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本編
第三十五話 すべてを知る人
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「なっ、いまさら何を」
喰って掛かろうとする弟の肩を、サリはそっと押さえて首を横に振る。
その動きだけで、弟は口を噤んでサリの横、父の後ろへと下がった。
「それは、何に向けての謝罪でしょうか」
確かに、元の婚約者とやり直したいと願うならば、このタイミングが正に最終ラインだ。
父と弟の言うとおり、神への誓いが済んでいない今ならば、それでもかなりの大事にはなるものの、この婚姻は神に許されず不成立だったということで終わらせる事ができる。
神の許しが得られなかった、という大変不名誉な扱いにはなるが、それで爪弾きにされるのは爵位の低いサリ側であろう。
(元々が、私に対する誤解が原因で婚約者であった方と諍いが起きて、突然解消となってしまった婚約の穴埋めだったのだもの。丁度その場にいて罰を与えたかった相手が目の前にいたというだけの、意趣返し。それで本当に婚姻を結ぶなど、あり得なかったのよ)
つい先ほどまで散々父と弟から選択を詰め寄られていたが、この婚姻の成立不成立を決めるのは、教授だ。サリではない。
サリは、教授の中の自分という存在の軽さを突きつけられて、泣きたくなった。
今の今まで、自分が教授の横に一生いられるのだと疑っていなかった自分の目出度さにも。
胸が重く苦しく、最初の問い掛け以上の言葉を紡ごうにも、喉奥が詰まって声にもならない。
ただ、ただ、自分の愚かさが恨めしかった。
だから問い掛けたきりそれ以上の言葉を口にすることなく、神の審判を受けるが如き気持ちで教授が下す言葉を待った。
ここまで来たら、きちんと最後通牒を突きつけられて、きっぱりと振られたかった。
「僕の妻になって欲しい、サリ・ヴォーン准男爵令嬢」
だからサリは、告げられた言葉の意味がまったく理解できなかった。
「……ご冗談は、おやめください。この期に及んで、なにを」
何故、この場なのか。
これからサリとフリッツの婚姻式が始まるところだったではないか、とか。
フリッツは元の婚約者マリアンヌとやり直すことにしたのではなかったのか、とか。
サリの頭の中で疑問が嵐のように吹き荒れる。
「僕は本気だ」
「それを私が信じるとでも?」
「だが、本当に本気なんだ」
「信じられません。では、先ほど弟が、元の婚約者マリアンヌ様と抱き合っていたと言っていたのは嘘だというのですか?」
――していないことを証明するのは難しい――
その事は、教授から言われなき批難をされ続けていたサリ自身よく知っていた。
それでも言わずにはいられなかった。
そうして、同じことを教授も思ったのだろう。がくりと視線を床へと落とす。
そこに、新たな声が割って入った。
「確かに、その男は元婚約者であるマリアンヌ嬢と揉み合っていた。おっと、早とちりは困る。揉み合っていただけで、抱き合ってはいない。それは私が証言しよう」
「殿下」
振り向くまでもなく相手が判ったのだろう。心の底から厭そうにその人を呼ぶ教授の声と、教授が口にしたその敬称に、サリは吃驚して視線を向けた。
礼装用の軍服に、金のモールの付いた紫紺のマントを羽織っている。
その色のマントを身に着ける事が許されているのは、この国ではただ一人。王太子アンドリュー殿下のみである。
「おうたいし、でんか」
サリがその人に会ったのはただ一度。父が准男爵を拝命した時に家族で出席した晩餐会の席だけだ。会ったというより、見た事がある、それだけだ。
だから遠くに見た金の髪の色となんとなくの雰囲気しか分からないが、街中で売られている肖像画に負けない位の美青年がそこに立っていた。
ざざっと、サリとダル、そして勿論ロイドだけでなく列席していたすべての者がその場で最上位の礼を捧げる。
それを受けて、アンドリューは苦笑いすると片手で制した。
「今日の私は単なる王のお遣いだ。出てくるつもりもなかった故、そう畏まる必要はない。黙って見ているつもりであったが、ようやくヴォーン家に爵位を受け取らせてこの国に縛り付けることができたと思ったのに、このままでは本当に私の間抜けな側近が原因でそれを台無しにしてしまいそうだったのでな。我が国は多大なる損失を被りそうなので、しゃしゃり出てきた。許せ」
鷹揚に笑ってそういうと、王太子はダルの後ろで不安定な形で片膝をついているサリの弟へと近づいていった。
「ロイド・ヴォーン。君が見たのがどの角度からだったかは分からないが、その場には私と私の護衛がいた。この国の王太子である私が保証しよう。確かにこいつはマリアンヌ嬢の名前を呼んだし、なんなら抱きかかえもしたが、それはあの女が私に殴り掛かってきたのを止めようとしたからだ。忠義からのこと故、今回だけは見逃してやって欲しい」
「王太子さま……でもっ」
「大丈夫だ。あの女はもう、君の姉上の前には姿を現わさん。なんなら王都から追い出そうか?」
「?!」
「その位の罰を与えてもおかしく無い程度には、罪なことをしてくれたからな」
「王太子さまに対して、そんなだいそれたことを?」
「私自身に対しては、さきほど掴みかかってきただけだ。だが、それ以上に許せない事をしていたんだ、彼女と、そしてなにより、君の姉君の婚約者がね」
!!
ロイドとサリは、再び目を見開いた。
「なっ、いまさら何を」
喰って掛かろうとする弟の肩を、サリはそっと押さえて首を横に振る。
その動きだけで、弟は口を噤んでサリの横、父の後ろへと下がった。
「それは、何に向けての謝罪でしょうか」
確かに、元の婚約者とやり直したいと願うならば、このタイミングが正に最終ラインだ。
父と弟の言うとおり、神への誓いが済んでいない今ならば、それでもかなりの大事にはなるものの、この婚姻は神に許されず不成立だったということで終わらせる事ができる。
神の許しが得られなかった、という大変不名誉な扱いにはなるが、それで爪弾きにされるのは爵位の低いサリ側であろう。
(元々が、私に対する誤解が原因で婚約者であった方と諍いが起きて、突然解消となってしまった婚約の穴埋めだったのだもの。丁度その場にいて罰を与えたかった相手が目の前にいたというだけの、意趣返し。それで本当に婚姻を結ぶなど、あり得なかったのよ)
つい先ほどまで散々父と弟から選択を詰め寄られていたが、この婚姻の成立不成立を決めるのは、教授だ。サリではない。
サリは、教授の中の自分という存在の軽さを突きつけられて、泣きたくなった。
今の今まで、自分が教授の横に一生いられるのだと疑っていなかった自分の目出度さにも。
胸が重く苦しく、最初の問い掛け以上の言葉を紡ごうにも、喉奥が詰まって声にもならない。
ただ、ただ、自分の愚かさが恨めしかった。
だから問い掛けたきりそれ以上の言葉を口にすることなく、神の審判を受けるが如き気持ちで教授が下す言葉を待った。
ここまで来たら、きちんと最後通牒を突きつけられて、きっぱりと振られたかった。
「僕の妻になって欲しい、サリ・ヴォーン准男爵令嬢」
だからサリは、告げられた言葉の意味がまったく理解できなかった。
「……ご冗談は、おやめください。この期に及んで、なにを」
何故、この場なのか。
これからサリとフリッツの婚姻式が始まるところだったではないか、とか。
フリッツは元の婚約者マリアンヌとやり直すことにしたのではなかったのか、とか。
サリの頭の中で疑問が嵐のように吹き荒れる。
「僕は本気だ」
「それを私が信じるとでも?」
「だが、本当に本気なんだ」
「信じられません。では、先ほど弟が、元の婚約者マリアンヌ様と抱き合っていたと言っていたのは嘘だというのですか?」
――していないことを証明するのは難しい――
その事は、教授から言われなき批難をされ続けていたサリ自身よく知っていた。
それでも言わずにはいられなかった。
そうして、同じことを教授も思ったのだろう。がくりと視線を床へと落とす。
そこに、新たな声が割って入った。
「確かに、その男は元婚約者であるマリアンヌ嬢と揉み合っていた。おっと、早とちりは困る。揉み合っていただけで、抱き合ってはいない。それは私が証言しよう」
「殿下」
振り向くまでもなく相手が判ったのだろう。心の底から厭そうにその人を呼ぶ教授の声と、教授が口にしたその敬称に、サリは吃驚して視線を向けた。
礼装用の軍服に、金のモールの付いた紫紺のマントを羽織っている。
その色のマントを身に着ける事が許されているのは、この国ではただ一人。王太子アンドリュー殿下のみである。
「おうたいし、でんか」
サリがその人に会ったのはただ一度。父が准男爵を拝命した時に家族で出席した晩餐会の席だけだ。会ったというより、見た事がある、それだけだ。
だから遠くに見た金の髪の色となんとなくの雰囲気しか分からないが、街中で売られている肖像画に負けない位の美青年がそこに立っていた。
ざざっと、サリとダル、そして勿論ロイドだけでなく列席していたすべての者がその場で最上位の礼を捧げる。
それを受けて、アンドリューは苦笑いすると片手で制した。
「今日の私は単なる王のお遣いだ。出てくるつもりもなかった故、そう畏まる必要はない。黙って見ているつもりであったが、ようやくヴォーン家に爵位を受け取らせてこの国に縛り付けることができたと思ったのに、このままでは本当に私の間抜けな側近が原因でそれを台無しにしてしまいそうだったのでな。我が国は多大なる損失を被りそうなので、しゃしゃり出てきた。許せ」
鷹揚に笑ってそういうと、王太子はダルの後ろで不安定な形で片膝をついているサリの弟へと近づいていった。
「ロイド・ヴォーン。君が見たのがどの角度からだったかは分からないが、その場には私と私の護衛がいた。この国の王太子である私が保証しよう。確かにこいつはマリアンヌ嬢の名前を呼んだし、なんなら抱きかかえもしたが、それはあの女が私に殴り掛かってきたのを止めようとしたからだ。忠義からのこと故、今回だけは見逃してやって欲しい」
「王太子さま……でもっ」
「大丈夫だ。あの女はもう、君の姉上の前には姿を現わさん。なんなら王都から追い出そうか?」
「?!」
「その位の罰を与えてもおかしく無い程度には、罪なことをしてくれたからな」
「王太子さまに対して、そんなだいそれたことを?」
「私自身に対しては、さきほど掴みかかってきただけだ。だが、それ以上に許せない事をしていたんだ、彼女と、そしてなにより、君の姉君の婚約者がね」
!!
ロイドとサリは、再び目を見開いた。
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