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「ね? これってセリーンにとっても有意義なことだと思うのだけれど」
 どうかな、と笑いかけるユリウスの顔は、今日も綺麗だった。

 まだ昼前、朝といってもいい時刻だ。
 平民の暮らしはとうに始まっているし、貴族であっても人によっては出仕もしている時刻ではあるものの、普段のユリウスならまだ夢の中にいる時刻だろう。
 こんな時間からユリウスが起きているだけでも青天の霹靂であり、きちんと身形を整えて、前触れもなしであろうとセリーンを訪ねてくることはこれまで一度もない。初めてのことだった。
 どうやらここ最近ユリウスを悩ませていた不幸な出来事に関する有益な対策を思いついて、居ても立ってもいられずこうしてセリーンにその解決方法について同意を取り付けにやってきたらしい。

 たった今聞かされた、常にない熱意を込めたユリウスのプレゼンについて、セリーンは勿論すぐに同意することはない。
 ユリウスの即決を求める圧に屈することなく微笑み、紅茶を飲みながら頭の中で精査した。

『婚姻後も、セリーンは家業に勤しむのに忙しいだろう? 働くのは大変なことだと聞いているよ。その上、妊娠や出産といったことについてまで背負い込むことはないと思うんだ』

『子の産みの親の素性は保証する。貴族家に生まれついた美しい女性だ。勿論、私の血を引いている。それも保証しよう。その子を引き取れば、貴女は跡継ぎを生まなければならないというプレッシャーに負い目を感じることなく、家業に邁進できる』

『美しい彼女と美しい私の子供は、美しいだろう。誰もが見惚れるような綺麗な顔の子供が保証されるんだ。きっと貴女にも満足して貰える提案ができたと思う』


 豪華なガラス張りのテラスに差し込む柔らかな日差しの中で紅茶を味わうべく座っているユリウスはやはり絵になる。中身がどれほど屑であろうとも。
 でも、顔がいい。
 セリーンにとって、全てがこのひと言に尽きるのだ。

 元々、婚姻後はある程度まとまった金額を月々小遣いとして渡し、その範囲で好きに遊んで暮らして貰う予定だった。
 愛人を持つことを咎めるつもりもなかった。
 あちこちに種を撒かれるのは困るが、認知して引き取るのはこれきりと婚前契約書に署名入りで契約しておけば問題はないであろう。

 なにより、この男が子供を産ませてもいいと思うだけの相手との子供が引き取れる。
 自分で産むより遥かに顔がいいと保証つきの我が子ができるということになる。
 産前産後育児期間、仕事から離れる算段を考えなくてもいいというのも利点だろう。

 つまり、不都合なことは何もない、ということになる。

 そこまで考えて、セリーンはユリウスの顔を見てにっこりと笑った。

「セリーン?」
 その笑顔に、ユリウスは自身の勝利を確信して微笑みかけた。
「ユリウス様のお申し出は大変興味深いものがありました。ただ、何しろまったく血の繋がらない後継者を受けるということについては、私一人で決定することはできません。男爵家のですので、現男爵である父の意見を聞かねばなりません」
 勿論これは方便だ。
 別に父であるラートン男爵は、セリーンが納得の上、契約を交わしたと伝えればそれに文句をつけるようなことはない。
 しかし、まずは産みの母となる令嬢について調べる必要や、契約条件などについて詰める必要もある。

「勿論だ。ただ、きっとラートン男爵も素晴らしい提案だと受け入れてくれると信じている」 
 それには答えず、セリーンは微笑んだ。
 それでも、セリーンのその微笑みにユリウスは満足して帰る旨を告げる。

 その馬車に乗り込む姿すら美しく、セリーンは惚れ惚れしながら見送ると、まずは検討事案を詰めるためにも弁護士を呼び指示を出さねばと歩き出した。



◇◇◇◇◇
 

「ヨハン。弁護士のマーカス先生をお呼びして。至急、相談したいことがあるとお伝えしてね」

 普段なら、即承諾の返事をする筈のヨハンの声が聞こえなくて、セリーンはその姿を探した。
 ヨハンは元々父の側近であった男で、セリーンがユリウス・ハーバーと婚約を結んだことにより後継者となった時から、セリーンの側近となった。
 とにかく仕事が早く、情報も正確で、誠実な人柄として定評がある。
 取引先との信頼関係も厚いため、この男が傍で支えていることで、女であるセリーンが最初から取引相手に舐められることなく対等な存在として遇されていた部分があることはセリーンから見ても否定できない。
 果たして、ヨハンは探すほどもなくセリーンのすぐ後ろに控えていた。
 しかし、その口から出たのはセリーンの出した指示への了承でも意見でもなかった。

「お嬢様、大変申し訳ございませんが、一身上の都合により、お嬢様のお傍を離れ、仕事を辞めさせて戴きたく存じます」

 震える声でそう伝えられたセリーンは、あまりの衝撃に声も出せなかった。
 頭を下げたまま走り去ろうとしたヨハンを、セリーンは慌てて引き留めた。

「ちょっと待ってよ。ヨハンたら一体どうしたの? 突然なにを……」
 そこまで言ったセリーンの動きが止まる。

 何故なら、ヨハンが泣いていたからだ。

 くしゃりと長すぎる前髪を掴み、涙で濡れた眦を反対の手で押し拭う。

「セリーンお嬢様、ずっとお慕いしておりました。伯爵家の婿を取られることは存じておりましたし、それで仕方がないと思ってもおりました。しかし……あんな無体な申し出を受けるほど、あんな屑男に惚れているとは思わなくて。押し付けられた婚姻でしかない形ばかりの婚姻なら、貴女の一番近くにいるのは私だと。けれど、それがまったくの勘違いで、セリーンお嬢様の心が、そんなにも、他の男のものとなっているなら……俺は、俺には貴女の傍にいることは、できない」

 突然の告白。
 立派な大人だと思っていた男の泣き顔に、セリーンは胸にせまるものを覚えていた。

「スミマセン。もう、お傍にいることが、辛すぎて。無理なんです。退職届はのちほど提出させて戴きます」

 申し訳ありませんでしたと馬鹿真面目にもう一度深く頭を下げると、ヨハンは言葉を無くしたままのセリーンを置き去りに走り去った。



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