苺のクリームケーキを食べるあなた

喜楽直人

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本編

第二十九話 祝福されない婚約

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「…………」

「サリ、サリ・ヴォーン。どうした?」

 呼ばれて視線を上げると、すぐ傍に教授の顔があった。

「え、あっ、きゃあ!」

 反射的に足が後ろに下がって、不用意に付いた左足のヒールが捩れる。
 眠れない日々が続いていたからだろうか。サリはヒールのある靴には大分慣れてつもりではあったが、あっさりとバランスを崩した。
 
 サリは、自分がまだまだ令嬢として付け焼刃なのだと痛感した。じわりと涙が滲む。

 こんな自分が、一週間後には伯爵夫人となろうというのだ。

 周囲から後ろ指を差されても、当然の様な気がした。

「どうした。足を捻ったのか」
「いいえ。大丈夫です。気にしないで下さい」

 大丈夫だと伝えても、教授はサリを放そうとしなかった。大きな手で支えたまま、ゆっくりとソファへと連れて行ってくれる。

 何故、こんな風に教授が自分の心配をしてくれるのだろうとサリは不思議で堪らなくなった。
 サリの事を嫌っている癖に。
 この婚姻が、突然破棄された事による穴埋めでしかない事は知っていたけれど、もしかしたら嫌がらせの意味もあったのだろうとサリは遅まきながら感じていた。

 けれどもさすがに、学園内での噂についてまでは想定外だろう。そう信じたかった。

 学園内の噂はすでにサリの手に負えないほどの広がっており、足掻けば足掻くほど泥沼のように、事実であると信じ込まれた。

 こうなる事まで考えての婚約の申し込みだったのだろうか。

 そこまで未来予測が立つ訳がないと思うのだが、今のサリには何が正しくて何が間違っているのかの判断も付けられなくなっていた。

 それほどにサリは追い詰められていた。

「いいえ。なんでもありません」

 サリは今でも、なぜ教授にここまで嫌われてしまったのか思いつくことができないでいた。

 教授にとっては、図書室での一件はそれほど腹立たしかったのだろうか。
 食堂で教授について話していたのは主にエブリンであったが、それを教えて貰ったのは確かにサリだ。だが好物である苺のクリームケーキを味わう邪魔をされたと思ったにしろ、それなりに席は離れていたのだ。あそこまで聞こえるほど大きな声であったとも思えない。しかし、自分の名前は耳に入りやすいものだ。そこから気になって至福の時間を邪魔してしまったのかもしれない。

 だが、どちらの件であろうとも、こんなに不名誉な嘘の噂の的にされるほどの失敗ではない筈だ。

 サリが大丈夫だと重ねて口にしても、それでも怪我の有無を直接自分で確認しようとする教授を、サリは手で抑えた。

「……教授プロフェッサー。どうして貴方は、そんなに嫌っている私を、妻になどしようとするのですか? どうして……そんなに私をお嫌いなのですか」

「それを、今更聞くのかい?」

 眉を顰めてサリと会話することすら不快そうな教授に、サリは思わず叫んだ。

「お願いします。お金なら、幾らでもお支払い致します。私との婚姻を、取り止めにして戴けませんか」

「何を言い出すんだ。婚姻式は一週間後なんだぞ!」 

 当たり前だが、教授から即応で拒否された。
 あっさり拒絶されてサリは怯んだ。けれども、どうしても無理だと伝えたかった。それを受け入れて欲しかった。

「…………それでも、お願いします。私との婚約を白紙……いいえ、私有責で構いません。どうか」

「いいか、絶対にこの婚約は破談にはしない! 僕は君と婚姻を結ぶ! これは、決定事項だ。君が差し出した契約で、僕は君の要請に既に答えている。それを君の方から破棄できるなどと考えないでくれ給え!」

 バン、と強く机を叩かれて、サリはびくりと背筋を伸ばした。目を見開く。

 これほど大きな声で、教授から叱られたのは初めてだった。
 いいや、成人男性からと言い切ってもいい。

 ぽろぽろと、我慢していた涙が零れていく。

 泣きたくなんか無かった。
 女は泣けばいいと思っていると言われるのが、サリは大嫌いだった。
 だから、人前で泣いたりしないよう気を付けてきたというのに、教授の前でだけは幾度となく涙を見せている。

 ――そんな自分が、悔しくて、惨めでならない。

 けれど、どうすればこの涙が止められるのか、サリにはまったくわからなかった。


 
「そうですよね、失礼しました。商人の娘である私が、自分から持ち掛けた契約を書き換えたいなんて。駄目すぎですね」

 教授から顔を背けて、涙を隠した。
 勿論、それだけで何でも見通せるような教授の視線から隠しおおせる訳がない。

 けれど、今のサリにはそれが精一杯なのだ。

「あとは、こちらで手配を済ませておきます。ご協力ありがとうございました、教授プロフェッサー

 顔を背けたまま辞去の挨拶をするなど、淑女としてなっていないことは分かっていた。
 けれども、もう泣き叫ばないだけでも精一杯なのだ。


「おい、サリ・ヴォーン。どこへ行くんだ、サリ!」

 だから、背中から教授が自分の名前をどれだけ呼ぼうとも、サリは傷みを告げる足を強引に動かし続けた。



 泣いて、泣いて。

 人影を避け続けたサリは、寮の裏まで逃げてきていた。
 寮の自分の部屋へ戻ろうとしたのだが、入口でたむろっている生徒の陰に気が付いて、裏へと廻って来たのだ。

 植樹とぐるりと張り巡らされた塀の間に、座りこむ。もう、歩けなかった。
 
 背の高い木と塀に隠れてひと息つく。
 ここならば誰にも見咎められることは無いだろうと、ようやくサリは思う存分涙を流すことを自分に赦した。

 自分が、惨めでならなかった。
 就職も決まらないまま、一週間後には学園を卒業する。
 そして卒業式の次の日には、不本意であることを隠そうともしない、自分を憎んでいる相手と婚姻を結ばなくてはならないのだ。それも、王太子殿下の顔を立てる為だけに。

 声を潜めて泣いたつもりでも、完全に声を漏れ出さずに泣くことは難しい。

 ようやく涙が止まってきたサリは、少し離れた場所で、自分を見つめている人影に気が付いた。

「ねぇ、なんでそんな風に泣いてまで、教授の婚約者にしがみついてるの?」

 エブリンが、困っているような、怒っているような不思議な表情で立っていた。

「しがみついたりなんか、してないわ」

 サリは、エブリンから顔を背けて持っていたハンカチで涙を拭った。
 残念ながらすでにそれはそれまで流した涙でぐしょぐしょになっていて、まったく拭けている気がしない。

 サリはハンカチをぎゅっと絞ってはまた涙を拭くのを繰り返した。

 その様子に、エブリンが噴き出した。
 サリが自分で絞ったハンカチで涙を拭き直すその姿が妙に滑稽であり、そして逞しくもあって、久しぶりにエブリンの中のサリそのものに見えたからだ。

 

「ねえ。そもそも、私の知っているサリは手に職を付けたい、商会で認められるだけの知識と経験を手に入れたいってそれだけを考えて頑張ってきた人だわ。決して、婚約者のいる男性に近付いて、奪うような真似はしない筈なのよ」

 本当のところは、どうなっているの?

 最後までは口にしなくとも、エブリンが聞きたいことがサリにはよくわかった。
 その疑問は当然のものだ。

 しかしエブリンに対して、何所まで説明していいのだろう。
 そもそも、何所から話せばいいのだろうか。

 ――教授が元婚約者のマリアンヌ様から突然婚約破棄を通告されたことは言ってもいいのかしら。
 ――王太子殿下のお口利きで予約を入れた大聖堂での挙式に穴を開けない為だけに、父を掬って下さる代わりにその式で花嫁を務めることを受け入れたというのは?
 ――そういえば、なぜマリアンヌ様が教授に婚約破棄を告げたのか、詳しいお話を聞かせて戴いたことはなかったわ。


 つらつらとそんなことを考えて話し出すことに躊躇してしまったのが拙かったのだろう。

「もういいわ! 私はあなたの友人だと思っていたのに。あなたは私をそうだと思っていなかったのね!」

 せっかちなエブリンはくるりと身を翻すと怒って走っていってしまった。



 サリは自分がまたしても手痛い選択ミスをしてしまったことを知った。




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