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本編

第十話 毒婦の涙

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 馬車に乗り込もうとした時、遠く西の空を真っ黒な雲が覆っているのが見えた。

 不自然なほど一か所に集中して見えるその雲の下だけが、けぶる様に見えるということはあの場所にだけ相当の雨量が集中して降っているに違いない。

 顰めっ面をしたフリッツの胸の内に広がる不穏な影そのもののように見えて、眉間に寄せられた皺が一層深くなる。

 馬車に乗り込むとフリッツは先ほどのマリアンヌの言葉の意味についてようやく考えることが出来た。

 どうやら自分は婚約を破棄されたらしいこと。
 その理由は、彼女自身がほのめかしたこの王都で横行しているヴォーン商会の阿漕な商売について真正面から指摘してしまったことにあるらしい。
 先週、姑息にも絡め手とばかりに実家であるアーベル侯爵家へと呼び出され、ヴォーン商会と和解する様に父から諭されたばかりだということも考え合わせれば、多分間違いないだろう。

「なるほど。我が伯爵家に様々な商品が納品されなくなったのも、彼の商会の横槍か」

 王都には沢山の商会がある。
 しかし、最大手と言われるヴォーン商会に睨まれては商売を続けていくのは難しくなるのかもしれない。新規の商会は当然の事、付き合いが長ければ長いほどそういった忖度は重要なのだろう。
 つまりはこの王都で商売を長く続けている老舗と呼ばれる店でさえ、ヴォーン商会の圧を感じずにはいられないということになる。

「ふん。くだらない。卑怯で姑息な商売人め」

 そう憤怒を滾らせたフリッツの目の前には、太鼓腹の当主ではなく、ほっそりとした小さな姿が浮かんでいた。

 小さな手を組み合わせ、祈るように泣いて弁明していた。少女にしか見えない、毒婦。
「どこがなかなか器量よしなのか。平凡で、つまらない、ごくごく普通の生徒でしかない」

 そう口では嘯いたフリッツの胸の内では、少女のあの瞳が煌めいていた。

 ミルクティのように柔らかな色合いの髪の間から、キッと睨みつけてくる菫色の瞳。
 笑っている時は、ごくごく普通の青い瞳にしか見えないのに。怒りの感情を帯びた時だけ色が変わる事に、フリッツは初めてあのカフェでのやりとりの最中に気が付いたのだ。

 本棚の前で泣きそうな顔をしていた初対面の青い瞳。
 ぎこちなく笑い掛け、相席を求めた青い瞳。
 無垢な振りをして通じずに怒りを込めて睨み返してきた菫色の瞳。
 自身の演技が通じないと分かって、涙を流してみせた青い瞳。

 クルクルと変化していく少女の瞳の美しさは確かに一見の価値がある。

 だがそれも、中身が伴っていなければ一個人としての価値は下がる。見目だけでその人を認める訳にはいかない。

 女は涙を武器に使うということは知っていたが、それでもあんなに可憐な容姿の少女が、それを使いこなしていることに腹立たしさが一層募る。

 どうすれば、あの欺瞞に満ちたヴォーン商会の鼻を明かしてやれるのだろうかと、フリッツが目を閉じた時だった。

 屋敷を出て大通りへと向かう道へ馬車が合流しようと停車し、再び馬が走り出した時だった。

 小さな影がフリッツの乗った馬車に向かって何か叫びながら走り込んできたのだ。

 ガタン。

 御者のハンスが叫び声をあげ、馬車が傾くほど突然停まった。

「お嬢ちゃん、危ねぇだろうが」
 
 カンカンになって叱り付けたハンスを物ともせず、その少女がフリッツの乗っている馬車の扉に縋りついた。


教授プロフェッサーいいえ、偉大なる魔法使いウィザード様が乗られた馬車ではございませんか。どうかお願いいたします。父をお助け下さい」

 涙で汚れた顔で叫んでいるのは、たった今、フリッツの頭の中を占領していた少女であった。

「サリ・ヴォーン」

「はい、はいそうです。あれだけ嫌われているにもかかわらずお願いに上がるなど厚かましいとお思いでしょう。けれども私にはもう、魔法使いウィザード様におすがりするしかないのです」

 お願いします、と足元へ縋りつかれてしまったフリッツは、朝の人手が増えてきた大通りで衆目を集めてしまっていることに気が付いて、苦虫を潰した。

 嫌々ながらも馬車の中へと少女を引き上げ、キャリッジへと連れて入る。

 准男爵家とはいえ令嬢とふたり切りで箱馬車に乗るのは拙いような気もしたが致し方ない。
 朝早くの事だし、すぐ傍の自邸までの我慢だとフリッツは腕を組んで目を閉じた。

 学園には遅刻するしかない。
 このまま学園に向かうより自邸の方がずっと近い。なにしろ大通りで身体を投げ出すようにして足元へと縋ってきた少女は涙で濡れてドロドロだ。
 こんな状態のまま学園に連れて行く方がずっと問題であろう。

 イライラして目を閉じたままのフリッツに向かって、少女は顔を真っ青にして何かを訴えたかと思うと、突然神への祈りを捧げるなど忙しい。

 そんな状態で理路整然とした説明となる訳もなく、途切れ途切れに、何度も話が前後するのを辛抱強く聞いていたフリッツは、大きくため息を吐くことしかできない。

「お願いします、教授プロフェッサー。父を助けて下さい。お願いします」

 何度目になるのか、うわごとのように同じ懇願を繰り返し聞かされたフリッツがうんざりし始めた時、ようやく馬車が停まった。


「続きは屋敷で聞かせて貰おう。さあ、降りたまえ」



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