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第一章:神の裁きは待たない
1-6.凶行の夜に
しおりを挟む「さぁ、後ろを向いてうつ伏せに。今から押さえ付けるから静かにするように」
「はい……ぐっ、あ」
指示に従って、ベッドに横になると、首の後ろから加重が掛けられる。
息が詰まる。
ゆっくりと、頭の中で数を数えて苦しさをやり過ごした。
「痣がついたな。……角度を少し変えて、重ねる」
「はい……はっ…………あっ、うっ」
息苦しさの我慢、そして弛緩。それを何度か繰り返す。
首の後ろという人体の弱点であるとても柔らかな部分に、生命の危険を感じるほどの圧迫を受け入れることに、本能的な忌避感が生まれてくるのを意志の力で押さえつける。
ピアは、ゲイル王国と敵対しているアズノル国で生まれた。
アズノル国特有の赤い髪も、浅黒い肌も持たずに生まれたピアは、だからこそ生まれたばかりの時に、親から捨てられた。
自分のルーツなど何も知らない。
自分を産んだ母の顔も知らなければ、父親の顔も就いていた仕事も何も知らない。
知らないからこそ、最底辺の扱いを受けて、最底辺の仕事を与え続けられてきた。
そうして今は、自分のもう一つのルーツであろうゲイル王国を陥れる為の工作員として、王太子の婚約者となった。
「よし。後は手首と足首、内腿にも付ける」
「胸や脇腹にもお忘れなく」
「そうだな。それと引っ掻き傷だけはアイツの実際の手で行う。爪の間に皮と髪も詰めなくては。指に絡めて何本か引き千切るぞ」
「……偽装の為とはいえ、コレに素肌に触れさせるのは嫌なものですね」
同じベッドで寝ている男へ冷たい視線を投げる。
この間抜け面を晒して鼾を掻いている男が国の指導者となるこの国ならば、アズノル国の相手にはならないだろう。
けれどもそれまで待てないとアズノルの王子が決めたから、ピアはこんな場所で道化を演じなければならなくなった。
「フッ。こんな仕事をしている癖に。初心なことだ」
闇に紛れる黒い服に身を包んでいる男は、アズノル特有の浅黒い肌であることも手伝って、闇に紛れて移動することに適していた。
今回の作戦におけるピアの上役であるこの男は、ゲイル王国王宮に用意された王太子の婚約者であるピリア・ゾール侯爵令嬢の部屋へと大きな手土産付きで侵入していた。
その手土産は今、派手に手足を伸ばして床へ寝転がっていた。男だ。ちいさな蝋燭が一つだけ揺らめく薄暗がりの中で見るその顔はより陰影が濃く刻まれて、ただでさえ整っている顔は白い肌と相俟ってまるで芸術家が大理石に刻んだ彫刻の様に見えた。整った顔が苦し気に歪んでいる。
その男は、ゲイル王国の王太子アルフェルトだった。
苦し気な鼾は、勿論アルフェルトをここまで運んできた男によって盛られた薬によるものだった。強力な催眠効果のあるその薬は、ともすれば呼吸まで疎かになって死に至ることもある。だが、全ての仕込みが終わるまでは絶対に目を覚まされては困るし、万が一死んでしまうことになったとしても、アズノル側としては面白い余興がつまらない余興になる程度の仕様変更でしかないので構わず使用された。
「こんな仕事をしてるからです。私を指導して下さった先生は言いました。『純潔だけは、安売りするな』と。破瓜の偽装はできても中が解れて練れていては経験豊富な男にはバレるからだそうです。安易な仕事に無駄遣いするつもりはありません」
淡々と、力任せに押し付けられた偽装としてアルフェルトの手と同じサイズの青痣が身体中に刻まれていく。単純に暴力で付けられる青痣も痛いが、不自然にならないように場所を考えて慎重に刻まれていく青痣の痛みは、意識がそこに集中していることにより倍増するのかもしれない。「痛みに身体を動かしてもいいぞ。その方がリアルにできそうだ」そう上役から言われてシーツを掴んだり、天蓋のカーテンを握りしめたりして気を紛らわそうとしてもやはり痛いものは痛かった。
だから、普段ならしないような会話を続けていく。
「そうだったな。『仕事で純潔を消耗するならば、最高の成果を得られる特別な仕事でなくては嫌です』だったか。殿下が笑い転げていた。……お陰で、かなり最悪だった機嫌も少しは上向きになられたようだ。お手柄だな」
それを告げた時のパススとの会話を思い出して、ピアは顔を歪めた。
「今回の様な楽な仕事に浪費するのは嫌だと申告したら、何故か『俺に寄越せ。捧げろと』とか抜かされて。ムカついたので丁重にお断りしました」
その時感じた不快な感覚が蘇ってきて、ピアの眉が顰められた。
なのに、ブッと、普段は淡々と仕事を熟すばかりの上役から盛大に噴き出されて、より一層、眉の距離が近くなる。甘い言葉とやわらかな表情が必須の現在進行中のこの仕事の最中に、眉の間に消えない皺が刻まれたらどうしてくれるのだろう。
「……無駄口を聞いている時間があるなら、早く済ませて戴けますか?」
ピアから会話を仕掛けたにも関わらず、そういって切り捨てると、寝ている王太子へと近付いて、その手に自らの髪を絡めて力いっぱい引き千切った。ついでにシーツの上にもばら撒く。
上役はそんなピアの態度に腹を立てることなく、軽く肩を竦めた。仕事を勧めることにしたようだ。
「そうだな。もう痣は十分か。青痣の上に合わせて爪を引っ掛けよう。血が出ても?」
「勿論」
ガリッと嫌な音を立てて白いピアの肌が抉られた。
悪漢の手から必死に逃れようとした令嬢が、引き摺り戻された時に付けられそうな場所、脇腹と足首が選ばれた。白い肌に、赤い血が滲んでいく。
この肌に、少しでも色が乗っていれば、ピアがこの仕事に就くことはなかったのだろう。
そもそも捨てられて孤児となることもなかったかもしれない。
そんな妄想をして過ごしたのは遠い昔だ。
「後は、この白濁液を撒き散らして。血と混ぜてお前にも塗り込める。……自分でできるか?」
「当然です。その男に塗り込める作業はお願いします。私には分かりかねますので」
「……なるほど。引き受けた」
黙々と作業を続け、幾つかのチェックポイントを確認して、今後のピアの取るべき行動を確認する。
「では。明日また来る。今度は医者としてな」
「女装姿、楽しみにしておりますね?」
強引に欲望を押し付けられて身体を開かれた令嬢は、全ての男性の手を拒否することになる、という筋書きだ。王宮医師には女医はいないので、ピアの実家であるポラス子爵家が懇意にしている老女性医師が呼ばれてくる。それが、この上役だ。
他にも、アズノルの息が掛かった女性工作員がポラス子爵家から幼いピアをよく知る者として派遣されてくる。心を病んだ令嬢を慰める為に。
王宮側の侍女は遠ざけねばいけない。何故なら、ピアは今日この時に懐妊することになっているのだから。
「……幸運を祈る」
ピアの揶揄いに、闇の中へと消えていく上役からは通り一遍の励ましだけが返された。
そしてそのまま気配のひとつすら残さず消えてしまった。
このまま転落していく運命にも気が付かず、薬で眠らされて呑気に鼾を掻いて寝ているアルフェルトに向けて、ピアは優しく「いい夢を」と囁くと、自分はベッドの隅へと丸くなり、身体中に汚れたシーツを巻き付けた。
血の混じった白濁液がついたままの手で、顔を擦り、髪を掴んだ。白濁液が目に入った痛みで涙が出てきたので、それも擦って顔中を汚す。
多分、今すぐこの部屋へ誰かが入ってきても、これで大丈夫。準備は万端だ。
眠ろうかとも思ったが、徹夜のままの方が被害を受けた令嬢らしいかと目を閉じることを自らに禁じる。
そうして、ピアは、自分に与えられた仕事について反芻することにした。
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