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あら? お兄様が来たわ
しおりを挟む寝支度を整えた私は、分厚い薬価早見表を抱え、ベッドに腰掛けて、そわそわとネイサンを待っていた。
ネイサンはいつも、髪が乾いているか、戸締りがしてあるか、掛布が肩まで掛かっているかを確認して、すぐに出ていってしまう。
もちろん寝る前の朗読や添い寝なんて、頼んだことはない。当たり前だ、幼児じゃあるまいし。
ちょっと我儘を言ってみただけ。案の定困っていたし、なんか呆れていたわね。ガキ呼ばわりされちゃった! ひどっ!
──私ったら、なんであんなこと要求したのかしら?
今さらながら気恥ずかしくなる。涙を見られて、幼児退行したのだわ。
今日の入浴剤はカモミールの香りにした。自分で調合したのよ。髪もトリートメントしたし、ガウンも一番お気に入りの、ピンクのフリフリのやつなの。
ネイサンに、可愛いって思われるかな?
あっさりした糸目を思い出す。……ないな。
「……まあ、社交辞令では褒めるでしょうね」
笑顔なんだけど、何考えているか読めない顔で、お似合いですよ、くらいは言ってくれるだろう。
ふん。
ところが、扉をノックし、返事も待たずに入ってきたのはお兄様だった。
「あれ?」
「やあ、メイベル。愛しの妹よ! 相変わらず可愛いね! 二時間で解放してくれよ。薬価早見表なんて、普通は人には読ませないぞ?」
「……ネイサンは?」
「え?」
私はぎゅっと薬価早見表を抱きしめて俯く。薬価早見表、好きじゃないのかしら。普通の人にはつまらないわよね。
「じゃあ、メディカル処方薬辞典にするわ。今日は、ネイサンが読んでくれるって言ったの」
お兄様は目を見開いた。
「……いや、お兄ちゃんに読んでほしいのかなって……僕は思ったんだけど」
ショックを受けたように立ちすくんでいる。
「うん、お兄様でも……いいけど」
でもいい……? と呟き、フラフラと薬価早見表を受け取り、お兄様は力なく私の横に座り込んだ。
「メイベル」
「なぁに?」
「君、ネイサンのことどう思ってるの?」
どう? 首をかしげた。
「執事よ?」
「そ、そうだね」
うーん、どう言ったものか、とお兄様は呟いたあと、指をパチンと鳴らした。
「僕とネイサンどっちが好き?」
は? 私は呆れた。
「比べようじゃないじゃない、お兄様は家族だもの。ネイサンは──」
ネイサンは、使用人。私はしょんぼり俯いた。
「ネイサンは、仕事で私に尽くしてくれているだけ。だから私のこと、好きなわけじゃないもん……」
「……。君はどうなの? メイベル」
お兄様の声が、優しく響いた。
「君が涙を見せるなんて」
え、と私は慌てて頬を拭う。
「分からないわ」
もどかしいのだ。ネイサンが使用人なのが悲しい。
「とにかく! ネイサンが執事なのが、私、イヤなの」
昔から感じていた違和感はこれだ。
「ずっとイヤだった」
仕事で、優しくしてくれるだけなんてイヤ。そうよ、いっそ彼が執事でなかったら──。
ううん……、もっと違う出会い方をしていたら、ネイサンは私に冷たかったのではないかしら。
わたし、こんなに可愛くない性格の、嫌われ者だもの。使用人でもなければ、傍にいる義理もないわけだし。
「あ……」
お兄様が声を上げ、私はパッと顔を上げた。
部屋の戸口にいつの間にか立っていたネイサンに、やっと気づいた。
「失礼、ノックをしたのですが」
湯気の立つカップを二つ、トレイに載せていた。
「込み入った話をされていたようですね」
言ってから、テーブルにホットミルクを置く。
え……。今の話聞いて──?
ネイサンは、いつもとなんら変わらない態度で一礼して下がる。
そのまま部屋を出ていこうとして、少し躊躇ってから振り返った。
「お嬢様は歯に衣着せぬ物言いをされるので、安心していたようです。少したるんでおりました」
申し訳なさそうな声。
「ご卒業するまでの残りの期間、お嬢様にご満足いただけるよう、身を引き締めてお仕えいたします」
「ちがっ──」
そういう意味じゃない! ネイサンは執事として立派に──。
私は退出するネイサンを呼び止めようとして、ふと、引っ掛かりを覚えた。
「……卒業するまでの、期間?」
扉が閉ざされるのを見とどけてから、お兄様が気遣うように私に声かけた。
「そういう契約だったけど、メイベルが嫌なんだったら、すぐにでも解雇しようか? ごめん、ちゃんとした経歴と紹介状だったから、安心して任せてた。彼に何か問題があったんだね?」
「違うわっ! そうじゃないの! ……うそっ、学院にいる間だけの執事なの?」
聞いてないわよ! 結婚願望がないって言っていたから、お爺さんになるまでうちに居てくれるかと思ったのに!
しかしお兄様は首を傾げて、もっともなことを言う。
「当たり前じゃないか。独り立ちし、開業するんだろ? タウンハウスを引き払って、店舗になる建物を借りてそこに住むって話だったはずだよ」
そ、そう……だった。
「メイベル」
お兄様は真顔で、噛んで含めるように言った。
「心を預ける相手を、間違えてはいけない 」
椅子に移ってミルクのカップを手に取る。
「彼は真面目で、よくできた執事だ。ちゃんと最後の日はお別れ会をしようね」
ミルクをふーふーしてから、私に手渡してくる。
「いやさ、僕は一瞬、メイベルがネイサンを好きなのかな? って思ったんだ」
私はぽつっと、その言葉を反芻する。
「好き?」
「そう、異性として」
自分のカップは冷まさず口をつけ、あちっと言うお兄様。
「でも違うみたいで良かったよ。メイベルが彼を好きになって、彼が今すぐ辞めることになったら、次の求人が困るからね。半年も無いから中途半端だし、メイベルのメイド虐めの噂があるからさ。住み込みで働いてくれる人、なかなか見つからないと思う」
……?
「今すぐ辞めるって?」
辞めさせる、じゃなくて? 話が見えない。
「そう、辞めちゃうんだよ」
お兄さまは唇についたミルクを舐める。
「えとね、彼……女難の相でも出ているのかな。前も、その前の奉公先でも、雇用先の女性から言い寄られていてね……。それで二つとも辞めているんだ」
ずずっとミルクを啜って、赤い瞳で私をさぐるように見るお兄様。
「だからメイベルがうっかり惚れちゃったら、そこまでだ。すぐにでも彼は、この家から去っていくと思ってさ」
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