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7.颯爽と助けてくれた人(過去)
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「キミ。このお嬢さんは、ちゃんと勉強のためにその本を必要としているようだ。ホラ、机の上にあるのはエットランド語からセナ語への辞書と、セナ語をライトロード語に訳す為の辞書がある。……それと、きちんと学習したノートもね」
その時、天の声がイボンヌが目の前の司書に伝えたかったことを全部説明してくれたのだ。
親切な人の手から辞書を奪った司書が、中を見るなり叫ぶ。
「えっ? あ……あぁっ。セナ語の辞書にこんなに落書きを!」
また違う勘違いをされて、焦りが募る。
ひとつ誤解が解けそうだと思った途端のその言葉に、落胆する。
「ち、ちがいます」
辛うじてそれだけは言えたものの、それ以上を言葉にできる前に、大人の男性から居丈高に大きな声で叱られて身が竦んだ。
「どこが違うんだ! こんなの。弁償ものだぞ。おい、親を呼べ。辞書がどれだけ貴重だと思っているんだ、バカ娘」
あまりの理不尽さに、目が眩みそうだった。
しかし誤解を放置してそれを取り上げられる訳にはいかないのだ。頑張るしかない。
「っ。わ、わたしのです。返して」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして手を伸ばせば、司書はさらに高く辞書を持ち上げた。
「はぁ? 嘘を吐くんじゃない。子供が外国語の辞書なんか持っている訳がないだろう!」
取り上げられた辞書を手の届かないように高く持ち上げられてしまい、イボンヌはついに恐怖で泣き出した。
「いや、辞書を返して。おじいさまに戴いた、わたしの宝物なのよ」
「まだいうか」
カッとなった様子の司書を、先ほどの声が止めてくれた。
「落ち着きたまえ。司書が図書室内で大きな声を上げるな。それと、その辞書は王宮図書の蔵書ではないよ。ちゃんと確認しなさい。ページの最後に蔵書印がない」
さきほどの青年の指摘に、司書が慌てて辞書の最終ページを確認した。
パラパラと何度も何度も。最終ページだけでなく、その数ページ前、目次や内拍子や、裏表紙の折り返しまで何度も確認する。
その手付きがあまりにも乱暴で、イボンヌはハラハラした。
「……ない」
ようやく納得してくれたのかとホッとして手を出した。
けれども、素直に返してくれると思ったのに司書は更にイボンヌに問い掛けてきた。
「ほんとうに?」
すっかり青白くなってしまった司書からの問いに、こくりと頷けば、司書は無言のまま、火傷でもしたかのように慌てて辞書から手を離した。
「あっ」
手離され、床へと勢いよく落ちていく辞書を守ろうとしたイボンヌが、慌てて手を伸ばす。
祖父から貰っただけあって、古い辞書だ。
革製の表紙はすこしひび割れており、強い衝撃など受けたら多分ばらばらになってしまう。ならなくとも、角が凹んでしまうに違いなかった。
「ふう、危ない。たとえ図書館の蔵書ではなく個人の蔵書を持ち込んだものであろうとも、本を粗雑に扱う君は司書失格だな。そう館長へ申し立てておく」
転んでもいいと駆けだしたイボンヌを片手で支え、もう片方の手で辞書を受け止めてくれた青年が、冷たい顔をして司書を見つめていた。
そうして、その時になってようやく、イボンヌは助けてくれた青年の顔をちゃんと見上げたのだった。
まるで夜空のように艶めくまっすぐな黒髪に縁取られた貌の美しさに、視線が釘付けになった。
司書を冷たく睨みつけていた知性を感じさせる黒い瞳が、イボンヌに向けられた一瞬後にやわらかく弛む。
「はい。宝物に傷がつかなくて良かった」
「ありがとう、ございます」
自分がきちんと御礼を告げられているのかすら、イボンヌにはわからなかった。
ただ深く、できる限り腰を落として、今の自分にできる最高のカッツィを贈る。
それを認めた青年は、さきほどよりも一層笑みを深めて頷いてくれた。
その笑顔に、イボンヌの胸がきゅうっと音を立てた気がした。
次いで、視界の端っこで揺れる自分の、ひっつめ髪にした冴えない赤毛が、途轍もなくつまらないものだと感じる。
「ひぇっ。そんな、だって。こんな子供が自分の辞書を持っているなんて。それも外国語の」
支離滅裂な文法で言い訳をする司書に、青年の視線がさらに冷たさを増し舌鋒が鋭さを増していく。
「そんな言い訳をする前に、彼女にきちんと謝罪するんだな。それと、どうやら私から申告する必要はなさそうだ」
「え、あっ」
青年の言葉に振り向けば、そこには、真っ赤な顔をした王宮図書館の主任と真っ青になった館長がふたり並んで立っていた。
「なにを騒いでいるのかと思えば。お前はなにをやっているのだ!」
激しく主任に責め立てられ、先ほどイボンヌに振りかざした居丈高な態度とは裏腹におどおどと碌に返事もできないでいる司書の様子に吃驚したり、青い顔をしてイボンヌを気遣ってくれる館長に騒がせてしまったことに対するお詫びと状況の説明をしている間に。
「あれ、あの方は?」
青年は、その場を離れていた。
まだ礼も告げていなければ名前を訊くこともできていないのに。
慌てたイボンヌが、まだ話を続けている館長を置きざりにして駆け足で図書館の外まで探しに出る。
少し離れた渡り廊下の先に、あの青年の後ろ姿を見つけた。
懸命に走って追いつこうとするイボンヌに気が付くこともなく、青年が、誰かに向かって挨拶するように軽く手を挙げていた。
その先には、青年と釣り合いの取れた美しい令嬢が待っていた。
その場でふたりはなにやら会話をした後、青年が差し出した手に令嬢がそっと嫋やかな手を乗せ、歩き出し、令嬢が身にまとった美しいドレスが揺れる。
それは、遠目からでもあまりにお似合いの姿で。
イボンヌはその場に立ち尽くすしかできなかった。
「キミ。このお嬢さんは、ちゃんと勉強のためにその本を必要としているようだ。ホラ、机の上にあるのはエットランド語からセナ語への辞書と、セナ語をライトロード語に訳す為の辞書がある。……それと、きちんと学習したノートもね」
その時、天の声がイボンヌが目の前の司書に伝えたかったことを全部説明してくれたのだ。
親切な人の手から辞書を奪った司書が、中を見るなり叫ぶ。
「えっ? あ……あぁっ。セナ語の辞書にこんなに落書きを!」
また違う勘違いをされて、焦りが募る。
ひとつ誤解が解けそうだと思った途端のその言葉に、落胆する。
「ち、ちがいます」
辛うじてそれだけは言えたものの、それ以上を言葉にできる前に、大人の男性から居丈高に大きな声で叱られて身が竦んだ。
「どこが違うんだ! こんなの。弁償ものだぞ。おい、親を呼べ。辞書がどれだけ貴重だと思っているんだ、バカ娘」
あまりの理不尽さに、目が眩みそうだった。
しかし誤解を放置してそれを取り上げられる訳にはいかないのだ。頑張るしかない。
「っ。わ、わたしのです。返して」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして手を伸ばせば、司書はさらに高く辞書を持ち上げた。
「はぁ? 嘘を吐くんじゃない。子供が外国語の辞書なんか持っている訳がないだろう!」
取り上げられた辞書を手の届かないように高く持ち上げられてしまい、イボンヌはついに恐怖で泣き出した。
「いや、辞書を返して。おじいさまに戴いた、わたしの宝物なのよ」
「まだいうか」
カッとなった様子の司書を、先ほどの声が止めてくれた。
「落ち着きたまえ。司書が図書室内で大きな声を上げるな。それと、その辞書は王宮図書の蔵書ではないよ。ちゃんと確認しなさい。ページの最後に蔵書印がない」
さきほどの青年の指摘に、司書が慌てて辞書の最終ページを確認した。
パラパラと何度も何度も。最終ページだけでなく、その数ページ前、目次や内拍子や、裏表紙の折り返しまで何度も確認する。
その手付きがあまりにも乱暴で、イボンヌはハラハラした。
「……ない」
ようやく納得してくれたのかとホッとして手を出した。
けれども、素直に返してくれると思ったのに司書は更にイボンヌに問い掛けてきた。
「ほんとうに?」
すっかり青白くなってしまった司書からの問いに、こくりと頷けば、司書は無言のまま、火傷でもしたかのように慌てて辞書から手を離した。
「あっ」
手離され、床へと勢いよく落ちていく辞書を守ろうとしたイボンヌが、慌てて手を伸ばす。
祖父から貰っただけあって、古い辞書だ。
革製の表紙はすこしひび割れており、強い衝撃など受けたら多分ばらばらになってしまう。ならなくとも、角が凹んでしまうに違いなかった。
「ふう、危ない。たとえ図書館の蔵書ではなく個人の蔵書を持ち込んだものであろうとも、本を粗雑に扱う君は司書失格だな。そう館長へ申し立てておく」
転んでもいいと駆けだしたイボンヌを片手で支え、もう片方の手で辞書を受け止めてくれた青年が、冷たい顔をして司書を見つめていた。
そうして、その時になってようやく、イボンヌは助けてくれた青年の顔をちゃんと見上げたのだった。
まるで夜空のように艶めくまっすぐな黒髪に縁取られた貌の美しさに、視線が釘付けになった。
司書を冷たく睨みつけていた知性を感じさせる黒い瞳が、イボンヌに向けられた一瞬後にやわらかく弛む。
「はい。宝物に傷がつかなくて良かった」
「ありがとう、ございます」
自分がきちんと御礼を告げられているのかすら、イボンヌにはわからなかった。
ただ深く、できる限り腰を落として、今の自分にできる最高のカッツィを贈る。
それを認めた青年は、さきほどよりも一層笑みを深めて頷いてくれた。
その笑顔に、イボンヌの胸がきゅうっと音を立てた気がした。
次いで、視界の端っこで揺れる自分の、ひっつめ髪にした冴えない赤毛が、途轍もなくつまらないものだと感じる。
「ひぇっ。そんな、だって。こんな子供が自分の辞書を持っているなんて。それも外国語の」
支離滅裂な文法で言い訳をする司書に、青年の視線がさらに冷たさを増し舌鋒が鋭さを増していく。
「そんな言い訳をする前に、彼女にきちんと謝罪するんだな。それと、どうやら私から申告する必要はなさそうだ」
「え、あっ」
青年の言葉に振り向けば、そこには、真っ赤な顔をした王宮図書館の主任と真っ青になった館長がふたり並んで立っていた。
「なにを騒いでいるのかと思えば。お前はなにをやっているのだ!」
激しく主任に責め立てられ、先ほどイボンヌに振りかざした居丈高な態度とは裏腹におどおどと碌に返事もできないでいる司書の様子に吃驚したり、青い顔をしてイボンヌを気遣ってくれる館長に騒がせてしまったことに対するお詫びと状況の説明をしている間に。
「あれ、あの方は?」
青年は、その場を離れていた。
まだ礼も告げていなければ名前を訊くこともできていないのに。
慌てたイボンヌが、まだ話を続けている館長を置きざりにして駆け足で図書館の外まで探しに出る。
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懸命に走って追いつこうとするイボンヌに気が付くこともなく、青年が、誰かに向かって挨拶するように軽く手を挙げていた。
その先には、青年と釣り合いの取れた美しい令嬢が待っていた。
その場でふたりはなにやら会話をした後、青年が差し出した手に令嬢がそっと嫋やかな手を乗せ、歩き出し、令嬢が身にまとった美しいドレスが揺れる。
それは、遠目からでもあまりにお似合いの姿で。
イボンヌはその場に立ち尽くすしかできなかった。
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表紙イラスト:ギルバート@小説垢様(@Gillbert1914)より戴きました。
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