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冷めたイモフライは本当は誰かに愛されたい

20.目覚めの一杯を

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 コポコポという微かな音が耳に届くと、いい香りが辺りに漂っていた。

 香ばしいような深い香り。
 これまで嗅いだことのないような、すばらしい香りに包まれて、意識が深い眠りの底からゆらゆらと浮上していく。あぁ、自分は眠っていたのだという覚醒の感覚があった。

「あれ、ここどこぉ?」

 身体を起こそうと手探りした先に触れるものはすべてがスベスベでふわふわで。羽根枕だと判ってからも、まるで自分が雲に包まれて眠っているようだった。

 目が覚めたはずなのに、どこか現実味がなくて、私はゆっくりと辺りを見回した。


「思いの外、オリーちゃんは寝ぼすけだな」

 寝ぼけ眼の視線の先で立っていた後ろ姿が、くるりと振り向いた。

「ひんっ。おじいさん!」
 
 その声に慌てて掛け布団を身体に引き寄せる。

「な……な、んでっ」

「ほい。朝食届けに来た。んで、これを食べ終わったら、今日は座学だってさ。昨日いきなりマダムが結構なスパルタで所作を教えちまっただろ。医者に怒られたわ」

 へらへらと笑いながら差し出されたカップを反射的に受け取ってしまった。

「そうだよなぁ、安静にしろって言われてたのに。すまなかったな」

 謝罪というにはあまりに軽いその言葉に呆れるしかない。
 おもわず恨めし気におじいさんを睨んで、悩むことなく香りに誘われ、カップを満たしていた液体を口に含んだ。

 次の瞬間には、その苦みと酸味に顔を顰める。

 あらためて中を見れば、これまで嗅いだことのない芳しい香気を立ち昇らせているその茶は、見たことないほど澄んだ濃い琥珀色をしていた。植物性らしき虹色の油膜が薄っすらと浮かんで、朝陽に煌めいている。

「なんだ。オリーちゃんは子供舌か」

 寝ぼすけな上に子供舌かとおじいさんが嬉しそうに言うのが気に障る。

「知らない味だっていうだけです」

 むっとして意地になって続きを飲もうとしたけれど、一度感じた酸味が舌についてしまって、飲んで味わうというよりも舐めて味に顔を顰めるばかりになってしまった。

「くくく。だがその酸味が、このトーストには合うんだよ」

 差し出されたトーストは二枚重ねで、その間から黄金色のチーズがたっぷりと蕩け出していた。まだほんのりと湯気が立っており、その向こうにちらりとピンク色のハムが覗いていて、美味しそうなそのビジュアルの威力にあっさりと敗北したオリーの胃袋がぐぐぐぅっと大きな音を立てた。

「……いただきます」
「召しあがれ」

 小さく震えているおじいさんの肩には気が付かなかった事にして、皿の上のハムチーズホットサンドに被りついた。

「べしゃへる が はいっへる」

 蕩けているのはチーズだけではなかった。
 豊かなバターとミルクの濃厚な味わいのするベシャメルソースとチーズが絡んでいたのだ。
 熱々のまろやかなソースにハムの塩気が絶妙で、そこにほんのりと小麦の甘さと旨さが光るパンがとにかく美味しかった。

「おいひぃ」
「それは良かった」

 おじいさんは満足そうに大きく頷くと、持ってきていた自分の分のそれに齧りついた。

 豪快に大口を開けて食べているのに、なぜかチーズソースが口元を汚すことも、トーストの滓が飛び散ることも無く瞬く間に消えていく様を、おもわず凝視してしまった。

「食べるの、早いですね」

「オリーちゃんが遅いんだろ。でも、焦ることはないさ。ゆっくり味わって食べるといい」

 さすがにトーストを摘まんでいた指先には、トースト滓がついていたのか、おじいさんが舌でそれを嘗めとっていた。

 不作法な筈のその動きに、なぜが胸がどきんと大きく動いて、なぜか視線が動かせなくなる。

「ん? どうしたオリーちゃん。足りなかったか?」
「ちーがーいーまーすぅーっ」

 おじいさんに気付かれたことで、慌てて顔を背けた。

「食欲があることはいいことだぞ。恥ずかしがる必要はないから、お替りが欲しいなら幾らでも言えよ」

「違うって言ってるじゃないですか」

 ぷんぷん怒って続きを食べ始めた。

「! 本当だ。さっきの酸味と苦みが、ベシャメルとチーズでまったりと重くなっていた舌をすっきりさせてくれますね」

 ベシャメル入りのハムチーズトーストは、濃くてまろやかで美味しい。
 けれど動物性の油脂が強いだけあって口の中に味が強く残る。それを洗い流してくれるようなこの酸味がたまらない。いい仕事してる。

「どうしよう。これを飲んでからのひと口がたまらなく美味しいです」
「だろー?」

 自慢げなおじいさんに、大きく頷いてまたひと口食べ進めた。本当に美味しい。

 私が素直に同意したことに気をよくしたのか、おじいさんも嬉しそうに齧りついた。

 それにしても、なんで寝ている女性の部屋にわざわざ自分の分まで持ち込んできて食べるのだろう。

 そうは思ったけれど、それでも誰かの気配を感じながら食事を摂るのは嬉しくて。つい頬が弛んでしまった。


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