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第9話
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「――二重チェックはしなかったのかい?」
私の目の前には、青ざめた顔のキリが立っている。
「ご、ごめんなさい、アシュリー様……この程度の計算なら、何度もやってきたから大丈夫だろうと思って」
小さな身体をますますふるふると縮こまらせるキリ。
常ならば、そんな彼を見ると「私が守ってあげねば」という庇護欲にかられたものだが――さすがに今日は、私の胸にはそのような気持ちは湧いてこなかった。
私は再び目の前の書類に目を落とす。
今朝のことだ。
このオッドブル商会にあらたに商品を卸す予定になっていた職人たちが怒鳴りこんできたのである。
『――最初に打ち合わせていた金額と違うじゃないか! どうなっているんだ、最初からそのつもりだったのか!?』
職人たちの怒りの原因は、彼の元にとどいた卸値が記載された書類だった。
見れば、確かにそこに書かれていた金額は、取り決めていた金額と大幅に異なるものであった。
私は職人たちに平謝りをしたものの、今回のことはこちらにミスがあるのは明らかだった。
結局、職人たちの怒りをなだめるために、当初の予定よりも向こうにずいぶんと有利な形の卸値で締結することになってしまった。
職人たちが帰った後、私は幾人かのスタッフと今回の件の原因を探った。
しかし、原因は拍子抜けするほど単純なものだった。
「ユージの作ったマニュアルに、二重チェックは必ず自分以外のものが行うこと、とあるだろう? そもそも、彼が作ったこの計算式に数字を入力すれば、自動的に合計金額が算出されるはずじゃないか」
「すみません……その、計算式に入力した数字が間違っていたみたいで……」
卸値の金額を計算したのはキリだった。
その計算の途中に、金額の記載ミスがあったため、その後の計算もすべて誤った金額になってしまっていたのである。
計算した金額を正式な書類にまとめ、先方に郵送をしたのもキリだった。
本来ならば、自分以外の人間に計算したものと、書類を二重に確認してもらう手順になっているのだが……キリはどうやら、その手順をすっとばして、自分の確認だけで先方に書類を郵送してしまったらしい。
思わず、私はため息をついた。
途端に、部屋の真ん中で所在なさげにたつキリがびくりと肩を震わせる。
「ほ、本当にすみませんでした、アシュリー様……。誰かに確認してもらおうかと思ったんですけど……みんな、忙しそうだったから、お手を煩わせたら悪いかなと思ったんです……」
「……まぁ、自分のミスを自覚し、反省しているならもういい。同じミスを繰り返さなければ、それでかまわないよ。今日はもう下がってくれ」
私はキリを安心させるように微笑みかける。
すると、キリはホッとしたように肩の力をぬいて、弱弱しい笑みを浮かべた。
「本当にすみませんでした、アシュリー様」
ペコペコと頭をさげて、キリは執務室を退出した。
それから間を置かずに、今度は新しい人間が入室してきた。このオッドブル商会の一番の古株である、ミルトだ。
彼は父の頃からオッドブル商会に在籍している職員であり、私がこの世で二番目に信頼している人間である。
……私がこの世で一番目に信頼している人間は、今、ここにはいない。
私の無二の親友である彼――ユージは今、自分の故郷である田舎町へと里帰りをしていた。
彼がこのオッドブル商会を離れてから、一ヶ月が経った。
だが、私にはその倍以上の月日が経過したように感じられる。
「アシュリー様、今、お時間よろしいでしょうか?」
「ああ、かまわないよ。ミルト、今日はお前にも苦労をかけたな」
「……そのことなのですが……」
私の言葉に、ミルトが顔を曇らせる。
そして、苦々しい顔で言葉を続けた。
「アシュリー様。実は、キリが今回のようなミスを犯すのは、今回で三度目です」
「なに?」
思ってもみなかった言葉に、私は目をみはる。
対照的に、ミルトの眉間の皺はますます深くなり、声音にも苦渋の色が混じった。
「最初の一回目は同じように領収書の金額が違ったのですが、小口のお客様でしたから大事にはなりませんでした。商会に入った直後のことでしたから、私たちも旦那様にはお伝えしませんでした。二回目は、お客様に送る前にたまたま請求書を見てくださったユージ様がお気づきになられたので、やはり大事にはなりませんでした」
「…………」
「無論、人間の行うことですから、必ずどこかでミスは生じます。ですが――どのミスもすべてマニュアルに従わず、自分の能力を過信して『これでいいだろう』と正規の手順を踏まえていないことで生じているものと見受けられます。これは、もはや本人の性格の問題と言わざるを得ない気がいたします」
「……分かった、その話は心にとめておこう」
ミルトは私に一礼をすると、黙ったまま執務室を出ていった。
私の気持ちを慮ってくれたのであろう。
私にとって、キリはただの従業員ではない。
アルファとオメガ。ようやく出会った運命の番。かけがえのない恋人。
どんな言葉であろうと、私がキリに抱く愛情と庇護欲を言い表せるものはない。
言い表せるものはないが――しかし、だからといって、今の話を聞かなかったことにもできない。
「はぁ……うまくいかないものだな」
キリと出会って、私は生まれて初めて恋というものを知った。
身体が燃え上がるような執着心と庇護欲。
その熱は私の生にたとえようのない喜びと幸福感を与えた。
なのに……なぜだろう。
キリに対する執着心と庇護欲が衰えたわけではない。
なのに――胸のどこかにぽっかりと穴が開いたような心地が続いている。
「……あいつは、今はどうしているかな」
……ユージは今頃どうしているだろうか。
もともと、キリの行っている秘書業務は、ユージに任せていた仕事だった。
ユージは元々は父に才能を見込まれて、このオッドブル商会に迎え入れられた薬師だ。
だが、彼は計算が早く、そして幼いころから経理や秘書業務もほとんど完璧にこなせていたため、父は彼を重宝した。
最近は、薬師というより私の秘書として働いている方が多いぐらいだった。
薬師であり、秘書であり――私の右腕であり、唯一無二の親友。
だが、そんな彼はこの王都にはいない。
ある日突然、休職届を出して、自分の生まれ故郷へと戻っていってしまったのだ。
ユージがオッドブル商会を立つ直前まで、ミルトが彼を引き留めようと頑張ったらしいのだが、とうとう叶わなかったという。
「……ユージ……」
彼が故郷に帰ってから、三度、私は彼に手紙を送った。
だが――彼からいまだに返事はない。
私の目の前には、青ざめた顔のキリが立っている。
「ご、ごめんなさい、アシュリー様……この程度の計算なら、何度もやってきたから大丈夫だろうと思って」
小さな身体をますますふるふると縮こまらせるキリ。
常ならば、そんな彼を見ると「私が守ってあげねば」という庇護欲にかられたものだが――さすがに今日は、私の胸にはそのような気持ちは湧いてこなかった。
私は再び目の前の書類に目を落とす。
今朝のことだ。
このオッドブル商会にあらたに商品を卸す予定になっていた職人たちが怒鳴りこんできたのである。
『――最初に打ち合わせていた金額と違うじゃないか! どうなっているんだ、最初からそのつもりだったのか!?』
職人たちの怒りの原因は、彼の元にとどいた卸値が記載された書類だった。
見れば、確かにそこに書かれていた金額は、取り決めていた金額と大幅に異なるものであった。
私は職人たちに平謝りをしたものの、今回のことはこちらにミスがあるのは明らかだった。
結局、職人たちの怒りをなだめるために、当初の予定よりも向こうにずいぶんと有利な形の卸値で締結することになってしまった。
職人たちが帰った後、私は幾人かのスタッフと今回の件の原因を探った。
しかし、原因は拍子抜けするほど単純なものだった。
「ユージの作ったマニュアルに、二重チェックは必ず自分以外のものが行うこと、とあるだろう? そもそも、彼が作ったこの計算式に数字を入力すれば、自動的に合計金額が算出されるはずじゃないか」
「すみません……その、計算式に入力した数字が間違っていたみたいで……」
卸値の金額を計算したのはキリだった。
その計算の途中に、金額の記載ミスがあったため、その後の計算もすべて誤った金額になってしまっていたのである。
計算した金額を正式な書類にまとめ、先方に郵送をしたのもキリだった。
本来ならば、自分以外の人間に計算したものと、書類を二重に確認してもらう手順になっているのだが……キリはどうやら、その手順をすっとばして、自分の確認だけで先方に書類を郵送してしまったらしい。
思わず、私はため息をついた。
途端に、部屋の真ん中で所在なさげにたつキリがびくりと肩を震わせる。
「ほ、本当にすみませんでした、アシュリー様……。誰かに確認してもらおうかと思ったんですけど……みんな、忙しそうだったから、お手を煩わせたら悪いかなと思ったんです……」
「……まぁ、自分のミスを自覚し、反省しているならもういい。同じミスを繰り返さなければ、それでかまわないよ。今日はもう下がってくれ」
私はキリを安心させるように微笑みかける。
すると、キリはホッとしたように肩の力をぬいて、弱弱しい笑みを浮かべた。
「本当にすみませんでした、アシュリー様」
ペコペコと頭をさげて、キリは執務室を退出した。
それから間を置かずに、今度は新しい人間が入室してきた。このオッドブル商会の一番の古株である、ミルトだ。
彼は父の頃からオッドブル商会に在籍している職員であり、私がこの世で二番目に信頼している人間である。
……私がこの世で一番目に信頼している人間は、今、ここにはいない。
私の無二の親友である彼――ユージは今、自分の故郷である田舎町へと里帰りをしていた。
彼がこのオッドブル商会を離れてから、一ヶ月が経った。
だが、私にはその倍以上の月日が経過したように感じられる。
「アシュリー様、今、お時間よろしいでしょうか?」
「ああ、かまわないよ。ミルト、今日はお前にも苦労をかけたな」
「……そのことなのですが……」
私の言葉に、ミルトが顔を曇らせる。
そして、苦々しい顔で言葉を続けた。
「アシュリー様。実は、キリが今回のようなミスを犯すのは、今回で三度目です」
「なに?」
思ってもみなかった言葉に、私は目をみはる。
対照的に、ミルトの眉間の皺はますます深くなり、声音にも苦渋の色が混じった。
「最初の一回目は同じように領収書の金額が違ったのですが、小口のお客様でしたから大事にはなりませんでした。商会に入った直後のことでしたから、私たちも旦那様にはお伝えしませんでした。二回目は、お客様に送る前にたまたま請求書を見てくださったユージ様がお気づきになられたので、やはり大事にはなりませんでした」
「…………」
「無論、人間の行うことですから、必ずどこかでミスは生じます。ですが――どのミスもすべてマニュアルに従わず、自分の能力を過信して『これでいいだろう』と正規の手順を踏まえていないことで生じているものと見受けられます。これは、もはや本人の性格の問題と言わざるを得ない気がいたします」
「……分かった、その話は心にとめておこう」
ミルトは私に一礼をすると、黙ったまま執務室を出ていった。
私の気持ちを慮ってくれたのであろう。
私にとって、キリはただの従業員ではない。
アルファとオメガ。ようやく出会った運命の番。かけがえのない恋人。
どんな言葉であろうと、私がキリに抱く愛情と庇護欲を言い表せるものはない。
言い表せるものはないが――しかし、だからといって、今の話を聞かなかったことにもできない。
「はぁ……うまくいかないものだな」
キリと出会って、私は生まれて初めて恋というものを知った。
身体が燃え上がるような執着心と庇護欲。
その熱は私の生にたとえようのない喜びと幸福感を与えた。
なのに……なぜだろう。
キリに対する執着心と庇護欲が衰えたわけではない。
なのに――胸のどこかにぽっかりと穴が開いたような心地が続いている。
「……あいつは、今はどうしているかな」
……ユージは今頃どうしているだろうか。
もともと、キリの行っている秘書業務は、ユージに任せていた仕事だった。
ユージは元々は父に才能を見込まれて、このオッドブル商会に迎え入れられた薬師だ。
だが、彼は計算が早く、そして幼いころから経理や秘書業務もほとんど完璧にこなせていたため、父は彼を重宝した。
最近は、薬師というより私の秘書として働いている方が多いぐらいだった。
薬師であり、秘書であり――私の右腕であり、唯一無二の親友。
だが、そんな彼はこの王都にはいない。
ある日突然、休職届を出して、自分の生まれ故郷へと戻っていってしまったのだ。
ユージがオッドブル商会を立つ直前まで、ミルトが彼を引き留めようと頑張ったらしいのだが、とうとう叶わなかったという。
「……ユージ……」
彼が故郷に帰ってから、三度、私は彼に手紙を送った。
だが――彼からいまだに返事はない。
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