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第一章
政変
しおりを挟むバタン──と玄関ホールと居間を繋ぐ扉が開け放たれた。
叔父と兄が血相を変えて飛び込んでくるところだった。
「逃げるぞ。今すぐ必要なものだけ馬車に詰めるんだ。都から出る」
私はあまりに驚いて、やりかけの刺繍を椅子の下に落としてしまう。
その時居間に居たのは、私と兄を育ててくれた乳母で今は社交場への付き添いや、家庭教師までしてくれている遠い親戚筋のルチア。
敷地内と館の管理を兼任している執事のケント、そして古くから仕えてくれている召使頭のアンジェロだけだ。
四人ともポカンと口を開け、髪の毛を乱した叔父と、古い時代の騎士服に血をべったりつけた兄を見つめる。
今日は、政務の中心となっている琥珀宮で軍の叙勲式があるって言っていたけど……。
「軍の反乱だ。ついにやられた。皇帝一家は全員殺害された。すぐにこの屋敷を出るんだ」
叔父の言葉に、乳母のルチアは悲鳴をあげて卒倒した。
「ルチア、倒れてる暇は無いぞ! すぐに厩舎へ」
兄の厳しい声に、私はルチアを支えて立ち上がる。
兄のフランシスは王宮の近衛兵だ。
敷地内にたくさんいる衛兵とは違い、時代がかった仮装のような板金鎧を着て、皇帝の周囲を警備する名誉職。
箔付けのため、家柄がよく見映えがする者が、家督を継ぐまで就いたりする。
特に兄は公爵家を継ぐ嫡男だ。
来年からは確実に、一番目立つ「王の間」の守備に抜擢されるはずだった。
でも兄の言ったことが本当なら、もうそれは無いだろう。
守るべき人が死んだのだから。
たぶん私はその場に居た者の中で、一番冷静だったと思う。
いつかこうなることを、なんとなく予想していたからだ。
だけどこんなに早く――。
兄たちのような近衛兵とは別に、皇帝は、腕の立つ近侍たちを周りに置いていた。
陛下を神そのものと崇める、狂信者の集団ニコロス親衛隊。
それに外部から雇い入れている、謎だらけの護衛集団。こちらは眉唾の伝説めいているが、人ではない、という噂がある。
とにかく、皇帝に害をなすことは、ことごとく失敗してきた。
軍の存在感が増してきているのは知っていたが、こんなに早く、彼らを排除できるとは思わなかった。
彼らがついに倒された。
鉄壁の警護が、破られたのだ。
──ならばあの勢いをつけた水軍から、王宮とその主を守るものは何も無い。
そして、皇帝の庇護を受けてきた一族の命運も、決まったと言えた。
ルチアを執事に預けると、小走りに兄の後ろからついていく。
「お父様とお母様は?」
大急ぎで裏口から厩舎と使用人棟のある庭に出る間、兄と叔父はそのことについて何も言おうとしなかった。
父は重臣の一人だし、慈善活動指導者の母は、宮廷でご婦人たちの相談役をしている。
官僚である二人は、いつも琥珀宮に滞在していた。
「……荷物は使用人に運ばせる。おまえは先に厩舎へ」
騒ぎを聞きつけた御者やその助手たちが、何事かと庭に出てくる。
都の中心地だと言うのに、領主館ほどあるメルディアチ家の屋敷。
本家は今、領地を持ってない。
シェルツェブルクの繁華街ツェルニン地区が、かつてはメルディアチ家の地所だった。
けれど、皇帝ニコロスが初期に手掛けた都市開発計画時に投機し、そのまま国に貸与したのだ。
おかげで父と母は莫大な年金と棒給取得者だし、しかも兄は投資家であり、都を網羅する辻馬車会社を運営する実業家でもあった。
つまり、うちにはお金が唸るほどあり、敷地はそこいらの貴族のものと規模が違うのだ。
さらに広大な敷地内には、辻馬車用の馬や競馬用含め、高価な品種改良馬が百頭近くいた。
その分、厩舎に併設した住み込み棟にいる御者も馬丁も多い。
わらわら出てきた彼らを見て、私はハッと気づいた。
使用人も一緒に逃げるわけにはいかない。彼らを全て置いていくことになる。
すぐに兄と叔父が後ろから駆けつけてきた。
「荷を積み終わった馬車から順に行け。乗るのは従者二名と御者だけだ。乗れるものは馬に荷を積んで──」
ざわつく使用人たちに、叔父が怒鳴る。
「大丈夫だ。騒ぎが収まったらすぐに戻ってくる」
屋敷の警護を兼ねて雇っている者たちが、次々に集まってくる。兄は何事か彼らに指示している。
「叔父上はご自分の領地へ。ご家族が心配でしょう。ラファエラたちは南に逃げろ。俺は一度銀行にいってから、西に向かう」
「どうして一緒じゃないのですか? 坊ちゃま」
ルチアが心細げな声をあげる。忙しそうな兄に代わって私が答えた。
「なるべく少人数に分かれないと。こんな大所帯でわさわさ移動したら、目立ってしまうわ」
街がいまどういう状態かは分からないけれど。
執事のケントが突然後ずさりしだした。兄に後ろめたそうに伝える。
「私は残ります。家族が都に居る」
老齢の侍女頭アンジェロもそれに便乗した。
「この齢では足手まといになりましょう。私も残ります」
「かまわん。危険なのはおそらく一部の貴族だけだろう。そうだな、残りたいやつはなるべく残れ。連れが多いと怪しまれる。馬車の供には普段通りの人数がついてくれ」
分家の叔父の一族は、田舎に領地がある。家族や家財が心配だろう。
私的に雇っている護衛たちが、慌ただしく装備を整えている。
うちの護衛はみんな、腕利き揃いだ。
兄はお飾り近衛兵とは言え、国教会騎士団の親衛隊の資格である上級騎士位も持っている。
水軍省からの命令系統から外れる領地の私軍の指揮者などは、皆この資格取得者だ。
そんな兄に師事しようと、貴族階級の若い騎士や騎士見習いたちが、住み込みの警備員として控えている。
中には没落貴族の出で、爵位も領地も失い、食べるのに困ってしばらく傭兵をやっていたというガラの悪い者まで流れ着いていた。
騎士叙任なんて一見、形式だけの伝統行事のようにも見えるけれど、騎士位は売り買い出来ないし世襲も出来ないので、剣や弓矢など、護衛として実力的には使えないことも無いのだ。
「あの兄様、それって兄様の騎士、五名くらいってことですよね」
「そうだ。領地に帰る貴族のふりをしろ」
私はだいぶ不安だった。
皇帝ニコロスは、いわゆる懐古主義、古典主義とかいうやつだ。
若いころから古い体制をどんどん廃していき、反発を受けるほど革新的な政策を打ち出してきたくせに、変に昔の物にこだわるところがある。
王宮の作りといい、身につけるものといい、古い物を愛するという面倒くさい趣味なのだ。
だから軍人より、貴族のみで形成される騎士たちを重んじる。
でもね、騎士ってあれよ、剣と鎧よ。平時なら使えないこともないんだけど……。
いくら腕利きと言えど、軍に対抗できるとは思えないのよね。
装飾のある諸刃の長剣と盾、だけならまだいい。
近衛兵にいたっては、勤務中はザリガニのような板金鎧を着せられている。
あんなもの、水軍の兵士の一番下っ端にだって殺れるだろう。
足をかけて転がせば、自力で起き上がれないのだから。
トイレの時も一人で脱ぎ着が出来なくて面倒だと、兄はよくぼやいていた。
騎士位なんて所詮、軍という武力に守られてこその、貴族の道楽だったんじゃないかって思うの。
だから、たった五人ほどの騎士で、軍の兵士と渡り合えるのだろうか、と懐疑的になっていた。
その兄はというと忙しそうに──というか、不満そうな私に気づかないふりをしているようだ──テキパキ命じると、すぐに馬に飛び乗る。
「帝都を出るときは分散するが、どこかで合流して国外に逃れよう。そうだな、東海岸の工場地帯ジレオンの街にしよう。貿易港なら乗れる船も見つかるかもしれない。どの国に亡命するかはそれから決める」
そう言い置くと、掛け声とともに馬に鞭を当て走り去った。
その後を、兄の部下であるほとんどの騎士たちが続いた。
唖然とするほど、あっさりと。私たちを置いて。
えぇえええええ? えぇええええ???
うちの男ども、あたしたちを置いていっちゃったけど?
いや、預金を差し押さえられないように奔走するんだろうけど、私はどうしたら?
混乱する私をよそに、使用人たちがざわついている。
だめだわ、私がしっかりしなければ。
とりあえず、兄を信じるしかない。
凍結される前に、亡命資金を手に入れられるよう祈った。
こんな時、メルディアチ家の親戚が他の国に住んでいれば良かったのに、と思う。
でも両親のことだから海外の銀行にも莫大な資産を預けてあるはず。
属州のはだめだろうけど、それだけでもなんとか生活できるかもしれない。
兄が独り占めしなければ。
……だめだわ。
社交場で、自分の成功のために常に私を売り付けようとしていた兄だ。いまいち信用できない。
「お嬢さん」
声が聞こえて振り返ると、御者の背後から、心配そうにこちらを見ている馬丁のジェイクが居た。
「大変なことになったみたい。元気でね」
私はそう言った。彼は幼馴染だけれど、ただの使用人だ。
私たちと行くほうが危険。
ジェイクは突然走ってきて、御者台に飛び乗った。
「俺も行きます」
「家族が居るでしょ」
ジェイクは戸惑ったように口ごもる。
病気の母親に、飲んだくれの父親、幼い弟もいる。
「兄が軍の養成学校に入ってるんで、何とかなります」
「でも──」
「安全なところまで送らせてください」
ぶっきらぼうに言うと、ジェイクは御者が来るのを待った。
御者は乗ろうとしなかった。
助手の多くも見送る構えだ。
肌で危険を感じ取っている。私たちの味方をする危険を。
「ほらね、俺が行くしかないです」
ジェイクは冗談めかしてそう言った。
「私がお嬢様のお世話をします」
一つ上の侍女のテレサが、ジェイクを見て勇気を出したように走ってきた。彼女も幼馴染だ。
テレサには身寄りがない。
二人とも、困窮して育てられなくなった家や、救貧院から母が預かってきた子供たちだった。
けして母が優しいわけではなく、貴族の従軍と同じく、慈善活動の一環、高貴なる者に伴う義務を果たしてますよ、という外向けのアピールである。
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だけど私は、二人を連れて行っていいものか迷った。
迷ってる暇がないのは分かっているが、それでも迷った。ここにはもう戻って来られないかもしれないから。
決断しなければ。
兄も叔父ももう出発した。
決断しなければ。
私しか、命令を下すものがいないのだから。
ここでグズグズしているわけにはいかない!
「行きましょう」
そう言うと、アンジェロが私を抱きしめにきた。
「何が起こっているのか……混乱しています。ですが、道中お気をつけて」
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