんは意外そうだ。
「ちがいます」と、また二人の声が揃う。
「そうなんだ。じゃあ、リユ君にお願いしちゃおうかな」
「え? お願い?」
「うん」と、長谷部さんは言って、壁の棚のほうを見た。
「松山さんから聞いてるかもしれないけど、わたしはフリーのカメラマンをしてるの。被写体は建築がメイン。夏に何箇所か地方を回ることになっているんだけど、機材運びとか、ちょとした力仕事ができるアシスタントが欲しいと思ってて、リユ君、そのバイトしない?」
「俺ですか? 写真の知識とか、ほとんどないですけど。撮るのは嫌いじゃないけど」
「うん。それで十分。ただ、泊りがけになるから、ご両親の了解は必要になるけど」
「あ、俺、片親なんで、母親だけですけど」
「あら、そうなの。うん、お母様だけで大丈夫よ。それから、Z250の譲渡も、リユ君は未成年だから、親権者の承諾書が必要になると思う」
「あー、そうですか、そうですよね」
「もしかして、まだ、お母様には話してない?」
「こんなすぐに買えるとは思ってなかったから」
「そうか。でも、避けては通れないわね。じゃあ、正式にはそれをクリアしてからね。できれば今晩にでも話してもらえるかしら?」
「ああ、はい。わかりました。あ、それで最終的にはどういうふうにいくら支払えばいいですか?」
「じゃあ、現金を15万円と、アシスタントのバイトを一週間、で、どう? 一週間全部が無理なら、別のバイトとかでそのぶんをあとで埋め合わせてくれればいいから。そこは信用する」
「アシスタントのバイトだけでいいんですか?」
「いいわ。まあ、そのぶん、こき使わせてもらうから、覚悟しといてね」
「ああ、はい。長谷部さん、ありがとうございます。すっごく、うれしいです」
 長谷部さんは「苗字じゃ堅苦しいから、有里子さん、とでも呼んで」と言いながら、俺たちふたりそれぞれに名刺をくれた。もちろん返すべき名刺なんて持っていない。
 それから、ネットを検索しながら、譲渡に必要な書類を調べた。長谷部さんは名義変更の手続きを一度やってみたかったらしく、必要な書類を揃えた上で一緒に陸運局に行くことになった。水曜日は午前中で授業が終わるので、学校近くで長谷部さんの車に拾ってもらうことになった。
 長谷部さんは、わざわざマンションの外まで見送りに来てくれた。俺は何度か振り返って、お辞儀をした。
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