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第一章

陰惨な朝

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 チクチクする。

 あと、変な匂いがする。これは干し草の匂い?


 私は、藁の中に埋もれた形で目を覚ました。

 頭がズキズキと痛んだ。

 のしかかる重みと匂いで窒息しそうだったので、ごそごそと藁をかき分けて外に出る。

 眩しさに、しばし棒立ちになった。


「ジェイクのやつ、このラファエラ様を思いっきりぶん殴ったわね」

 ぶんなぐられた夢を見た気もするけど、どうやら本当にあったことらしい。だって痛いもん。

 後頭部に手をやってみた。陥没してるんじゃないかしら――ん?

 手が止まった。


 最初は、髪の毛に絡みついた藁がチクチクしているのかと思った。だけど、違った。私自身の髪の毛が、手をつついていたのだ。

 やけに首元がスースーすると思ったら!

「あんちきしょー、女の命を……」

 手触りから言って、私の自慢の黒髪はザクザクに切り取られているらしい。

 ナイフでやったのだろうか、とにかくボサボサで、あの馬丁がけして理髪師になれないことを物語っていた。

「ジェイク! なんなのこれ、どういうつもり!?」

 大声で呼んでみる。

 しかし彼はいない。

 彼からいつも匂っていた飼い葉の香りは、私の服から漂ってきていた。私はジェイクの作業服を着ていたのだ。ブカブカの服、そしてブカブカのブーツも。

『俺がお嬢様のドレスを着て、やつらの注意をひきつけます』

 あれは夢じゃなかった。

 昨夜のことを思い出して、顔面から血の気が引いて行く。

 眩暈がして、藁の山に掴まって身体を支えた。

「気をしっかりもたなきゃ。探さなきゃ!」

 あれは悪夢じゃなかったのだから。

 私は転びそうになりながら、畑の向こうへと走り出した。



※ ※ ※ ※ ※



 昨夜のやつらがまだいるかもしれない。だから大声で呼びながら探すのはやめた。

 ジェイクの小脇に抱えられて走った耕作地は、背丈の高い雑草が延々としげり、私を迷わせた。

 しかしすぐに人の通ったあとを見つける。私とジェイクが通った跡だろう。

 期待してどんどん進んでいくと、昨日は暗くてよく分からなかったけど、けっこう開けた場所に出た。

 私は息を呑んで立ちすくむ。

「ルチア……」

 全裸で転がされている乳母や、使用人たちの冷たくなった姿。

 馬車も、馬も見つからない。

 がっしりした男の死骸も何人か転がっていたけれど、アンティークな板金鎧や騎士服をはぎとられていて、しばらく気づかなかった。護衛の騎士だ。

 首の辺りがパックリと割れ、どす黒い塊がベッタリとこびりついている。

 農民の斧にでも割られたのだろうか。私を襲おうとした騎士かは分からない。逃げたのだろうか。

「ああ、テレサ」

 明らかに陵辱の痕がある侍女を見て、私は膝をついた。

 その可愛らしかった顔は、恐怖に歪んだまま硬直している。

 ぐぐっとせり上がってきたものとともに、私は胃の中の物を全部吐いた。

 ルチアの世話でついてきた従僕の首の角度は、あり得ない方向にひん曲がっていた。

「どうして?」

 まだ若いのに。すくなくとも従僕は、お仕着せを着る暇がなくて、貴族ではないと分かる素朴な格好だった。

 それでも、殺されたのだ。手を下したのは盗賊ではなく、この辺りの普通の農民。

 人間って、時に信じられないくらい残酷になれる。

 血に酔って思考力が働かなくなるのだろうか。

 ニコロス政権の下、恐怖に怯えながら生活していたはずの彼らが、逆に恐怖の対象になっている。

 この子たちは何も悪くない。

 これが裕福に暮らしていたことに対するツケなら、こうなるのは私だけでよかったはずだ。

 不意に、わめき散らしたい衝動に襲われた。衝動のままに叫ぶ。

「くそったれ、くそったれ! くそったれえええええ!」

 両の拳を何度も地面に叩き付けた。

 ジェイクの下品な言葉遣いそのまま、吐き捨てる。

 そこで私はハタッと顔をあげた。

「ジェイク、そうよ、ジェイクはどこ?」

 遺体がない。

 私は周囲を探し始めた。

 繁みをかきわけ、目を皿にして前にすすんでいく。

 その時――。

「残党はやったのか?」
「一人逃げられたらしい」

 繁みがガサガサなり、昨夜の男たちの仲間らしい二人連れが現れた。

 私はすぐに繁みに這いつくばった。

 見られただろうか?

「騎士の一人が手傷を負ったまま逃げたって」
「馬と、あの昔風の鎧は?」
「持っていかれたよ、もったいねえ」

 すぐそばの繁みが揺れた。

 私の顔の、真ん前に男たちの足がある。

 踏まれて気づかれるんじゃないだろうか。

 草が私の鼻をくすぐり、くしゃみが出そうになる。両手で抑えてなんとか堪えた。

「女装した小僧が居たな。いい服を来ていた。どんな趣向だ、ありゃ」
「はん、貴族のあっちの趣味なんて分からねーよ。あのおばさんの小姓だろ。お人形扱いされて可哀相なこった」

 男たちが去っていった。あとほんのちょっとで小指を踏まれるところだった。

 力が抜ける。

 ここに居るのはまずい。

 本当は、あの遺体を全部埋葬してやりたい。

 だけどまだこの辺りは、農民たちがウロウロしている。

 畑があったから、男たちの住む農村がこの近くにあるのだ。

 とにかく離れよう。立ち上がって、慎重に進みだした。

 また出くわしたら大変だもの。

「おわ~っ!」

 私は何か大きな物に躓いて、顔面から転んだ。

 鼻を押さえながら、振りかえって下を見る。

「また?」

 全裸の遺体だ。背中に大きな傷。

 血は出尽くしたようで、青ざめて硬直している。

 いい筋肉をしているから護衛の一人だろうか。

 その横顔を覗き込んでみて、息を呑む。

「ジェイク……」

 頬に触れてみた。氷のように冷たい。

 さっきの男たちが話していたのは、ジェイクのことなんだ。


 不思議だ。

 心のどこかで、たぶんジェイクはこうなってるって分かってた。

 彼が私の服を着るって言った時、この下僕は、私の代わりに死ぬつもりなんだって。

「だから言ったじゃない」

 感覚の一部が冷え切っている。

 冷たいもので自分を覆わないとだめだ。

「自業自得だわ」

 貴族の身代わりに馬丁が死んだ。

 それだけのことだ。

 ていうか、こんなヤツ、ついてきてたっけ?

 ああ、そう言えばお情けで連れてきてあげたのだったわ。

『馬丁と令嬢なんて、くそくらえだ』

 頭が覚えていた最後の言葉。

「ほんとよ、馬丁なんてくそくらえだわ」

 もちろん惚れていたわけじゃないわよ?

 身分が違うもの。

 彼は色んな意味で私の下僕だし。

 私が好奇心旺盛だったから、くっついて回っていただけ。

 子供の頃は教師たちの目を盗んで、よく馬屋に遊びに行った。

 乗馬だけではなく、馬の世話の仕方も教わった。

 ジェイクに教わったから蹄鉄だって打てるし、子馬の出産を手伝ったこともあるし。

 テレサと三人で変装して、汚い言葉を遣いながら、お忍びで街に出かけたり、遠乗りに行ったり……鬱屈した令嬢生活の息抜きを楽しんだ。

 ただの馬丁だった。


 ……友達だった。

「泣かないわよ」

 私は囁いた。

「あんたが悪いんだから。勝手にあんたがついてきたんだから」

 声がじょじょにしゃがれてくる。私のせいじゃない、そう思わなければ気が狂いそうだった。

 下賎の、ただの使用人だって、そう思い込みたかった。

(ばかみたい)

 大事な人間の身分なんて関係ないのに……。

 泣かないと言ったのに、顔中グチャグチャなのがわかる。

 私は目から出た鼻水を拭った。

「だけど、これだけは約束するわ」

 しゃべってないと喚きだしそうだった。

「私は絶対死なない」

 このラファエラ様が簡単に死んでたまるかよ。

「あんたが命をかけて守ったんだから、世界で一番大事だわ」

 そう、生き残ってやる。

 この国がどう変わろうと、這いずり回ってでも、泥をすすってでも、生き抜いてやる。

 泣いてる暇なんてない。
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